会員のカトケンです。
前回、杉並の大円寺に調所と岩下の墓があると思い、喜びいさんで出かけたところ、クロサカ幹事に前者は九品仏淨眞寺、後者は青山霊園だと知らされ、その後両所を訪問。
ところが、淨眞寺をくまなく回ってやっとこさ見つけた調所の隣にある井上家の墓に、良智海軍中将の夫人豊子(旧姓調所)と刻まれ、系譜では笑左衛門娘となっているにもかかわらず、豊子は慶応生まれ、嘉永年間に没している広郷とは20年の開きがあり、広郷の子供であるはずがない。
調所家の一般的な系譜では広郷のあと笑左衛門を名乗るのは20才離れた息子たちではなく、孫の代だ。
だからひょっとして豊子は養女ではないかと考えた。広郷の没したあと養子に入ることは、長岡藩家老山本帯刀が戊辰の年に戦没したずっとあと高野五十六青年が養子となった例があり、十分あり得ることである。
残念ながらこの事に対する答えを今の小弟は持ち合わせていない。誰かこのことを検証してくださらないか期待しつつ、円十郎たち(薩摩藩士の隠語)を追跡していく。
前回、杉並の大円寺に調所と岩下の墓があると思い、喜びいさんで出かけたところ、クロサカ幹事に前者は九品仏淨眞寺、後者は青山霊園だと知らされ、その後両所を訪問。
ところが、淨眞寺をくまなく回ってやっとこさ見つけた調所の隣にある井上家の墓に、良智海軍中将の夫人豊子(旧姓調所)と刻まれ、系譜では笑左衛門娘となっているにもかかわらず、豊子は慶応生まれ、嘉永年間に没している広郷とは20年の開きがあり、広郷の子供であるはずがない。
調所家の一般的な系譜では広郷のあと笑左衛門を名乗るのは20才離れた息子たちではなく、孫の代だ。
だからひょっとして豊子は養女ではないかと考えた。広郷の没したあと養子に入ることは、長岡藩家老山本帯刀が戊辰の年に戦没したずっとあと高野五十六青年が養子となった例があり、十分あり得ることである。
残念ながらこの事に対する答えを今の小弟は持ち合わせていない。誰かこのことを検証してくださらないか期待しつつ、円十郎たち(薩摩藩士の隠語)を追跡していく。