会員のカネコです。
私が子供の頃に『江戸中町奉行所』という時代劇がありました。この中町奉行所とは北町・南町奉行所が裁けない悪を闇の白州で裁く秘密任務を行い、この秘密任務を行う5人がドラマの主人公でした。少々必殺仕事人を彷彿させるものがありますが、この中町奉行を演じていたのが故丹波哲郎さんで、役どころは丹羽遠江守長守という実在の人物です。
実際の中町奉行所はもちろん闇の白洲なんかではありませんが、この丹羽遠江守長守と坪内能登守定鑑の2名しか務めていない短命な奉行所でした。
そのようなポジションのため、時代劇にしやすかったのでしょうが、丹羽遠江守長守が時代劇の題材になるとは今にして思うと凄い事だなと・・・。
丹羽長守はその名が示す通り丹羽長秀の子孫で、二本松藩主丹羽家の分家である旗本丹羽長吉の長男として江戸で生まれました。母は赤井忠泰の娘。幼名吉松、通称権十郎、左近、五左衛門。官名は遠江守。
寛文10年(1670)に4代将軍徳川家綱に拝謁し、寛文12年(1672)小性組番士。元禄元年(1688)家督を継承し、使番、目付と累進、元禄5年(1692)には浅草寺普請の功績により時服一領、羽織一領、黄金二枚を賜っています。
元禄8年(1695年)には長崎奉行に就任、同15年閏8月15日(1702・10・6)には中町奉行に栄進し、宝永4年4月22日(1707・5・23)から北町奉行に転向、正徳4年1月26日(1714・3・12)まで勤めました。辞任後は旗本寄合席となり、享保11年(1726) 84歳で死去しています。
この旗本丹羽家の墓所は文京区本駒込吉祥寺にあり、2013年秋に開催した第9回吉祥寺巡墓会の際に私が解説しました。
現在丹羽家の墓は宝篋印塔1基のみ残されており、宝篋印塔横にある墓誌には明治以降の子孫のみが刻まれており、江戸時代の埋葬者については不明です。
宝篋印塔 正面:丹羽家代々之墓
裏面:昭和三十七年三月改修之
墓誌:(9霊)
昭和初期に書かれた『掃苔』「現存する町奉行の墓(二)」(森潤三郎)には当時の丹羽家墓所の様子が記されており、それによれば鳥居氏(壬生藩主鳥居家のことか?)墓域の前を南へ数歩行った所に長道夫妻の宝篋印塔2基、その角から東へ曲がった両側に丹羽氏の墓域があり、その南側の2基目が長守、3基目が長堅であったとのことです。
それぞれの碑面には
曹源院殿從五位下前江州刺史一滴全海大居士(四代長道)
寛延四年辛未年閏三月二十二日
勝壽院殿從五位下前遠州刺史義雲宗功大居士(三代長守)
享保十一丙午歳四月初七冥
楊善院殿從五位下前江州太守徳翁長海大居士(七代長堅)
嘉永四年辛亥十二月三日
と刻まれていたそうです。
長道の墓について石階五級の上に石門石扉を有していたとあることから、現存する墓碑は位置的にも長道の墓碑と思われます。
長守の長男長道は西城御小性組番頭などを務め、その長男百介は、本家二本松藩主丹羽秀延に後継者がいなかったことから、その養子となり名を高寛と改め、丹羽家7代目当主を相続しました。高寛は二本松に初入国した際、藩祖長秀の廟所が不明になっている事に憤慨し、家臣に命じ捜索させ、越前宗徳寺に廟所、総光寺に位牌があることを確認し、直ちに法会を行い、毎年4月16日に家臣を派遣し代拝させ、以降幕末まで続きました。
当時二本松藩は財政窮乏・農村荒廃などの難題に直面しており、高寛は家老丹羽忠亮を重用し藩政改革を推進。忠亮と親しかった幕府儒官桂山彩厳の門人岩井田昨非を登用し、文武学習推進、綱紀の粛正、税目の新設、年貢収納の的確化、人材の登用などの施策を進めました。この改革は昨非が藩主・家老を後ろ盾として推進したため、下級家臣・農民からの反発も起き、抗争や一揆も起きています。延享2年(1745)改革半ばにして病を理由に、嫡男高庸に家督を譲り隠居。その後も高庸を後見し、藩政を指導しました。
寛延2年(1749)高寛41歳の時に、藩政改革と綱紀粛正の指針として岩井田昨非が進言した戒石銘碑を藩庁入口に建立。この碑には「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」という四句十六字の漢文が刻まれています。
「お前達武士の俸給は、民が脂して働いた賜物より得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて民を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」という意味のこの文は藩庁に出仕する藩士を戒める意味がありました。
しかし、辞句の曲解などが広まり、それが凶作下の農民に広がると、積達農民一揆が起き、別名昨非騒動とも言われました。高寛の目指した改革は成功したとは言えませんが、高寛が戒石銘碑に表した「孝」「敬」「義」の精神は後世に受継がれ、二本松藩の士風の形成に大きな影響を与え、戊辰戦争の少年隊士にも受け継がれた言われています。
私は二本松を訪れた際にはこの戒石銘碑を必ず訪れています。
高寛の墓は二本松市成田町曹洞宗大隣寺の丹羽家歴代墓所にあり、岩井田昨非の墓は同市竹田浄土宗台運寺にあります。岩井田昨非の墓については以前の記事で紹介しています。
8月11日・12日 郡山・二本松調査
高寛が本家を相続したため、次弟の長利が旗本家を相続し、その子長裕に高寛の娘が嫁いでいます。長利の次男長義は清水徳川家に仕え、三男直温は旗本竹垣直照の養子となり、竹垣家を相続。竹垣家が世襲していた代官職を継ぎ、大坂谷町代官・関東郡代付代官などを歴任。大坂代官時の手腕が買われ、荒廃した北関東の農村の復興に尽力しました。その施策は間引きの禁止、産児奨励金支給制度、越後の真宗門徒を入植、民衆教化のために心学者の講話を行うなど多岐にわたり、死後、真岡・上郷に徳政碑が建立され現在も残っています。その子直清も代官を務め、その日記は『江戸幕府代官竹垣直清日記』(新人物往来社)に翻刻されています。
竹垣家の菩提寺は港区愛宕にある清岸院であり、2013年秋に竹垣家の墓所の所在をご住職に尋ねた所、現在竹垣姓の檀家はおらず、寺の記録も明治以降のものしか無いとのことでした。清岸院の場所も100年前程に青松寺入口右側辺りから移転しているとのことで、古い墓碑も無いとのことでした。名代官竹垣直温の墓所が不明になってしまっていることは大変残念に思います。
尚、前述の徳政碑はつくば市上郷金村別雷神社と真岡市田町海潮寺に現存しています。
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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-申込みフォーム
私が子供の頃に『江戸中町奉行所』という時代劇がありました。この中町奉行所とは北町・南町奉行所が裁けない悪を闇の白州で裁く秘密任務を行い、この秘密任務を行う5人がドラマの主人公でした。少々必殺仕事人を彷彿させるものがありますが、この中町奉行を演じていたのが故丹波哲郎さんで、役どころは丹羽遠江守長守という実在の人物です。
実際の中町奉行所はもちろん闇の白洲なんかではありませんが、この丹羽遠江守長守と坪内能登守定鑑の2名しか務めていない短命な奉行所でした。
そのようなポジションのため、時代劇にしやすかったのでしょうが、丹羽遠江守長守が時代劇の題材になるとは今にして思うと凄い事だなと・・・。
丹羽長守はその名が示す通り丹羽長秀の子孫で、二本松藩主丹羽家の分家である旗本丹羽長吉の長男として江戸で生まれました。母は赤井忠泰の娘。幼名吉松、通称権十郎、左近、五左衛門。官名は遠江守。
寛文10年(1670)に4代将軍徳川家綱に拝謁し、寛文12年(1672)小性組番士。元禄元年(1688)家督を継承し、使番、目付と累進、元禄5年(1692)には浅草寺普請の功績により時服一領、羽織一領、黄金二枚を賜っています。
元禄8年(1695年)には長崎奉行に就任、同15年閏8月15日(1702・10・6)には中町奉行に栄進し、宝永4年4月22日(1707・5・23)から北町奉行に転向、正徳4年1月26日(1714・3・12)まで勤めました。辞任後は旗本寄合席となり、享保11年(1726) 84歳で死去しています。
この旗本丹羽家の墓所は文京区本駒込吉祥寺にあり、2013年秋に開催した第9回吉祥寺巡墓会の際に私が解説しました。
現在丹羽家の墓は宝篋印塔1基のみ残されており、宝篋印塔横にある墓誌には明治以降の子孫のみが刻まれており、江戸時代の埋葬者については不明です。
宝篋印塔 正面:丹羽家代々之墓
裏面:昭和三十七年三月改修之
墓誌:(9霊)
昭和初期に書かれた『掃苔』「現存する町奉行の墓(二)」(森潤三郎)には当時の丹羽家墓所の様子が記されており、それによれば鳥居氏(壬生藩主鳥居家のことか?)墓域の前を南へ数歩行った所に長道夫妻の宝篋印塔2基、その角から東へ曲がった両側に丹羽氏の墓域があり、その南側の2基目が長守、3基目が長堅であったとのことです。
それぞれの碑面には
曹源院殿從五位下前江州刺史一滴全海大居士(四代長道)
寛延四年辛未年閏三月二十二日
勝壽院殿從五位下前遠州刺史義雲宗功大居士(三代長守)
享保十一丙午歳四月初七冥
楊善院殿從五位下前江州太守徳翁長海大居士(七代長堅)
嘉永四年辛亥十二月三日
と刻まれていたそうです。
長道の墓について石階五級の上に石門石扉を有していたとあることから、現存する墓碑は位置的にも長道の墓碑と思われます。
長守の長男長道は西城御小性組番頭などを務め、その長男百介は、本家二本松藩主丹羽秀延に後継者がいなかったことから、その養子となり名を高寛と改め、丹羽家7代目当主を相続しました。高寛は二本松に初入国した際、藩祖長秀の廟所が不明になっている事に憤慨し、家臣に命じ捜索させ、越前宗徳寺に廟所、総光寺に位牌があることを確認し、直ちに法会を行い、毎年4月16日に家臣を派遣し代拝させ、以降幕末まで続きました。
当時二本松藩は財政窮乏・農村荒廃などの難題に直面しており、高寛は家老丹羽忠亮を重用し藩政改革を推進。忠亮と親しかった幕府儒官桂山彩厳の門人岩井田昨非を登用し、文武学習推進、綱紀の粛正、税目の新設、年貢収納の的確化、人材の登用などの施策を進めました。この改革は昨非が藩主・家老を後ろ盾として推進したため、下級家臣・農民からの反発も起き、抗争や一揆も起きています。延享2年(1745)改革半ばにして病を理由に、嫡男高庸に家督を譲り隠居。その後も高庸を後見し、藩政を指導しました。
寛延2年(1749)高寛41歳の時に、藩政改革と綱紀粛正の指針として岩井田昨非が進言した戒石銘碑を藩庁入口に建立。この碑には「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」という四句十六字の漢文が刻まれています。
「お前達武士の俸給は、民が脂して働いた賜物より得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて民を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」という意味のこの文は藩庁に出仕する藩士を戒める意味がありました。
しかし、辞句の曲解などが広まり、それが凶作下の農民に広がると、積達農民一揆が起き、別名昨非騒動とも言われました。高寛の目指した改革は成功したとは言えませんが、高寛が戒石銘碑に表した「孝」「敬」「義」の精神は後世に受継がれ、二本松藩の士風の形成に大きな影響を与え、戊辰戦争の少年隊士にも受け継がれた言われています。
私は二本松を訪れた際にはこの戒石銘碑を必ず訪れています。
高寛の墓は二本松市成田町曹洞宗大隣寺の丹羽家歴代墓所にあり、岩井田昨非の墓は同市竹田浄土宗台運寺にあります。岩井田昨非の墓については以前の記事で紹介しています。
8月11日・12日 郡山・二本松調査
高寛が本家を相続したため、次弟の長利が旗本家を相続し、その子長裕に高寛の娘が嫁いでいます。長利の次男長義は清水徳川家に仕え、三男直温は旗本竹垣直照の養子となり、竹垣家を相続。竹垣家が世襲していた代官職を継ぎ、大坂谷町代官・関東郡代付代官などを歴任。大坂代官時の手腕が買われ、荒廃した北関東の農村の復興に尽力しました。その施策は間引きの禁止、産児奨励金支給制度、越後の真宗門徒を入植、民衆教化のために心学者の講話を行うなど多岐にわたり、死後、真岡・上郷に徳政碑が建立され現在も残っています。その子直清も代官を務め、その日記は『江戸幕府代官竹垣直清日記』(新人物往来社)に翻刻されています。
竹垣家の菩提寺は港区愛宕にある清岸院であり、2013年秋に竹垣家の墓所の所在をご住職に尋ねた所、現在竹垣姓の檀家はおらず、寺の記録も明治以降のものしか無いとのことでした。清岸院の場所も100年前程に青松寺入口右側辺りから移転しているとのことで、古い墓碑も無いとのことでした。名代官竹垣直温の墓所が不明になってしまっていることは大変残念に思います。
尚、前述の徳政碑はつくば市上郷金村別雷神社と真岡市田町海潮寺に現存しています。
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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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