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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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池上太郎左衛門幸豊-田沼意次のブレーンとなった川崎の名士-

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会員のカネコです。
以前、第8回染井周辺寺院巡墓会にて老中田沼意次の解説をしました。
所謂「ワイロ政治」で悪名名高い田沼意次ですが、実際の姿はワイロ政治家とはほど遠い、かなり開明的な名政治家であった事を当会幹事全員で解説しました。
その際に私は意次のブレーンの一人として、川崎の大師河原村名主池上太郎左衛門幸豊を紹介しました。
田沼政治に関してはだいぶ再評価がされて来ていますが、まだまだワイロ政治の文脈で語られる事がありますので、池上幸豊を通して田沼政治の擁護をしたいと思います。

殖産興業を進める意次は朝鮮人参の国産化、白砂糖の国産化などに取り組みました。意次はこれらの政策を推し進めるために民間の力を積極的に利用しました。
その流れの中で、意次は白砂糖の国産化のために川崎大師河原村の名主池上太郎左衛門幸豊を重用したのです。

池上家は本姓藤原氏、家紋は雁金。遠祖池上左衛門大夫宗仲が日蓮を庇護し、その死後、日蓮が死去した場所である自邸を寄進し、寺院を建立し、それが現在の池上本門寺に発展して行きました。池上氏は本門寺の大檀越として、池上の地で力を保持して戦国期に至りますが、江戸初期の21代当主幸広が池上の地から川崎大師河原へ新田開拓のために一族郎党を引き連れ移住し、大師河原村の名主となりました。

24代幸豊は新田開発を積極的に行い、現在でも川崎区池上新町という地名に新田開発の名残りが残っています。
幸豊は甘蔗の栽培にも力を入れており、本草家田村元雄(藍水)の許で甘蔗から白砂糖を製造する方法を学び、白砂糖の国産化を目指しました。当時白砂糖はオランダ・中国からの輸入に依存しており、国産化が課題となっていました。
幸豊は明和3年(1766)に御用取次であった意次の上屋敷で砂糖製造の実演を行いました。これは田村元雄と意次の関係からと思われます。意次の知遇を得た幸豊は、明和5年(1768)甘蔗砂糖の製法を伝授するため、幸豊が関八州その他の農村へ巡回するのを許され、その礼状を意次に送っています。天明6年(1786)には京・大坂・畿内の農村へ巡回を許され、意次の支援を受けた幸豊によって白砂糖の国産化は飛躍的に進むこととなりました。

幸豊の墓は川崎市川崎区大師駅前2丁目の池上家墓地(池言坊)にあります。



これは2011年4月30日に撮影したものです。
同墓地には幸豊の養女となった成嶋道筑の娘の墓もあります。



成嶋道筑と言えば、8代将軍吉宗の侍講を務め、子孫には成嶋柳北がいます。一名主の家が幕臣との姻戚関係を結ぶという事から見ても、当時の幸豊の出世の様子が窺い知れます。
もし意次が失脚せずに政策が継続していたならば、幸豊は確実に幕臣に取り立てられていた事でしょう。

池上本門寺には日蓮を庇護した池上宗仲夫妻の墓所があり、隣には池上家の墓所もあります。



歴代の名が刻まれた墓誌には幸豊の名も刻まれています。
與楽院博望十利大本日豊居士 寛政十年二月廿五日 幸豊
いずれ池上本門寺でも巡墓会を開催したいと思っております。
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