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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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佐久間勝親と二本松-織田旧臣達の絆-

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会員のカネコです。
先日、このような記事を読みました。

長沼藩主の位牌修復へ 長野・偲ぶ会が二本松・龍泉寺を訪問

二本松へ配流された信濃長沼藩主佐久間勝親を偲び、地元長沼の人達が勝親の墓所がある二本松へ訪れたという記事です。

二本松ではこの佐久間勝親については殆ど知名度が無いと思います。
佐久間勝親は、日向高鍋藩主秋月種信の五男で、長沼藩主佐久間勝豊の養子となり、17歳の若さで藩主となりました。元禄元年(1688)20歳の時、5代将軍徳川綱吉より御側小性を命ぜられたが、すぐに病と称して辞退しようとしたため、綱吉の勘気を蒙り、所領没収の上、二本松藩主丹羽長次に預けられました。勝親は元禄4年正月2日(1691・1・30)23歳の若さで死去し、二本松龍泉寺に葬られました。法名大通院殿智厳浄勝居士。





この画像は今年の7月26日に訪れた際のものです。
翔龍桜という大木の下に墓碑があります。

佐久間家と言えば、佐久間信盛など、織田家の重臣を想起しますが、この勝親の家もその一族です。初代勝之は佐久間盛次の四男で、母は柴田勝家の姉。兄に猛将で知られた盛政、信濃飯山藩主となった安政、柴田勝家の養子となった勝政がいます。
勝之は佐々成政の娘を妻として佐々姓を名乗っており、成政切腹後、小田原北条氏に仕え、北条氏滅亡後、秀吉に召し出され、佐久間姓に復し、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、常陸北条において大名となりました。さらに大阪夏の陣の戦功により加増され、信濃長沼藩1万8,000石の藩主となりました。

『二本松寺院物語』によると勝親が二本松に到着した後に監守を命ぜられたのは佐々吉兵衛という人物であり、吉兵衛の祖父太右衛門は佐々成政の一族で、丹羽長重が小松城主であった時に仕官したとあります。この事から勝親は二本松では織田旧臣の誼から厚遇されていたのでは無いかと推測されます。

佐久間家・柴田家の子孫が丹羽長秀の子孫に預けられ、佐々成政の一族が世話をするという姿に織田旧臣達の絆を感じました。
そして、没後324年を経て、地元長沼の人達が旧藩主を偲び二本松を訪れた事に深い感慨を覚えます。

尚、『寛政重修諸家譜』によると「勝茲」とあり、「初勝親 萬作 織部」とありますが、今回は新聞記事に合わせて「勝親」の表記を使いました。

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