会員のカネコです。
2011年の記事になりますが、私が長年住んでいた川崎にある江戸蒲田氏の墓所について書きました。
江戸蒲田氏の墓
現在の東京の父とも言うべき江戸氏は、鎌倉・江戸時代にかけて江戸を中心に勢力を誇示していましたが、小田原北条氏の勢力に押され衰退。
一族の中から、旗本となった喜多見氏がおり、喜多見重政は5代将軍綱吉の側用人として出世し武蔵喜多見藩主として大名になったものの、元禄2年(1689)将軍の意向にしばしば背き、勤務も疎かであるとして突如改易となっています。
また、常陸に勢力を広げた江戸氏の子孫は結城秀康に仕え、水戸氏と改姓して、福井藩士として続いています。
そして、蒲田氏は現在の大田区を中心に勢力を持っていた一族で、「大慈恩寺文書」などに見られる江戸蒲田四郎入道道儀の代に勢力を拡大したと考えられています。
蒲田氏については系図が残されておらず、はっきりとした系譜は不明ですが、『関東武士研究叢書1江戸氏の研究』の門馬義芳「江戸蒲田氏の研究」に平賀本土寺大過去帳より蒲田氏関係者の記載を抜き出し、系図を復元したものが記載されています。
蒲田氏は小田原北条氏の麾下に入り、蒲田重武の代に小田原北条氏が滅亡、土井利勝に仕官し、禄100を賜っています。その子孫は後に土井家を去り、相馬中村藩主相馬家に仕官し、小嶋と姓を変え、幕末まで続いています。その系譜は『相馬市史資料集 衆臣家譜』に記されています。
「江戸蒲田氏の研究」には川崎区大田区円真寺の他に、妙典寺にある蒲田氏の墓について書かれており、「蒲田下総守致重入道重蓮墓碑 五世孫兵庫重行謹建」から始まる撰文が載せられています。この致重は『相馬市史資料集 衆臣家譜』の小嶋氏の項の冒頭に書かれている「江戸新五郎致重于武州六郷蒲田故称氏蒲田」とある人物で、この致重より三代下総守定重男が蒲田重武となっています。ただし、撰文では致重は慶長13年(1608)90余歳で没しており、4代の孫である重武が「慶長之末年歿」とあるので、時代が少々合わない気がします。
墓碑は妙典寺の境外墓地にあり、塀際にあるため、撰文が読みにくい状態となっています。
この墓碑の周囲には蒲田にそのまま土着した子孫の墓があり、これは『新編武蔵風土記稿』に記されている北蒲田村旧家百姓権兵衛の家であります。『新編武蔵風土記稿』には各村の旧家についての記載がありますが、武蔵国にはやはり北条や武田の旧臣が土着しているケースが多く見られます。
江戸蒲田氏の子孫は相馬藩士や、本拠地であった蒲田や、以前の記事に書いたように蒲田から多摩川を挟んだ川崎南河原に土着して現在も続いています。
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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-申込みフォーム
2011年の記事になりますが、私が長年住んでいた川崎にある江戸蒲田氏の墓所について書きました。
江戸蒲田氏の墓
現在の東京の父とも言うべき江戸氏は、鎌倉・江戸時代にかけて江戸を中心に勢力を誇示していましたが、小田原北条氏の勢力に押され衰退。
一族の中から、旗本となった喜多見氏がおり、喜多見重政は5代将軍綱吉の側用人として出世し武蔵喜多見藩主として大名になったものの、元禄2年(1689)将軍の意向にしばしば背き、勤務も疎かであるとして突如改易となっています。
また、常陸に勢力を広げた江戸氏の子孫は結城秀康に仕え、水戸氏と改姓して、福井藩士として続いています。
そして、蒲田氏は現在の大田区を中心に勢力を持っていた一族で、「大慈恩寺文書」などに見られる江戸蒲田四郎入道道儀の代に勢力を拡大したと考えられています。
蒲田氏については系図が残されておらず、はっきりとした系譜は不明ですが、『関東武士研究叢書1江戸氏の研究』の門馬義芳「江戸蒲田氏の研究」に平賀本土寺大過去帳より蒲田氏関係者の記載を抜き出し、系図を復元したものが記載されています。
蒲田氏は小田原北条氏の麾下に入り、蒲田重武の代に小田原北条氏が滅亡、土井利勝に仕官し、禄100を賜っています。その子孫は後に土井家を去り、相馬中村藩主相馬家に仕官し、小嶋と姓を変え、幕末まで続いています。その系譜は『相馬市史資料集 衆臣家譜』に記されています。
「江戸蒲田氏の研究」には川崎区大田区円真寺の他に、妙典寺にある蒲田氏の墓について書かれており、「蒲田下総守致重入道重蓮墓碑 五世孫兵庫重行謹建」から始まる撰文が載せられています。この致重は『相馬市史資料集 衆臣家譜』の小嶋氏の項の冒頭に書かれている「江戸新五郎致重于武州六郷蒲田故称氏蒲田」とある人物で、この致重より三代下総守定重男が蒲田重武となっています。ただし、撰文では致重は慶長13年(1608)90余歳で没しており、4代の孫である重武が「慶長之末年歿」とあるので、時代が少々合わない気がします。
墓碑は妙典寺の境外墓地にあり、塀際にあるため、撰文が読みにくい状態となっています。
この墓碑の周囲には蒲田にそのまま土着した子孫の墓があり、これは『新編武蔵風土記稿』に記されている北蒲田村旧家百姓権兵衛の家であります。『新編武蔵風土記稿』には各村の旧家についての記載がありますが、武蔵国にはやはり北条や武田の旧臣が土着しているケースが多く見られます。
江戸蒲田氏の子孫は相馬藩士や、本拠地であった蒲田や、以前の記事に書いたように蒲田から多摩川を挟んだ川崎南河原に土着して現在も続いています。
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