会員のカトケンです。
京都滞在2日目の15日。この日午後から講演会だったため、午前中に長遠寺と妙泉寺を回った。
場所はそれぞれ千本出水と大宮三条。実は今回の講演は、3月の山南忌に来られる方で[山南会]会員限定の催しであった。著書の横顔に毎年山南忌に参加していると書いておきながら、今年腰痛ですっぽかしてしまったことから、なんとか穴埋めしたいとの思いで引き受けることにしたものだ。
講演は壬生の旧前川邸近くで行われるため、壬生に出やすい場所を当日に選んだのだった。
人見の墓へ行ったのは、『探墓巡礼ー谷中編』の項目に[雲井龍雄]があることが大きい。谷中にある雲井の墓の撰文を人見が書いているため、箱館戦争関係として項目立てしたことをお話しした。
懇親会で聞き手の中に雲井と同じ米沢藩の宮島誠一郎の姻族の方がいたと伺って大いに盛り上がった。
それともう1箇所、大宮三条の妙泉寺に去年ブログで書いた永持亨次郎の墓を訪れた。これもまた恥の上塗りになるが、昨年ブログに[京都での流星忌の宣伝①]と題して永持のことを書いたまま、今の今まで②を書かず仕舞いにしていたことである。
あの後、京都で何を書こうとしていたのか今となっては思い出せないが、今回の講演で永持とその実兄柴田剛中に触れた。
永持は長崎海軍伝習所で勝海舟と矢田堀景蔵とともに艦長要員の修行中、卒業を待たず栄転。前後に日露交渉を抱えていて、長崎にとどまって『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[平山省斎]とともに取り組んでいたようだ。[徳川慶喜]が禁裏御守衛総督のとき目付介として京都に来たとき病没。
流星忌の宣伝に京都へ。山南忌で説明①
講演では、永持の墓が壬生から近いところにあることと(=写真)、その実兄柴田剛中が竹内保徳遣欧使節員として手記を残し、欧州滞在中の様子を紹介した。
一行は食事が合わなかったようで、生魚に持ってきた醤油をかけて、ようやくそれらしい食事にありつけたとなかなか苦労が伝わってきて面白い。
その中で[ボートルを塗って]という表現が出てきて、[ビネガー]かドレッシングか何かをかけたのではと話したところ、後で[バター]ではないかとご指摘を受けた。この辺り、いま一度じっくり追求してみたい。
柴田は一行が夜遊びなどしないように自らガキ大将となって外での鑑賞や飲んだあとの喫茶、腕相撲などに興じたようで、名上司ぶりを発揮した人物だった。
拙共著『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[福地源一郎]や[福田重固]など同行者の様子がこれで少し分かるだらう。柴田の墓のことは、インターネットで調べると面白いことが分かるかもしれない。
やはり項目立てした[徳川慶喜]命名の尊攘苑にある原市之進の墓(長楽寺)やかつて書いた『歴史研究』2015年4月第630号[日本に鉄道を敷いた男 佐藤政養の墓]のコピーをお渡しし、佐藤政養の建てた京都の墓も紹介(以前書いたブログを参照)。
3月13日 京都市① 源義経を支えた佐藤継信・忠信兄弟の墓
この場所について、東大路渋谷通東入ルを[シブヤ通り]と発言したところ、[シブタニ通り]との訂正が入った。
長年京都で歴史案内をされている旧知の方から何よりのご指摘をたまわった。後で聞いたら毎年うるさ型の出席者が多いそうで、その程度で済んで良かったと冷や汗ものであった。
最後に『探墓巡礼ー谷中編』で壬生に関わりがあるのは浪士組で山岡鉄舟が新徳寺に来たとの話で締めくくった。
同書には清河八郎の故郷に行くと[高橋泥舟]・[山岡鉄舟]義兄弟の書が清河家の墓や石碑に刻まれていることを書いたことも紹介した。
作った本で意外にも京都の様々な場所に触れることができたが、講演後京都に幕臣の墓がまだあるかとの話題などでしばし歓談し、盛り上がった。
行ったことはないが、幕府方なら会津の山本覚馬を入れても良いかもしれない。大河『八重の桜』のころは行けたが、今は荒れてしまって行けないのではないかなどという話に。
さて、まだまだ教えていただくことが多く、参加者の方々には最後までお聞きくださり感謝申し上げたい。
お招きくださった旧前川邸の田野様には懇親会後までお付き合いいただき、地元の方とも触れ合えて何よりの京都滞在となった。
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★流星忌・ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の告知チラシを公開しています。
流星忌・ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の告知チラシが出来ました
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京都滞在2日目の15日。この日午後から講演会だったため、午前中に長遠寺と妙泉寺を回った。
場所はそれぞれ千本出水と大宮三条。実は今回の講演は、3月の山南忌に来られる方で[山南会]会員限定の催しであった。著書の横顔に毎年山南忌に参加していると書いておきながら、今年腰痛ですっぽかしてしまったことから、なんとか穴埋めしたいとの思いで引き受けることにしたものだ。
講演は壬生の旧前川邸近くで行われるため、壬生に出やすい場所を当日に選んだのだった。
人見の墓へ行ったのは、『探墓巡礼ー谷中編』の項目に[雲井龍雄]があることが大きい。谷中にある雲井の墓の撰文を人見が書いているため、箱館戦争関係として項目立てしたことをお話しした。
懇親会で聞き手の中に雲井と同じ米沢藩の宮島誠一郎の姻族の方がいたと伺って大いに盛り上がった。
それともう1箇所、大宮三条の妙泉寺に去年ブログで書いた永持亨次郎の墓を訪れた。これもまた恥の上塗りになるが、昨年ブログに[京都での流星忌の宣伝①]と題して永持のことを書いたまま、今の今まで②を書かず仕舞いにしていたことである。
あの後、京都で何を書こうとしていたのか今となっては思い出せないが、今回の講演で永持とその実兄柴田剛中に触れた。
永持は長崎海軍伝習所で勝海舟と矢田堀景蔵とともに艦長要員の修行中、卒業を待たず栄転。前後に日露交渉を抱えていて、長崎にとどまって『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[平山省斎]とともに取り組んでいたようだ。[徳川慶喜]が禁裏御守衛総督のとき目付介として京都に来たとき病没。
流星忌の宣伝に京都へ。山南忌で説明①
講演では、永持の墓が壬生から近いところにあることと(=写真)、その実兄柴田剛中が竹内保徳遣欧使節員として手記を残し、欧州滞在中の様子を紹介した。
一行は食事が合わなかったようで、生魚に持ってきた醤油をかけて、ようやくそれらしい食事にありつけたとなかなか苦労が伝わってきて面白い。
その中で[ボートルを塗って]という表現が出てきて、[ビネガー]かドレッシングか何かをかけたのではと話したところ、後で[バター]ではないかとご指摘を受けた。この辺り、いま一度じっくり追求してみたい。
柴田は一行が夜遊びなどしないように自らガキ大将となって外での鑑賞や飲んだあとの喫茶、腕相撲などに興じたようで、名上司ぶりを発揮した人物だった。
拙共著『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[福地源一郎]や[福田重固]など同行者の様子がこれで少し分かるだらう。柴田の墓のことは、インターネットで調べると面白いことが分かるかもしれない。
やはり項目立てした[徳川慶喜]命名の尊攘苑にある原市之進の墓(長楽寺)やかつて書いた『歴史研究』2015年4月第630号[日本に鉄道を敷いた男 佐藤政養の墓]のコピーをお渡しし、佐藤政養の建てた京都の墓も紹介(以前書いたブログを参照)。
3月13日 京都市① 源義経を支えた佐藤継信・忠信兄弟の墓
この場所について、東大路渋谷通東入ルを[シブヤ通り]と発言したところ、[シブタニ通り]との訂正が入った。
長年京都で歴史案内をされている旧知の方から何よりのご指摘をたまわった。後で聞いたら毎年うるさ型の出席者が多いそうで、その程度で済んで良かったと冷や汗ものであった。
最後に『探墓巡礼ー谷中編』で壬生に関わりがあるのは浪士組で山岡鉄舟が新徳寺に来たとの話で締めくくった。
同書には清河八郎の故郷に行くと[高橋泥舟]・[山岡鉄舟]義兄弟の書が清河家の墓や石碑に刻まれていることを書いたことも紹介した。
作った本で意外にも京都の様々な場所に触れることができたが、講演後京都に幕臣の墓がまだあるかとの話題などでしばし歓談し、盛り上がった。
行ったことはないが、幕府方なら会津の山本覚馬を入れても良いかもしれない。大河『八重の桜』のころは行けたが、今は荒れてしまって行けないのではないかなどという話に。
さて、まだまだ教えていただくことが多く、参加者の方々には最後までお聞きくださり感謝申し上げたい。
お招きくださった旧前川邸の田野様には懇親会後までお付き合いいただき、地元の方とも触れ合えて何よりの京都滞在となった。
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流星忌・ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の告知チラシが出来ました
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