会員のカトケンです。
京都滞在3日目、前日の講演で触れながらしばらく訪ねていない場所に行こうかと思ったが、ゆっくり睡眠を取ることができたので、寺町通の進々堂で朝食を食べて、神宮丸太町から出町柳に出た。
百万遍知恩寺に高知城築城の奉行百々越前安行の墓があるとの情報を得たからである。
残念ながら墓を見つけることはできず、京大キャンパスの周辺の学生相手に店を出してそうなハンバーグの店で昼食。手作りの味に励まされ、京都の学生気分を少し味わったところで気を取り直して午後も散策を続けることに。おまけに出町柳駅のロッカーに荷物を預けてきたままだから、そのまま徒歩で近くの墓を巡ることに決した。
それは1日目に琵琶湖疏水創設に関連してホテル近くの京都府知事北垣国道像(=写真)へ行った手前、墓に行かなきゃならんとの思いに駆られ、金戒光明寺の墓まで足を運ぶことにした。
金戒光明寺といえば、途中土佐関連で真如堂の墓地に石田英吉の墓にまだ行ってなかったし、京大キャンパスの脇を通ったら尊攘堂が見えた(=写真)ので寄ってみた。
気になっていたのは北垣の裏に新選組命名を武家伝奏として伝えた飛鳥井雅典の墓があるはずで、もう一人の野宮定功の墓はちょうど神宮丸太町と出町柳の間にあるけれど今回は諦め、飛鳥井に絞ることにした(=写真)。
だが、行ってみるとこのフェンスの背景は、以前釣洋一先生が教えてくださった井汲恭平(谷川辰吉。土佐浪士らによる大坂焼討ちの陰謀を阻止)の墓があるなとピンと来たら案の定であった(=写真)。
京大正門から吉田神社の手前をコの字形を描くように山の方へ登っていき、真如堂を入って右手の塔頭寺院を通り、墓地に出ると小さな生け垣に囲まれた、周囲より背の高い石田英吉の墓があった(=写真)。
高知県の東部に位置する安芸郡安田町の出身で坂本龍馬の義兄高松順蔵の弟子、幕末は伊吹周吉を名乗る。
各県知事を歴任し、明治26年高知県知事を務めたとき、土佐藩士たちの維新での活躍を調査させ貴重な資料を残した。
ここには英吉はじめ、妻高島氏、娘と思われる菊枝、関係不明の半田絹、養子八弥夫妻および現代墓の計6基がある。
そこから再び真如堂の山門を出て、金戒光明寺の北門へ。北垣国道の墓が何処にあるか分からないので、墓域をずんずん進んでいくと、一番奥のエリアの中心に囲いがあり、5基の北垣国道関係墓があった。向かって左から国重恒升(関係不明)、北垣国道夫妻、母、現代墓2基が横一列に並んでいる(=写真)。
その後方に飛鳥井家之墓があり、点在する栄摂院墓地の移転に伴い雅典や他の墓地に祀られし人々を新たにまとめたものである(=写真)。北垣の墓を下に降りてきたところ、井汲恭平(谷川辰吉)墓の並びにも同じ解説の飛鳥井家之墓がある。
谷川は言わずと知れた土佐国佐川脱藩の浜田辰弥・那須盛馬らによる大坂焼き討ちの企てを未然に通報し新選組谷万太郎らが石蔵屋に斬り込み、大利鼎吉を討ち取ったときの功労者である。
その場所は「新選組の石蔵屋襲撃事件の跡」の釣洋一撰文、平成24年に設置された銀のプレートが掲げられている(大阪府大阪市中央区瓦屋町1-11松屋町筋)。
目的の墓は一通り巡ることができたので安心していると、旧前川邸から連絡があり、金戒光明寺にいるなら新しくできた容保公銅像の一瞥を勧められたのだが、出町柳まで歩く体力を考慮して御遠慮申し上げ引き上げる途中、北門から出て石田英吉墓のある墓域に接する道を登ったら難なく辿り着けた(=写真)。
会津殉難者たちを見守る勇姿がここにあった。
ーおしまいー
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京都滞在3日目、前日の講演で触れながらしばらく訪ねていない場所に行こうかと思ったが、ゆっくり睡眠を取ることができたので、寺町通の進々堂で朝食を食べて、神宮丸太町から出町柳に出た。
百万遍知恩寺に高知城築城の奉行百々越前安行の墓があるとの情報を得たからである。
残念ながら墓を見つけることはできず、京大キャンパスの周辺の学生相手に店を出してそうなハンバーグの店で昼食。手作りの味に励まされ、京都の学生気分を少し味わったところで気を取り直して午後も散策を続けることに。おまけに出町柳駅のロッカーに荷物を預けてきたままだから、そのまま徒歩で近くの墓を巡ることに決した。
それは1日目に琵琶湖疏水創設に関連してホテル近くの京都府知事北垣国道像(=写真)へ行った手前、墓に行かなきゃならんとの思いに駆られ、金戒光明寺の墓まで足を運ぶことにした。
金戒光明寺といえば、途中土佐関連で真如堂の墓地に石田英吉の墓にまだ行ってなかったし、京大キャンパスの脇を通ったら尊攘堂が見えた(=写真)ので寄ってみた。
気になっていたのは北垣の裏に新選組命名を武家伝奏として伝えた飛鳥井雅典の墓があるはずで、もう一人の野宮定功の墓はちょうど神宮丸太町と出町柳の間にあるけれど今回は諦め、飛鳥井に絞ることにした(=写真)。
だが、行ってみるとこのフェンスの背景は、以前釣洋一先生が教えてくださった井汲恭平(谷川辰吉。土佐浪士らによる大坂焼討ちの陰謀を阻止)の墓があるなとピンと来たら案の定であった(=写真)。
京大正門から吉田神社の手前をコの字形を描くように山の方へ登っていき、真如堂を入って右手の塔頭寺院を通り、墓地に出ると小さな生け垣に囲まれた、周囲より背の高い石田英吉の墓があった(=写真)。
高知県の東部に位置する安芸郡安田町の出身で坂本龍馬の義兄高松順蔵の弟子、幕末は伊吹周吉を名乗る。
各県知事を歴任し、明治26年高知県知事を務めたとき、土佐藩士たちの維新での活躍を調査させ貴重な資料を残した。
ここには英吉はじめ、妻高島氏、娘と思われる菊枝、関係不明の半田絹、養子八弥夫妻および現代墓の計6基がある。
そこから再び真如堂の山門を出て、金戒光明寺の北門へ。北垣国道の墓が何処にあるか分からないので、墓域をずんずん進んでいくと、一番奥のエリアの中心に囲いがあり、5基の北垣国道関係墓があった。向かって左から国重恒升(関係不明)、北垣国道夫妻、母、現代墓2基が横一列に並んでいる(=写真)。
その後方に飛鳥井家之墓があり、点在する栄摂院墓地の移転に伴い雅典や他の墓地に祀られし人々を新たにまとめたものである(=写真)。北垣の墓を下に降りてきたところ、井汲恭平(谷川辰吉)墓の並びにも同じ解説の飛鳥井家之墓がある。
谷川は言わずと知れた土佐国佐川脱藩の浜田辰弥・那須盛馬らによる大坂焼き討ちの企てを未然に通報し新選組谷万太郎らが石蔵屋に斬り込み、大利鼎吉を討ち取ったときの功労者である。
その場所は「新選組の石蔵屋襲撃事件の跡」の釣洋一撰文、平成24年に設置された銀のプレートが掲げられている(大阪府大阪市中央区瓦屋町1-11松屋町筋)。
目的の墓は一通り巡ることができたので安心していると、旧前川邸から連絡があり、金戒光明寺にいるなら新しくできた容保公銅像の一瞥を勧められたのだが、出町柳まで歩く体力を考慮して御遠慮申し上げ引き上げる途中、北門から出て石田英吉墓のある墓域に接する道を登ったら難なく辿り着けた(=写真)。
会津殉難者たちを見守る勇姿がここにあった。
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