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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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集大成、そして新たな展開へーー流星忌開催のお礼

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会員のカトケンです。

ご挨拶が遅くなりまして申し訳ございません。17日は大勢の方にお越しいただき、巡墓会のご案内に至らない点が多々あったかと思いますが、本当にありがとうございました。

日ごろお付き合いのある方から初めてお目にかかる方まで、わずかな時間でしたがお話ができ、私自身も終始楽しい時間を過ごすことができました。お話しできなかった方も多く、できればどのような形でこのイベントを知ったのか教えていただき、次の機会に生かしたかったのが心残りでしたが、ご参加いただいた一人一人に改めてこの場を借りまして感謝申し上げます。

岩橋教章のご説明をいただいた野田雅子先生をはじめ、お手伝くださった皆様には、懇親会でできうる限り慰労させていただきましたが、感謝してもし切れません。巡墓会常連の方々には心強いご声援・激励をいただき、無事最後までやり遂げることができました。また、参加の呼びかけや本の製作にご協力いただいた数多くの方々のお力がなくては、とてもここまでたどり着けませんでした。本当にありがとうございました。

我々も10年近く年2度のペースでコツコツ都内の霊園や寺院で案内を繰り返してきたことが本として形になり、1度きりの大きな行事に発展したことに喜びと感激を禁じえませんが、これを機会にもう一度皆様に分かりやすい説明や文章になっていたかなど気を引き締めて点検の上、より利用しやすく且つ独創的なものを手掛けていきたいと思っております。

ぜひどこかの機会でまたお目にかかれますこと、お話しできますことを楽しみにしております。引き続きご指導ご助言よろしくお願いいたします。カトケンこと加藤健太郎



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流星忌発起人の古写真研究家森重和雄さんご著書の紹介

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会員のカネコです。

流星忌の発起人であり、当会の『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』をプロデュースした古写真研究家の森重和雄さんが来年1月下旬に雄山閣より『幕末明治の写真師列伝』を出版されます。



改めて森重さんのプロフィールをご紹介いたします。
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森重和雄
写真史家・古写真研究家・作家。
昭和33年(1958)生まれ。国立大分大学経済学部経済学科卒。株式会社電通映画社(現・電通テック)入社後、大手企業CM・イベント映像・大手企業インターネットホームページ・販促用CG制作・映画制作のチーフ・プロデューサー兼部長職となり業務に携わる。
平成23年(2011)、電通テックを早期退職後、フリーランスの文筆業となり、雑誌『歴史通』にて古写真をテーマにした「古写真探偵」の記事を連載(2011年5月号~2015年5月号)、雑誌『CONFORT/コンフォール(愛煙家通信)』に「古写真探偵のゆる散歩」の記事を連載(2017年終了。全6回)、 
現在は、日本カメラ財団小誌『 JCII NEWS 』( 2012年1月号より)にて、「幕末明治の写真師列伝」を連載中。
主な著書に、『幕末明治の写真師 内田九一』(内田写真株式会社、2005年)初版・改訂二版、共著『英傑たちの肖像写真』(渡辺出版、2010年)、共著『復刻版 日清戦況写真』(国書刊行会、2013年)、共著『大久保家秘蔵写真 大久保利通とその一族』(国書刊行会、2013年)、共著『下岡蓮杖 日本写真の開拓者』(国書刊行会、2014年)、共著『坂本龍馬関係写真集』(国書刊行会、2014年)、短編小説集『うたたね』(出版舎 風狂童子、2018年)がある。
2019年1月『幕末明治の写真師列伝』(雄山閣、2019年)を刊行予定。
主な研究テーマは幕末期から明治10年頃までの写真師についての伝記や、近藤勇、土方歳三、坂本龍馬の妻・お龍、和宮、大久保利通の古写真研究など。
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森重さんは既に古写真研究の分野で実績を挙げている方ですが、今回の『幕末明治の写真師列伝』は序章に「幕末明治の写真師たちのファミリーヒストリーである」とある通り、写真師の人物像にせまる画期的な内容となっています。
幕末の志士たちの写真はよく目にしますが、撮影をした写真師の人物像ということにまではあまり想いを巡らすことは少ないかと思います。
思い返せば2010年11月に開催した染井霊園巡墓会の際には森重さんに下岡蓮杖のお墓の解説をして頂きました。当時はまだ写真師自身が注目されることが少なかったので、これは大変画期的なことだったと思います。
森重さんはその時、既に写真師の研究を深めていましたので、今回の作品は写真師研究の集大成というべき内容になっているのではないかと思います。

森重さんは大変な読書家として知られており、文芸方面にもその才があり、この度、小説家としてのデビュー作である短編小説集『うたたね』を出版されました。
泣ける短編小説との評判が立っていますので、ご興味がある方はこちらもチェックしてみてください。
『うたたね』は既に発売中で、当会の『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』と同じく出版舎 風狂童子より刊行されています。





『うたたね』の購入方法は以下となります。
◆メールを利用する場合(推奨)は、
 sugisaki-rect@jcom.home.ne.jp
 宛てに。
◆FAXを利用する場合は
 042-325-6519 (FAX専用電話)
に、送付先ご住所・お名前・必要部数をご記入して送ってください。
出版舎 風狂童子から、振替用紙と記入説明書同梱の上、希望部数を送らせていただきます。
本が到着したら、必要事項をご記入いただいた振替用紙と共に、最寄りの郵便局窓口に本の代金をお支払いください。
本体価格1,600円(消費税込1,728円)+送料別途(スマートレターの場合180円)になります。

先日の流星忌の開催、ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の刊行は森重さんなくして実現できなかったことですので、改めて御礼を申し上げます。今後ますますのご活躍を祈念いたします。
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忘年会兼会合と来年以降の活動について

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会員のカネコです。

本日、日暮里にて幹事メンバー3名で忘年会兼会合を行い、今年の活動の総括、来年以降の活動について話し合いました。日暮里は今年の当会の活動で何回も訪れた場所ですので、今年を締めくくるには相応しい場所だと思いました。

まず、今年は当会初出版となる『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』を無事刊行したことと、流星忌の巡墓会に大勢の方にお越し頂いたことに改めて感謝の意を表します。
本の出版・流星忌の巡墓会共に、様々な方のご協力なしには成しえなかったことです。発足9年目にして大きな区切りをつけることができ、当会にとって大変大きな収穫となりました。厚く御礼申し上げます。

『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』については刊行後に判明した誤字脱字等訂正に関して近日ご報告いたします。

来年以降の活動については、幹事メンバー3名とも公務員・サラリーマンであり、働き盛りの年齢で、特に来年はそれぞれの本業が多忙になり、3名揃っての活動が困難であることが予想されましたので、来年2月に外部団体の巡墓会講師を務めた後、2009年の発足以来、毎年行っていた巡墓会はしばらくお休みとさせて頂くことになりました。

ただ、会として完全に休むという訳ではなく、各人が「探墓巡礼顕彰会のカトケン」「探墓巡礼顕彰会のカネコ」「探墓巡礼顕彰会のクロサカ」として「ソロ活動」をしますので、各人の活動については当ブログ、SNS等でご案内したいと思います。また、各人の個人的な調査に関しても時折ご報告できればと思います。

『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』についても様々な機会で宣伝活動をしますので、一人でも多くの方の手に取って頂けるようにしたいと考えております。

再来年の活動に関しては、来年の12月に3名で集まり、各人の状況を確認して活動を考えたいと思っています。
いつかまた幹事3名揃って、レベルアップした探墓巡礼顕彰会としてお会いできればと思っておりますので、引き続き当会へのご支援ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。
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『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の訂正

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会員のカネコです。

先日より告知しております『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の訂正についてお知らせいたします。
本来は刊行前のチェックで気づくべき所でしたが、見落としがあり、読者の皆様にはご迷惑をおけかして申し訳ございません。
ご購入済みの方は一度、ご確認頂けますようお願い申し上げます。
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P.9 [谷中霊園-2案内図] 右上、乙葉林八(浅田麟之助)の下の丸囲みの霊園地番
 誤「乙3号」
    ↓
 正「乙8号」

P.12 [永井尚志] ④第三段落目、第一文
 誤「主水主」
     ↓
 正「主水正」

P.13 [永井尚志] ⑤第三段落目、第二文
 誤「円月姫」
     ↓
 正「円月院」

P.17 [近藤庫三郎・鎮三] ⑤第三段落目
 誤「第二霊廟近くにに建立」
     ↓
 正「第二霊廟近くに建立」

P.34 [松平忠敏] ④第一段落目、第十文
 誤「他方で分家に養子として入った松平正綱が大名に取り立てられ、正綱の出身の大河内氏から「大河内松平」家が一般的に長沢松平と呼ばれている。」
     ↓
 正「他方で大河内正綱が長沢松平家分家へ養子に入り、松平正綱を名乗ったが、本姓は大河内氏のままであった。」

P.48 [雲井龍雄] ⑤第一段落目、第四文
 誤「証は張滋昉」
     ↓
 正「書は張滋昉」

P.59 [渋沢栄一] 墓碑写真右側
 誤「渋沢栄一の墓所の位置については、P57徳川慶喜の項目を参照して下さい。」
     ↓
 正「渋沢栄一の墓所の位置については、P10「寛永寺墓地周辺案内図」を参照して下さい。」

P.61 [阿部正弘] 墓碑写真右側
 誤「阿部正弘の墓所の位置については、P57徳川慶喜の項目を参照して下さい。」
     ↓
 正「阿部正弘の墓所の位置については、P10「寛永寺墓地周辺案内図」を参照して下さい。」

P.65 [平山省斎] ⑤第二段落目、第二文
 誤「しかし同所には「活同斎」という似た名前の人物の墓があり、省斎の実父として整合性も合うことから、この人物が「活円斎」のことではないかと考えている。」
     ↓
 正「しかし同所には「活道斎」と「哲円斎」という二人の人物の墓がある。近年の調査で祖父が活道斎、父が哲円斎であり、省斎の養子成信が養父の伝記を書いた際に二人が混ざってしまい、「活円斎」として広まってしまったという説が有力である。」

P.66 [岩橋教章] ①
 誤「箱館戦争を描いた開拓方」
     ↓
 正「箱館戦争を描いた絵図方」

P.66 [岩橋教章] ④二段落目、第二文
 誤「軍艦操練所絵図方出役」
     ↓
 正「軍艦操練所絵図認方出役」

P.66 [岩橋教章] ④三段落目、第二文
 誤「伊勢へ向かう途中」
     ↓
 正「伊勢国鳥羽へ向かう途中」

P.66  [岩橋教章] ④四段落目、第三文
 誤「軍艦組三等製図方を務め」
     ↓
 正「蒸気三等、総裁附を務め」

P.66  [岩橋教章] ④五段落目、第一文
 誤「明治六年(1873)四月出国」
     ↓
 正「明治六年(1873)三月末出国」

P.71 [高松凌雲] ④七段落目、第一文
 誤 「乙部上陸」
      ↓
 正 「乙部へ上陸」

P.72  [高松凌雲] ④後ろから三段落目、第四文
 誤 「渋沢栄一・福地源一郎・松平太郎」
      ↓
 正 「渋沢栄一・福地源一郎(四六ページ参照)・松平太郎」

P.83 [伊東玄伯] ⑤第一段落目、第三、六文
 誤「正三位」
     ↓
 正「従三位」

P.84  [小杉雅之進] ④三段落目
 誤「明治五年(1872)何者かにより」
         ↓
 正「明治六年(1873)何者かにより」

P.91  [松岡磐吉] ④後ろから二段落目、第二文
 誤 「咸臨丸が仙台藩白石からの移住者四〇一名を乗せたまま、北海道釜谷村泉沢の更木岬沖で座礁、船としての生涯を閉じている。」
         ↓
 正 「咸臨丸が仙台藩白石からの移住者約四〇〇名を乗せたまま、北海道釜谷村泉沢の更木岬沖で座礁、乗船者は助かったが、船としての生涯を閉じている。」

P.97  [海老名季昌先祖] ④後ろから六段落目、第三文及び後ろから四段落目、第二文
 誤 「横山主税常守」「横山常守」
      ↓
 正 「横山主税常忠」「横山常忠」

P.104 [参考文献] 左列13行目
 誤 「『韮山町史』第6巻上・通史Ⅱ近世第11韮山町」
      ↓
 正 「『韮山町史』第6巻上・第11巻通史Ⅱ近世 韮山町」

P.104 [参考文献] 右列21行目
 誤「・稲垣敏子(翻刻)・樋口雄彦(校正・解説)「福田重固手控「陸軍局御用留」」・ (『横浜開港資料館紀要』29 号) 横浜市ふるさと歴史財団) 平成23年」
         ↓
 正「・稲垣敏子(翻刻)・樋口雄彦(校正・解説)「福田重固手控「陸軍局御用留」」(『横浜開港資料館紀要』29 号 横浜市ふるさと歴史財団) 平成23年」

P.104 [参考文献] 右列下から8行目
 誤「・土佐博文「依田学海 佐倉藩士、漢学者として幕末から明治を見つめた男」(『千葉史学』54 号) 千葉歴史学会) 平成21年
         ↓
 正「・土佐博文「依田学海 佐倉藩士、漢学者として幕末から明治を見つめた男」(『千葉史学』54 号 千葉歴史学会) 平成21年

P.107 [★墓所索引] 右列6行目
 誤 「国泰寺(富山県高岡市)  ・・・79」
      ↓
 正 削除。関連墓碑が無いため。
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上記以外にも誤りがありましたら、コメント覧にてご教示頂ければと思います。
よろしくお願いいたします。
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探墓巡礼ー初夢に何を思う

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会員のカトケンです。

今年も残すところあとわずか。流星忌のあと、愛知・岐阜に足を運び、山内一豊の2つ説のある生誕地、岩倉市(神明生田神社)や一宮市(黒田城址)を回った。

また、一豊とともに豊臣政権で活躍した堀尾吉晴の屋敷跡がある愛知県丹羽郡大口町を訪ねた。八剣社という大きな神社が残っていて、その裏手には母と吉晴の息子金助の逸話で知られる裁断橋が復元され、近くの桂林寺には吉晴らの供養塔もある。ここは堀尾家家臣だった我が先祖が確実にいた場所であり、感慨深いものがあった。

さらに我が地元静岡市では、駿府城址から豊臣秀吉時代の金箔瓦や天守台遺構が出てきたと話題になったが、要は中村一氏が駿府領主のときに造った城があったことが今年明らかになったわけだ。一氏の墓は臨済寺にあるが、静岡市では領主であったことともにあまり知られていないように思う。

ここへ来て、豊臣家臣のライバルである3人、山内・堀尾・中村が出そろったことで、3人が活躍した大河ドラマ『功名が辻』を思い出した。それぞれ自身に関わるつながりがあることに気づき、普段馴染みの薄い中世の終わりから江戸初期での追究テーマを見つけた気がした。

それから、師走に入ってからある子孫の会で仲良くなった方に車を出していただき、茨城県の陸の孤島、坂東市に逆井城址などを訪れた。前回、同じくアクセスが不便な結城市にある老中水野忠邦一族の墓所や平将門ゆかりの地を巡った第2弾であった。

後で分かったことだが、回った中に我が先祖が40年近くいた土岐家の守谷領が含まれていたことが分かり、驚きかつうれしい旅となった。旅をしながら聞く現代裏話にも心を弾ませ、今年携わったイベントでの疲れがずいぶん癒やされた。

来年、今から楽しみなのは、NHKの正月時代劇「家康、江戸を建てる」の後編に後藤(橋本)庄三郎が出てくることだ。

御金改役として小判を通貨にすべく情熱を傾けた生涯が一般に明らかになる。今夏、静岡市の安西寺に銅像が建てられたことは以前当ブログにも載せたが、そもそも去年春の深川巡墓会でその子孫後藤三右衛門の墓(雲光院)にて庄三郎の話をさせてもらった。

そのとき、庄三郎の墓がもう東京にはなく、現在供養塔が残っているのが静岡市の安西寺であることを報告。その出自がいかなる橋本から出ているか謎に包まれており、金座の創設以外にも家康に対して貿易の助言をしていたことも説明。江戸幕府初期の屋台骨を支え、貨幣にとどまらない活躍にもっと注目して良い人物である。

庄三郎の見た夢を自身の初夢に重ねて、来年も墓をキーワードにしながら、日本人として記憶にとどめておくべき隠れた歴史上の人物の発掘に努めていきたい。また静岡や先祖とのつながりを追いつつ、土佐への情熱を再び傾けて行けたらと思う。

最後になりましたが、今年も多くの方に支えていただいたおかげで、意義深い掃苔活動ができました。1年間ありがとうございました。感謝を胸に来年も努力を重ねて参りますので、引き続きご指導よろしくお願いいたします。
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新年のご挨拶

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会員のカネコです。

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年は『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の出版や11月に開催した流星忌の谷中巡墓会などの活動があり、皆さまには大変お世話になりました。
探墓巡礼顕彰会にとっては大きな1年となりました。

今年は既にお伝えしています通り、幹事メンバーの「ソロ活動」となりますが、引き続き各人の活動や調査について当ブログにてお伝えできればと思っております。

本年が皆様にとって良い1年になることを祈念いたします。
引き続き、当会へのご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
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創業と守成と

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会員のカトケンです。
新年あけましておめでとうございます。

楽しみにしていた正月時代劇「家康、江戸を建てる」を見て、家康が新国家建設に当たって才覚者たちを活躍させる目の付けどころに今回はスポットが当てられた(写真は静岡市にある後藤庄三郎供養塔と銅像。大久保主水の墓は東京谷中瑞輪寺にあるというが、筆者未見)。





戦争から生活にいち早く目を向ける視点は、経営者にも重ねることができよう。

だが考えてみれば、徳川政権の権力基盤は、家康時代は大坂の陣で武家の争いは収まったものの、秀忠が娘を天皇に嫁がせ、家光がようやく朝廷を抑えて軌道に乗ったと言えなくもない。

その意味では、2代・3代の守成が重要で、初代による創業をさらに盤石なものとすべき次の手がいかに大切かが改めて分かった。

そうすると、創業時の側近から守成時の側近は誰がいるか。そんな視点で掃苔を進めていくのも楽しい1年になろう。

それはさておき、今年最初の掃苔は予備校時代の同級生たちと焼津で新年会の前に1時間ほど。安政7年遣米使節団員 益頭駿次郎の墓を訪ねた。

看板はすぐ見つかったものの(=写真)、墓が見つからない。そんなに広い墓域ではないのに西日がまぶしくて苗字が読み取りにくい。



夕方に来たから無理もないのだが、やうやくのことで益頭家の墓にたどり着いた。墓域のいちばん奥に立っていた。(=写真)





探しがいのある墓だった。益頭は米国のほか欧州にも足を運んだ(竹内遣欧使節)。一度派遣されて、また行く機会を得た1人である。このやうな人が何人かいる。

1人ひとり墓を探していくのも面白い。今ちょうど新年会のメンバーが解散したところだ。三島や富士から来てくれた。ありがたい正月である。

本年もよろしくお願いします。
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大久保主水の墓とその系譜

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会員のカネコです。

前回のカトケンさんの記事に正月時代劇「家康、江戸を建てる」の話題がありましたが、その前編の主人公で江戸治水の大恩人である大久保主水の墓は谷中瑞輪寺にあります。



大久保主水は通称藤五郎、諱を忠行といい、宇津忠茂の五男、兄に大久保忠員がおり、忠員の子には小田原藩祖となる忠世、俗に「天下のご意見番」と呼ばれた彦左衛門忠教がいます。
主水は三河一向一揆の際に負傷し歩行が困難となったため、以後は徳川家康に菓子を献上する菓子司となり、代々子孫がその役目を務めていました。

大名・旗本家の系譜集である『寛政重修諸家譜』第11巻には藤原氏道兼流として大久保諸氏の系譜が所載されています。
そこには忠茂の子として忠平・忠俊・忠員・忠久が挙げられていますが、主水忠行の記載はありません。これは主水の家が旗本ではなく御菓子司であったため省かれたものではないかと思われます。

主水の家系については森鴎外の弟である森潤三郎が「江戸幕府御菓子司大久保主水が家系」(『今昔 3(2)』)で子孫より提供された資料を基に記述しています。
森潤三郎については当ブログ森鴎外記念館で「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」展を見るでも書きましたが、我々の大先輩とでも言うべき偉大なる掃苔家であります。

この「江戸幕府御菓子司大久保主水が家系」は兄鴎外が『伊澤蘭軒』を書く際に、伊澤家と大久保主水家が姻戚関係であることを知り、潤三郎が子孫を探したましたが、遂に鴎外の生前に見つけることができずにいたものを、大正13年(1924)の主水贈位の際に子孫である大久保忠五郎が千駄ヶ谷に居住していることを知り、さらに転居してものを捜索し高井戸に居住していることを探し当て、昭和4年(1929)に自身の耳が悪くなっていたため、友人の塩田節三郎に質問を託し、塩田が記録を写し、さらに文通で得た情報をまとめたものです。

これによると、大久保主水家に伝わる系図によると、粟田関白道兼10世の孫景綱からはじまり、主水忠行は忠茂の5男として記載されています。
忠行の後は忠元-忠辰-忠武-忠光-忠郷-忠著-忠英-忠宜-忠記-忠保-忠達(忠五郎)と続いています。

この潤三郎の記事では、5代忠光の時にそれまでの宗旨日蓮宗より浄土宗に改宗し、墓所が別寺院となったことも書かれており、瑞輪寺の大久保家墓所に何故子孫の墓がないのかという疑問がこれで解けました。
この記事には忠五郎の子供の事まで書かれており、昭和4年(1929)時点での大久保主水家のことがよく分かります。

さらに潤三郎は「調査余録」(『今昔 3(10)(25)』)に静嘉堂文庫所蔵の宝暦5年(1755)8代忠英提出の先祖書を載せています。

潤三郎が見たであろう主水家の系図は『東京市史稿 上水篇 第1』に「大久保惣系図」として所載されており、8代忠英までが記載され、その後、大久保忠五郎蔵由緒書及び位牌等に拠るとして、忠英から忠五郎忠達までの当主が記されています。

Wikipedia「大久保忠行」のページに「幕末の大久保主水は徳川宗家の静岡移動にも従い、娘を旧幕臣の重鎮で同族の大久保一翁の子息の嫁としている。」とありますが、大久保一翁の子には子爵家を継いだ四男業、業が早世した後爵位を継いだ5男立がありますが、主水子孫の娘を妻としたのはこの両名ではなく、旗本大久保家を継いだ3男三郎であるようですが、明確な資料まだ確認していないので、確定はできません。
尚、大久保一翁の系図は『桜園集』に所載されています。

森潤三郎が鴎外没後に大久保主水の子孫を探し出し、その家系を明らかにしたことは正に執念と言うべきでしょうか。また一つ森潤三郎の功績に触れ胸が熱くなりました。
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東京における土佐巡り

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会員のカトケンです。12月の連休に東京の土佐巡りをした。

相棒の行きたいところに従い目黒から南麻布、品川から鮫洲・立会川を経て品川神社を暗くなるまで巡った。

途中、めぼしい史跡があらば土佐と無関係でも立ち寄った。清正公や大久保彦左衛門墓のある立行寺など。





最後は御殿山と長州藩士たちが英国公使館焼き討ち前の相談場にした土蔵相模。その間に流星忌参加者からの問合せに答えるなど目まぐるしい。昨年は最後の最後まで歴史尽くしだった。

夜は恵比寿にある溶ける餃子「安兵衛」へ行ったがあいにくいっぱいだったので近くの居酒屋へ。

その前にせごどん史跡[勝・西郷会見の地]碑へ。後藤象二郎の明治時代の屋敷があった新高輪プリンスで改修されたばかりのロビーの内装にも目を見張った。庭も素晴らしかった。

翌日、多磨霊園を回り土佐人士や徳富蘇峰、橋口壮介・柴山愛次郎などせごどん史跡も忘れず堪能した(=写真)。



夜は祝杯をあげ、自宅に招き鍋を突いた。冬はこれに限る。

最終日、一昨年ブログに載せた[旧多摩聖蹟記念館]へ。11月なら銀杏がきれいだったが、さすがにもうその影はない。だが、明治150年の貴重な展示を見学できたし(企画展は4月まで延長)、何よりも気になっていた三条実美の別荘対鴎荘の情報がいろいろあって面白かった。すでに解体されて久しいが、元々あった隅田川沿いの橋場から移転された経緯など充実したものだった。

征韓論政変で体調を崩した三条実美が療養した建物だっただけに、これもせごどん関連史跡と言えよう。元の場所に石碑が建っているというから機会があれば訪れたい。

三条は征韓論で板垣退助参議との絡みがあるし、幕末は土方久元や黒岩直方ら土佐藩士が三条ら五卿の九州滞在を支えている。

暮れゆく年を感じながら再び土佐への情熱にかきたてる貴重な休みとなった。

1月は事情があって毎週静岡にとんぼ返りする必要があり、20日は10年続けている詩吟の新年会があって、今年は夏に50周年記念大会や秋に昇段試験もあるのだが、年を重ねても活気あるメンバーに再び奮起の念を燃やしてもらえた気がした。
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五代目古今亭志ん生の先祖考

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会員のカネコです。
今年の大河ドラマ『いだてん』ではビートたけしさん演じる五代目古今亭志ん生師匠が明治と昭和の橋渡しをするような役割を果たし、とても重要なポジションを担っています。
それにしても昨年の鶴瓶さん演じる岩倉具視同様、役者が素のキャラクターで登場するというのは流行りなのでしょうか?

それはさておき、志ん生師匠はドラマでも描かれている通り、若い頃は素行が悪く、放蕩生活をしていたのですが、出自は旗本家であり、自伝でもそのことを語っています。

平成26年(2014)に志ん生師匠の実家美濃部家の家系について調べたのですが、結局、完全なる解明に至らずそのままになっていました。
折角の機会なので、その時に調べたメモ、収集した資料、撮影した墓碑を整理し、再度検討してみたいと思います。

志ん生師匠のお墓は様々な形で紹介されていますが、文京区小日向にある浄土宗還国寺で、ここが美濃部家の菩提寺となっています。
本堂横の平地の墓地に[美濃部家之墓]と刻まれた角型墓があり、墓誌には志ん生師匠、その子志ん朝師匠の戒名が刻まれています。



さらに高台の墓地には美濃部家の本家と考えられる[美濃部家之墓]と刻まれた角型墓と古い小型の五輪塔があります。



ただ、墓碑からは家系が分からず、墓碑調査後に文献からその家系を辿ることにしました。

志ん生師匠は自伝『びんぼう自慢』で自らの家系を語っています。

「あたしんとこは、おやじの代まではさむらいだったもんだから、昔の戸籍にゃァ、士族なんて書いたものです。
 さむらいたってヘッポコじゃァなくって、徳川の直参で八百石ばかり取っていた。もっともね、美濃部家の本家てえのは三千石の知行を取っていたというから、こりゃァ旗本の中でも大看板です。下手な大名なんぞ、ブルブルッとくるくらいのもんですよ。
 美濃部重行てえのがあたしの祖父さんで、このひとは槍の指南をしていて、小石川の水道橋…いまの水道橋のあるあたりの、小高いところの、とほうもなく大きな屋敷に住んでいた。
 あたしのガキのころ、よくおやじから、「この辺がそうだったんだよ。ズーッと向こうのほうまでなァ…なんてことを、きかされたものであります。
 美濃部の菩提寺てえのが、そこらか遠くない江戸橋の近くにあって還国寺てえ寺で、本家の墓なんてえのは、すばらしく立派です。「あっちのが二千石の家の墓だ。ほおら、うちのほうがデッかいだろう」なんて、おやじが説明してくれるのをきいて、子供心に、なるほどウチの先祖は三千石だったんだなァと、大変鼻が高かったことを覚えております。本家が三千石で、あたしんとこが八百石ということは、つまり、祖父さんの代が、その前の代あたりに分家したんでしょうなァ、要するに“分け美濃部”てえところです。
 (中略)その連れ合いの、祖母さんてえ人も、だいぶ長生きしてたから、あたしも知っているが、いい女でしたねえ、なんでも田安家の親戚関係だったそうで、きれで上品で、物腰やわらかくって、裏長屋に置いておくなんざ、もったいないほどの婆さんでしたよ。
 おやじの名前てえと盛行で、お袋のほうがてう(ちょう)というんですが、このおやじてえ人が大変の道楽ものでして、八百石の若様だから、何一つ不自由なんぞないはずなのに、どういうもんだかヶにジッとしていない。表ェ出て、着物や大小なんぞどっかへあずけて、頭髪ィなおして町人の風をして、そいでもって吉原へ行ったり、寄席へ出入りして遊んでばかりいる。」
と、あります。

しかし、同書巻末の小島貞二編集の年譜には次のように書かれています。
「6月5日、神田亀住町(現・千代田区外神田5丁目)において、美濃部盛行・てうの四男として出生」と、志ん生本人は語っているが、戸籍によると、父は美濃部戍行(弘化2年8月18日生まれ)、母は志う(安政元年8月18日生まれ)で、その五男として6月28日生まれる。」

とあり、志ん生師匠の記憶には誤認があったようです。

また、これも志ん生師匠の自伝ですが『なめくじ艦隊』の巻末の年表には祖父の出自について次のように書かれています。
「明治36年12月30日 養祖父釖四郎没。
(実祖父平四郎は嘉永4年10月27日没。養祖父釖四郎の父内藤甚左衛門は徳川家斉の代より幕府に仕え、大番、先手鉄砲頭、布衣寄合などを歴任したのち隠居、剃髪して如童と号したが、美濃部平四郎とは兄弟、もしくは義兄弟の関係であったと推定される)」

これによると、祖父釖四郎は父戍行の養父であり、実祖父は平四郎という人物で、釖四郎の父は内藤甚左衛門といい、釖四郎は内藤家から美濃部家へ養子に入ったことになります。

志ん生師匠の出自については『志ん生のいる風景』(矢野誠一著・文春文庫)でも触れられており、結城昌治が「週刊朝日」に連載した『志ん生一代』での考証を紹介していますが、結局そこでもはっきりとしたことは分かっていません。

ここからは志ん生師匠サイドからの情報を基に、旗本の家系調査で必須の『寛政重修諸家譜』と『寛政譜以降 旗本家百科事典』と照らし合わせ、遡っていきます。
まず、「釖四郎重行」「平四郎」「戍行」に該当する人物を『寛政重修諸家譜』『寛政譜以降 旗本家百科事典』で探しましたが出てきません。
『寛政重修諸家譜』第17巻には本姓菅原氏の項に美濃部氏15家が記載されています。その中で、還国寺を菩提寺とした家が以下となります。

本家 500石 美濃部茂盛家
分家 200俵 美濃部茂勝家(茂盛二男)
分家 200俵 美濃部忠茂家(茂勝二男)

禄高が志ん生師匠が語っていた3000石、2000石、800石とは全然違うのです。おそらく、志ん生師匠の父あたりが盛っていたのでしょう。

そこで、内藤甚左衛門に注目してみると、『寛政重修諸家譜』美濃部忠茂家の最後に宝暦期~寛政期の当主宗兵衛茂賈の養子に「内藤甚五兵衛忠安が三男」として「銕之丞茂高」が出てきます。
この内藤甚五兵衛忠安の家は『寛政重修諸家譜』第13巻藤原氏秀郷流内藤氏の中に内藤忠貫を祖とする家として記載があります。
しかし、「銕之丞茂高」=「釖四郎重行」とするには時代が合いません。
「釖四郎重行」の父甚左衛門は甚左衛門忠安の子甚之助忠榮の子忠房に該当するものと思われます。

ここで、また美濃部家に戻ると、美濃部忠茂家の幕末期の情報を『寛政譜以降 旗本家百科事典』でみてみると、「今回以降の記事なし」として記載がありません。同書で時折みられる、特定できなかったパターンです。

もう一度『寛政譜以降 旗本家百科事典』の全美濃部家を確認すろと、[不明]欄に「美濃部初四郎」という人物が出てきます。「釖四郎」と似ています。よく見てみると、「当分茗荷谷御先手頭内藤甚左衛門方同居」と記載されています。これはもう「釖四郎」と同一人物で間違いありません。

だた、この[不明]欄の人物は『寛政重修諸家譜』の家との紐付けができない人物であるため、結局、「釖四郎」なり「平四郎」が「美濃部茂盛家」「美濃部茂勝家」「美濃部忠茂家」なのかよく分かりません。少なくとも分家ということであれば、「美濃部茂勝家」「美濃部忠茂家」になると思いますが、おそらくは「内藤甚五兵衛忠安が三男銕之丞茂高」が養子に入った「美濃部忠茂家」の家か、志ん生師匠が話している通り、祖父かその前に分家した家であったのではないかと思われます。
近親者で養子に入ったりすることはよくありますので、2世代ほど経って内藤家から再び養子を迎えたということなのかと思います。

あと気になった点としては美濃部氏族の諱は「茂」の字を通字としていますが、志ん生師匠の祖父・父は「行」の時を使っています。これは当時の将軍は「家茂」であったためこれを憚り「茂」の字を避けたものと思われます。

不明確な部分としては「釖四郎」と「平四郎」の関係、水道橋の屋敷、還国寺の高台にある墓は「美濃部茂盛家」なのか「美濃部茂勝家」なのか?といったことが残りました。現時点での私の考証はここで限界となりましたが、ここから先は、やはり志ん生師匠の研究者の方に追及して頂きたいものです。

志ん生師匠に限らずですが、幕末の旗本や、明治以降の幕臣の子孫と称する人物の家系を辿ると、必ず『寛政重修諸家譜』以降の空白地帯で行き詰まります。『寛政譜以降 旗本家百科事典』で埋められる場合もありますが、それでも不完全です。
ともかく、『寛政重修諸家譜』以降の家系を調べるってぇのはてーへんなことです。
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流山市立博物館友の会催行『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』のボランティアガイドをしました

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会員のカネコです。
本日は流山市立博物館友の会催行『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』のボランティアガイドで染井霊園と周辺寺院の著名人墓所の案内をしました。
流山市立博物館友の会は元新人物往来社社長大出俊幸様が会長を務めており、大出様にかねてより当会の活動をご支援頂いている関係でお話しを頂きました。

当会では平成22年(2010)に染井霊園、平成25年(2013)に染井霊園周辺の寺院にて巡墓会を開催した実績があり、それをベースにして、今回は著名人を中心に1時間半以内のコンパクトな内容にしてご案内しました。

『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』は午前中に板橋駅前の近藤勇墓所からスタートし、旧板橋宿の観明寺、平尾本陣跡を巡り、いたばし観光センターでガイドさんの解説を聞いた後、巣鴨駅へ移動し、地蔵通り商店街で昼食をとって、午後の染井霊園での巡墓会となりました。
我々の恩師でもある釣洋一先生ご夫妻もお越しになり、近藤勇墓所で先生作のレジュメを配布の上、解説もされました。先生とは久々にお会いしたが、大変元気なご様子でした。

今回、当会のカトケンさんが腰を痛め、静養中のため、クロサカ、カネコの2名にてお墓の案内をしました。
染井霊園と周辺寺院で案内した人物は以下となります。

・染井霊園
高村光雲・光太郎・智恵子 明治~昭和期を代表する芸術家一家
松平定敬 箱館まで抵抗した桑名藩主
下岡蓮杖 日本営業写真館の開祖
土方与志 新劇運動に捧げた生涯
岡倉天心 日本近代美術発展の功績者
二葉亭四迷 日本最初の近代小説家
嘉納次郎作 実業家であった嘉納治五郎の父
樺山資紀 白洲正子の祖父
徳川武定 松戸に生まれた徳川様
宮武外骨 ジャーナリスト、明治文化研究家
松浦武四郎 北海道の名付け親、幕府と明治政府両方に仕えるも一貫してアイヌ人擁護
・慈眼寺
谷崎純一郎 日本近代文学を代表する大文豪
芥川龍之助 先祖は江戸城奥坊主、日本近代文学を代表する大文豪
・本妙寺
本因坊歴代 囲碁家元筆頭の系譜
千葉周作 水戸藩士、北辰一刀流創始者
遠山景元 江戸南北町奉行、父子とも大器晩成、急流勇退す

岡倉天心の墓所では「映画『天心』上映する会」副代表上野健夫様、宮武外骨の墓所では宮武外骨に関するの書籍を手掛けた元崙書房編集者でたけしま出版竹島いわお様より貴重なお話しをして頂きました。

千葉周作・遠山景元の墓所では釣先生にも少しお話しを頂きました。



短い時間でしたが、流山からお越し頂いた皆様に様々な人物のご案内をすることができました。
レジュメも後日読んでいただけるよう、詳細なものを作りましたので、ご参加頂いた皆様にはこれを読んで頂いて、またお墓巡りして頂ければ幸いに存じます。

このような機会を設けて頂いた、大出様はじめ、流山市立博物館友の会の皆様に厚く御礼申し上げます。

さて、年末にお伝えしました通り、今回のボランティアガイドを持ちまして、当会としてはしばらく活動を休止して、各々ソロ活動という形で活動いたします。
各人の活動については時折ブログでもお伝えする予定ですので、引き続き当ブログをチェックして頂けますと嬉しく思います。
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嘉納治五郎の父次郎作の墓

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会員のカネコです。
先日の流山市立博物館友の会催行『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』のボランティアガイドで染井霊園にある嘉納次郎作のお墓を案内しました。
嘉納次郎作は現在放送中の大河ドラマ『いだてん』の主要登場人物嘉納治五郎の父です。
当会では以前、染井霊園での巡墓会を行っていますが、その際にはこの嘉納次郎作については取り上げていませんでしたが、今年、嘉納治五郎が脚光を集めていることもあって、ちょうど良い機会だと思い、レジュメにも入れて当日場所も案内しました。

嘉納次郎作は幕末維新期に実業家として活躍した人物ですが、個人の伝記は作られておらず、その事蹟は主として息子嘉納治五郎の伝記の中で紹介されている程度となっています。
嘉納治五郎の伝記では嘉納先生伝記編纂会(編)『嘉納治五郎』(講道館 昭和39年)、加藤仁平著『嘉納治五郎 世界体育史上に輝く』(逍遥書院 昭和39年) といった書籍に嘉納家の出自や次郎作の事蹟が書かれています。また、柔道専門誌『柔道』24巻3号に掲載されている鳴弦朗著「この父にして-故師範の父、嘉納治郞作翁-」(昭和28年)は次郎作に焦点を当てた記事で、特に幕末の動向を中心に書かれています。
その他、辞典類では『日本人名大事典 第2巻』(カ~コ)(平凡社 昭和54年)、臼井勝美他(編)『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館 平成13年)に記載があり、参考になるかと思います。

尚、書籍によっては「次郎作」の名を「治郎作」と表記しているものが見られますが、本稿では墓碑銘の「次郎作」での表記で統一します。

上記の書籍を基に次郎作の略歴を簡単に記します。

次郎作は日吉大社社家生源寺希烈の四男として近江国滋賀郡坂本村(滋賀県大津市)で文化10年10月24日(1813・11・16)に生まれました。
諱は希芝、号は玉樹。
摂津国莵原郡御影村(兵庫県神戸市東灘区)の廻船問屋嘉納治作の婿養子となり嘉納次郎作と称しました。

嘉納家の本家は元々材木商で、後に酒造業を営み「本嘉納」と呼ばれ、歴代治郎右衛門を称し、清酒「菊正宗」で全国的に有名となっています。
次郎作の養父治作は分家の2代目となっています。

文久2年(1805)勝海舟のもとで和田崎・神戸・西宮の砲台築造工事を請け負いました。
慶応3年(1867)10月、永井尚志に出願し、幕府所有の汽船長鯨・奇捷・順動・太平丸などを託され、江戸-神戸・大坂間の定期航路を開き、我が国における洋式船舶による定期航海の端緒となっています。
さらに、同年の兵庫開港により、貿易の必要上、商社の設立が要望され、将軍徳川慶喜の命により、慶応3年6月5日(1867・7・6)大坂の豪商20名を招集し、山中善右衛門(鴻池屋)・広岡久右衛門(加島屋)・長田作兵衛(加島屋)の3名に商社の頭取を命じています。この設立には次郎作が尽力しており、6月14日(1867・7・15)には諸役を前に次郎作が演説を行っています。これらのことは『徳川慶喜公伝』第3巻の「第24章 兵庫開港の勅許」に記述が見られ、出典元として「慶応雑聞録」「長防追討録」「大阪市史所載近江屋猶之助旧蔵書」が挙げられています。
残念ながら幕府瓦解により商社は解散したとあり、次郎作の尽力は水泡に帰しますが、これらの出来事は次郎作の存在感を十分に示すものであったと思われます。

また、シーボルトの高弟高良斎の遺児雲外を庇護し、雲外の学友松本奎堂とも交友があり、幕府要人から尊攘志士まで幅広く交友関係を持っていたことが窺われます。

維新後は明治新政府に出仕し、通商・土木・造船、皇居造営等に関与し、明治17年(1884)海軍権大書記官に任ぜられましたが、在任中の翌明治18年(1885)9月15日、73歳で死去しています。

墓所は染井霊園一種イ3号2側にあり、正面[嘉納次郎作墓]、裏面には漢方医・儒学者浅田宗伯(惟常)による撰文が刻まれ、書は山岡鉄太郎(鉄舟)によるものとなっています。この撰文は大滝忠夫編『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』(新人物往来社 昭和47年)に全文が掲載されています。
墓域内にはその他7基の墓碑があり、長男久三郎系統の墓所となっています。





三男であった治五郎は分家しており、その墓所は都営八柱霊園(千葉県松戸市田中新田字生松48-2)5区1種5側13番にあり神道形式の墓となっています。



次郎作の長女柳子は海軍軍人南郷茂光夫人、その子南郷次郎は講道館2代館長、次郎の長男茂章は日中戦争で「撃墜王」の異名をとり、昭和13年(1938)に戦死した際には「軍神南郷茂章」と報じられています。
二女勝子は陸軍軍人・数学者柳楢悦夫人、その子に民芸運動の立役者で思想家・宗教哲学者の柳宗悦がいます。

染井霊園の嘉納家墓域の裏右側の一画には長女柳子の嫁ぎ先南郷家の墓所があります。



今回の『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』の準備のため、1月に嘉納家・南郷家の墓所を確認しに行った際、嘉納家墓域真裏の花壇を手入れしている地元の方に声をかけられ、戦前、南郷家の墓所入口には石鳥居が建っており、軍神南郷茂章のお墓には小学生達が墓参に来て、軍神にお尻を見せるのは失礼だと言い、墓参後は皆後ろ歩きをして帰っていったというお話を聞きました。

この他に、次郎作の実家生源寺家を継ぎ、治五郎の二女忠子を妻とし、その没後三女爽子を後妻とした機械工学者生源寺順の墓は青山霊園(港区南青山2丁目32-2)一種ロ17号17側にあります。
また、二女勝子と夫柳楢悦の墓も同霊園一種イ号10-1にあり、その子宗悦の墓は小平霊園(東村山市萩山町1-16-1)27区12側2番にあります。

大河ドラマ『いだてん』の中では役所広司さん演じる治五郎が、度々勝海舟の名を出していますが、海舟との交流は父次郎作の代に遡るものです。
『嘉納治五郎』(講道館 昭和39年)には治五郎自身と海舟とのやりとりについて以下のことが書かれています。
治五郎は学習院時代に海舟を訪ね「しばらく学問に没頭しようか」と質問した所、海舟が「学者になろうとするのか、それもと社会で事をなそうとするのか。」と返し、治五郎は「後者です。その為にはしばらく必要な学問に集注しようと思います。」と答えました。すると海舟は「それはいけない。それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ。」と忠言し、これは青年治五郎の心を打ち、爾来、実地実際の事柄から物を考え、必要に応じて本を読んだといい、その後の治五郎の生き方に大きな影響を与えています。
また、明治27年(1894)に治五郎が小石川区下富坂町に講道館大道場を開き、その落成式を行った際に、来賓であった海舟が治五郎の技に感嘆し、「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を窮む」と書をしたため、治五郎に贈っています。この扁額は道場に掲げられ、現在は講道館国際柔道センター2階の資料館に展示されているとのことです。
海舟は幕末の多難な時期に、共に国事に奔走した次郎作の息子ということで、その成長を暖かく見守っていたのではないでしょうか。
治五郎もまた海舟を父のように慕い、様々な困難にあたっては海舟を想い、身を奮い立たせていたのかも知れません。



嘉納治五郎、柳宗悦、南郷茂章といったように、次郎作の血脈からはそれぞれ異なった世界で活躍した人物を輩出しています。
彼らの行動力を考えた時、その源流には幕末維新時に国事に奔走した次郎作の強い個性が少なからず影響しているように思えます。
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撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓

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会員のカネコです。
先日、このような記事を見ました。

江戸幕府最後の大老、姫路城主・酒井忠績の墓が撤去危機 理由は…墓地の管理料滞納

酒井忠績のお墓は当会で平成22年(2010)に開催した「染井霊園巡墓会」で案内し、私がレジュメと解説を担当しました。
平成28年(2016)に訪れた時点で無縁の立札が建っていましたが、その後も血縁者は現れず、さらに期限付きの立札が建ったようです。



(※平成28年(2016)訪問時の立札。現在は違う立札が建てられています。)

酒井忠績は姫路藩主酒井(雅楽頭)家の分家旗本5000石の酒井家より養子に入り、京都所司代臨時代行を務めた後、老中首座となり、元治2年2月1日(1865・2・26) 大老となり、第2次長州征伐の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など、幕政改革に尽力しています。
三宅康直の三男忠敬を養子としていましたが、元治元年に早世していたため、
慶応3年(1867)2月に実弟の忠惇に家督を譲り、隠居しています。
しかし、老中であった忠惇が慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い江戸に戻り、責任を問われ蟄居すると、忠績も謹慎しましたが、江戸開城後の徳川家処遇に不満持ち、徳川家との主従関係を断ち切ることはできないとして、所領返上を願い出ました。
この一件で、忠惇は強制的に隠居されられ、支藩の伊勢崎藩より忠邦が養子として迎えられ、忠績・忠惇系の家臣が処断されました。
忠績・忠惇兄弟は実家の旗本酒井家に預けられた後、赦免され、明治13年(1880)11月共に別家を興し、終身華族となり、さらに明治22年(1889)5月特旨をもって男爵を授けられました。
つまり、本家は伊勢崎藩より養子に入った忠邦の系統が伯爵家となり、その分家として忠績・忠惇の2家の男爵家が成立しています。

そのため、本家の忠邦以降の墓所は谷中霊園乙8号14側にあり、忠績家は染井霊園一種イ4号6側、忠惇家は同じく染井霊園一種イ8号9側と墓所も3ヶ所に分かれています。

忠績の墓は正面[正四位男爵酒井忠績之墓]、裏面[明治二十八年十一月三十日 生方裕敬書]と刻まれ、左面には2代目忠弘他2霊が刻まれています。
また、左隣には[正四位男爵酒井公碑]と題された顕彰碑が建立されており、裏面には[石燈籠及碑石献納人名]と題し、石燈籠や顕彰碑の建立に寄付金を納めた人物の名が刻まれています。







『昭和新修華族家系大成 上巻』によると忠績には前述の早世した養子忠敬の他に、本庄宗義夫人玉子、平野長祥夫人鈴子、男爵家2代目忠弘、光徳、徳行の5人の実子がいたことが確認できます。
2代忠弘は大正9年(1920)に爵位を返上しており、夫人板倉益子とは明治35年(1902)に離縁しています。
忠弘の子の記述はなく、墓碑側面には昭和13年(1938)没の女性が最後となっています。

ネット記事には「10年ほど前から墓地の管理料を払っていた親族と連絡が取れなくなり、新たに引き継ぐ人も現れない状態が続いた。」とありますので、少なくとも10年ほど前までは忠績の子のうちの誰かの子孫が健在であったようです。
記事によると「墓の継承者は故人の6親等以内の親族であることが原則。それ以外の人が継ぐ場合は裁判所の審判が必要。」とありますが、子孫が続いている本家の忠邦系統、弟の忠惇系統の方とは既に6親等以上離れていると思われますので、大変難しい状況ではないかと思います。

尚、染井霊園では箱館戦争に参戦し、後に初代八幡製鉄所長官となった山内六三郎父山内豊城の墓所(おそらく六三郎も同墓)、水戸徳川家分家徳川圀禎家の墓所が無縁状態となっており、立札が建っています。

近年、墓地を取り巻く環境は厳しい状態となっており、数々の著名人の墓が無縁で改葬、もしくはご子孫の手で墓じまいなどが行われている状況です。
これは著名人の墓といえど、基本的にはご子孫の祭祀の場である以上、やむを得ないことでもあります。
酒井忠績のご縁者が現れることを願うしかありませんが、個人としてできることとして、現状の撮影や、碑文の筆記など記録を残すことはできると思います。
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土佐史談会関東支部理事会のあと、東京の土佐などを散策

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会員のカトケンです。

腰の具合が大分良くなってきた。京都に行けなかったのは残念だが、件の打合せのあと墓はやめて史跡巡りに徹する。

土佐藩邸のあった鍛冶橋から散策を開始(旧東京都庁)。





千葉道場の2ヶ所、ずっと訪れたかった耶揚子(ヤン・ヨーステン。Jan Joosten Lodensteijn)の記念碑2つ。









尚、「千葉道場の2ヶ所」とは、小千葉と呼ばれる千葉定吉道場にて、1ヶ所は八重洲2-8といま1つは日本橋堀留町1-1辺りである。

あとは秤座(地図のぶよお堂の向かい)、金座跡(日銀)、常盤橋(工事中)。おっと、ヤンとリーフデ号で漂着したウィリアム・アダムスの居住地も忘れずに。





中央区はいろんなテーマが潜んでいる。狩野家画塾跡(池上本門寺での巡墓会にて紹介)や『歴史研究』のリレー連載「掃苔行脚」(第645号・平成28年10月号)で取り上げた幕府医官多紀家の分家矢の倉家があるのもこの区内。

最後に『探墓巡礼』にも項目のある渋沢栄一の銅像を見て東京駅へ。



結局、会合の前に降りた有楽町からひと駅しか移動してなかったーー今回の小さな旅のガイドブック『江戸から東京へ』(東京都教育委員会、平成30年)



おしまい
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流星忌発起人の古写真研究家森重和雄さん共著『勝海舟関係写真集』のご紹介

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会員のカネコです。

流星忌の発起人であり、当会の『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』をプロデュースした古写真研究家の森重和雄さんが共著として参加されている『勝海舟関係写真集』が今夏に出版されることになりました。
『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』と同じく出版舎風狂童子からの出版となります。
執筆者は森重さんの他に勝海舟の玄孫として各メディアにご出演されている高山みな子さん、グラフィックデザイナーで幕末維新に関する著作も多い三澤敏博さんの3名となっています。

本書は3部構成となっており、1部は勝海舟の写真が台紙ごと載せられ、森重さんによる詳細は解説がついています。2部は高山さんによる勝海舟の解説で、ご子孫ならでは内容となりそうです。3部は勝海舟ゆかりの地の紹介で、フィールドワーカー必見の内容となるものと思われます。





事前注文も始まっているとのことで、下記、出版舎風狂童子宛てにお申し込みください。
◆メール sugisaki-rect@jcom.home.ne.jp
◆FAX 042-325-6519
担当:杉﨑
※予定価格6,000円+税 2019年夏発売予定

『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』に関わった森重さん、杉﨑さんの新たな作品を当会メンバーも楽しみにしております。
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徳川家臣団大会2019など

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会員のカトケンです。

今年も静岡市で「徳川家臣団大会2019」が催されます。4/16㈫14時〜17時しずぎんユーフォニアにて講演会(無料)。17時30分〜19時30分浮月楼にて交流会(参加費6,000円)
詳しい内容は写真のとおりです。徳川みらい学会のホームページもご参照ください。



徳川みらい学会

平日のため、今年も残念ながら参加できませんが、お時間とれる方はぜひ静岡市にお越しください。

徳川みらい学会の「活動予定」によると、今年は今川義元生誕500年記念行事が5/19㈰静岡市民文化会館にて行われるなど、今川をテーマにした催しが年間通して予定されています。

戦国時代以前の静岡に興味がある方はぜひ予定を確認してみてください。

今川家がいなければ静岡市という街は誕生しなかったでしょう。徳川家康は今川家のつくった城下を基礎に駿河の町を構築しました。

静岡市は家康の大御所時代、家光の弟忠長が治めた後、近世を通じて長く領主不在だったことから、殿様といえば今川義元ですが、今一度それに光を当てようということでしょう。(写真=今川廟 義元の墓と秀吉時代の領主中村一氏の墓。いずれも大岩の臨済寺)





小弟も自分の生まれた街を振り返る絶好の機会を逃さないようにしたいと思います。自分自身の視点を持ちつつーー

歴史の街としての静岡市はまだようやく緒についたばかり。そんな歴史途上の扉を開いて見てはいかがでせうか。
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高知県高知市真宗寺山 岡田以蔵宜振墓

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会員のカトケンです。

土佐へ足を運んだとき訪れた岡田以蔵家の墓(9基)。資料として活字にします。引用の際は当ブログを明記ください。

[右端から]
○岡田宜振(正面)
慶應元年乙丑/閏五月十一日歿(1865・7・3)(右面)
行年二十有八(左面)

○岡田登稔妻墓(正面)
明治十二年(1879)三月十一日没/享年二十八歳(右面)
小松愛蔵長女溟?(左面)

○岡田登稔(以蔵の弟啓吉か)墓(正面)
明治十五年(1882)/十月七日没(右面)
享年三十四歳(左面)

○岡田善平宜之(正面)
慶應元年乙丑/六月七日没(1865・7・29)(右面)
享年五十有八(左面)
※以蔵の実父

○岡田権亟妻(正面)
文久二壬戌閏八月/十八日歿(1862・10・11)享年六十六(右面)
前田氏(左面)

○岡田宜生妻墓(正面)
安政元年甲寅閏七月十九日没(1854・9・11) 名光尾(右面)
藤坂□徳長女/享年七十有五(左面)

[その後ろ西向き]
○為心覺妙證大善女童(正面)
安政二卯年七月十九日(1855・8・31)(裏面)

[元の列に戻る]
○岡田駿吉/同人妻芳墓(正面)
明治七年(1874)四月三?日歿?/行年六十九歳?(左面)
明治十四年(1881)三月十七日歿/享年五十四歳

[その後ろ西向き]
○岡田暹(せん)太郎/同人妻中墓(正面)
明治四十五年(1912)三月一日歿(右面)
享年四十九歳(左面)
明治十九年(1886)七月十□日没/享年七十四□(左面)

[元の列に戻る。左端]
大谷龜三妻?(正面)
文久三癸亥十二月/十六日歿(1864・1・24)享年二十四(右面)
宿毛藩士諱道遠(左面)









以上、平成己亥年二月三日撮影写真より。
もし誤りがあれば再訪の上、確認したいと思います。
ともあれ、改元後もよろしくお願いします。
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次期天皇皇太子徳仁親王の養育・教育に貢献した東宮侍従濱尾實と祖父濱尾新の墓~奉祝 新元号令和発表記念~

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会員のカネコです。
昨日となりましたが、今上天皇御譲位に伴う新元号「令和」が発表されました。
これまでの漢籍からの出典ではなく、国書『万葉集』からの出典という大きな転換が話題となっていますが、この元号に込められた意味通りの素晴らしい時代になることを祈念しております。

さて、次期天皇皇太子徳仁親王は父今上天皇・母美智子皇后の意向によって、それまでの皇室の慣例をやめ、両親の許で育てられました。
そのような訳で、専任の養育係は置かれませんでしたが、それに準じる役割を果たしたのが東宮侍従であった濱尾實でした。
濱尾實は徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生までの間、親王の側にあり、親王は濱尾實のことを「オーちゃん」と呼び親しんでいました。

濱尾實さんというと私は子供の頃に見た夕方のワイドショーやゴールデンタイムの皇室SPなどで、皇室の方々のエピソードを語る人という印象が強く、穏やかで品のある語り口調をはっきりと記憶してしています。
晩年には自身の体験を様々な著作物に残しており、皇室ご一家の素顔を知ることができる貴重な情報源ではないかと思います。

濱尾家は祖父濱尾新の代に子爵となり、2代四郎は男爵加藤照麿の四男で濱尾家に養子に入り、3代は四郎の長男誠で太平洋戦争で戦死したため、その弟實が4代として子爵を継承しましたが、その間もなく華族制度が廃止となっています。

宿南保著『浜尾新 明治期郷土出身文教の偉人群』によると、濱尾家の先祖は豊岡藩京極家の家臣で、2代藩主京極高住に仕えた濱尾嘉左衛門を初代としています。嘉左衛門は160石、馬廻りを務めていました。
その後、京極家当主の早世が続き、3万3000石から1万5000石に減封されると、家臣の禄高も3分の1程度に減らされています。
濱尾家の歴代は「1.嘉左衛門-2.嘉平治(平次)-3.嘉左衛門(政兵衛)-4.右平(岩五郎・政兵衛)-5.嘉平治(熊次郎)」と続き、5代嘉平治の子が新となります。歴代江戸詰めが続いた家で、新の父嘉平治も妻と共に豊岡藩江戸屋敷に居住していました。

新は嘉永2年4月20日(1849・5・12)に生まれ、明治2年(1869)藩費遊学制度により慶應義塾に入学、明治5年(1872)文部省に出仕し、大学南校の中監事となった後、明治6年(1873)~明治7年(1874)にアメリカへ留学し、帰国後開成学校校長心得となっています
明治10年(1877)官立東京大学が設立されると、法理文三学部綜理補として法理文三学部綜理の加藤弘之を補佐しています。後に婿養子となる四郎は弘之の孫にあたります。
明治23年(1890)文部省専門学務局長、貴族院議員、明治26年(1893)帝国大学第3代総長などを歴任して明治30年(1897)第2次松方内閣の文部大臣を務めています。
明治38年(1905)東京帝国大学第8代総長として再任し、明治40年(1907)日露戦争の功により男爵に叙爵、明治44年(1911)枢密顧問官となっています。

大正3年(1914)66歳の時に皇太子裕仁親王(昭和天皇)の東宮大夫となり、裕仁親王の行啓に供奉すること21回に及び、また御学問所の運営に尽力しています。
『浜尾新 明治期郷土出身文教の偉人群』によると、その時の新の気概を山川健次郎が次のように語っています。
「小さなことであるが、浜尾子爵の逸事として新聞等にも出ないから話しておくが、御承知の通り浜尾子爵の宅は小石川の金富町で、東宮御所と云ふのは高輪であるので彼是二里もあるから、小石川から高輪へ行くのは一時間もかかる。然るに子爵は何時でも東宮殿下の御授業が始まる前に行かれるが、御授業は八時か、九時に始まる。毎日窮屈な人力車で往復されるのは老体に大義であらうし、殊に冬などは身体の為に良くないから、自動車に御乗りになったら宜からうと私は屡々御助言申し上げた。貴下が今御病気になられては大変なことになるからして、成るだけ楽に御奉公ので出来るやうに為すったら宜からう、と言ったもののなかなか聴かれない。若しも人でも轢くやうなことがあっては、どの立場でも済まんが殊に今の立場としては恐縮に堪へないから乗らない。それならば宮内省辺りに御頼みになって極く熟練した運転手に運転させ、さうして馬車の速さで、是以上の速さにはせぬと云ふことにでも為すったならば、人を轢くと云ふ虞もないぢゃありませぬかと言ったが、なかなか承知せられなかった。是は私ばかりではない。久保田男爵なども屡々浜尾子爵に忠告されたさうである。どうもああ云う謹厳な人だから、若しものことがあっては大変と云ふので、なかなか乗られなかった(『故浜尾子爵追悼録』)。」
とあり、新が裕仁親王の教育にあたり全身全霊で打ち込んでいたことを窺い知ることができます。
また、新は旧知の杉浦重剛を東宮御学問所御用掛に推薦し、倫理の御進講役を務めさせています。
杉浦重剛については以前当ブログに記事を書いていますので、こちらをご覧ください。
「国師」と呼ばれた若き日の昭和天皇の師杉浦重剛の墓

大正10年(1921)73歳の時に東宮大夫を辞し、子爵に陞爵。大正13年(1924)枢密院議長に就任しています。
大正14年(1925)9月24日邸内を散歩している際に、邸内の一角にある落ち葉などを焼く穴に転落し、残り火によって顔や手足に火傷を負い、衣服にも火が付き、自力で穴から出るも煙の出ている衣服をまといながら家に帰る所を夫人が見つけ大騒ぎとなり、東大塩田外科に入院したものの、全身三分の一以上の大火傷で、翌25日に死去しています。葬儀は東京帝国大学中央大講堂において神道形式で行われました。

新の死後、孫娘操の婿として養子となった四郎が継承しましたが、四郎は検事・弁護士などを務める傍ら探偵小説かとしても活躍しましたが、昭和10年(1935)40歳の若さで死去しています。
四郎の実弟はコメディアンの古川ロッパであり、その養父古川武太郎の父古川宣誉は幕臣で、戊辰戦争においては撤兵隊に属して江原素六を救うなど奮戦をしています。
四郎の三男で實の弟の文郎は母と實と共にカトリックに改宗し、後にローマ法王庁枢機卿となっています。

濱尾家の墓所は染井霊園一種イ4号1側にあります。
正面[從一位勲一等子爵濱尾新墓/室作子]と刻まれた新の墓と、その左横に[濱尾家之墓]と刻まれた四郎以降の墓があります。



また、近くに男爵久保田譲の墓がありますが、久保田家も濱尾家と同じく豊岡藩士の家で、譲は新とは盟友関係にあり、新と同じく文部大臣を務めています。
豊岡藩は1万5千石の小藩ですが、濱尾新と久保田譲という文部大臣・勲功華族を輩出しており、このことは特筆すべきことだと思います。

濱尾新は昭和天皇、そして濱尾實は次期天皇徳仁親王を養育し、それぞれに大きな影響を与えました。皇室が現在も続いているのはこのような皇室を陰で支えてきた人のたゆまぬ努力があったからこそでだと思います。

来月には「令和」の御代が始まりますが、新天皇陛下にはこれまで皇室を支えてきたさまざまな人の想いを受け止め、国民と共に新たな時代を歩んで行かれることを願い、「令和」の御代が穏やかで豊かな時代になることを願うものであります。
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「ひの新選組まつり」にて『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の販売を行います

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会員のカネコです。

日野市議会議員峯岸様のご厚意により、5月11日(土)・12日(日)「ひの新選組まつり」会場内にミニブースをお借りして『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の販売を行うことになりました。
現物を手にとってご購入して頂けるチャンスとなりますので、是非お越しください。

ひの新選組まつり情報

場所は高幡不動尊境内の五重塔の横、東北物産展の会場になります。幅60センチくらいのミニブースとなります。両日とも10時から16時までとなります。



11日(土)は『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の出版社である出版舎風狂童子代表の杉﨑様が10時より販売ブースにおります。
この日は新選組友の会主催の土方歳三忌が行われ、当会のカトケンさんがチラシ配布と本の宣伝を行う予定となっています。流星忌発起人森重様も土方歳三忌出席後に販売ブースに入ります。

12日(日)は杉﨑様・森重様・カトケンさんの3名が交代で入る予定となっております。

『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の他に、森重様の小説『うたたね』の販売、近夏発売予定の森重様共著による『勝海舟関係写真集』のチラシも配布する予定となっています。
「ひの新選組まつり」にお越しになる方は是非お声かけください。
また追加の情報があればお知らせいたします。
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渋沢栄一墓所before and after

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会員のカネコです。

4月9日に令和6年(2024)より発行される新紙幣のデザインが発表され、新1万円札には渋沢栄一が起用されました。

当会では平成23年(2011)5月に開催した谷中霊園巡墓会前編にて渋沢栄一の墓所を案内し、私がレジュメと解説を担当しました。
さらに昨年発売した『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』でも4ページにわたり取り上げました。

私は渋沢栄一に関しては実績と知名度が一致していないと以前から思っており、今回新1万円札に起用されたことにより、様々なメディアに取り上げられ、その実績の再評価がされ、大変喜ばしいことだと思っています。
個人的には大河ドラマの主人公にして欲しい人物だと思っています。

渋沢栄一に関しては様々な書籍が出ており、今回の新1万円札起用によりさらに増えると思いますが、『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』でも簡単な略歴や一族墓所情報も記載されていますので、ご興味はありましたら是非ご覧ください。

その『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の中でも書きましたが、谷中霊園乙11号1側にある渋沢栄一の墓所は平成26年(2014)に敷地を3分1程度に縮小する工事が行われました。その結果、墓域内にあった墓碑数基が整理され、新たな渋沢家の墓碑が建立されました。

整地前の墓域は石柵で囲まれており、入口は施錠されていましたが、霊園管理所近くにある花屋ふじむら屋さんで鍵を借りて中に入ることができました。私も数回鍵をお借りしてお花を購入してお参りをしました。

整地前の墓域の様子は今となっては貴重な資料となりますので、数点程ご紹介したいと思います(平成22年(2010)撮影)。



墓域正面



渋沢栄一の墓



栄一前妻尾高千代の墓



栄一後妻伊藤兼子の墓



晩香渋沢翁招魂碑(栄一の父渋沢市右衛門)



先妣渋沢氏招魂碑(栄一の母えい)



栄一子女の墓



渋沢平九郎の墓(栄一の従弟で見立養子)



渋沢平九郎追懐碑



渋沢家納骨堂

この中で、「晩香渋沢翁招魂碑」「先妣渋沢氏招魂碑」「渋沢平九郎追懐碑」の3基は深谷市の栄一生家「中の家」に移されているとのことです(筆者未確認)。

整地後は栄一の墓碑を挟み前妻・後妻の墓碑、新たに建立された渋沢家の墓と墓誌、銘文が一切刻まれていないレリーフ型の墓碑の5基となっています。







以前の樹木が生い茂る荘厳な雰囲気とはガラリと変わり、明るく開放的な雰囲気になりました。
古い墓碑がなくなってしまったのでは大変残念ですが、先日も染井霊園の酒井忠績の記事で書きましたが、著名人の家の墓といえど、基本的にはご子孫の祭祀の場である以上、やむを得ないことと思います。
出来得る限り記録を残しておくことが、私達の役割なのではないかと思っています。
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