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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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まさか今年は静岡における今川年?

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会員のカトケンです。

どうしてか、小弟が静岡市で東軍慰霊祭をやらせていただいた後、静岡市が歴史で町おこしをしようとしている。

これは果たして偶然か?いや、そんなことは無い。今回の今川騒ぎ(!)も先考がずっと取り組んできた市の歴史博物館開館を見越したプレイベントの一貫だそうで。

でも、面白いことに東軍慰霊祭で協力をお願いしたIさんは父とともに市の歴史博物館に向けた勉強会にともに参加した仲だったし、慶喜公の大河のときに[けいきさんの会]を立ち上げて歴史で静岡を盛り上げようとされていたと後で知った。

そんな先人に導かれながら生まれた街が歴史を題材にして輝こうとしていることは、何か自分にもできることがあるのではないかと意を強くさせてくれる。

そんなことで大型連休、静岡市は[今川復権まつり]と題してイベントが目白押し。親子で楽しめそうな催しから、5/19には直虎の脚本家によるトークイベント、年2回しか入る機会が無い臨済寺で今川義元公の法要あり。

しかも1年を通して今川に関する講演が続くと、これはまるで[日本における□□(外国名)年]の今川版ではないか!

[静岡市における今川年]になりそうな予感ーー新聞広告やチラシで集めた情報を載せるので(=写真)、ご興味がおありの方はぜひ静岡市へ足を運んでみてください。



















何よりも静岡市民が駿河の殿様今川氏に関心を持つことを期待したい! 小弟はそれをよそに後藤庄三郎や中村一氏など、次の一手を考える。ネタが尽きないように。

忘れないうちに『探墓巡礼』をお持ちの方、いやこれから買う方もこの本さえあれば、静岡市内の山岡鉄舟の史跡は大概回ることができるのをご存知でしたか?

東京谷中の墓めぐりの本ですが、実は静岡を地元に持つ者ならではの史跡めぐりができる仕組みにしてあります。本に書いた番地を頼りにぜひ回ってみてください。

藤枝にゆかりのある高橋泥舟、柴誠一・松岡磐吉兄弟の出身地伊豆の国市韮山、小杉雅之進兄直吉の墓(静岡市)や根津勢吉の弟と墓なども載せています。

ついでに新紙幣となる渋沢栄一ゆかりの地も静岡市内にありますが、今日のところはこの辺で。
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昭和天皇漢学の師、服部宇之吉の墓

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会員のカネコです。
当会では平成21年(2009)の発足時より全国歴史研究会の会誌である『歴史研究』の「史談往来」のコーナーにて「掃苔行脚」をリレー連載しています。
各幹事年2回担当が回ってきて、私はライフワークである福島県二本松市に関わる人物を取り上げています。
昨日配本となった第671号(2019年年5月号)で連載20回となりますが、今回は二本松藩士の子で昭和天皇の漢学の師となった服部宇之吉を取り上げました。

服部宇之吉は慶応3年4月30日(1867・6・2)二本松藩士服部藤八の三男として二本松城下で生まれました。父藤八は翌年の戊辰戦争における二本松城奪還戦において戦死したため、叔父服部喜平の養子となりました。明治6年(1873)喜平が東京麻布の丹羽邸に仕えるために上京した際に一家と共に上京し、麻布小学校、共立学校大学予備門、東京帝国大学文学大学へ進み、卒業後は文部省に入り、先日のブログでも取り上げた文部大臣浜尾新の秘書官などを務めました。
明治32年(1899)漢学研究のため北京へ留学した際に義和団事件に遭遇し、日本軍や在留邦人と共に2ヶ月の籠城を経験し、このことを後に『北京籠城日記』『北京籠城回顧録』として著しています。北京の後、ドイツへ留学し、帰国後は東京帝国大学教授となっています。
また、清国より文科進士を授与され、日本における中国哲学・史学・文学研究者の第一人者としてその名声を高めました。小柳司気太との共著『詳解漢和大字典』は漢和字典の定番として長年多くの人たちに重宝されています。

大正7年(1918)・大正9年(1920)御講書始で漢書の御進講を務め、大正10年(1921)9月30日に東宮職御用掛となり、週1回、皇太子裕仁親王(昭和天皇)への漢文の御進講を務めています。大正11年(1922)摂政宮となった裕仁親王への御講書始を務め、『昭和天皇実録 第3巻』に「論語為政篇子曰吾十有五而志于学章」と題した内容であったことが記されています。
皇太子妃良子女王(香淳皇后)が第一子を懐妊した際には芳賀矢一らと共に皇子・皇女の諱・通称各三案を考案しています。この時に生まれた第一子が照宮成子内親王で、その諱と通称は漢書『易経』を出典としています。
晩年は関東大震災で焼失した湯島聖堂の再建に尽力しました。

郷里二本松との関わりである寛延3年(1749)藩士達への訓戒として藩庁前に設置された戒石銘碑の研究を行い、『旧二本松藩戒石銘碑説明書』を著しています。また、『二本松藩史』刊行会理事長も務めています。

昭和4年(1939)7月11日73歳で死去。葬儀は築地本願寺で行われ、墓所は護国寺(真言宗豊山派、神齢山悉地院。東京都文京区大塚5丁目40―1)に設けられました。
墓所には宇之吉夫妻の墓碑と門下生によって建立された[服部隨軒先生墓碑銘]があります。



二本松における服部家の菩提寺は顕法寺(浄土真宗本願寺派、塩松山。福島県二本松市竹田1丁目198)であり、山の斜面にある墓地の中腹部に父藤八の墓をはじめ18基の墓碑が現存しています。



また、本堂近くには平成20年(2008)に二本松史跡保存会によって建立された[服部宇之吉博士顕彰碑]があります。



墓所・墓碑銘に関しては『歴史研究』をご覧頂ければと思いますが、文字制限により割愛した部分について紹介したいと思います。

服部宇之吉の生涯について参考になる資料としては『服部先生古稀祝賀記念論文集』、『斯文 21巻9号』所載「服部隨軒先生追悼録」があります。
『服部先生古稀祝賀記念論文集』には昭和11年(1936)に宇之吉本人が書いた「服部先生自叙」が収められています。
「服部隨軒先生追悼録」は縁者による追悼文が掲載されていますが、特に妻繁子による「我良人の生立の記」に宇之吉の生い立ちについて詳しく書かれています。

宇之吉が生れた翌年、戊辰戦争が起こり、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加盟し、落城するまで戦いました。父藤八もこの戦闘に加わり、落城の翌月の二本松城奪還戦で戦死ししました。母はこの年の春に既に病死していたため、赤子であった宇之吉は叔父夫妻に養育されていました。叔父も藩主丹羽長国のお供のため米沢に赴いていたため、養母と宇之吉は炎上する城下で死を覚悟していた所、服部家に出入りしていた農民が二人を救出し、自宅のある上川崎村(旧安達町)に匿われました。
やがて西軍が落人の詮索を始めると、養母に農家の婦人の服装をさせて農事を手伝わせました。しかし、農婦の姿をしてもどこか様子が違うので、家人が心配し、ある時西軍の兵士がやって来ると慌てて養母と宇之吉を馬小屋に入れて、山積みの馬糧の下に押し込みました。養母は短剣を抜き側に置いて、もし宇之吉が一声泣こうものなら、短剣で刺し、自らも自害する覚悟をしました。西軍兵士は槍の柄を頻りに糧のあちらこちらを突きましたが、幸いにも発見されずに済みました。宇之吉はこの時、一声も泣かなかったといい、さらにもう一度、馬小屋に隠れたことがありましたが、その時も発見されずに済んだといいます。
母子を匿った農家の主人はある時西軍兵士の怒りを買い斬られてしまいましたが、養母はそれを物陰から見て「胸ももえ上るばかりの怒り」を感じたといいます。

賊軍と呼ばれた二本松藩の藩士の子とした生まれた宇之吉ですが、学問で大成し、やがて天皇の師となったことで、その汚名をそそぐことができたのではないかと思います。
その表れとして、宇之吉は皇室への尊崇の念が強く、昭和8年(1933)皇太子明仁親王(今上天皇)が誕生すると、奉祝の念に堪えず、夫人と伊勢神宮、熱田神宮に参拝し、皇室の繁栄を祈りました。
宇之吉の病が重くなった時には昭和天皇・香淳皇后より見舞いの果物を下賜されると、感激し子供たちを呼び集め、「天恩の有難き由を聞かせ、宮城の方に向ひ御礼を申し述べた」といいます。
その声は病中にあって大きく明瞭であったといい、「謹しみて天を拝し天恩の有難きを拝謝し一日も早く御奉公申上度切願致し候」と三度同じように述べたといいます。

宇之吉の教え子は数多くいますが、その中に中国文学者目加田誠がおり、『斯文 21巻9号』に「先生の憶ひ出」と題し服部宇之吉との思い出を寄稿しています。
目加田誠は平成の改元の際の考案者の一人であり、つい先日、生前に残した元号案を推敲したとみられるメモが見つかり、政府の最終案に残った「修文」などを考案していたことが分かっています。

先日は皇太子徳仁親王の養育・教育に貢献した濱尾實、さらに以前は昭和天皇の倫理の師杉浦重剛のことも取り上げましたが、平成から令和の代替わりで皇室への注目が高まっている今、皇室を影で支えてきた人たちの存在も広く知られるべきだと思っています。
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今上天皇の恩師、小泉信三の墓

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会員のカネコです。
平成最後の投稿となります。
いよいよ今日で平成が終わりますが、私は10代から30代の人生の大事な期間を「平成」の時代に過ごしました。この探墓巡礼顕彰会を結成したのも「平成」、初めての本を出版したのも「平成」です。
昨年末の平成最後の天皇誕生日での会見で、今上天皇は「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。」と述べられましたが、私たちが平和を享受して今を生きているのも、今上天皇の平和へのたゆみない努力の賜物であるといっても過言ではありません。
今上天皇は第125代天皇の役割を全うし、未来を新天皇に託します。

その今上天皇に大きな影響を与えた人物として、東宮御教育常時参与として若き皇太子明仁親王の教育責任者となった小泉信三が挙げられます。
平成最後の記事としてこの小泉信三を取り上げます。

小泉信三は旧紀州藩士で慶応義塾総長・横浜正金銀行支配人などを務めた小泉信吉の二男として明治21年(1888)5月4日に生まれました。
父信吉が明治27年(1894)46歳で亡くなると一時期、家族で福沢諭吉の邸内に同居しています。福沢死去の翌年である明治35年(1902)慶応義塾普通部に編入学し、大学部では政治科に進みました。卒業後は教員に採用され、経済学部教授として、経済原論・経済史・社会問題などを教えました。信三は自由主義を論調として、反マルクス主義の旗手としてその名声を挙げました。
昭和8年(1933)から13年余り慶応義塾塾長を務め、昭和19年(1944)には内閣顧問を務めています。
太平洋戦争中に長男信吉が戦死し、自身も東京大空襲の際に焼夷弾に接触し顔面に火傷を負いました。
戦後、昭和天皇にたびたび御進講を行い、昭和24年(1947)東宮御教育常時参与となり皇太子明仁親王の教育全般を担う事になります。

信三はサー・ハロルド・ニコルソン著『ジョージ5世伝』、福沢諭吉著『帝室論』などを講義し、自由主義・民主主義の新時代の帝王学を明仁親王に説きました。
また、明仁親王が人と交わることが少なかったことと、牧野伸顕が文学をよく読み老化しなかったことを挙げて、小説を読むことをすすめ、幸田露伴『運命』をはじめ、志賀直哉『城の崎にて』などを一緒に読みました。
また、皇太子妃の選定にも関与し、美智子妃選定に至る過程でも尽力しています。

「勇気ある自由人」と呼ばれた信三は昭和41年(1966)5月10日、78才で死去。
弔問には皇太子明仁親王・美智子妃も訪れました。
葬儀は青山の葬祭場にてキリスト教式で行われています。

小泉信三の墓は多磨霊園(府中市多磨町4丁目628)3区1種17側3番にあり、正面[小泉家之墓]と刻まれ、墓誌には父信吉以降の小泉家の人々の名が刻まれています。



また、1区1種2側11番には妻とみの父で明治生命の創立者である阿部泰蔵の墓もあります。信三の長男信吉が戦死したため、とみの兄泰二の子準蔵を婿養子としおり、小泉家と阿部家は二重の姻戚関係となっています。



『慶應義塾 歴史散歩』によると、和歌山県和歌山市本町5丁目32の善稱寺(浄土真宗本願寺派)にも父信吉が建立した小泉家の墓があるとありますが、筆者は未確認です。

小泉信三については様々な書籍が出ていますが、昨年中公文庫より出版された小川原正道著『小泉信三―天皇の師として、自由主義者として』が読みやすと思います。

小泉信三の先祖についてですが、『小泉信三全集 別巻』に祖父小泉文庫が明治3年(1870)に提出した「小泉家系譜」が所載されています。
これによると、小泉家は源姓、家紋は横木瓜であり、祖父文庫の父小泉良左衛門芳房を初代としており、良左衛門芳房は「元御手弓同心小泉次左衛門保友養子 実根来者青木内膳房輝二男」とあります。また、同じく提出された「親類書」では文庫の母が小泉次左衛門とあるので、良左衛門芳房は次左衛門保友の婿養子となり小泉姓を称し、一家を興したことが分かります。
また、紀州藩士の系譜・親類書をリスト化した『紀州家中系譜並に親類書書上げ』( 和歌山県立文書館編)によると、次左衛門の父は宇治田次郎右衛門とあり、宇治田姓となっています。ただ、次左衛門の諱に「保」の字があり、この「保」の字を通字としている小泉家が別にあることから、宇治田家より小泉家に養子に入り、小泉姓を称して別家を興したものと思われます。
この小泉諸家の関係は和歌山県立文書館所蔵の系譜や親類書を調査するとはっきりするのではないかと思います。
また、『小泉信三全集 別巻』には信三の母方林家の系譜も所載されており、林家も紀州藩の藩医の家柄となっています。

徳川御三家というと尾張藩・水戸藩は勤王で知られますが、紀州藩は2人の将軍を輩出したこともあり、徳川将軍家とは近いように思われますが、その紀州藩の藩士の子が現代の皇室に貢献したということは大変興味深いことだと思いました。

信三は昭和35年(1960)明仁親王の長男徳仁親王が誕生し、命名された際に「皇孫殿下御命名」と題して帝都日日新聞に寄稿しており、『小泉信三全集 第26巻』に全文が所載されています。

「皇孫殿下御命名
 皇孫殿下の御命名も目出たく行われ、両陛下や御父母殿下のおよろこびもいかばかりかと御察し申上げられる。どうぞこれからの長い年月に心身いよいよ健やかに御成長になることをお祈り申し上げている。
 皇室の御任務は、旧帝国憲法のときとは違ったものになったが、それは他面において精神的道徳的にはいよいよ重いものになったと考えられる。この事を最も早く説いた一人は福澤諭吉であった。明治15年先生は『帝室論』を著しその冒頭に「帝室は政治社外のものなり。苟も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、其主義に於て帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可らずとの事は、我輩の持論にして」云々といった。
 かく自ら政治の衝に当らず、政争者のいずれを是、いずれを非とすべきものでないとすれば、帝室の任務はいずれの辺にあるとすべきであるか。先生は答えていう。それは民心融和の中心となられることにある。政争は苛烈なもので、それは火の如く水野如く、また盛夏の如く厳冬の如くであろうけれども、「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し」という。先生はまた西洋の語に、皇室は栄誉の源泉であるというのを引いて「王家は勧る有て懲らす無く、賞する有て罰するなきもの」だともいった。
 立憲君主制の下において国会の支持を受ける首相が政治の全責任を負うべきはいうまでのないことである。しかし政党の首領であり、且つ三、五年にして更迭する首相が今日のやめ後日を、党のために国家と国民を忘れることは、決してないとはいわれないのである。
 立憲君主はもとより直接政治の衝に当るべきものではないが、不偏不党の立場にあってそうして連続して国の最高位に坐するところから、自然の国家及び国民の永続的利害に対し政治家の及ばぬ、特殊の見識と感覚とを抱くに至るべきは、当然考えられるところである。
 このことは聡明なる立憲君主を、政治家に対する最良の道徳的奨励者及び警告者たらしめる。それは政治家の責任を、少しも軽くするものではない。けれども公平にして、国民の過去と未来により遠く思い及ぶ君主の所見を、平生談笑の間にきくことは、達識ある政治家にとっての絶大の所得となり得るであろう。
 皇室の任務が精神的道徳的にいよいよ重いものになったと、前に記したのは主としてこれをいうのである。
 皇孫殿下御命名の日に『帝室論』をくり返すのも野暮な話と思われるかも知れないが、この皇孫殿下の末長き御健康と心身の見事な御成長を願う国民の一人として、今日それをいうことも許されるかと思う。ひとえに人々の寛恕乞う。」

小泉信二が「末長き御健康と心身の見事な御成長を願」った皇孫殿下は、明日、第126代天皇として御即位されます。
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国立公文書館「江戸時代の天皇」展と新井白石の墓-奉祝・新天皇陛下御即位-

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会員のカネコです。
5月1日、皇太子徳仁親王が第126代天皇に御即位されました。
滞りなく代替わりの儀式が済み、新しい「令和」の御代が始まりました。
「平成」の御代は上皇陛下が仰った通り戦争のない平和な時代となりましたが、「令和」の御代も平和でかつ、多くの人々にとって幸多き時代になることを願っております。

一昨日29日(月・祝)に国立公文書館で開催されている「江戸時代の天皇」展を見に行きました。





江戸時代の天皇は一般的には馴染みがあまりないですが、実の所は近代天皇制へ向かう胎動期であったとも言えます。
幕末好きの方には孝明天皇は馴染みの深い天皇ですが、孝明天皇の代に急に天皇の存在が高まった訳ではなく、孝明天皇の祖父光格天皇の主体的な動きにより朝廷権威が浮上し、その後の孝明天皇に受け継がれるという流れになります。

今回の展示では江戸初期の後水尾天皇と幕府との軋轢、その後の協調時代、大嘗祭の再興、元号の選定と改元の経緯、そして光格天皇の朝儀再興についての文書類が展示され、近代天皇制前夜の流れが非常に良く分かる構成となっていました。
公文書館という性格上、ひたすら文書類が展示されているという視覚的に地味な内容ですが、最後に光格天皇の御幸・行幸の絵巻物が展示されているブースはなかなかの圧巻でした。この他にも小渕官房長官が掲げた「平成」の色紙も展示されていました。

光格天皇は第118代後桃園天皇に皇子がなく22歳で崩御されたため、傍系の閑院宮家より皇位を継承した天皇でした。以来、新天皇陛下までは直系の皇子による継承がされており、現皇室に直接繋がる天皇となります。

今回の展示でも取り上げられていましたが、閑院宮家は6代将軍徳川家宣を輔弼して「正徳の治」と呼ばれた政治改革を主導した新井白石の建議により興された宮家です。
当時の皇室は伏見宮・有栖川宮・桂宮の世襲親王家がありましたが、皇位継承者以外の皇子や皇女は出家し、門跡寺院に入ることが慣例となっていたため、皇位継承者の不足が危ぶまれていました。皇位継承問題が顕在化したのは第110代後光明天皇が22歳で崩御した際で、父後水尾法皇が生後間もない高貴宮(後の霊元天皇)を即位させようとしましたが、幼少のため、有栖川宮家継いでいた良仁親王(後の後西天皇)を中継ぎとして即位させることになりました。
皇位継承が不安定化しないためにも、3家の宮家以外にもさらに補完する宮家の必要性を感じた新井白石は将軍徳川家宣に建議し、その結果、東山天皇の皇子である直仁親王を初代とする新宮家が創設されました。これが閑院宮であり、直仁親王の孫祐宮兼仁親王が光格天皇となり、皇統が維持されることになります。

さて、国立公文書館「江戸時代の天皇」展を見た後、中野に所用があったため、久々に新井白石の墓所がある高徳寺(真宗大谷派、荒居山法喜院。中野区上高田1-2-9)へ立ち寄りました。
正面[新井源公之墓]と刻まれた小型の角石墓となっています。



両側には新井家の歴代墓が並んでいますが、殆どが同型の小型の角石墓となっています。



高徳寺はかつて浅草報恩寺内にありましたが、後に上高田の現在地に移転しています。
『寛政重修諸家譜 第18巻』に新井家の系譜が所載されていますが、そこには葬地は報恩寺と書かれています。
尚、その『寛政重修諸家譜 第18巻』によると、新井家は本姓清和源氏で義家流新田支流に属しています。先祖は新田蔵人太郎義房二男二郎某で、二郎某は出家し上野国新田郡荒居に住んだことにより、荒居禅師を称し、その子孫は荒居を称し、後に新井に改めたとあります。ただし白石の先祖については宮崎道生著『新井白石』(吉川弘文館)において白石自身が書いた『新井家系』『新井氏族志』『折りたく柴の記』や安積澹泊などへの書簡を精細に検討すると種々の難点があるとしています。

閑院宮家の創設が宝永7年8月11日(1710・9・4)で光格天皇の即位が安永8年11月25日(1780・1・1)であり、創設後70年で皇統の危機を救いました。
新井白石は享保10年5月19日(1725・6・29)に死去していますので、当然ながら光格天皇の即位は見ていません。新井白石は将来起こりうる危機を想定し、その根を摘み取りました。
つまり皇位継承の問題は何年も先の未来を見据えて考えねばなりません。
新天皇陛下の御即位により、皇位継承資格者が3名のみとなり、その内2名が50歳以上という異常な事態となっています。
平成の時代にも皇位継承問題が議論されましたが、何ら解決せずに現在に至っています。
どのような解決方法が良いかは様々な議論があり、現代的価値観や国民感情も配慮せねばなりませんが、私としては前例の無いことをするより、前例があることに近い形での解決方法が好ましいと考えます。その前例に現代的な価値観を吹き込み、多くの国民の共感を得られる解決方法というものがあるのではないかと思います。

新天皇陛下の御即位を祝福するとともに、今後も皇室が繁栄していくために「令和の新井白石」が登場することを願っています。
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東海の覇者 今川義元と駿府

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会員のカトケンです。
大型連休で実家に帰り、今川義元の展示をしている静岡市文化財資料館を訪ねた。

令和元年初日とあって、宮ケ崎の浅間神社には朱印の行列ができていた。それを余所に関口隆吉の碑をとおり資料館へ。企画展「東海の覇者 今川義元と駿府」を見た。いつもより人が入っていた。

新しくできる歴史博物館のプレ事業として催されたこの企画展は、その博物館の常設展の主軸になるとのことで、義元の再評価や今川歴代の功績、大原雪斎の役割や寿桂尼の立場など事細かにしかし簡潔に解説が施されていた。

中でも、義元の還俗前の称をずっと[梅岳承芳]と思っていたのが[栴岳承芳](せんがくじょうほう)だったこと、花倉の乱における対立構図、武田や北条との縁戚関係が時代ごと説明されるなど、とても分かりやすいものだった。

また、展示で義元の兄氏輝や息子氏真の治世にも触れていたことは、義元のみならず今川歴代[静岡のお殿様]を意識した歴史的位置づけと言える。静岡市民必見の展示であらう。

さらに、今川義元公生誕500年祭推進委による冊子『駿府と今川氏』がコンパクトにまとまっていて復習ができる。今後も行事が目白押しの[静岡市における今川年]にご注目あれ!



最後に、静岡市の浮月楼や教覚寺に住んでいた新札に選ばれた渋沢翁の記事を載せよう。[藤枝市郷土博物館にて5/31までパネル展示]



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青山霊園の改葬危機の墓所

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会員のカネコです。
改元を挟んだ10連休も本日で最終日です。
私はいろいろと雑務があり、あっという間の10日間でした。
ただ、平成から令和の代替わりの儀式を生中継でゆっくり見ることができ、皇室関連の番組も見れ、歴史に関わる者として、今動いている歴史を感じ、思いを巡らせることができたのは大きな収穫であったように思います。

さて、先日4月29日(月・祝)に国立公文書館や新井白石の墓所へ行ったことを書きましたが、さらにその後、青山霊園で1時間強ほど調査をしてきました。
以前調査したものの再確認が主でしたが、ライフワークである二本松出身者の人物の墓所を新たに1件見つけられたのが収穫でした。

霊園内を歩いていて気になったのが、無縁改葬告知の札です。以前も染井霊園の無縁改葬のことを書きましたが(撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓)、青山霊園でも無縁改葬告知の札が複数立っていました。



これは会津藩士で西南戦争時に陸軍中尉兼権大警部として出征した入江惟一郎の墓です。この墓の向かいにも入江家の墓数基がありますが、ここにも立札が立っていました。

当会会員の黒坂さんより以前情報を頂いたいた土佐藩出身の片岡男爵家と公家に堀河子爵家の墓所も見てきましたが、片岡男爵家は期限付きの立札、堀河子爵家は期限不記載の立札となっていました。







尚、堀河子爵家は岩倉具視の実家となります。



あと、これは無縁改葬ではなく、ご縁者による「墓じまい」となりますが、岡崎藩士で箱館戦争にも参戦し、後に丸善社長を務めた小柳津要人の墓が改葬され、林董と同じ立体埋葬施設に納められていました。



これは平成21年(2009)に撮影した小柳津要人の墓です。

以前も書きましたが、著名人の墓所とはいえ、ご子孫の祭祀の場である以上、ご子孫の事情によって墓所が変化することは仕方のないことだと思います。
平成31年の間でも日本人の生活様式、価値観は大きく変化していきました。
所謂「墓じまい」という言葉も最近聞かれるようになった言葉です。
令和の時代もまたそういった変化は続いていくと思います。
私個人の考えでは生活様式、価値観が変わっていくことは決して悪いことではなく、我々もそのような変化に柔軟に対応して、より良い社会になるべきだと思います。
その中で、歴史や伝統というものとどう向き合い、それに対して何ができるか?令和の時代を迎え、そのようなことを引き続き考えて行きたいと思っています。
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先日は青山霊園で改葬危機となっている墓所について書きましたが、谷中霊園でも改葬危機となっている墓所が複数あります。
3月に谷中霊園へ行った際に立札が建てられていた墓所3ヶ所について紹介します。

まず、乙3号6側にある依田薫(子威・聖里)の墓です。





撰文によると但馬出石の出身で、江戸で河田貫堂に学び、維新後は太政官権少史、大主記、左院大掌記、五等議官、七等判事などを歴任しています。
撰文は出石藩主仙石政固によるものです。
この墓碑は佐倉藩士依田学海の墓に隣接しており、同じ依田姓ですので、以前より何か関係があるのではと思っていましたが、撰文を見る限りは関係性は見られません。
撰文によると、依田薫は東叡山下旧林光院塋域に葬るとありましたので、この墓碑は後年、この場所に移動したものと思われますので、偶然依田学海の隣になったか、もしくは同姓の縁によって何らかの関係がありこの場所に移されたものかと思います。
ただ、この墓碑は依田学海の墓に背を向けて建てられていますので、偶然なのかなとも思います。

次に乙4号1側にある遠山規方の墓です。





秋田藩の出身で、戊辰戦争は西軍方として戦い「秋田遊撃隊戦記稿」を著しています。維新後は西南戦争、日清・日露戦争に出征しています。

もう一つはこの遠山規方の近くにある高橋家の墓で、どのような家であるか不明ですが、側面に祖先式部、二代左衛門次郎にはじまり十一代までの名が刻まれています。





式部という名からはもともと武家であった家のように思われます。
十一代の金四郎という人物は、明治から大正期の出版関係者に高橋金四郎という同姓同名の人物がおり、その人物であるかも知れません。
隣には笠付きの江戸期の墓碑もあり、由緒のある家のように思われました。

この日は谷中霊園の一部しか見ておりませんので、他にも立札が建っている墓所があるかも知れません。
これは何度も書いていますが、これらの無縁墓所はご縁者が現れない限り改葬される可能性が高く、我々は推移を見守る他ありません。
ただ、青山霊園の伊丹男爵家や多磨霊園の高橋是清家(個人墓ではない方)のように立札が建てられた後、立札が無くなり、現存している墓所もありますので、これらの無縁改葬告知された墓所が残されることを願っています。
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★5月11日(土)・12日(日)「ひの新選組まつり」『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の販売を行います

「ひの新選組まつり」にて『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の販売を行います

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探墓巡礼ー高幡不動にてお待ち申し上げ候

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会員のカトケンです。

先般、当ブログにてカネコさんから紹介がありましたとおり、来たる5月11日(土)・12日(日)の2日間、「ひの新選組まつり」にてミニブースをお借りして『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の販売を行います。

場所は高幡不動尊境内の五重塔の横、東北物産展の会場になります。幅60センチくらいのミニブースにて、時間は両日とも10時から16時まで。



11日(土)は版元である出版舎風狂童子代表の杉﨑様が10時より販売ブースにおります。小弟はこの日、先月の勇忌に引き続き[歳三忌]に出席、本の宣伝を行いますので、ブースに入るのは12日(日)のみとなります。

この日は終日おり、著者の一人が手売りする貴重な機会となっております。流星忌を主催した森重様もおりますので、ぜひお立ち寄りください。

高幡不動には、殉節両雄之碑、土方歳三銅像のほか、奥殿にて土方書簡、井上源三郎脇差、天然理心流中極位目録などが榎本武揚・大鳥圭介書簡などとともに展示されています。







また、周辺商店街では和装の方にアイスクリームの値引きやソフトドリンクの無料サービスを行う店があるそうで(詳しくは5月9日付[読売新聞]多摩版地域欄参照)、これもブースにて書籍の販売を許可してくださった高幡不動参道会副会長峯岸弘行様の取り計らいによります。改めてご厚意に感謝申し上げます。

さらに少し場所が離れますが、土方歳三資料館では土方の佩刀和泉守兼定のほか、島田魁脇差、箱館戦争を記録した[説夢録]なども期間限定で展示。

日野駅に近い佐藤彦五郎新選組資料館では、土方歳三の佩刀越前葵康継や三浦休太郎宛近藤勇書簡がこれまた期間限定展示されています。

日野市立新選組ふるさと歴史館でも特別展[土方歳三ー資料から見たその実像ー]が催され、充実した展示が見られます。流星忌に引き続き、東京で箱館戦争を感じられるこの機会にぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

佐藤彦五郎と妻ノブ(歳三姉)の眠る大昌寺、夫妻の住まいとなっていた日野宿本陣、井上源三郎資料館やその墓のある宝泉寺もおすすめします。

最後に明治になって土方家と榎本武揚家が親戚となるきっかけとなった有山家(内部非公開)の写真を載せます。彦五郎の四男彦吉が有山家養子となり、その息登が佐藤泰然から五代目の婿となって順天堂大学理事長を務めました。『探墓巡礼』22頁の詳細な系図(カネコさんの労作)を参照のこと。



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『探墓巡礼』対面販売のご報告

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会員のカトケンです。

11,12日と古写真研究家森重和雄様のご紹介で高幡不動にて露店にブースを設け、『探墓巡礼』を対面販売させていただきました。

おかげさまでネットで半年間に売れた冊数の半分が2日で売れました。

カネコ会員のツイッターによる支援を受けて、知らない方はもちろんのこと、顔見知りの方々までほとんどの方が押しつけがましいサインを受け入れくださったことに、否ご購入いただいたことに感謝申し上げます。

サインも[令和]と書くと「おっ」と歓声をあげられる方もおり、楽しく売らせていただきました。

歴史好きな方は大概立ち止まってくださるので、呼び寄せて「ご覧ください」とおすすめするとだいたいの方は話を聞いてくれ、そこでこの本の特徴を手短にお話するとほとんどの方が購入してくださいました。

うれしかったのは「[谷中編]ってことは他にもあるの?」と聞かれたことです。「この本が初めてなんですよ。続編を出すかは未定です。」と回答。

これは森重様が本を作るときにシリーズになったら良いよねとつけてくださったのですが、そのようなニーズを計ることができる良い機会になったのではないかと思っています。

貴重な機会を提供してくださった峯岸様、快く2日間販売に立ってくださった版元の杉崎様に改めて感謝申し上げます。購入者のみならず、お話だけでも聞いてくださった方、顔を出してくれた皆様、本当にありがとうございました。

お手伝いくださった杉浦様、前田様、ありがとうございました!

これから総司忌、東軍慰霊祭もありますが、出来うる限りこの本の良さを説明し[使える本][役立つ本]をアピールしていきます。また、歳三忌の懇親会にて榎本総裁ご夫妻や講演者の植松三十里様とも楽しく歓談でき、良き思い出ができました。これからも諸先輩を見習いながら鍛練を続けていきます。







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講義の応援とちょっとお知らせ

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会員のカトケンです。
友人が新選組の講義の中でゲスト講師として彰義隊の話をするというので、横浜まで足を運んだ。

戦闘に至るまでの政治状況や人物模様、古地図を使った両軍兵士の動きや現在の場所などさながら実況中継のようで、武器の性能や訓練度合いなどにも触れ、研究の成熟度がいかんなく披瀝された。まさに目から鱗であった。

東軍は援軍を待てば勝算があったこと、西軍は一日で決着をつけたことが勝利を導いたことと総括されたのはなかなか衝撃的で、両軍の戦略と戦術をよく吟味され、すっと頭に入ってくる解説であった。

また、知られざる幹部の墓も紹介された。それが同姓同名の墓が同じ墓地にあるため、長く知られずにいたようで、墓を探すためのヒントとしても大いに参考になった。

自分自身を振り返って、箱館戦争について各戦いやそれを取り巻く状況を果たしてこれだけよどみなく説明できるだろうか。列伝は『探墓巡礼』で書いてみたものの、日にちを追った経過や現地の地理などに自分はとても疎いと言わざるを得ない。

2度現地に足を運んだことはあるが、未踏の激戦地や記録と現地との辻褄など戦闘に即した痕跡をたどってみたくなった。やはり、机で歴史を紐解くだけでは何も分からない。現場を踏む必要性を痛感させられた。

さて、歳三忌でもご紹介がありましたように、6月15日(土)13時から史誠会様の例会[青山霊園に眠る新選組隊士の墓参と聖徳記念絵画館見学]にて都内青山霊園に墓のある新選組にいた御陵衛士や会津藩士などを案内させていただくことになりました。ソロ活動を始動します。

もちろん、箱館戦争の群像も紹介する予定です。改めて調べてみると知らなかったことや意外な人物とのつながりが分かり、学びながら準備を進めているところです。

集合場所は東京メトロ千代田線 乃木坂駅 青山霊園方面改札。参加費は会員1,500円、非会員1,800円、絵画館入館料は別途。入会金・年会費不要。17時JR信濃町駅解散予定になります。

もしご参加を希望される方がおられましたら、史誠会様まで直接お申込みをお願いいたします。氏名・携帯番号を次のアドレスへお送りください。

shiseikai@extra.ocn.ne.jp

ご参加お待ちしております。
(写真は篠原泰之進墓碑)



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史誠会での巡墓会

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会員のカトケンです。
先日お知らしました明後日15日(土)の史誠会催行 青山霊園巡墓会まだ空きがあるようです。

講義の応援とちょっとお知らせ

もしご都合つく方がおられましたら、史誠会様のアドレスに直接お申込みの上、15日(土)13時に東京メトロ千代田線[乃木坂駅]青山霊園方面出口へお越しください。
雨天のようですので、備えもお忘れなく!

申込先
史誠会メールアドレス shiseikai*extra.ocn.ne.jp
(*を@に変えてください)
氏名・携帯番号を本文にご入力ください。

参加費は会員1,500円、非会員1,800円、絵画館入館料は別途。
入会金・年会費不要。
17時JR信濃町駅解散予定になります。






巡墓会の後訪れる聖徳記念絵画館
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6/2開陽丸子孫の会に出席

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会員のカトケンです。先日、毎年参加している[開陽丸子孫の会]に出席。小杉雅之進御子孫の従者の身分で自己紹介させていただいた。

『探墓巡礼』を刊行し、谷中地区に限られるが、箱館戦争に参加した人ばかりでなく、オランダ留学生や榎本と接点のあった人、高橋泥舟・山岡鉄舟などの恭順派も載せており、旧幕府方の決定版だと案内したところ、予想以上の反応があった。

久しぶりにお目にかかる四国のJさんは順天堂のことが載ってるならとご注文くださり、あとでレターパックにて送らせてもらったほどである。

幕府海軍に関する神谷先生のお話は浦賀をおさえる重要性が分かったし、中島三郎助御子孫恒英さんの喜びの声も会を和ませた。

また、小弟から御子孫探しに協力する旨も申し出た。墓を基軸に新たな五稜郭への旅を目指したい。



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「幕末遊撃隊-己巳150年」に参加しました

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会員のカネコです。
6月2日(日)に三十六臣会様主催の「幕末遊撃隊-己巳150年」に参加してきました。
昨年、当会が幹事を務めた流星忌「箱館戦争関係者慰霊祭in谷中」に来て頂いた池内様が発起人となられ、開催決定と共にご案内を頂いておりましたので、大変楽しみにしていました。

遊撃隊からは伊庭八郎や人見勝太郎(寧)などが箱館戦争に参戦しており、流星忌幹事としては是非この会に参加せねばと思っていました。

私個人としては箱根戦争での遊撃隊の戦いについては不勉強で、知見はあまりありませんが、この箱根戦争については小学生の時に見た大型時代劇スペシャル『五稜郭』(日本テレビ・1988年放送)を見た時に初めて知りました。

このドラマでは舘ひろしが伊庭八郎を演じ、壮絶な最期を遂げるシーンがありました。伊庭八郎はクロードチアリ演じるフランス軍人カズヌーブと木古内で一緒に奮戦していました。八郎はカズヌーブにピストルの弾が残りを聞くと、カズヌーブは「アトイッパツ」と答え、八郎は「最後まで取っておけ」と告げました。二人で木陰で休息していると、カズヌーブが「ワタシシナナイネ、オモマリモッテル」と言い、箱根で奮戦する八郎の錦絵を見せ、八郎は「悪い冗談だ」と言いしばし眺めます。ここで鈴木瑞穂の格調高い語りで、八郎が箱根の戦いで片腕を失うほどの奮戦をして、江戸では錦絵になる程の人気になったことが解説されます。しばし錦絵を見ていた八郎は何を思ったか、急に錦絵を口にくわえ、片手で掴み破ります。するとカズヌーブは「ナニヲシマスカ!ワタシ、ニホンノミヤゲニカイマシタ。ケッコンシテコドモウマレタラコレヲミセマス。コレガニッポンノサムライダ、オマエノチチ、コノヒトトイッショニタタカッタンダ」と言い、続けてフランス語で「日本に武士道があるならフランスにも騎士道があるんだ」と叫びます。「オレハオマエトトモダチニナリタカッタンダ、ワカッテンノカハチロー、トモダチニダ」と言うと、八郎は「フランスにも侍がいるんだな」とつぶやきます。カズヌーブはさらに「ハチロートモダチダ、トモダチ」と叫びます。するとそこに西軍の砲弾が八郎に直撃します。草むらに飛ばされた八郎がカズヌーブの名を叫び、カズヌーブが駆け付けると、瀕死の八郎は「土産をやるぞ、さっきの錦絵の代わりだ、俺の、俺の首を刎ねろ」と言います。カズヌーブが「ノーノーオレニハデキナイヨ」と言うと、八郎は「これが日本の武士道だ」と言い短剣を抜き腹に突き刺します。苦しみながら「カズヌーブ、おぬしも武士なら介錯しろ」「1発」と言うとカズヌーブは涙ながらに立ち上がり、ピストルを八郎のこめかみに突き立てると、八郎は「よし、撃て」と言い、カズヌーブはゆっくり引き金を引きます。

この伊庭八郎の最期はあくまでドラマ上での創作ですが、大変印象深いシーンとして焼き付き、箱根戦争はこのシーンとセットで伊庭八郎が片腕を失った戦いとして私の脳裏に深く焼き付けられました。

さて、前置きが長くなりましたが、「幕末遊撃隊-己巳150年」は箱根町立郷土資料館での講演会と、臨済宗金湯山早雲寺境内にある遊撃隊戦死士墓前での奉納演武と法要の2本立てで行われました。

13:00から行われた講演会は箱根町立郷土資料館学芸員高橋秀和先生による「戊辰戦争の舞台、箱根の様子と人々」から始まりました。箱根戦争の推移や、戦場となった村の人たちの動きや被害に関するお話しがありました。この話の中で出た湯本村名主福住正兄のことに興味を持ちましたが、幸いにもこの後、早雲寺にてそのお墓を詣でることができました。

続いては東海大学馬場弘臣教授による「戊辰箱根戦争とは何だったのか?-幕府遊撃隊と小田原藩の苦悩-」で、遊撃隊と戦った小田原藩の動向についての詳しいお話しがありました。小田原藩は勤王を表明していたものの、佐幕に寝返り、さらに新政府軍に恭順した上で、遊撃隊と戦うという一転二転した不可解な行動をしています。その理由について、藩主大久保忠礼の出自から遡り、幕末の政局や軍役負担など、箱根戦争に至るまでの小田原藩の動向から探り、箱根戦争直前の翻意に至る状況を史料に基づき丁寧に解説をされました。
最後に馬場先生が話された昭和13年(1938)の林忠崇の談話が大変心に響きました。林忠崇が語るには、自分は天皇に逆らう気は全くなく、薩長のすることが腑に落ちなかった、すべては臣下の争いだで、早く天皇に接近するものが政略上官軍と称し、他を排して賊軍と言うのだと思う、どうも将軍の取り扱いが腑に落ちなかった、何の野心もなかった、といったことであり、これは東軍の身を投じた者の共通の想いではなかったかということです。

近年は官軍・賊軍という言い方はあまり聞かなくなり、西軍・東軍という呼称を多く聞くようになりましたが、かつて、東軍側は賊軍という扱いを受けていて、私の父母の郷里二本松でも古老の方は賊軍の汚名をそそぎたいということをよく言っていたものです。しかし、戊辰戦争を東軍として戦った人たちは決して天皇に弓ひく「賊」では無く、薩長を中心とする西軍のやり方への不満、徳川家の処遇に対する不満から、やむを得ず、錦の御旗を掲げた西軍と一戦を交えた訳です。各藩・各人が戦いに至った経緯はまちまちで、様々な事情がありましたが、この林忠崇の談話の内容は東軍として戦った人々の多くが思っていたことにように思いました。

それと、馬場先生の講演で特筆すべきことは配布されたレジュメです。本文中にも書かれていましたが、後から読み直せるよう、講演内容をそのまま文章化したものになっていて、これは恩師を見習ったとのことです。
当会の巡墓会のレジュメも当会が師事している釣洋一先生がレジュメは後から読めるものを作るようにと仰っていたので、会の後に読めるよう詳細なものを作ってきました。時には3、40ページにも及びましたが、そうすることで、聞き逃したことや、聞いている時には分からなかったことが後から復習できます。
馬場先生のレジュメは話し言葉そのままという画期的なもので、当会もスタイルとも違ったもので、こういった形もあるのだなと大変参考になりましたし、当会が「後から読み直せるレジュメ」というスタイルで作ってきたのは正しかったのではないかという後押しをして頂いたような気持ちにもなりました。

参加者の記念品として配られた『幕末遊撃隊己巳150年 記念読本』も大変充実した内容で、特に池内様作成の遊撃隊の隊士名簿が圧巻でした。これだけ隊士が網羅された名簿は他には無いと思います。
名簿を眺めると、気になる人がいました。第二軍の阿部四郎三郎(四郎五郎)とあるのはおそらく、阿倍四郎五郎家の当主ではないかと思いました。阿倍四郎五郎家は以前、当会の染井霊園周辺寺院巡墓会で本妙寺にある墓所を案内しました。阿倍四郎五郎正之を祖とする家で、加藤清正の家とも姻戚関係となっており、加藤家改易後にその遺品を引き継いでいた家でもあります。そのご縁で、一度ご子孫の方にもお会いしたことがありますが、太平洋戦争で一切が焼失して、ご先祖のことは殆ど分からないとのことでした。
他には第一軍の前橋藩(富津村百姓)とある人物が12名いますが、これは安政5年(1858)から慶応3年(1867)まで富津陣屋を警備していた二本松藩が足軽として登用した地元農民で、前橋藩が富津陣屋の警備を引き継いだ際に、彼らも引き継がれています。二本松藩の足軽として9年間の任務を果たした彼らですが、この箱根戦争の後、かつて仕えた二本松藩が壮絶な戦いの末落城するなど想像できたでしょうか。

二本松藩の富津警備については以前当会ブログにも書いています。

富津と二本松藩

箱根戦争や遊撃隊について詳しく調べたことはありませんでしたが、図らずも自分が過去に調べたことと接点があり、大変興味深いものがありました。

馬場先生の講演の後に、少しお時間を頂き、不肖私より昨年の流星忌開催の御礼とガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の案内をさせて頂きました。事前に池内様にお願いして、配布資料の中に本のチラシも入れて頂きました。
貴重なお時間を頂きましたことを改めて御礼申し上げます。

その後、早雲寺に移動し、15:20より遊撃隊戦死士墓前で伊勢亀山心形刀流赤心会様による奉納演武が行われました。心形刀流は伊庭八郎の祖伊庭秀明が開いた流派です。
二刀流の演武など、大変な迫力があり、貴重な体験をしました。



その後、碑前にて法要が行われ、ご子孫や関係者による焼香がありました。
最後は人見勝太郎(寧)のご子孫である人見寧則様からのご挨拶がありました。涙ながらのお言葉には人見様の想いが詰まっていて、心を打たれました。
人見様には流星忌にもお越し頂いており、今回再会できご挨拶できたことは嬉しい出来事でした。



会が終わった後は、当会のクロサカさんと早雲寺の探墓をしました。
以前来た時は有名な小田原北条氏五代、飯尾宗祇、今大路道三の墓は見ていましたが、講演の中で出ていた福住正兄や福住家と共に湯本村の名主を務めていた小川家、北条家の後裔と伝わる仙台藩士の家など初めてみるものもあり、充実した探墓巡礼となりました。

遊撃隊と箱根戦争に関する知識を深められ、様々な方とお話しや情報交換ができ、私にとり大変有意義な一日となりました。
この会を主催した池内様はじめ三十六臣会の皆さまや、講演をされた馬場先生、高橋先生のご尽力に改めて敬意を表するとともに、皆さまの今後ますますのご活躍を祈念いたします。
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「東京二本松会総会」に出席しました

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会員のカネコです。
6月9日(日)に東京二本松会総会に出席しました。





東京二本松会は二本松市出身の東京近郊在住者による同郷人の会で、昨年で創立50周年を迎えました。
私は生まれも育ちも神奈川県ですが、両親は共に二本松市出身なので2世となります。
幼少時よりお盆休みには二本松の母方の実家に帰省していたこともあり、二本松の歴史のことは長い間、ライフワークとして調べていました。
平成23年(2011)に二本松藩主丹羽家18代ご当主丹羽長聰様とご縁があり、丹羽様が会長を務めている東京二本松会への入会のご案内を頂きました。本人が二本松出身者ではなくとも二本松に所縁があれば入会可能とのことでしたので、その年に二本松仲間の遠藤さんと入会し、今年からは会報編集員として役員入りをしました。

同郷人の会ですので、特に歴史に特化した会ではありませんが、会長が旧藩主家の丹羽様であることや、旧藩士の子孫の方が所属されていることもあり、私の活動にプラスになることが多く、今年、会報編集作業で会に貢献できたことは大変嬉しい出来事でした。

総会は毎年、前半に議事と講話があり、後半は懇親会が行われます。
昨年の総会では戊辰戦争150年ともあって、二本松市文化財保護審議会委員根本豊徳先生による『二本松藩の戊辰戦争』の講話がありました。少年隊の悲劇に代表されるように、二本松藩の戊辰戦争に関しては悲劇的な物語に眼が行くものですが、根本先生の講話は戊辰戦争に至る経緯を史料に基づき、時系列に述べていく形で、二本松戦の全体像が分かりやすく理解できる内容でした。

今年は二本松市教育委員会文化課長塩田英勝様による『「戊辰戦争150年事業を振り返って」』と題された講話が行われました。
塩田様は昨年行われた二本松市歴史資料館特別企画展「二本松藩と戊辰戦争」、二本松市コンサートホールで開催された「二本松戊辰戦争歴史シンポジウム」、二本松市民会館で開催された「二本松戊辰戦争戦没者慰霊祭」の模様を映像を交えながら解説されました。



私は上記全てに参加しましたが、昨年の記憶を思い起こしながら復習もでき、大変素晴らしい内容であったと思いました。
特に慰霊祭での丹羽長聰様による祭文奉読の映像をノーカットで紹介して頂き、その時の記憶が蘇りました。

「歴史シンポジウム」は前半が『数学者が見た二本松戦争』の著者渡部由輝先生による講演と後半はパネルディスカッション「白河・棚倉・三春における戊辰戦争~白河から二本松、それぞれの信義~」と題し、白河市文化財課 専門学芸員内野豊大先生、白河市文化財保護審議会委員植村美洋先生、三春町歴史民俗資料館主幹兼副館長平田禎文先生、二本松市文化財保護審議会委員根本豊徳先生が各藩の戊辰戦争について語りました。渡部先生の講演は一部で突っ込み所満載で伝説的な講演となっていますが、あまり講演されることはない方なので、大変貴重な体験となりました。パネルディスカッションで画期的だったのは三春の平田先生がお越しになったことです。二本松では長い間、三春は裏切り者だという印象が強く、私もよく二本松の方から「三春から嫁を貰うな」ということをよく聞かされたものです。案の定、質疑応答の際にその事についてどう思うかという質問が飛び出し、会場が若干凍り付いた雰囲気になりましたが、平田先生は三春としてはそう言われることは耐えるしかない、武士道としては最悪なことをしたが、領民を守るための決断であり、これにより城下や領内は戦火を免れた、こういう機会を使い三春藩の置かれた立場にも理解して頂きたいというご回答があり、会場から拍手が起こり、温かい雰囲気の中で閉会をしました。

昨年の二本松市における「戊辰戦争150年事業」を振り返り、これらに参加できたことは私にとっても大きな財産になったと改めて思いました。

講話の後は懇親会があり、毎年さまざなま方と二本松のお話しをさせて頂き、有意義な情報を頂いています。
今年も二本松藩政にその名を残す崎田家、平島家、浅岡家、林家といった藩士のご子孫の皆さまとお話しができました。
また、今年は私がかねてから尊敬していた若き研究者の方にもご入会して頂くこともでき、二本松の輪が広がったことに喜びを感じました。

ご来席していた三保市長様とは二本松城三の丸御殿再建に関するお話しをしました。二本松市では現在、再建のために図面をはじめ御殿に関する記述がある史料を探しているとのことです。戊辰戦争で城下が焼けたとはいえ、福島県歴史資料館や西尾市岩瀬文庫などにも二本松藩士の史料がありますので、まだまだ探せば史料が出てくるのではないかとのお話しをいたしました。
もし、このブログをご覧の方で、二本松藩士が所蔵していた文書や二本松城に関する記録が文書や図面をお持ちの方、所在を知っているという方は二本松市役所の方へお知らせ頂ければと思います。

東京二本松会に入会して8年となりますが、会員の皆さまの郷里を想う心には胸が熱くなります。今後ますますの会の発展を祈念すると共に、今後も役員の一人としてお役に立てればと思っております。
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史誠会催行での青山霊園巡墓会

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会員のカトケンです。土曜、あいにくの雨でしたが、史誠会様の依頼にて初めて1人で青山霊園巡墓会を行い、5名様の参加を得て、案内させていただきました。

巡墓人物は次のとおり。
・加納道之助(近藤勇の面通しをした御陵衛士)
・篠原泰之進(赤報隊に属しながら落命しなかった御陵衛士)
・秋月悌次郎(会津戦争降伏の使者、小泉八雲の友人)
・大鳥圭介(箱館政権陸軍奉行、駐清公使)
・外島機兵衛(会津藩士)
・小野権之丞(会津藩士、箱館病院副頭取)
・澤太郎左衛門(開陽丸艦長、幕府オランダ留学生)

5名のうち3名が顔見知りで和気あいあい、ほのぼのと巡ることができました。

途中、宮古湾海戦に参加した安藤太郎、箱館戦争参戦の小菅辰之助、近藤勇と面識のある後藤象二郎、オランダ留学生西周の墓も紹介。

今回、案内のための事前勉強で秋月悌次郎と山岡鉄舟が義従兄弟であることが分かりました。

秋月の養子胤継の実家が鉄舟の生母磯の実家だったのです。鹿島神宮の神官塚原家で、胤継こと六助の父直興の祖父が磯の父直昌でした。意外なところがつながるもので、早速拙共著『探墓巡礼』[山岡鉄舟]項目に載せた家系図に加えたいところです。

また、篠原泰之進が晩年を過ごした次男秦弥三郎・キクノの墓(=写真。平成23年頃撮影。2種イ11号3側)がどうしても見つからないことも話しました。



さらに、大鳥圭介の左前の墓碑同妻道子の裏面に大鳥による追悼文が刻まれていて、戦争ばかり行って苦労かけてしまったという大鳥の人間性が垣間見えるやうな文面に皆しばし立ち止まりました。

道々、知り合いの方から面白い行事のことを聞いたり、一緒に東軍慰霊祭を回った思い出を振り返ったりできて充実したものとなりました。

一つ残った課題はーーこれもお話しましたがーー小野権之丞父義行と林権助安倫が兄弟であると会津藩士の系図で分かったのですが、この権助と鳥羽伏見で戦死する権助安定の系譜がいまひとつ一致しなかったことです。

しかも安倫の時代では安定は栄吉といい、同じ林でも治助などの通称を持つ家。この辺りが明確になれば、同じ青山霊園の外交官林権助の墓も含めて紹介できたのにと思いました。

青山霊園から銀杏並木を通って聖徳記念絵画館へ。明治天皇の愛馬の骨が馬の形のまま展示してあるなど、絵画プラスアルファが楽しめました。

終了後打上げを行い、貴重な情報交換ができ、有意義な時を過ごせました。

お招きくださった近藤様、ご参加いただいた皆様に改めて御礼申仕上げます。
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雑司ヶ谷霊園の改葬危機の墓所

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会員のカネコです。
以前、谷中霊園と青山霊園の改葬危機の墓所について取り上げました。

谷中霊園の改葬危機の墓所


青山霊園の改葬危機の墓所

さらに、その前には染井霊園の姫路藩主酒井忠績の墓所が改葬危機にあることも取り上げました。

撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓

今回は雑司ヶ谷霊園を取り上げます。
雑司ヶ谷霊園でも無縁となった墓所に改葬告知の札が立てられているのをよく見かけます。
その中の著名な家としては公家の澤伯爵家の墓所があります。

澤家は天武天皇皇子舎人親王の後裔で本姓は清原氏、江戸時代中期に舟橋庶流の伏原家より分家して一家を興しています。
幕末の当主澤為量は安政5年(1858年)養子宣嘉と廷臣八十八卿列参事件に加わって日米修好通商条約勅許に反対しています。宣嘉は「七卿落ち」の一人として長州へ落ち延び、生野の挙兵に参加するなど、尊王攘夷派の公卿として過激な活動をしています。維新後は外務卿となり、外交に関わりますが、明治6年(1873)ロシア公使に決まり、着任する直前に38歳で急逝し、小石川伝通院に葬られています。伝通院には宣嘉のみの墓碑があり、為量はじめ、澤伯爵家の人々は雑司ヶ谷霊園に葬られました。
宣嘉以降の澤伯爵家は複雑な家督相続をしていきます。
宣嘉の後、隠居していた養父為量が再相続し、宣嘉の養子として後継者と目された為量三男宣種は廃嫡となり、その後分家。宣種の養子となっていた宣嘉長男宣量が為量没後、家督相続しています。
『昭和新修華族家系大成』によると、この本が刊行された時点の当主名は空欄となっており、宣量には男女4名の子の記載があります。当主となった宣量長男宣武には妻子がなく、昭和41年(1966)に没しています。
無縁告知札には埋葬者として、宣量の子4名の名も記されており、宣量の子の代で澤伯爵家は絶えたことが窺われます。
現在立てられている告知札は平成30年12月28日に立てられており、額面通りで行けば、令和元年12月29日が期限となります。



これは今年の1月に撮影したものです。



こちらは最新の今月16日に撮影したものです。

尚、近くには宣嘉の二男宣元が分家して男爵となった澤男爵家の墓所もあり、こちらは無縁告知札は立てられておらず、祭祀が続いているようです。
『昭和新修華族家系大成』によると、2代宣一には娘2人がおり、他家に嫁いでいますが、そのご子孫によって祭祀が続けられているように思われます。
前述の通り、本家である伯爵家の家督相続が複雑であり、男爵家のご子孫とは世代も離れているため、男爵家の方が伯爵家の墓所を継承することは難しいように思います。

以前も書きましたが、幕末維新に活躍した人物の墓所といえども、あくまでご子孫の祭祀の場であり、ご子孫が絶えた場合は、その維持が難しくなります。
我々ができることとしては記録に残し、墓所が確かに存在したことを伝えるということになるかと思います。

大変厳しい現状ですが、澤伯爵家の墓所がご縁者によって維持されることを願っております。
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「文芸ジャンキー・パラダイス20周年記念企画&世界墓マイラー同盟第1回企画【あの人に会いたい~雑司ヶ谷霊園・魂の墓参行脚】」に参加しました

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会員のカネコです。
本日6月29日(土)、当会とも深い関係にある「墓マイラー」カジポンマルコ残月さん主催イベント「文芸ジャンキー・パラダイス20周年記念企画&世界墓マイラー同盟第1回企画【あの人に会いたい~雑司ヶ谷霊園・魂の墓参行脚】」に参加してきました。

文芸ジャンキー・パラダイス20周年記念企画&世界墓マイラー同盟第1回企画【あの人に会いたい~雑司ヶ谷霊園・魂の墓参行脚】

カジポンさんは『東京・鎌倉 有名人お墓お散歩ブック―誰もが知っている104人の墓碑完全ガイド』の著者で、近年は「墓マイラー」の代表的存在として数多くのメディアにも出演されています。
当会との関係は平成22年(2010)11月に開催した第3回巡墓会「染井霊園巡墓会~墓碑を訪ねて先人達に学ぶ~」にお越し頂いたことに始まり、それ以降、ほとんどの巡墓会にお越し頂いています。

今回のイベントはカジポンさん、当会会員のクロサカさん、当会とも関係が深い眞野さんによる「世界墓マイラー同盟」の企画という形で、メイン解説・レジュメの作成はカジポンさん、クロサカさんがサポート解説(眞野さんは懇親会より参加)で行われました。
意外なことにカジポンさん主催の巡墓会が都内で行われるのは今回が初めてでした。私としては今までの御礼の気持ちも込めて参加しました。

今回の墓参対象人物は以下となります。

小栗忠順 幕臣・外国・軍艦・勘定の各奉行を歴任、反骨の人
大塚楠緒子 歌人・夏目漱石が恋した人
永井荷風 作家・江戸文化を熱愛
岩瀬忠震 幕臣・日米修交通商条約の調印にあたった開明派
小泉八雲 英文学者・英国人・本名ラフカディオ・ハーン
2代目大川橋蔵 俳優・「銭形平次」
泉鏡花 作家・幻想文学「高野聖」「歌行灯」
いずみたく 作曲家・元参議院議員・「見上げてごらん夜の星を」「手のひらを太陽に」
荻野吟子 近代日本における最初の女性の医師
サトウハチロー 詩人、作詞家・「小さい秋みつけた」「嬉しいひな祭り」「リンゴの唄」
竹久夢二 作家・独特の可憐な美人画
中浜(ジョン)万次郎 幕臣・江戸時代に漂流してアメリカへ。
夏目漱石 作家・明治の大文豪「こころ」「坊ちゃん」
小川笙船 江戸時代の町医者・"赤ひげ先生"のモデル
千葉重太郎 江戸時代末期の剣客 
金田一京介 言語学者・アイヌ語研究





基本的にカジポンさん独特の熱い語り口調で各人物の経歴が語られ、作家の場合はカジポンさんが感銘した一文を紹介するなど、偉人たちの偉大さを感じられる内容となりました。
特に永井荷風の『断腸亭日乗』から戦争に流されていく日本人の負の特性を指摘した部分や、小泉八雲が『神国日本 解明への一試論』から西洋の花束と日本の生け花を比較した部分を読み上げたことが強く印象に残りました。

当会のクロサカさんも得意分野の小栗忠順や岩瀬忠震などで解説をしました。また高校生の時に泉鏡花の墓参をした際のエピソードもお話ししていました。

私は今回一参加者でしたが、以前作成した永井一族の系図をお配りして、永井荷風墓前で永井一族の解説をしました。この系図には永井荷風・遠山金四郎景元・永井玄蕃頭尚志・三島由紀夫といった人物が1枚に収まっており、その関係性を説明しました。

また、2代目大川橋蔵の墓前では本名の丹羽富成という名と、家紋違い棒(直違い)の関係について解説しました。違い棒(直違い)は丹羽長秀にはじまる陸奥二本松藩主丹羽家特有の家紋であり、大川橋蔵の丹羽家も以前の調査により、二本松藩主丹羽家より分家した旗本丹羽家の流れであると考えられるということお話ししました。
補足となりますが、その根拠としては大川橋蔵の丹羽家の墓所が江東区の寺院にもあり、その寺院が旗本丹羽家の菩提寺であることです。また、橋蔵の養母である寺島千代の自伝『私のこんちきしょう人生 夫六代目菊五郎とともに』にも実家の丹羽家は徳川の家臣で、明治維新後に没落して静岡へ移住したとの記述があります。つまり旗本の丹羽家であり、徳川家の静岡移封に従ったということになります。二本松藩の研究は私のワイフワークでもあり、関係することを少しお話しできたことは喜ばしい出来事でした。

今回の参加者の方の中には構成作家、出版社関係者・石材関係者といった様々な業界の方がお越しになりました。当会の『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の委託販売をして頂いている石文社の中江社長ともお会いすることができました。
石文社は石材業界誌である『月刊石材』の発行元であり、カジポンさんの連載「墓を訪ねて三千里」も掲載されています。
当会の『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』もご評価を頂き、今年の2月号にて書籍の紹介をして頂きました。
また、オンラインショップで『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』を取り扱って頂いております。

オンラインショップ「いしぶみ」

巡墓開始には小雨も降っていましたが、途中から止み3時間強の巡墓会も無事に終了しました。
閉会式では『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の宣伝もさせて頂きました。この場を借りて改めて御礼申し上げます。

その後行われた懇親会には20名以上の方が参加され、様々な方と交流ができました。

カジポンさんの記念すべき第1回のイベントに参加できたことは光栄でした。様々な方との出会いもあり、大変有意義な時間を過ごすことができました。
また、当会で開催している巡墓会とも違ったスタイルは大変勉強になりました。
また次の企画に参加できることを楽しみにしております。
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久しぶりに休みを取って本漁り

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会員のカトケンです。

墓とは関係ないが、時々歴史を調べ始めたころの原点、神田神保町を訪ねたくなる。

最近は長島書店に良い歴史本が出ていて、この前足を運んだときに欲しかった本がまだあるか確かめてみた。

残念ながら、その本は無かったが、必ず足を運ぶ大雲堂でなかなかお目にかからないリョーマ本を得て、人物叢書が安くなってるかなとふらりと寄った元巖松堂で目当ての本を見つけるわ、昔はよくチェックしたとんぼの本シリーズでこれはというものを見つけて衝動買いするわで、小遣いが貯まると静岡から神保町に通い始めたころ、『続 新選組隊士列伝』を見つけて初めて本を買った思い出の書店だった縁を感じたり、行きつけの自游書院で『高台寺党の人びと』を見つけて定価の倍で買ってしまったりしたことなどを思い出した。

ちなみに今日買ったリョーマ本は、珍説や北海道の史跡、宮尾登美子のような珍しい執筆者が書いているなど欲しいのになかなか手に入らなかったもの。

これらを基にして現地に取材に行ったり、書く意欲をかき立てられたりしながら新たな執筆構想を練ってみたい。



今日の成果たち。
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町内のお祭りにて『探墓巡礼』販売報告

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会員のカトケンです。
すっかり忘れてましたが、地元静岡市の町内の祭りを手伝いながら、『探墓巡礼』を売らせていただきました。









正月にちょうど新年会に顔を出したら、正面に座ったのが姉の同級生。隣の町内から最近越してきた印刷屋の社長さん。

この方の仕切りで毎年行われる町内の稲荷神社の祭りが去年から切り盛りされていて、早速駆り出されたもの。

もとより、近所の同級生と再会したり、最近越してきた若者とも初顔合わせしていたり、親の世代の隣組の方々とは日ごろの付き合いもあることから、半年がかりで日付を抑えられていた。

正月に飲んだときに本を出した話もしてサンプルを渡していたので、売ったらいいよと言ってもらい、どのくらいさばけるか予想もつかないが、せっかくの機会だからとお手伝いメインで参加してみた。

考えてみたら、子どものころ、毎年金魚すくいやら綿菓子やら店が出ていたこの行事はずいぶん賑やかだったなとかすかな記憶がよみがえってきた。あのころは、一体どんな大人たちが運営していたのかなと、自分が逆の立場になって初めて有り難さに気づいた。

ともあれ、朝9時から準備してあいにくの天気のなかテント張りなどを皆で行い、午後からが本番、抽選の担当となった。昼食もそこそこに早くも子どもたちが並んできた。

1時開始の抽選会は途中、休む間もなく続き、本を売る場合じゃない。近所の小さいときから知ってる方々に少し買ってもらったくらいで、とても15冊は無理でした。

けど、楽しかった!子供の笑顔、楽しみに見えたお年寄り、隣組で力を合わせて大成功。まずは良かった!!

そして隣のお兄さん〜毎日のようにキャッチボールしてくれた〜から千姫の墓が臨済寺にあるとーーこれは知らなかった。今度探してみようと思う。
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第24回土佐史談会関東支部例会・ジョン万特集

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会員のカトケンです。

去る6日(土)土佐史談会関東支部例会が催された。

講談社学術文庫に入った『漂巽紀畧』(ひょうそんきりゃく)の訳者による出版裏話や監修者によるジョン万の光と影が語られた。



充実した語りぶりに昨年のやうに告知をすべきだったと今更ながら後悔している。

申し訳ないが、こちらも例会開催のために講師への謝礼やら受付簿の作成やら、仕事の合間を縫って準備しなければならないから、広報までは兼ねられない。

いつものことだがあっという間に前日を迎える。去年は自分が講師だからレジュメを間際まで作っていた。これも仕事が多忙だったためだが、今年もさして状況は変わらない。

案の定、降ろしたお金を会場を貸してくれる方にお礼のためお茶を買ったコンビニにそっくり置き忘れてしまったーー

例会後の懇親会はいつもながら当方が予約係、人数のとりまとめに接待・会計と酔ういとまもなく、遠方からの参加者に2次会もお付き合いしたから、金を置き忘れたコンビニに寄るのをすっかり忘れてしまっていた。

明くる日もう一度、件のコンビニを訪れると大都会とは思えないほど悠長というかーー恐る恐る聞いてみたところ、店員に心当たりがあるらしくすぐに持ってきてくれて封筒を渡された。これですよ、これと自ら書いた金額の文字が目に入る。

店員は破顔一笑、「大事なもの忘れちゃダメですよ」と叱られてしまった。こちらは保管しておいてくれただけ神様仏様である。気恥ずかしいのですぐに店を発とうとしたが、せめてものお礼に好きなジュースを1本買った。

どこで忘れてもだいたい保管してくれている、昨年も電車で携帯を落としたのだが、駅の落とし物係にちゃんと届けられていて、東京も親切な人がいて捨てたものではないなと自分のだらしなさを棚に上げて感心してしまう。

さて、当日に戻って肝心の漂巽紀畧は、原本が未だ見つからず仕舞いなのだが(写本をもとに現代語訳)、記述者である画人河田小龍が京都で腕に磨きをかけて帰国したばかりのめぐり合わせも重なって、ふんだんに絵が描かれ、まるでカラードキュメンタリーなのだが、文庫でそこまでは復元できなかったそうで。

ジョン万の書く英語の意味の深い考察や乾隆氏によるジョン万英会話の研究にも触れられ、漂巽紀畧のタイトルはタツミの方角に漂流した概略の意味だとか。

副題は「5人の日本人の物語」とのこと、この辺りも万次郎少年が如何に仲間を大切にしたか、米国から日本に送られる帰途、ハワイに残っていた仲間を連れて帰ったことからもしのばれる。

また、ジョセフ彦や打払令のせいで帰国できなかった他の漂流民との比較にも触れられて、もはや土佐史談の枠を超えたグローバルな展開は聞き手を唸らせるのに十分であった。

講演後、厳しい質問が寄せられ、相変わらず油断ならない、否、学術的レベルを落とさないこの会にまたやる気を奮い立たせてもらったーーともかく皆さんお年を召されていてもよく動かれ、まだまだ下働きのただひとり駿河人である小弟は、土佐人のタフさにただただ恐れ入るばかりである。

『漂巽紀畧 全現代誤訳』講談社学術文庫、税別800円。
『土佐史談』にご興味がありましたら、ホームページをご覧ください。

土佐史談会事務局

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