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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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大圓寺・豪徳寺巡墓会迫る!

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会員のクロサカです。

今週末に迫ってきた巡墓会ですが、お客様により良い内容のレジュメを届けるために最終調整を行っています。
当日の予報だと、晴れ時々曇りで最高気温も15度くらいとのことで、少し肌寒いかもしれません。
なので、1枚羽織るものを用意してきていただいた方が良いと思います。

では、11月12日(日)の巡墓会開催の成功を祈りつつ、準備を整えたいと思います。

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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ申込みフォーム

第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催しました

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会員のクロサカです。
本日、11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催いたしました。

本日の巡墓会は昼間は天候に恵まれましたが、豪徳寺で日没が迫ってくると肌寒くなりました。
参加者21名(講師と子ども含む)の方にお集まり頂き、運営が2人でしたので至らないところもあったと思いますが、無事終了することが出来ました。
参加者の皆さまに厚く御礼申し上げます。

大圓寺・豪徳寺巡墓会にて解説した人物は以下の通りです。

大圓寺 土方勝政 幕臣、勘定奉行(釣先生、カトケン)
    横山安武 森有礼実兄、明治政府に抗し憤死(ペースケさん、カトケン)
    大山一族 大山巌元帥父、西郷隆盛叔父(クロサカ)
    西郷午次郎 西郷隆盛三男(クロサカ)
    益満休之助 薩摩藩邸焼討事件、江戸開城仲介者(カトケン)
    坂井政輝 幕臣、火付盗賊改、林述斎三男(釣先生、カトケン)
    日下部鳴鶴 彦根藩士、桜田事変殉難遺子、書家(カトケン)
    井伊直弼 大老、彦根藩主(釣先生、カトケン)
    桜田殉難烈士 彦根藩士 日下部鳴鶴の父など(釣先生、カトケン)
    遠城謙道 彦根藩士、井伊直弼の墓守(クロサカ)
    井伊直孝 豪徳寺の中興開基、招き猫伝説(クロサカ)
    




今回も大阪より墓マイラーの巨匠カジポン・マルコ残月さんがお子さんを連れてお越しいただき、他には同じく大阪から新選組などのお墓を研究しているペースケさん、歴史研究家加唐亜紀さんなどもお越し頂きました。

特にペースケさんには、鹿児島にある島津家の菩提寺福昌寺跡にある横山安武の追悼碑に刻まれた西郷隆盛の撰文の名前部分について、写真と解説がありました。

釣洋一先生には今回もオリジナルのレジュメをご用意頂き、旗本の墓碑や薩摩藩邸に出入りする者たちが江戸市中を荒らして庄内藩の攻撃を誘発し、内戦のきっかけをつくったのは大政奉還の後であり、道理がないとの趣旨の話など、お元気な姿で貴重なお話をしてくださいました。

我々幹事メンバーのレジュメは今回2人だけでしたが、解説できなかった内容もたくさんありますので、ご参加頂きました皆様には是非ゆっくりとご覧頂ければと思います。

今回は以前も行った移動式の巡墓会でしたが、電車乗り換えの予定時間を載せるなどの試みを行いました。

懇親会には9名のご参加を頂きました。

参加者の皆さまには改めて御礼申し上げます。
ご協力頂きました各寺院の皆様にもこの場を借りて御礼申し上げます。

今後の活動に関しては決まり次第、当ブログ上にて告知いたします。
引き続き当会へのご支援・ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」レジュメの訂正

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会員のクロサカです。

本日開催した第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」で配布したレジュメの訂正がありますのでお知らせします。

・P7 下から5行目「同年三年」⇒「同年(=寛政3)」
・P19 下から4行目「橋口 典助」⇒「橋口 與助」
・P20 下から6行目「財部 典八」⇒「財部 與八」
・P30 下から12行目「初明」⇒「初名」
・P32 下から14行目「加太九郎太」⇒「加田九郎太」
・P33 下から10行目「日下三郎右衛門」⇒「日下部三郎右衛門」

以上となります。
今後も訂正部分が見つかり次第、こちらで報告したいと思います。

先祖への旅 甲府を訪ねる

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会員のカトケンです。
12日(日)大圓寺・豪徳寺巡墓会が無事終わった。

参加いただいた皆さんありがとうございました。今回は初めての方が何人かお見えになり、平均年齢がぐぐっと下がったように感じた。

同じ時代を生きている方やこれからの世代にぜひ伝えていきたいことも、釣先生との掛け合いでいくつかお話しできたのではないかと自負している。皆さんはどのように感じられたか気になるところではあるが…

さて、去る10/29(土)中央線に乗って石和温泉へ。ここからバスに乗り換えて山梨県立博物館へ向かった。甲府徳川家の企画展を見るためである。

カネコ幹事からこの催しを教わり、日程を調整してようやく足を運ぶことができた。

我が先祖が幕臣になる前に仕えていたのが甲府藩であり、市町村史や国立公文書館などで個別の資史料には当たっていたが、まとまった展示を行うなど予想だにしなかったから、嬉々として向かったことは言うまでもない。

この日は企画展に合わせた古文書読解講座を無料で受講でき、甲府初代藩主徳川綱重が水戸光圀に宛てた書簡などを読解しながらその意味について解説がなされた。

講座はあっという間の1時間半で触れられなかった部分も含めてすべて釈文が用意され、帰りに配られて良い土産となる。

展示の方は入口に甲府藩の行った地検帳がずらりと並べられており、それを見て先祖やその同僚たちが1つ1つ筆と紙を持って甲府領内を回った姿を思い浮かべてみると、感慨深いものがあった。ま、これはあくまで想像である。

ところで、我が先祖(3代忠代)は寛文12年4月27日(1672・5・24)甲府武具奉行を拝命していて、甲府勤務を実際に経験している。
また、元禄8年(1694)名簿には忠代は武具奉行(100俵)、4代忠倚は甲府小普請(78俵)として父子で登場しており、二代で甲府にいたことが判っている。

だから、甲府城絵図の展示に接して、思わずどこに詰めていたのか、はたまた住んでいたのか気になってしょうがなかったが、そこまでは判明しなかった。

また、展示にも関係資料がある甲府藩の有名人関孝和や新井白石らとは、果たして同藩内で肩を並べることがあっただろうか。否、甲府藩士のほとんどは藩主同様江戸詰めであったから、彼らの足跡と先祖のそれを突き合わせて見ることができたら、その辺も明らかにできるであらう。

さらに藩主綱重・綱豊(のち6代将軍家宣)ゆかりの品々に触れ、その教養や特に綱豊は能に対する造詣が深かったことなど甲府藩の雰囲気を十分堪能でき、これほど嬉しい展示にお目にかかったことは無かった。

それ故なかなか去り難かったが、鈍行で2時間かけて帰らねばならず、バスの来る時間を計りながら閉館ギリギリまで満喫した。

この展示を大いに活かしながら、今後も先祖のことをまとめていきたい。巡墓会の準備をする合間の楽しい小旅行となった。(写真は山梨県立博物館入口の看板)

多摩地域へ来た意味

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会員のカトケンです。

毎年11月はじめの時期は、東京都文化財ウィークで日頃非公開のものが見られる。だが、今住んでいるところへ越してきて数年、忙しくてじっくり見たためしがなかった。

しっかり計画を立てて
11/3に多摩地域の3ヶ所を一気に回った。

○1つ目は国立市谷保の本田家
土方歳三の親戚で書家や医者が出た家である。

国立駅からバスに乗って向かう。この日は一橋大学のある通りに出店がたくさん出ていた。谷保天満宮の次のバス停を降りて、いつもは閉じられてある薬医門をくぐるとボランティアの方が親切に案内してくれた。(=写真)



本田家は寛永年間にこの谷保に将軍の馬乗り役を果たすために越してきた。名主として代官が寄る応接間につながる玄関と住まいとの玄関(土間)が別になった造りで、土方歳三が手習いをした3畳間もあって、普段石ばかり見ているので建物の造りや残っているものにより年代が判るというのは発見であった。

また、今は枯れてしまった大木(隣にそれを受け継いだ新しい木が6-7mの高さまで伸びている。)が当時川を隔てた石田村(日野市石田)から見えたというのは、土方家と本田家の距離がいかに近いかを感じさせるのに十分であった。

そこからバスに乗って聖蹟桜ヶ丘へ。乗り換えて
○2つ目の旧多摩聖蹟記念館に向かった。田中光顕が明治天皇を顕彰するために建てた洋館である(=写真)。ここでは水戸浪士らの書簡が展示され、明治の元勲たちの彫像のパネル(向かえの六賢堂に納められていて実見はできないが)もあって、面白かった。



この聖蹟桜ヶ丘の地(多摩市連光寺)は元々近藤勇たちの後援者富澤政恕家の土地であり、日野の佐藤家と同様、明治天皇行幸の休憩地でもある。その富澤家は今、パルテノン多摩に移されていて、いつでも見学ができるからありがたい。

そこから今度はバスで京王永山駅に向かい、橋本まで行き、JRに乗り換えて1つ目の相原で降りる。ここは近藤勇の養父周斎のふるさと町田市小山で、勇はその実家の島崎を一時名乗っていた。

ここに
○3つ目の天然理心流の門人青木家が公開されている。普段は病院を営んでおり、中には入れない。茅葺きの美しい家がまだ関東に残っているかと思うと感慨深いものがある(=写真)。



最後にそこから至近距離の青木勘太郎らが建てた「近藤先生碑(=三助、勇の養祖父)」(=写真)のある清水寺に寄って再び相原駅へ戻り、この日の行程を終えた。



大学生の時分、高知から静岡に戻って国鉄マンだった父に切符をつくってもらい東海道線に乗って茅ヶ崎で相模線に乗り、八王子の1つ手前片倉で京王線に乗り換えて高幡不動で行われる歳三忌に参加した。ちょうど土方の銅像ができる前の年だった。

その時、釣先生のご挨拶がちょうど唐津の箱館新選組隊士の墓がたくさん見つかったばかりで、高揚感溢れるお話ぶりであったことを今でも鮮明に覚えている。当時、若輩の小弟にはとてもお声かけなどできるはずもなかった。

この散策でそんなことを思い出し、まだまだ新選組の背景を知るには志半ばであると思い直した。課題は多いーー

伯母の7回忌 静岡市にて先祖の墓を案内

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会員のカトケンです。

土曜の夜、静岡の実家に帰った。日曜に伯母の7回忌があるからだ。

母がいつもの如く車で迎えに来てくれて、後部座席に荷物を積もうとしたら、甥と姪の熱烈な歓迎を受けて驚かされた。

何でも姉が飲み会だとかで母が子供たちを預かり、今日は泊まっていくという。

賑やかな土曜になったーー

翌朝、朝っぱら早くから起こされる。これも賑やかで笑いが止まらない。甥のホットケーキがきれいに焼けて、母と遅くまで何やら話していた姉がムリヤリ起こされて、8時前には飯を食わされた。

お寺に集まるのが11時だったから、姉はそれまでに子供たちを清水まで送って戻って来なきゃならないから、てんてこ舞いだったろう。

なんとか無事間に合い、横浜の叔母夫妻や市内にいる叔父も皆揃った。

伯母の菩提寺は義伯父の実家の墓がある沓谷の蓮永寺。

ここには我が高祖父森川雅四郎とその甥 曲直瀬正好の墓がある。

ちょうど勝海舟の両親と妹の墓碑のすぐ左上だ。伯母の墓に線香をあげたあと、少し離れているが、高祖父らの墓のあるところまで行ってみようとなった。

一同士族墓地へ向かう。森川の墓で私たちとこの人物の関係を説明した。皆と血がつながった人の墓がここにあるとは知らなかったようで、叔母や叔父から見たら祖母の父であること、囲碁と槍を得意としたことが碑面に刻まれていることを説明した。

墓が土台から外されて下に置かれた状態が長く続いているため、いつか皆で修復できたら良いなと思った。

墓参前の読経のあと、ご住職に4年前この寺院で東軍慰霊祭を行ったお礼をさせてもらった。

前日、浦賀でその時静岡まで来てくださった中島三郎助のご子孫や北海道からいらした方にお目にかかっていたので、大変喜ばれていたことをお話させてもらった。「またいつでも使ってください」とおっしゃられた。

本堂に向かう途中、勝海舟の書が掛けられており、この寺の住職が海外布教に努めたことを勝が誉め称えた書だという説明を当時、ご住職がしてくださったことを思い出し、感慨深いものがあった。

寺を後にして伯母が晩年を過ごした部屋で静岡名物がちりばめられた弁当をつつきながら、思い出話に花が咲いた。やはり笑いが絶えず、また明日から仕事をがんばろうと思い直し、静岡を後にした。



(写真=我が先祖が仕えて幕臣になるきっかけになった第6代将軍家宣の肖像。山梨県立博物館の企画展看板より)

韮山、芝新銭座、日本の近代化について

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会員のカトケンです。

先週末に静岡へ帰ったついでに今や反射炉が世界遺産となった韮山を訪れた。江川坦庵の菩提寺 本立寺に代官の家来たちの墓を探すためだ。

古写真研究家M氏の助言で一度来たときに見なかった区域に足を運んでみた。新墓の裏手を藪の方へ進んでみると、前回見つけられなかった望月大象や八田篤蔵の墓があった。

望月は鈴藤勇次郎らとともに長崎海軍伝習生となった千葉小見川出身の郷士。もちろん、そこまで行かなくても幕府瓦解時の方向をめぐって松岡正平と対峙した江川家の家老クラス柏木忠俊の墓がある。坦庵女、河瀬真孝妻の墓も本堂右手の登ったところにあった。

江川邸の横にあった郷土資料館は今年閉鎖。大仁の図書館の2階に移ったが、坦庵の史料はほとんどなかった。



(写真=静岡県伊豆の国市観光文化部世界遺産課発行のパンフレットより)

韮山や大仁、伊豆長岡は今は伊豆の国市になってしまい、昭和育ちの静岡県人にはどうしても田方郡がつかないとしっくりこない。同郡の名は現在、函南町に残るのみとなっている。

土曜日は江戸の江川屋敷とその鉄砲調練場跡を訪ねてJR浜松町駅で降りた。古地図を見ると、増上寺の山門からまっすぐ海側へ来たところが調練場の始まりで、ちょうど紀州藩邸のあった旧芝離宮恩賜庭園の入口がある。ここから浜離宮の間に鉄砲調練場があったようだ。



(写真=万延2年(1861)芝口南西久保愛宕下の図の一部。鉄砲調練場の北に「江川太郎左衛門」その西に「新銭座丁」とある。)

江川屋敷は今のイタリア公園辺りになるだろうか。江川門下の鈴藤が住まいとした芝新銭座の名前がJRのガード下にかろうじて残っていた。残念ながら江川ゆかりの場所を示す案内板は作られていないようで、見当たらなかった。

JRのガードを内陸側にくぐって少し行くと福沢近藤両翁記念碑がある。慶應義塾と攻玉社が一時置かれた場所で、港区のエコプラザの前に建っている。両黌とも今もなお教育機関として人材を輩出しており、学祖への敬慕がこうした案内を残す行為に現われているのだろう。

江川のこともせっかく反射炉が近代産業の分野で世界遺産になってはみたものの、それを進めた人物たちに光を当てなければ、明日を担う人物は出て来まい。

江戸時代が終わらぬうちに科学に目覚めた先人たちーーこの助走がなければ近代国家日本が果たしてあり得たかどうか。いち早く反射炉を造った幕府や佐賀藩の人たちについて、もっと詳しく知らなければこの証明はでき兼ねるというものだ。

帰りに新橋に出る途中、イタリア街を散策。欧州の雰囲気はJRAのビルがピカイチ。モメント汐留のツリーもなかなか素敵だが、階段下から見上げた橋の街灯がフランスっぽかった。

もう8年欧州に足を運んでいないが、日本にいながらにして少しヨーロッパを味わえて帰途に着いたーー

新年のご挨拶

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会員のカネコです。
新年あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願いいたします。

昨年は第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」、第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催することができ、多くの方にご参加頂きましたこと改めて御礼申し上げます。

本年の当会の活動については決まり次第、当ブログにて発表したいと思っております。
その他にも、普段のお墓調査に関する記事も時折更新して行きたいと思っております。

本年が皆様にとって良い1年になることを祈念いたします。
引き続き、当会へのご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

秋の巡墓会まであと3週間余り

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会員のカトケンです。

ただいま秋の巡墓会追い込み中。仕事の合間に通勤電車などで原稿書きや資料読み込み。疲れますが、気分転換になります。

我ながら、難しい課題を己に課してしまったー桜田門外の変に、江戸薩摩藩邸焼き討ちーと思いつつも。こんな話をしたら反応してくれるかなとか、この話に食いついてくれるかなど、楽しみもひとしお。

レジュメの写真も撮りにいかないかん。最近はフィルム撮りばかりであったため、これも楽しみながら撮りたいところ。

残り3週間ばかり、掃苔行脚の〆切や来年のことも考えながら進めていきます。どうぞ、お楽しみに。

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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
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大圓寺・豪徳寺巡墓会迫る!

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会員のクロサカです。

今週末に迫ってきた巡墓会ですが、お客様により良い内容のレジュメを届けるために最終調整を行っています。
当日の予報だと、晴れ時々曇りで最高気温も15度くらいとのことで、少し肌寒いかもしれません。
なので、1枚羽織るものを用意してきていただいた方が良いと思います。

では、11月12日(日)の巡墓会開催の成功を祈りつつ、準備を整えたいと思います。

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詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
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第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催しました

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会員のクロサカです。
本日、11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催いたしました。

本日の巡墓会は昼間は天候に恵まれましたが、豪徳寺で日没が迫ってくると肌寒くなりました。
参加者21名(講師と子ども含む)の方にお集まり頂き、運営が2人でしたので至らないところもあったと思いますが、無事終了することが出来ました。
参加者の皆さまに厚く御礼申し上げます。

大圓寺・豪徳寺巡墓会にて解説した人物は以下の通りです。

大圓寺 土方勝政 幕臣、勘定奉行(釣先生、カトケン)
    横山安武 森有礼実兄、明治政府に抗し憤死(ペースケさん、カトケン)
    大山一族 大山巌元帥父、西郷隆盛叔父(クロサカ)
    西郷午次郎 西郷隆盛三男(クロサカ)
    益満休之助 薩摩藩邸焼討事件、江戸開城仲介者(カトケン)
    坂井政輝 幕臣、火付盗賊改、林述斎三男(釣先生、カトケン)
豪徳寺 日下部鳴鶴 彦根藩士、桜田事変殉難遺子、書家(カトケン)
    井伊直弼 大老、彦根藩主(釣先生、カトケン)
    桜田殉難烈士 彦根藩士 日下部鳴鶴の父など(釣先生、カトケン)
    遠城謙道 彦根藩士、井伊直弼の墓守(クロサカ)
    井伊直孝 豪徳寺の中興開基、招き猫伝説(クロサカ)
    




今回も大阪より墓マイラーの巨匠カジポン・マルコ残月さんがお子さんを連れてお越しいただき、他には同じく大阪から新選組などのお墓を研究しているペースケさん、歴史研究家加唐亜紀さんなどもお越し頂きました。

特にペースケさんには、鹿児島にある島津家の菩提寺福昌寺跡にある横山安武の追悼碑に刻まれた西郷隆盛の撰文の名前部分について、写真と解説がありました。

釣洋一先生には今回もオリジナルのレジュメをご用意頂き、旗本の墓碑や薩摩藩邸に出入りする者たちが江戸市中を荒らして庄内藩の攻撃を誘発し、内戦のきっかけをつくったのは大政奉還の後であり、道理がないとの趣旨の話など、お元気な姿で貴重なお話をしてくださいました。

我々幹事メンバーのレジュメは今回2人だけでしたが、解説できなかった内容もたくさんありますので、ご参加頂きました皆様には是非ゆっくりとご覧頂ければと思います。

今回は以前も行った移動式の巡墓会でしたが、電車乗り換えの予定時間を載せるなどの試みを行いました。

懇親会には9名のご参加を頂きました。

参加者の皆さまには改めて御礼申し上げます。
ご協力頂きました各寺院の皆様にもこの場を借りて御礼申し上げます。

今後の活動に関しては決まり次第、当ブログ上にて告知いたします。
引き続き当会へのご支援・ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」レジュメの訂正

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会員のクロサカです。

本日開催した第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」で配布したレジュメの訂正がありますのでお知らせします。

・P7 下から5行目「同年三年」⇒「同年(=寛政3)」
・P19 下から4行目「橋口 典助」⇒「橋口 與助」
・P20 下から6行目「財部 典八」⇒「財部 與八」
・P30 下から12行目「初明」⇒「初名」
・P32 下から14行目「加太九郎太」⇒「加田九郎太」
・P33 下から10行目「日下三郎右衛門」⇒「日下部三郎右衛門」

以上となります。
今後も訂正部分が見つかり次第、こちらで報告したいと思います。

先祖への旅 甲府を訪ねる

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会員のカトケンです。
12日(日)大圓寺・豪徳寺巡墓会が無事終わった。

参加いただいた皆さんありがとうございました。今回は初めての方が何人かお見えになり、平均年齢がぐぐっと下がったように感じた。

同じ時代を生きている方やこれからの世代にぜひ伝えていきたいことも、釣先生との掛け合いでいくつかお話しできたのではないかと自負している。皆さんはどのように感じられたか気になるところではあるが…

さて、去る10/29(土)中央線に乗って石和温泉へ。ここからバスに乗り換えて山梨県立博物館へ向かった。甲府徳川家の企画展を見るためである。

カネコ幹事からこの催しを教わり、日程を調整してようやく足を運ぶことができた。

我が先祖が幕臣になる前に仕えていたのが甲府藩であり、市町村史や国立公文書館などで個別の資史料には当たっていたが、まとまった展示を行うなど予想だにしなかったから、嬉々として向かったことは言うまでもない。

この日は企画展に合わせた古文書読解講座を無料で受講でき、甲府初代藩主徳川綱重が水戸光圀に宛てた書簡などを読解しながらその意味について解説がなされた。

講座はあっという間の1時間半で触れられなかった部分も含めてすべて釈文が用意され、帰りに配られて良い土産となる。

展示の方は入口に甲府藩の行った地検帳がずらりと並べられており、それを見て先祖やその同僚たちが1つ1つ筆と紙を持って甲府領内を回った姿を思い浮かべてみると、感慨深いものがあった。ま、これはあくまで想像である。

ところで、我が先祖(3代忠代)は寛文12年4月27日(1672・5・24)甲府武具奉行を拝命していて、甲府勤務を実際に経験している。
また、元禄8年(1694)名簿には忠代は武具奉行(100俵)、4代忠倚は甲府小普請(78俵)として父子で登場しており、二代で甲府にいたことが判っている。

だから、甲府城絵図の展示に接して、思わずどこに詰めていたのか、はたまた住んでいたのか気になってしょうがなかったが、そこまでは判明しなかった。

また、展示にも関係資料がある甲府藩の有名人関孝和や新井白石らとは、果たして同藩内で肩を並べることがあっただろうか。否、甲府藩士のほとんどは藩主同様江戸詰めであったから、彼らの足跡と先祖のそれを突き合わせて見ることができたら、その辺も明らかにできるであらう。

さらに藩主綱重・綱豊(のち6代将軍家宣)ゆかりの品々に触れ、その教養や特に綱豊は能に対する造詣が深かったことなど甲府藩の雰囲気を十分堪能でき、これほど嬉しい展示にお目にかかったことは無かった。

それ故なかなか去り難かったが、鈍行で2時間かけて帰らねばならず、バスの来る時間を計りながら閉館ギリギリまで満喫した。

この展示を大いに活かしながら、今後も先祖のことをまとめていきたい。巡墓会の準備をする合間の楽しい小旅行となった。(写真は山梨県立博物館入口の看板)

多摩地域へ来た意味

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会員のカトケンです。

毎年11月はじめの時期は、東京都文化財ウィークで日頃非公開のものが見られる。だが、今住んでいるところへ越してきて数年、忙しくてじっくり見たためしがなかった。

しっかり計画を立てて
11/3に多摩地域の3ヶ所を一気に回った。

○1つ目は国立市谷保の本田家
土方歳三の親戚で書家や医者が出た家である。

国立駅からバスに乗って向かう。この日は一橋大学のある通りに出店がたくさん出ていた。谷保天満宮の次のバス停を降りて、いつもは閉じられてある薬医門をくぐるとボランティアの方が親切に案内してくれた。(=写真)



本田家は寛永年間にこの谷保に将軍の馬乗り役を果たすために越してきた。名主として代官が寄る応接間につながる玄関と住まいとの玄関(土間)が別になった造りで、土方歳三が手習いをした3畳間もあって、普段石ばかり見ているので建物の造りや残っているものにより年代が判るというのは発見であった。

また、今は枯れてしまった大木(隣にそれを受け継いだ新しい木が6-7mの高さまで伸びている。)が当時川を隔てた石田村(日野市石田)から見えたというのは、土方家と本田家の距離がいかに近いかを感じさせるのに十分であった。

そこからバスに乗って聖蹟桜ヶ丘へ。乗り換えて
○2つ目の旧多摩聖蹟記念館に向かった。田中光顕が明治天皇を顕彰するために建てた洋館である(=写真)。ここでは水戸浪士らの書簡が展示され、明治の元勲たちの彫像のパネル(向かえの六賢堂に納められていて実見はできないが)もあって、面白かった。



この聖蹟桜ヶ丘の地(多摩市連光寺)は元々近藤勇たちの後援者富澤政恕家の土地であり、日野の佐藤家と同様、明治天皇行幸の休憩地でもある。その富澤家は今、パルテノン多摩に移されていて、いつでも見学ができるからありがたい。

そこから今度はバスで京王永山駅に向かい、橋本まで行き、JRに乗り換えて1つ目の相原で降りる。ここは近藤勇の養父周斎のふるさと町田市小山で、勇はその実家の島崎を一時名乗っていた。

ここに
○3つ目の天然理心流の門人青木家が公開されている。普段は病院を営んでおり、中には入れない。茅葺きの美しい家がまだ関東に残っているかと思うと感慨深いものがある(=写真)。



最後にそこから至近距離の青木勘太郎らが建てた「近藤先生碑(=三助、勇の養祖父)」(=写真)のある清水寺に寄って再び相原駅へ戻り、この日の行程を終えた。



大学生の時分、高知から静岡に戻って国鉄マンだった父に切符をつくってもらい東海道線に乗って茅ヶ崎で相模線に乗り、八王子の1つ手前片倉で京王線に乗り換えて高幡不動で行われる歳三忌に参加した。ちょうど土方の銅像ができる前の年だった。

その時、釣先生のご挨拶がちょうど唐津の箱館新選組隊士の墓がたくさん見つかったばかりで、高揚感溢れるお話ぶりであったことを今でも鮮明に覚えている。当時、若輩の小弟にはとてもお声かけなどできるはずもなかった。

この散策でそんなことを思い出し、まだまだ新選組の背景を知るには志半ばであると思い直した。課題は多いーー

伯母の7回忌 静岡市にて先祖の墓を案内

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会員のカトケンです。

土曜の夜、静岡の実家に帰った。日曜に伯母の7回忌があるからだ。

母がいつもの如く車で迎えに来てくれて、後部座席に荷物を積もうとしたら、甥と姪の熱烈な歓迎を受けて驚かされた。

何でも姉が飲み会だとかで母が子供たちを預かり、今日は泊まっていくという。

賑やかな土曜になったーー

翌朝、朝っぱら早くから起こされる。これも賑やかで笑いが止まらない。甥のホットケーキがきれいに焼けて、母と遅くまで何やら話していた姉がムリヤリ起こされて、8時前には飯を食わされた。

お寺に集まるのが11時だったから、姉はそれまでに子供たちを清水まで送って戻って来なきゃならないから、てんてこ舞いだったろう。

なんとか無事間に合い、横浜の叔母夫妻や市内にいる叔父も皆揃った。

伯母の菩提寺は義伯父の実家の墓がある沓谷の蓮永寺。

ここには我が高祖父森川雅四郎とその甥 曲直瀬正好の墓がある。

ちょうど勝海舟の両親と妹の墓碑のすぐ左上だ。伯母の墓に線香をあげたあと、少し離れているが、高祖父らの墓のあるところまで行ってみようとなった。

一同士族墓地へ向かう。森川の墓で私たちとこの人物の関係を説明した。皆と血がつながった人の墓がここにあるとは知らなかったようで、叔母や叔父から見たら祖母の父であること、囲碁と槍を得意としたことが碑面に刻まれていることを説明した。

墓が土台から外されて下に置かれた状態が長く続いているため、いつか皆で修復できたら良いなと思った。

墓参前の読経のあと、ご住職に4年前この寺院で東軍慰霊祭を行ったお礼をさせてもらった。

前日、浦賀でその時静岡まで来てくださった中島三郎助のご子孫や北海道からいらした方にお目にかかっていたので、大変喜ばれていたことをお話させてもらった。「またいつでも使ってください」とおっしゃられた。

本堂に向かう途中、勝海舟の書が掛けられており、この寺の住職が海外布教に努めたことを勝が誉め称えた書だという説明を当時、ご住職がしてくださったことを思い出し、感慨深いものがあった。

寺を後にして伯母が晩年を過ごした部屋で静岡名物がちりばめられた弁当をつつきながら、思い出話に花が咲いた。やはり笑いが絶えず、また明日から仕事をがんばろうと思い直し、静岡を後にした。



(写真=我が先祖が仕えて幕臣になるきっかけになった第6代将軍家宣の肖像。山梨県立博物館の企画展看板より)

韮山、芝新銭座、日本の近代化について

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会員のカトケンです。

先週末に静岡へ帰ったついでに今や反射炉が世界遺産となった韮山を訪れた。江川坦庵の菩提寺 本立寺に代官の家来たちの墓を探すためだ。

古写真研究家M氏の助言で一度来たときに見なかった区域に足を運んでみた。新墓の裏手を藪の方へ進んでみると、前回見つけられなかった望月大象や八田篤蔵の墓があった。

望月は鈴藤勇次郎らとともに長崎海軍伝習生となった千葉小見川出身の郷士。もちろん、そこまで行かなくても幕府瓦解時の方向をめぐって松岡正平と対峙した江川家の家老クラス柏木忠俊の墓がある。坦庵女、河瀬真孝妻の墓も本堂右手の登ったところにあった。

江川邸の横にあった郷土資料館は今年閉鎖。大仁の図書館の2階に移ったが、坦庵の史料はほとんどなかった。



(写真=静岡県伊豆の国市観光文化部世界遺産課発行のパンフレットより)

韮山や大仁、伊豆長岡は今は伊豆の国市になってしまい、昭和育ちの静岡県人にはどうしても田方郡がつかないとしっくりこない。同郡の名は現在、函南町に残るのみとなっている。

土曜日は江戸の江川屋敷とその鉄砲調練場跡を訪ねてJR浜松町駅で降りた。古地図を見ると、増上寺の山門からまっすぐ海側へ来たところが調練場の始まりで、ちょうど紀州藩邸のあった旧芝離宮恩賜庭園の入口がある。ここから浜離宮の間に鉄砲調練場があったようだ。



(写真=万延2年(1861)芝口南西久保愛宕下の図の一部。鉄砲調練場の北に「江川太郎左衛門」その西に「新銭座丁」とある。)

江川屋敷は今のイタリア公園辺りになるだろうか。江川門下の鈴藤が住まいとした芝新銭座の名前がJRのガード下にかろうじて残っていた。残念ながら江川ゆかりの場所を示す案内板は作られていないようで、見当たらなかった。

JRのガードを内陸側にくぐって少し行くと福沢近藤両翁記念碑がある。慶應義塾と攻玉社が一時置かれた場所で、港区のエコプラザの前に建っている。両黌とも今もなお教育機関として人材を輩出しており、学祖への敬慕がこうした案内を残す行為に現われているのだろう。

江川のこともせっかく反射炉が近代産業の分野で世界遺産になってはみたものの、それを進めた人物たちに光を当てなければ、明日を担う人物は出て来まい。

江戸時代が終わらぬうちに科学に目覚めた先人たちーーこの助走がなければ近代国家日本が果たしてあり得たかどうか。いち早く反射炉を造った幕府や佐賀藩の人たちについて、もっと詳しく知らなければこの証明はでき兼ねるというものだ。

帰りに新橋に出る途中、イタリア街を散策。欧州の雰囲気はJRAのビルがピカイチ。モメント汐留のツリーもなかなか素敵だが、階段下から見上げた橋の街灯がフランスっぽかった。

もう8年欧州に足を運んでいないが、日本にいながらにして少しヨーロッパを味わえて帰途に着いたーー

新年のご挨拶

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会員のカネコです。
新年あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願いいたします。

昨年は第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」、第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催することができ、多くの方にご参加頂きましたこと改めて御礼申し上げます。

本年の当会の活動については決まり次第、当ブログにて発表したいと思っております。
その他にも、普段のお墓調査に関する記事も時折更新して行きたいと思っております。

本年が皆様にとって良い1年になることを祈念いたします。
引き続き、当会へのご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

当会公式Instagram開設しました

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会員の金子です。
当会の公式Instagramを開設しました。

ブログの投稿は長編になることが多く、更新が滞ることが多かったので、もう少し気軽に情報発信ができるようInstagramの方でも日々の活動をお知らせできるようにしました。

近日中に当会が参加するイベントと当会初の出版企画について発表する予定です。
当ブログでも詳細発表しますが、Instagramやtwitterでも情報を更新いたします。
フォローして頂きますと嬉しく思います。
よろしくお願いいたします。

Instagram

twitter

今年の活動と本の初出版のお知らせ

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会員のカトケンです。長のごぶさたをいたしました。

当会の活動も来年で10年の節目を迎えます。

カネコ会員からも予告があったように大変ありがたいお話をいただき、当会メンバーであるカネコ、クロサカ、カトケンの3人共著で本を出すことになりました。

版元は、杉崎忠博様が代表を務める出版舎「風狂童子」より、また菊竹祐二様のデザイン協力を得ています。

そのため、この春は執筆に専念し、秋にあるイベントの一環として巡墓会を行い、それと同時に本を出版します。ともに古写真研究家森重和雄様のプロデュースによるものです。

内容は東京谷中にある歴史上の人物のお墓のガイドブックです。今までの本にない独創性を入れつつ、どなたでも利用しやすいものにします。

時代は幕末、対象人物は箱館戦争と幕府方の関係者です。今年、箱館戦争の開始から150年、品川を脱走し北海道へわたって翌年まで戦い続けた群像を中心として取り上げます。

さらに、東京谷中にある榎本武揚たちに縁のあった人、戊辰戦争の東軍や幕府方で欠くべからざる人、敗北を背負ってその後の時代を生き抜いた人も載せています。

今秋に行うイベントは、11月に谷中の一乗寺にて開催。「箱館戦争関係者慰霊祭 in 谷中」と銘打ち、榎本武揚のご子孫による講演と法要を15時から予定。略称「流星忌」です。

その前に2時間余り、当会が日暮里から一乗寺までを歩いて本に載っている人物の一部を解説します。それが今年唯一の巡墓会となります。

本とイベントの詳細はこのブログにアップされるチラシをご覧いただきたいと思います。

当会は平成21年(2009)から都内の寺院や霊園にある墓を解説する巡墓会を継続して開催。春と秋の年2回を原則として、平成29年(2017)まで15回行ってきました。

地道にコツコツやって来たこと、その都度メンバーの思い入れを吹き込んできたことが陽の目を見たのだと確信していますが、それも巡墓会に来てくださる様々な方々の激励があったからこそと思っています。

毎度恒例の打ち上げでも皆様と親交を深め、いつも応援をいただいてきました。

何よりも立ち上げからご指導いただいている歴史作家釣洋一先生には、いつも我々の行き届かないお話や資料提供してくださり、鬼に金棒を得たように心強く感じてきました。

このような数限りないご支援を今までいただいてきたことは、感謝してもしきれないと一同感じているところです。

当会はこれからも皆様に喜んでいただけるものをつくっていくべく、これを新たなスタートとしてより一層気を引き締めて参りますので、今度ともお導き・お引き立てよろしくお願いいたします。

先ほど書きましたように詳細はチラシをご覧いただき、本の注文は版元に直接申し込むほか、このブログでも申し込みができるよう準備を進めていますので、今しばらくお待ちいただきたいと思います。






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流星忌・ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の告知チラシが出来ました

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会員のカネコです。

先日、当会会員カトケンさんより告知がありましたが、11月17日(土)開催の「流星忌-箱館戦争関係者慰霊祭in谷中-」と当会幹事3名執筆によるガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』出版のご案内チラシが出来ました。





チラシへの記載が間に合わなかったのですが、流星忌は参加費(記念品代込)2,000円となります。

3月11日(日)の第12回山南忌ではカトケンさんより流星忌とガイドブックの案内をいたしました。今後も各種イベントにてご案内する予定ですので、よろしくお願いいたします。
ガイドブックの購入フォームも今後開設いたしますので、随時最新情報を更新いたします。
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