会員のクロサカです。
今回ご紹介するお話は個人の墓や家の墓を目的としたものではなく、中途報告的な内容になります。
さて、都立霊園面積として最大規模を誇る霊園と言えば、多磨霊園です。
多磨霊園には多くの近代以降の著名人や自分の研究対象である旧華族の墓所もたくさんあります。
そんななか霊園正門に近い3,4,5,7区に江戸期の古い石塔を多数見ることが出来ます。
例えば、下の写真は3区にある旗本大久保家の墓所です。
この大久保家は、徳川草創期の重臣大久保忠隣の三男として生まれた大久保教隆を祖とする交替寄合6000石の大久保家です。
初代教隆は幼少期から秀忠に仕え、関ヶ原合戦の際も秀忠軍に従軍していましたが、若年を理由に江戸に戻されています。
慶長11年には、3000石を与えられ、小姓組番頭となります。同時期の同輩に水野忠元、井上正就、板倉重宗、日下部正冬、成瀬正武という江戸幕府草創期を支えた人物が並んでいます。
しかし、いわゆる大久保長安事件前後の大久保忠隣の改易などの騒動をきっかけに教隆にも連座し、改易されています。
後に赦されて、書院番頭を務めて3000石を加増され、大番頭となりました。
教隆没後は子の教勝が継ぎ、代々6000石を継承していきます。ちなみに二男の忠朝は、本家忠職の養子となり、小田原藩主(後期大久保氏)の初代藩主となります。
前置きが長くなりましたが、この教隆以降代々の墓所は『寛政譜』によると、上野桜木町の護国院となっています。
次に挙げるのも同じく護国院を菩提寺としていた狩野洞雲益信以下代々の墓所です。こちらも3区にあります。
この狩野家は駿河台狩野家と呼ばれ、狩野洞雲を初代とする幕府表絵師です。
上の写真は初代洞雲の墓碑です。
洞雲は、探幽の養子で彫金家の後藤家に生まれ、伯父にあたる後藤覚乗は後藤勘兵衛家の初代となります。
この後藤家については、春の深川巡墓会や過去の記事でカトケンさんが紹介しております。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催しました
先祖への旅を続けながら江戸と京都を楽しむ
狩野一族についても前々回の池上本門寺巡墓会でカトケンさんが紹介されています。
第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」を開催しました
さて、初めに3,4,5,7区が寺院専属区画となっていると述べましたが、何故そのような場所が必要になったのかというと、関東大震災の復興による区画整理が要因となっています。
東京都公園課から刊行されている『多磨霊園』には14ヶ寺、墓碑数約1700基が移されてたと記されています。
そのほか6,7,11区には、昭和初期の都市開発で移ってきた寺院墓地があります。
しかし、これらの墓地の詳しい場所は記されておらず、調査を困難を窮めます。
そこで今回多磨霊園を実地調査し、一部の寺院墓地を探して参りましたので、ご紹介します。
それらの寺院墓地を調査する際に参考にしてください。
3区
護国院、喜運寺、芝清光寺、池上本門寺、小日向妙足院
4区
青松寺、三念寺、祥山寺、築地萬行寺、浅草九品寺
5区
浅草幡隨院子院智白院
6区
雲光院子院照光院、松平西福寺、幸龍寺、天徳寺
その他多数
青山霊園
以上となります。
この他にも寺院ごと多磨霊園周辺に移動してきた浅草普賢寺や麻布大長寺、浅草誓願寺などもあるので今後も調査していきたいと思います。
最後に3区で見つけた山鹿素行の末裔で弘前藩士となった山鹿家の墓所を掲載して締め括りたいと思います。
長々とご拝読ありがとうございました。
今回ご紹介するお話は個人の墓や家の墓を目的としたものではなく、中途報告的な内容になります。
さて、都立霊園面積として最大規模を誇る霊園と言えば、多磨霊園です。
多磨霊園には多くの近代以降の著名人や自分の研究対象である旧華族の墓所もたくさんあります。
そんななか霊園正門に近い3,4,5,7区に江戸期の古い石塔を多数見ることが出来ます。
例えば、下の写真は3区にある旗本大久保家の墓所です。
この大久保家は、徳川草創期の重臣大久保忠隣の三男として生まれた大久保教隆を祖とする交替寄合6000石の大久保家です。
初代教隆は幼少期から秀忠に仕え、関ヶ原合戦の際も秀忠軍に従軍していましたが、若年を理由に江戸に戻されています。
慶長11年には、3000石を与えられ、小姓組番頭となります。同時期の同輩に水野忠元、井上正就、板倉重宗、日下部正冬、成瀬正武という江戸幕府草創期を支えた人物が並んでいます。
しかし、いわゆる大久保長安事件前後の大久保忠隣の改易などの騒動をきっかけに教隆にも連座し、改易されています。
後に赦されて、書院番頭を務めて3000石を加増され、大番頭となりました。
教隆没後は子の教勝が継ぎ、代々6000石を継承していきます。ちなみに二男の忠朝は、本家忠職の養子となり、小田原藩主(後期大久保氏)の初代藩主となります。
前置きが長くなりましたが、この教隆以降代々の墓所は『寛政譜』によると、上野桜木町の護国院となっています。
次に挙げるのも同じく護国院を菩提寺としていた狩野洞雲益信以下代々の墓所です。こちらも3区にあります。
この狩野家は駿河台狩野家と呼ばれ、狩野洞雲を初代とする幕府表絵師です。
上の写真は初代洞雲の墓碑です。
洞雲は、探幽の養子で彫金家の後藤家に生まれ、伯父にあたる後藤覚乗は後藤勘兵衛家の初代となります。
この後藤家については、春の深川巡墓会や過去の記事でカトケンさんが紹介しております。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催しました
先祖への旅を続けながら江戸と京都を楽しむ
狩野一族についても前々回の池上本門寺巡墓会でカトケンさんが紹介されています。
第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」を開催しました
さて、初めに3,4,5,7区が寺院専属区画となっていると述べましたが、何故そのような場所が必要になったのかというと、関東大震災の復興による区画整理が要因となっています。
東京都公園課から刊行されている『多磨霊園』には14ヶ寺、墓碑数約1700基が移されてたと記されています。
そのほか6,7,11区には、昭和初期の都市開発で移ってきた寺院墓地があります。
しかし、これらの墓地の詳しい場所は記されておらず、調査を困難を窮めます。
そこで今回多磨霊園を実地調査し、一部の寺院墓地を探して参りましたので、ご紹介します。
それらの寺院墓地を調査する際に参考にしてください。
3区
護国院、喜運寺、芝清光寺、池上本門寺、小日向妙足院
4区
青松寺、三念寺、祥山寺、築地萬行寺、浅草九品寺
5区
浅草幡隨院子院智白院
6区
雲光院子院照光院、松平西福寺、幸龍寺、天徳寺
その他多数
青山霊園
以上となります。
この他にも寺院ごと多磨霊園周辺に移動してきた浅草普賢寺や麻布大長寺、浅草誓願寺などもあるので今後も調査していきたいと思います。
最後に3区で見つけた山鹿素行の末裔で弘前藩士となった山鹿家の墓所を掲載して締め括りたいと思います。
長々とご拝読ありがとうございました。