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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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多磨霊園と寺院専属区画

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会員のクロサカです。
今回ご紹介するお話は個人の墓や家の墓を目的としたものではなく、中途報告的な内容になります。
さて、都立霊園面積として最大規模を誇る霊園と言えば、多磨霊園です。
多磨霊園には多くの近代以降の著名人や自分の研究対象である旧華族の墓所もたくさんあります。
そんななか霊園正門に近い3,4,5,7区に江戸期の古い石塔を多数見ることが出来ます。
例えば、下の写真は3区にある旗本大久保家の墓所です。



この大久保家は、徳川草創期の重臣大久保忠隣の三男として生まれた大久保教隆を祖とする交替寄合6000石の大久保家です。
初代教隆は幼少期から秀忠に仕え、関ヶ原合戦の際も秀忠軍に従軍していましたが、若年を理由に江戸に戻されています。
慶長11年には、3000石を与えられ、小姓組番頭となります。同時期の同輩に水野忠元、井上正就、板倉重宗、日下部正冬、成瀬正武という江戸幕府草創期を支えた人物が並んでいます。
しかし、いわゆる大久保長安事件前後の大久保忠隣の改易などの騒動をきっかけに教隆にも連座し、改易されています。
後に赦されて、書院番頭を務めて3000石を加増され、大番頭となりました。
教隆没後は子の教勝が継ぎ、代々6000石を継承していきます。ちなみに二男の忠朝は、本家忠職の養子となり、小田原藩主(後期大久保氏)の初代藩主となります。
前置きが長くなりましたが、この教隆以降代々の墓所は『寛政譜』によると、上野桜木町の護国院となっています。
次に挙げるのも同じく護国院を菩提寺としていた狩野洞雲益信以下代々の墓所です。こちらも3区にあります。



この狩野家は駿河台狩野家と呼ばれ、狩野洞雲を初代とする幕府表絵師です。
上の写真は初代洞雲の墓碑です。
洞雲は、探幽の養子で彫金家の後藤家に生まれ、伯父にあたる後藤覚乗は後藤勘兵衛家の初代となります。
この後藤家については、春の深川巡墓会や過去の記事でカトケンさんが紹介しております。

第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催しました
先祖への旅を続けながら江戸と京都を楽しむ

狩野一族についても前々回の池上本門寺巡墓会でカトケンさんが紹介されています。

第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」を開催しました


さて、初めに3,4,5,7区が寺院専属区画となっていると述べましたが、何故そのような場所が必要になったのかというと、関東大震災の復興による区画整理が要因となっています。
東京都公園課から刊行されている『多磨霊園』には14ヶ寺、墓碑数約1700基が移されてたと記されています。
そのほか6,7,11区には、昭和初期の都市開発で移ってきた寺院墓地があります。
しかし、これらの墓地の詳しい場所は記されておらず、調査を困難を窮めます。
そこで今回多磨霊園を実地調査し、一部の寺院墓地を探して参りましたので、ご紹介します。
それらの寺院墓地を調査する際に参考にしてください。

3区
護国院、喜運寺、芝清光寺、池上本門寺、小日向妙足院
4区
青松寺、三念寺、祥山寺、築地萬行寺、浅草九品寺
5区
浅草幡隨院子院智白院
6区
雲光院子院照光院、松平西福寺、幸龍寺、天徳寺
その他多数
青山霊園

以上となります。
この他にも寺院ごと多磨霊園周辺に移動してきた浅草普賢寺や麻布大長寺、浅草誓願寺などもあるので今後も調査していきたいと思います。

最後に3区で見つけた山鹿素行の末裔で弘前藩士となった山鹿家の墓所を掲載して締め括りたいと思います。
長々とご拝読ありがとうございました。



































御楯組血盟書

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会員のカトケンです。

今回は閑話休題ーー墓は出てこない。

地元静岡の市立美術館で「坂本龍馬没後150年特別展」が開催されている。東京国立博物館や長崎などを巡回し、なぜか静岡も入っている。家康と慶喜展など、通常の美術館よりも多く歴史物の展示を催すし、将来市の歴史博物館を創るための布石なのかもしれない。(=写真)



それほど大きくない場所に午前中から行列が並んでいるのに辟易して入場を諦めてしまった。

いや、フラッと寄った観光案内所で手にしたチラシーー浅間神社内の文化財資料館で催されている「御楯組血盟書」の方が気になったから、そちらを優先したといった方が正確だろう。

入ってみると、いつものとおり閑散とした状況でじっくり展示物を眺めるにはうってつけ。来客は、小弟と同様に食い入るように観ている青年と、若いお母さんが少々関心がありそうな親子連れと筆者のみ。

興味を引いたのは、井上馨自賛肖像に載っていた狂歌「寝つ興津 浮世の外の老いの身は用があつてもむかひ横砂」
小弟には「用がありても」と読めたがどうだろう。それはともかく、清水の地名を「起きつ」や「寄越すな」に引っかけるあたり、確かに世外侯が今、埋蔵文化財センターのある場所に住んでいた実感を湧かせるものがある。

これを詠んだ状況を第3次伊藤内閣への入閣を断ってと解説にあった。

井上の条約改正がうまくいかなかったことをどのように書いてあるかーー解説シートをあとで読んでみると、明治日本の最優先課題であった不平等条約の改正につき治外法権の撤廃項目を15年も取り組んだとある。

他方、前任の薩摩出身外相寺島宗則は関税自主権の回復項目に力を入れていたようだ。

皆さんよく御存知のとおり、井上の取り組んだ前者は紀州出の陸奥宗光が、寺島が挑んだ後者は宮崎出の小村寿太郎が改正させた。

こうしてみると、薩長閣僚は目先の功績を焦って独立国家としてのあるべき姿を取り戻そうとしていたのか疑いたくなる面がある。時期もあったであろうが。

それにしても、井上蔵相時代部下だった渋沢栄一や益田孝が上司井上を辛辣に評しているのが面白い。

肝心の御楯組血盟書の署名ページが展示されておらず、筆者が20代のときに取り組んだ「赤根幹之丞 貞」(武人の通称で知られ、諱は貞一)の署名部分を見ることができなかった。活字化して配布されたものには赤根の「根」が「禰」になってはいるのだがーー赤根は周防の離島である柱島(現在岩国市)から出てきた奇兵隊総督で、裏切者の汚名を着せられ藩内で処刑された人物。

まだ9月まで展示が続き、署名部分は入替後に見られるようだから、今一度足を運んでみたい。今回は血盟書の旧所蔵者楫取素彦(久坂玄瑞未亡人の後の夫)の印が保管箱に押されているのを見ることができたので善しとしよう。

この御楯組血盟書とは、井上が文久2年(1862)に高杉晋作や楫取を除く上記長藩士たちとともに英国公使館焼き討ちの前に攘夷の誓いを立てた物騒な代物である。楫取の実兄松島剛蔵も署名者、井上は志道(しじ)家に養子に行っていたとき。

静岡市でまさか長州ものの展示が見られるなど、井上の別荘があったとはいえ「大政奉還150年」なら何でもアリだなと資料館を後にした。(写真はチラシ)

とことん実録にこだわる

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会員のカトケンです。

巡墓会に向けた下調べは大事な作業で手を抜くわけにはいかない。何せノンフィクションだから、いい加減な原稿を書いて後で突っ込まれたら手の施しようが無くなる。

そこで私は必ず現地を踏むことにしている。前回の桑名がそうだ。

霊巌寺の森陳明の石碑から実家「小河内」家を割り出し、桑名の図書館郷土コーナーで照源寺が菩提寺との手掛かりを得てたどり着いた(=写真)



また、矢部駿河守の流刑地と知り、名古屋から桑名に向かう列車で郊外の薬師堂なる場所に石碑が建てられているという。

着いたら早速レンタサイクルを借りて真っ先に薬師堂へ(=写真)





矢部の無念、父の期待、養子の処遇など頭を抱える案件が山積。途中のスーパーで買った弁当を食いながら桑名市内をどう回ろうか思案する。

だが、戻ると生憎の雨。コメダ珈琲で休みながら何のために桑名に来たのか再確認。
江間政發や小山正武の手掛かりを見つけようとするが結局小山のことは判らず仕舞い。

せめて南合家の墓を見に来たとき、孫を連れてきたおばあちゃんと触れ合ってもう一度しっかりしなければと後は海蔵寺を訪ねたり森の菩提寺に寄ったりしてようやく桑名城址にたどり着く。





そんないろんなことがあるから体験を書いたり話せば良いわけで、本番はとことん楽しむこどだ。

これが巡墓会でも役に立つし余裕が出てくる。ここまで来れば後は楽だ。懇親会に来てくだされば名刺交換するし、大体名前を覚えられるわけだ。

そうするとまた来てくれるかなとか、何か調べるヒントをいただけないかということが次につながる。

我々のあくなき探究は続くーー

Tさん宅 a TOSA

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会員のカトケンです。

夏休みを利用して土佐へ帰るときは必ずTさん宅におじゃまする。いつお願いしても快く引き受けてくださる。

ご健康にも気を遣うお年になられたがまだまだ知識の泉は健在。一人人物を挙げればあたかも無尽蔵の如く逸話や縁戚の話題が飛び出す。

今日もいろんな閨閥がつながって、次に調べる際の手掛かりをつかむことができた。

博物館や文書寄贈の裏話など、土佐で留意すべき点がいくつか記憶に残るものとなった。

何でも板垣の講演を頼まれたとかで、あらゆる話が出てきて、極端から極端へ、よき後輩を持ったこと、お金に縁の無かったことなどこれまた残し置くべき言の葉草を種を撒いて水をやらねばならない使命感に駆られる。

学生時代、Tさんのカブと小弟のチャリで様々な場所を掃苔したことと併せて覚えて置きたいことばかりだった。

とりわけ、土佐の知られざる傑物を地域に根づいた視点で語られるから、こちらは地理とともに勉強しないとちっとも頭に入らない。

必死になって現在の地名をかつての地名に置き換えて覚えた日々が甦る。

新しい専門家も紹介してくださり、自分の興味のなかった分野にまで自然といざなってくださる。

今日はお酒を飲みながら、あれやこれやの話題に花が咲き、二次会も楽しく過ごすことができた。

写真はその帰途、確かめに行った石碑で、生誕地にありますよね?との質問に難なくあると教えていただいたことともに悦びいさんで宿に戻る。

Tさん宅の別宅に泊まらせていただいているので、バラバラに家路に着いたーーこうして土佐滞在2日目が過ぎた。


野村維章邸址


百々越前の碑から山地元治宅跡を臨む


國澤新九郎生誕地碑


好きな風景


高知城博物館から臨む大高坂と藤並神社

Jさん宅 a la ville de TAKAMATSU

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会員のカトケンです。

丸2日、香川を廻る。高松駅を降りて、一同集合し、早速小弟のお願いしていたリクエストに答えられる人が集まる。

墓を見て、活字を起こして訓読、更には訳す人。

坂出、多度津からも集まってくださり、一大キャラバン隊が讃岐を走る。

まずは去年行った柏原学而墓。徳川慶喜の侍医で高松生まれ、静岡に没す。

この墓碑の裏面がくずし字になっている。とても読めず、今回案内してくださった方が活字にしているのでと書いてあることを教えてくださる。

学而の父をはじめ2人の兄や養子先のことなど目から鱗の巡回となった。

続いて柴野栗山記念館。老中松平定信が昌平黌を中心に文教政策に力を入れようとしていたときに徳島藩儒から抜擢された初代昌平坂学問所事務局長。その居宅跡が幼稚園になっている。

夏休みで園児が来ていない芝生に茸がずいぶん大きくなっていた。栗山の師後藤芝山の書をはじめ、養子柴野碧海や頼春水、菅茶山の書が展示されている。

立原翠軒の書は意外だったが、よく考えてみれば水戸支藩高松領なのだからちっともおかしくない。

戦禍を免れた穏やかな表情の木造を見て栗山の人柄を思う。背後には雅号の由来となった八栗山がそびえ立つ。

この近辺はかつて島だった屋島であり、源平戦ゆかりの史跡も目白押し。那須与一ゆかりの扇の的や駒立岩はもとより平家総門跡には初代高松藩主松平頼重(水戸光國実兄)が造った標木もあった。

源義経の臣下佐藤継信の子孫とされる林 董(佐藤泰然末子)が香川県知事時代にいくつか源平ゆかりの石碑を建てていることも新鮮だった。

佐藤次信墓と刻まれた墓碑にはしっかりと源氏車の家紋が彫られていた。山形県人が建てた石碑は米沢の宮島大八が書いている。この辺も旧幕方の史跡となりうる場所であろう。

いずれも琴電志度線 八栗駅とJR高徳線 古高松南駅から最寄の場所であり、栗山先生もこれだけ身近に史跡があったことから、さぞ歴史の勉強には事欠かなかったであろう。

様々な場所を廻っていただき、2日目に感慨深かったのが高松二代藩主松平頼常の菩提寺霊芝寺である。残念ながら墓は非公開とのことだったが、水戸光國の実子が眠る場所に来られたのはこれからの筆者の掃苔活動においても確実に大きな出来事となるであろう。

高松の地元の専門家の方とも水戸と高松の関係がもっと掘り下げられても良いという意見で一致した。

高松におけるテーマはこれからも様々な拡がりを見せることを期待しつつ、旅の中間報告としたい。

今回は敢えて写真を載せない。内容はともかく、ネットでいくらでもアップされているし、何よりもこれを読んだ方には直接足を運んでいただきたいからである。そこで何を感じるかは、御自身に委ねられている。

第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ

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会員のクロサカです。
探墓巡礼顕彰会では、第15回目となる巡墓会を11月12日(日)、大圓寺と豪徳寺にて行うことになりました。大圓寺と豪徳寺に眠る幕臣、薩摩藩および彦根藩の人物を中心にその事蹟を解説します。
皆さまのご参加をお待ちしております。

開催要項は以下のとおりです。

■開催要項
★日時 平成29年11月12日(日)雨天決行
12:30 京王井の頭線永福町駅前交番裏付近にて受付開始
13:00 大圓寺へ移動後、開会式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
      巡墓会開始
      大圓寺での解説終了後、豪徳寺へ移動
      京王井の頭線永福町→京王線明大前→東急世田谷線下高井戸→宮の坂駅
      ※乗り換えは幹事が誘導しますので、はぐれないようにお願いします。
      交通費は別途参加者の負担となります。[ICカード268円、現金280円]
      途中、集合写真撮影・トイレ休憩有り
16:30 豪徳寺より宮の坂駅前の宮坂区民センター付近に移動し解散式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
      東急世田谷線宮の坂駅から下高井戸駅まで電車移動
17:00 下高井戸駅近辺の居酒屋にて懇親会

★集合場所:京王井の頭線永福町駅前交番裏付近
【交通】京王井の頭線 永福町駅(京王線明大前駅で吉祥寺方面へ乗換1駅、または井の頭線渋谷駅から7駅)




★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★巡墓寺院
大圓寺(杉並区和泉)、豪徳寺(世田谷区豪徳寺)
※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

★主な巡墓人物
土方勝政(幕臣、勘定奉行)
西郷午次郎(西郷隆盛三男)
大山彦八(大山巌元帥父、西郷隆盛叔父)
横山安武(森有礼実兄、明治政府に抗し憤死)
益満休之助(薩摩藩邸焼討事件、江戸開城仲介者)
井伊直弼(大老、彦根藩主)
井伊直孝(豪徳寺の中興開基、招き猫伝説)
日下部鳴鶴(彦根藩士、桜田事変殉難遺子、書家)

★参加費用:1,500円(資料代含む)
(定員20名~30名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000円程度/場所:京王線/東急世田谷線下高井戸駅近辺にて)
※懇親会場へは解散後、幹事メンバーと一緒に移動します。宮の坂駅より3駅となります。
懇親会不参加の方⇒山下駅[小田急線豪徳寺駅]は下高井戸方面へ・三軒茶屋駅[東急田園都市線・半蔵門線]は三軒茶屋方面へ

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」-申込みフォーム-

【大圓寺・豪徳寺巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。解説の前に墓所への合掌をお願いいたします。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※墓地内は一部、段差やぬかるみなど、足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ペットボトルなどのゴミはお持ち帰り下さい。
※急に体調が悪くなった場合は幹事へ早急にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、不用意に近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって本巡墓会を中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天または雨天後の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。
※本巡墓会では電車移動もあります。道路や駅での一般の歩行者の方はもちろん、墓地内の墓参の方の妨げにならないよう、幹事メンバーの引率に従っての移動をお願いします。
※少人数の幹事での運営となります。参加者の中にはご年配の方・お子さまもおり、利用者の多い駅や車の往来が多い道もありますので、なるべく引率のお手伝いもお願いします。

今夏四国での取材で感じたことども

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会員のカトケンです。

前回記事でJさん宅との表題を掲げながら、まったくその方に触れていなかったので改めて書きたい。

Jさんとは子孫の会や春廼舎で交流させていただき、今年久しぶりにお目にかかり、高松におじゃまする運びとなった。

高知で散々Tさん宅を好き勝手に使わせていただきながら、なおこの上高松でもこうしてよそ様のお宅に居候する。なんと厚かましい人間かと思う。

だが、お話をすると我々世代にも伝えておきたい、話しておかなければならないことが多々あるようで、こちらもついそのペースにつられて耳を傾けているとそこに自らが調べるきっかけやヒントがポンポンと出てくる。

これを繰り返していると、たった一言をヒントに自分で調べる余地が生まれてくる。苗字だけでもいいし、「旗本」とか「幕臣」という肩書きが出てくれば見つけものだ。

幕臣なら自分でいくらでも調べられる。それをきっかけにさらに墓所や親戚関係から資料があるべき場所へ足を運んでいく。

また図書館や文書館を駆使し、別のご子孫や古文書が見つかれば金鉱を掘り当てたが如くあとはとことんそれと向き合っていく。この繰り返しだ。

Jさんの場合、大学に古文書を持ち込んで解読してもらっているといい、史料が豊富に存在するのであろう。

順天堂の佐藤・林一族だから、香川県知事をやった林 董をはじめ榎本武揚も絡んできてますます話は膨らむ。

榎本と林は外交畑でともに活躍しているから、この方面の研究者はいないか事前調査をしたら、既にご他界されていたり、西軍方の研究者であったりして、自分がまだ研究できる隙間があるのではないかと、Jさんに思いの丈を述べていたらつい長居をしてしまい、

ご飯を食べさせていただいたばかりか、Jさんの同級生の方が料理を持参してくださり、旅先でも家庭の味を堪能させていただくというこの上ない旅となった。

そのご厚意に甘えるばかりではいけないと、3日目は自分の足で現地調査を行い、一定の成果が得られた。

ある書籍をヒントにその掲載写真から現地で同じ建物が残っているか、無ければどこにあったか聞き込みを続けた。最初怪訝な顔をされていた取材先も最後には打ち解けて和気あいあいと話すことができた。

最後に調査対象人物が見て育ったであろう風景の写真を撮って旅の土産とする。

そんな恵まれた取材旅であった。思えばこの何年か高知の帰りには必ず高松に寄って来た甲斐があったといえよう。

最後になってしまったが、Jさんはじめ高松に集まってくださった方々に心より感謝申し上げたい。

この調査結果を生かし、なんとか形にしなければとまた一から探索が始まる。東京に戻ってできることも多い。

巡墓会とは別に様々なテーマを用意しておくことも、自分がものを書く上で必要不可欠なことだろうという思いをかみしめる。

この夏は今までやりかけていたもの、放ったらかしにしていたものをもう一度見つめ直してみたくなった。自分の凡庸さと闘いながらーー



(写真=もうひとつ記念になった琴電きっぷ)

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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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お盆休み〆はふるさと a Shizuoka

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会員のカトケンです。

この夏休みの〆は地元へ帰って、丸1日身体が空いたので、おふくろの車で東へ。

まずは県立図書館。なんでも、底が抜けたとかで一切本は見られない。これでは意味がないからと、さらに東へと車を走らせる。

清見潟まで来て元勲の別荘を廻る。例の雷親父のところは埋蔵文化センターになっている(=写真)



閉まっていて世外公の座像は見られなかった。

続いて坐漁荘へ。4年前の東軍慰霊祭以来である。西園寺公の杖に目をやると、何やら漢字が彫られている。

いくつかの漢詩だそうで、ボランティアの方が親切に教えてくださる。

それからはかつてこの辺りが海岸だったことなどを教えていただき、幼い頃の思い出を聞き、のどかだった頃に思いを馳せる。かつてリゾート地だったこの辺も最近では空き家ができ、ご年配の方ばかりになっている由。静岡市といえども課題が多いと実感。

2階から公望公が客人を招いた絶景を想像する(=写真。現在はこんな具合)。



改めて外から建物を眺め(=写真)、粋な造りを堪能しつつ、絶筆の書の碑(=写真)を見てここを後にした。





解説で教えていただいた井上馨の実子で伊藤博文養子である博邦の別荘(=独楽荘)跡地へ行くと柑橘類の農業実験所になっていた(=写真)。



そこから今度は由比宿を巡って、薩唾峠を少し味わってから(あいにく富士の山にはお目にかかれなかったが)一気に沼津へ。

明治史料館で同通信を一つ一つ拾う。またこの作業が楽しく、今回も同じ寺院の異なる墓が縁戚であることを知り、新たな系図づくりや文筆の種を植えることができた。

最後に好きな場所、原の松蔭寺へ。白隠禅師や玄峰老師の新たな発見、また今回は白隠禅師の生誕地碑を初めて訪ねた。

史跡整備の途中のようで、工事現場の囲いに覆われていた。白隠禅師で街おこしでも企てているのだらうか。

母の帰りに合わせて静岡駅へ迎えに。親友と清里へ行ってきて3人で晩飯を食おうと約束していたのだ。

御門台のカトウ家御用達ラーメン屋で土産話に花が咲いた。これでまた仕事をがんばらうと思えるのだ。ふるさとはまだまだ発見が引きも切らない。

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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
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愛媛の華族墓調査

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会員のクロサカです。
この夏休みに当会のカトケンさんと入れ違いに高知・愛媛旅行に行ってきました。
我が家では家族旅行とはいえ、各自単独行動なので存分に墓調査が出来ます。
ほぼ予定通り、多くのお墓に巡り会うことができました。
今回は愛媛編としまして、松山・大洲で調査したお墓を簡単に紹介します。
近いうちに高知編も紹介します。

まず、旧松山藩主の久松伯爵家の墓です。



江戸時代を通じて松平を名乗っていましたが、明治期に最後の藩主久松勝昭によって久松に改姓されました。
勝昭を含めた歴代藩主は東京三田の済海寺を葬地としていますが、大正期に亡くなった久松 定謨からは松山市古町の大林寺に代々の墓所を設けています。
もともとこの大林寺は松山藩主の菩提寺四ヶ寺の一つに定められていたお寺で、松山藩主だった蒲生忠知の墓所もあります。
久松家墓所の墓域内には合祀された松平家関係者の石甕と墓誌が一緒に残されていました。

次に道後温泉近くにある鷺谷墓地に向かいました。
ここには華族の白川義則男爵のほか、陸軍大将秋山好古と両親、河東碧梧桐、川島義之陸軍大将、桜井忠温陸軍少将などのお墓があります。
写真は秋山好古陸軍大将と白川義則男爵のお墓です。





秋山大将の墓は青山霊園にもありますが、鷺谷にあるお墓は地元の人々によって分骨されたものです。
ちなみに弟真之海軍中将の墓も青山霊園にありましたが、移転して鎌倉霊園にあります。
秋山大将の墓域には、秋山家の先祖墓もあり、もともと同じ松山市内の法龍寺にあったもので、墓地整理の際、こちらに移されたものだそうです。
この法龍寺は、俳人正岡子規の先祖墓もありましたが、こちらも同市内の正宗寺に移転しています。
秋山大将の墓所から20~30mぐらい後方の傾斜地には、秋山兄弟の両親である秋山久敬夫妻の墓碑もあります。
白川男爵の墓所も同じく青山霊園警視庁墓地にありますが、出身地にも分骨墓が建てられています。
秋山大将と白川男爵のお墓は近くにあるのですが、若いころから親交があったそうで、そのために近くに建てられているのだと思われます。

最後に大洲曹渓院にある旧大洲藩主加藤家墓所です。



加藤家は華族令で子爵となっています。
この建物群は加藤家の霊屋で中には五輪塔や祠型の墓碑がありました。
加藤家墓所内には初代貞泰(写真右奥の赤い建物)のほか、5人の藩主の墓があり、一般墓地にも1人の藩主が埋葬されています。
なぜ一人だけ別なのかは不明です。
6人以外の墓所は川の対岸にある如法寺にあります。
最後の藩主泰秋は大正期に亡くなり、貞泰の霊屋左隣に五輪塔を建立し、代々の墓としました。
最近明治期の新聞で泰秋夫人が谷中霊園に埋葬されたとあったのですが、こちらに改葬されたのか、まだ現存するのか、はたまた無縁廃棄されたのか調査中です。

高知編を含め、こちらで紹介できなかったお墓については今後、『歴史研究』上のリレー連載「皇室の藩屏」で紹介予定です。

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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
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高知の華族墓調査

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会員のクロサカです。
前回予告した高知編について紹介します。

高知市内の調査には、駅前の観光協会でレンタサイクルを借りました。
このレンタサイクルの利用は無料で、電動自転車も無料で借りられるのが利点なのですが、17時までに返却出来ない場合は、次回以降利用できないというペナルティがありました。
このペナルティがあとで悲劇を生むのですが・・・。

まず、最初に向かった華族墓は板垣退助伯爵の先祖乾家の墓所でした。
しかし、墓所があるとされる薫的神社付近の旧福泉院墓地が見つかりません。
天候もあまり良くなく、今後の調査にも影響が出そうだったので早々に諦めました。
ちなみに薫的神社は、山内忠義の戒名騒動で負けた僧侶薫的の墓所で他にも高知藩の上級家臣百々家の墓を見つけました。
その後、一路久万山に向かいます。
ここには、子爵を授かった谷干城夫妻とその息子で夭逝した乙猪などの墓所があります。
ちなみに乙猪夫人と子孫の谷子爵家の墓所は谷中霊園です。


                          谷干城夫妻の墓

この時点で小雨が降っており、谷家とその近くにあった郷土史家平尾道雄の墓だけで撤退しました。
続いて、薊野にある板垣退助伯爵の墓所に移動します。
岡田以蔵などの墓のある真宗寺山にも行くつもりでしたが、雨が強くなってきたため、板垣の墓所へ急ぎました。
途中最初の雨のピークがあり、雨宿りもしつつ、向かいましたが、板垣の墓所は非常にわかりづらい場所にありますが、事前に入念に調べていたので迷うことなく、到着できました。
この墓所は板垣家もとい乾家歴代の墓所で当主や正室の墓碑に小さな立て札があり、非常に助かりました。
ここにある板垣退助伯爵の墓碑は後に建てられた分骨墓で隣には3人目の妻小谷氏と並んでいます。


                          板垣退助夫妻の墓

ここでも土砂降りでしたが、母と合流するために高知城に向かい、雨がひどく、急いで高知城歴史博物館に入り、ちょうど山内家歴代展を開催していて多くの史料を見ることができました。
しかし雨は非常に強く、大手門近くにある初代藩主山内一豊の銅像の写真も上手く撮れませんでした。
その後大手門から入城するも、雷が鳴り、雨もピークになり、大手門を入ったところのテントで大勢の人が身動きができない状態でした。
そんななか、返却時間が迫ってきており、土砂降りの中移動をしなくては間に合わなくなりそうだったので城内を見ることも出来ずに帰ることになりました。
そして急いでテントを飛び出した瞬間、砂利に足を取られ、転んでしまいました。
それでも身体を引きずり、自転車に乗りますが、自分が方向音痴であったので駅の方向とは反対側に向かっていることに気づき、余裕もなくなってしまい、急いで自転車を飛ばしていたのですが、途中濡れた路面で滑り、3回ほど転んでしまい満身創痍でなんとか10分前に着くことが出来ました。
ホテルに帰り、確認してみると両肘、両膝が大きくアザになり、尾てい骨も強打していました。

しかしそんな身体でもなかなか来れない場所なのだからと、次の日も調査に向かい、返却時間に間に合っていたので、難なく自転車を借りることだできました。
さて、二日目の目的地は高知のメインディッシュでもあった筆山と山内家墓所です。
まず、筆山に向かいます。昨日と打って変わって、太陽が照り付ける暑い日でした。
ここでは、永野修身海軍元帥と地元で有名な医者近森虎治などを見つけました。
実はさらに奥地にある皿ヶ峯に森赳陸軍中将と下村定陸軍大将を探したかったのですが、移動が大変そうだったのと満身創痍が重なっていたので、最優先対象の山内侯爵家と分家の子爵家、家老の男爵家を探しに向かいました。
途中山内家の菩提所要法寺と真如寺に立ち寄り、要法寺では一豊の弟で土佐藩の基礎を固めた山内康豊の墓を見つけました。
山内家墓所は真如寺の目の前にありますが、非公開です。
しかし近年国指定史跡となったため、公開に向けて準備の最中とのことでした。
手前左にある子女墓地は調査可能だったのでこちらは調査してきました。
その後、電動自転車のパワーを使い、筆山の中腹付近にあった山内家の分家墓地に向かいました。
ここには、山内容堂の実子で分家し、男爵⇒子爵となった山内豊尹子爵とその子孫、分家の墓があります。


                       山内豊尹子爵と山内子爵家の墓

さらに上っていくと、土佐藩の家老を務めた南邸家や東邸家の墓所がありました。
そのうち、南邸家当主山内豊積は男爵を授けられています。


                      山内豊積男爵の墓

同じ墓域内には次代の山内豊政男爵夫妻の墓碑もありました。
豊政男爵の墓は青山霊園にもあり、そちらは豊政以降累代の墓碑となっています。
南邸・東邸ともに江戸期の墓碑は倒壊していたり、横たわっている墓碑も多く、国史跡に指定されている本家に比べて、少し残念な気もしました。
その後は市内にある史跡を巡ったり、東京ではあまり見かけない牛もつつけ麺を食べ、ホテルへ戻りました。

二人の山内男爵

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会員のクロサカです。
以前、情報求むとして記事にした華族の墓所も多くの方々の助けもあり、順調に見つかってきております。
今回は長年探してきて、最近発見出来た山内長人男爵と山内萬壽治男爵の両山内男爵の墓所発見までの経緯を少し述べたいと思います。


              (山内長人男爵の墓)

まず、山内長人男爵ですが、幕臣出身の華族です。
本籍は神奈川県ですが、多くの史料を調べると新宿百人町(現在の新宿区大久保付近)に住んでいたようです。
この家は幕臣ながらも寛政譜には載っていませんが、『平成新修旧華族家系大成』によると長人の祖父の代で幕臣神尾家の陪臣となり、文政七年に「山内」姓を名乗り、幕臣となったようです。
父長敏は開拓使森本弘策を船長とする雷電丸の乗組員として北海道に渡っています。
長人は陸軍軍人として活躍し、陸軍中将まで上り詰めます。
後に多年の功により男爵となり、貴族院議員として公正会の主要メンバーで活躍しました。
さて、山内長人の墓所を探すため、かなりの史料を探しました。
新宿区内の寺院や都営霊園を隈なく探すも決定的な情報には辿り着けませんでした。
しかし、気になるお墓はありました。上に挙げた雑司ヶ谷霊園の墓碑です。
墓碑には、正面と裏に建立年月日、家紋のみしかヒントがありませんでした。
そこでダメ元で管理事務所に問い合わせたところ、見事ヒットしました。
判明して墓前に向かい、改めて参拝させて頂き、あまりの感動に墓前で腰が砕けてしまいました。


                  (山内萬壽治男爵の墓)

こちらは山内萬壽治男爵の墓です。
地熱発電の開発者としても知られ、海軍中将です。
彼は広島藩士山内甚(仁)右衛門の二男として生まれ、海軍兵学校を卒業し、同期には斎藤実子爵、坂本俊篤男爵がいます。
呉海軍工廠の立ち上げに携わり、後に工廠長にもなりますが、シーメンス事件に連座したことで自殺を図るも死にきれず。
大正8年に病死します。
ちなみに妻の婉子は攻玉社の創立者近藤真琴の娘で、真琴の長男基樹は男爵となり、近藤男爵家の祖となります。
さて、こちらの墓所を探すのも非常に苦労しました。
東京都公文書館に都営霊園の墓地管理証が所蔵されているのですが、萬壽治の次代志郎の名義で谷中霊園にお墓があることが分かり直行しました。
実際に訪ねてみると、確かに山内家の墓碑が一基だけありましたが、夭逝した子どもの墓でした。
その後も事あるごとにやみくもに探していましたが一向に見つかりませんでした。
そんな時に、ふと自宅にあった「青山共葬地明細図」という資料を確認し、記載されているすべての山内家を巡ってみようと思い立ちました。
そして青山霊園に向かい、一番最初に訪ねた場所には正面に「杉原家」と刻まれたお墓がありました。
そこで思い出したのが先代の山内伸明男爵が杉原家からの養子であったことでした。
墓域に入り、墓誌を確認すると「山内伸明」の名前があり、杉原家の墓碑に向かって左側に写真の三基のお墓が建てられていました。
この一番左の墓碑に「やま乃うち万寿治のは加」と刻まれていました。
この時もあまりにビックリして身体が震えていました。

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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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いよいよこれからが新学期!

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会員のカトケンです。土曜は常連客Mさんと日暮里で飲むことにしていたので、約束の時間ギリギリまで谷中を廻った。

いつもの千駄木で降り、三崎坂を昇っていく。谷中にも外国人観光客が増えてきたようだ。「圓朝まつり」の幟がはたはたと音をたてていたので、もしやと期待して全生庵をのぞいたら、すでに前日に寄席が終了していた。掲示板をこまめにチェックしていればよかったと悔やむ。

気を取り直して豆大福なんぞ食らいながら電車で調べてきた谷中霊園の第一目的地へ。

幕臣小花作助の墓。小笠原開拓の先駆者で明治政府でも引き続き小笠原に携わった人物。

よく来ていた界隈からやや壁寄りだったため今まで気づかなかったのだろう。東京都による看板も立っていた。(乙3号3側)

ここまで来たらと昨年麟祥院の巡墓会オフ会にて両親の墓とともに紹介した杉浦愛蔵家の墓が、なんと更地になっていたーーこれも悔やまれて仕方ないが、紹介しておいて良かったと思った。(乙3号7側)

昨年の段階で、麟祥院の墓を御遺族が守られている形跡があったので、まだ麟祥院を確かめていないが、何処かお参りしやすい場所へ移したのかもしれない。

ここでも真の目的を忘れず、奥宮慥斎の墓がかつて草茫茫だったのがきれいにされていることに気づきつつ、乙5号3側を目指す。

慶喜公のかかりつけ医師石川良信の墓だ(=写真)。ぐるぐる廻ったあげくようやく見つけるが、高松凌雲や土佐の松岡毅軒の背中合せだった。この人も幕府時代のみならず、墓碑にあるとおり「陸軍軍医監」として明治でも活躍した。高松で追いかけてきた柏原学而の師でもある。仙台の人。桜所とも称する。



慶喜公の墓とやや離れてはいるが、臨める位置に立っているのは偶然ではなかろう。

ここに来たついでにと訪れたのは、この秋「大圓寺・豪徳寺巡墓会」で御案内する大圓寺の勘定奉行土方勝政に関連して、その息子浦賀奉行土方雲山の墓に寄る。読むのに難儀する墓碑だ。(乙9号2側)

そこから五重塔跡の公園南側にある林研海の墓などを見て引き揚げた。

その後待ち合わせ場所へ行き、一献傾けながら歴史談義に花が咲いたことは言うまでもない。

日曜はかつて一度も訪れたことのない大塚先儒墓所に足を運んだ。柴野栗山の故郷高松に行きながら、墓を訪ねていなかった。

ここは吹上稲荷神社で鍵を借りないと入れない。さすがにこの時期は蚊が多く、草も脛の高さまで生い茂り、見たい墓碑に限って蜘蛛の巣が張られ難儀したが、室鳩巣・木下順庵・尾藤二洲・古賀精里。そしてようやくにして栗山柴野彦輔(=写真)



これでようやく夏休み完結です!やはり、シコクは志國と云ふべし!

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小石川、千駄ヶ谷、雑司ヶ谷

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会員のカトケンです。

先週、先儒墓地の後訪れた場所とともに、昨日の訪問先も報告したい。

まずは鷹匠町にあった高橋泥舟・山岡鉄舟・大久保昌次郎寓居跡へ(=写真)。



高橋・山岡までは解説にあるが、大久保までは誰も指摘しない。高橋の叔父で義弟と知ってか知らずか。だから、ここは親類三家が並んで住んでいたことになる。

今ではこの辺は播磨坂の桜が春に咲いてきれいだそうで。

次に極楽水を確認し、久しぶりの宗慶寺。例の茶阿局の墓あり。
小弟はやはり野口勝一の記念碑が好きである。

そこから通ったことのない伝通院の裏側を下っていき、小川笙船宅跡へ(=写真)。ここから小石川養生所へ通っていたことが偲ばれる。



何処かで見たことがあると思ったら、以前伝通院巡墓会が終わって、今の山門から降りてきた場所だった。ここは昔の伝通院の裏門通りに当たる。

そうすると、昔の山門は今の春日通りの辺りにあったということにならうか。

その日は外国奉行 堀織部正の墓のある源覚寺に寄られなかったが、また次の楽しみにとっておこう。真砂図書館で少し調べものをして帰った。

昨日は柴野栗山撰文の墓のある千駄ヶ谷瑞圓寺へ。本堂右手にある大きな「故一橋府儒員沖(正しくは中の下に皿)齋先生久保仲通墓」(=写真)



この人も栗山同様讃岐の人である。
これは高松の続き。現地で丁重にご案内いただいた先生の宿題の確認だ。

早速報告の手紙を書かねばならないが、写真がフイルムだけにいつ出来上がるか。な~んて、結局スマホで撮ってもプリントの仕方が解らないだけであるのだが。

高松でお話しした内容を思い出しながら手紙の文面から書き出そう。いろんな場所をめぐっていただいたお礼として。

そして締めくくりはずいぶんご無沙汰した雑司ヶ谷霊園。副都心線ができたお陰で「北参道」から一本で行けるのだ(雑司ヶ谷下車)。

探したいものはあるのだが、やはり思い入れのある場所ばかり訪れてしまう。小川笙船はもちろんのこと、坂崎紫瀾、岩瀬忠震、小栗上野介。

道路沿いにある土岐家之墓の墓誌を初めて見た。かなり詳しく刻まれている。これもいずれ先祖研究の一環とならう。やや家紋が本当に桔梗かと疑いたくなるものだったが。横に一柳家の墓があったのも何かの縁かもしれない。

今日は成島柳北家の墓を集中調査。やはり、解読困難なくずし字(ひらがな)と闘う破目になったがそれも一興。墓に刻まれた字句を整理して残しておきたいものだ。

夢中になって蚊には刺されるは、汗だくになるはで散々な目に遭いながら、それでも良い汗をかいたと池袋駅までの道を軽やかに、帰途についた。

ただ一つ、以前クロサカ幹事に教わった無量院から移した墓群のエリアといわれる場所が見つからなかったのは悔しいが、これも次回の宿題としやう。
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那須塩原の大山公爵家墓所

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会員のクロサカです。
すでに告知済みですが、再来月の11月に行われる巡墓会で杉並区にある大圓寺を訪問します。
この大圓寺には、来年NHKで放送予定の「西郷どん」に関係する人物の解説を行う予定です。
その中には西郷隆盛と従兄弟に当たり、西郷家と縁戚に当たる大山家の墓所を解説予定ですが、以前大山公爵家については、平成28年発行の『歴史研究』7・8月合併号にて、リレー連載「掃苔行脚」として《皇室の藩屏 ~那須野に眠る薩摩隼人~ 大山公爵家(薩摩藩士)》を書かせていただきました。
そこで今回、この連載記事のうち、大山公爵家が成立する経緯を割愛し、那須野にある大山家墓所とその他の家族の墓所についての調査記録としたいと思います。


                 (大山巌の墓)

那須野にある大山家墓所を訪れたのは、今から11年前の平成18年になります。
まだ高校2年の時でしたが、家族旅行の際に今は亡き祖父と2人でこちらを訪ねました。
現地に着くと、鬱蒼とした林の中に大きな鳥居と門がありました。
しかし、門は固く閉じられており、通用口も施錠されていました。
でもここまで訪ねてきたのに引き返したくはありませんでしたので、辺りを見回すと、墓守と見られる老人が掃除を行っていました。
早速老人に話を伺ってみると、やはり墓守の方でした。
その後、この大山家墓所に関する話をいろいろと聞かせて頂き、普段非公開となっている墓域内も案内して頂きました。
墓域内には、大山巌公爵を中心に明治以降の大山家一族の墓所があり、墓前には各界の人々から寄進された石燈籠が並び、荘厳な空気を醸しだしていました。
両脇には先夫人の澤子と後夫人の捨松の墓もあり、巌と同型の円墳墓を建立していました。
澤子の墓は、もともと青山霊園にあったようですが、こちらに改葬されています。


                 (大山柏夫妻の墓)

同所には、巌の嫡男で公爵を継いだ大山柏夫妻の墓所もあり、墓型は異なり、土円墳墓に墓標を組み合わせた墓所となっていました。
大山家墓所の右奥には、夭折子女の墓碑が3基並んでおりますが、これらも澤子と同じく青山霊園にあったことが「青山共葬墓地明細図」に記されています。


                 (大山梓夫妻の墓)

さて、大山柏の次代である梓はこちらに埋葬されておりません。東京郊外の霊園に埋葬されています。同所には隣接して梓の弟桂の墓所もあります。
こちらの霊園は最寄り駅から徒歩で行ける霊園ではなかったので、友人の車に乗せられ、お参りさせていただきました。

今回紹介した大山家の先祖墓は現在大圓寺の境内にあります。
同所には巌の両親と兄、弟の墓があります。
そして先祖墓とみられる古いお墓も並べられています。
なぜ鹿児島ではなく、こちらにお墓があるかについては巡墓会で解説しますのでそちらをお楽しみください。

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先祖への旅~国立公文書館~

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会員のカトケンです。

久しぶりの先祖探索。気になっていたのは先祖の史料で活字になっていないもの。
我が先祖加藤筑後守が慶応4年(1868)箱根へ警衛に行っていることだ。

竹橋の文書館で明細短冊(=写真。旗本の分限帳に当たるもの)は活字になっているものの、箱根御用については翻刻されていない。



次のとおり読んでみたが、皆さんはどう読むか。

可達趣(表紙)

多賀上総介
駿府表為御警衛被差遣
同本御警衛之儀、御任せ
相成居候処、御都合も有之
候間、加藤筑後守并砲兵
歩兵隊附属役々共引揚
箱根近傍御警衛右兵隊□
被 仰付候間、其方ニも大
久保加賀守申合実備行届候様
可被致候事
加藤筑後守
同文兵? 御任せ文□除之





筑後守は歩兵頭並。多賀上総介は歩兵頭である。箱根の警備を任されたものの、何の都合にやあらん、引き揚げを命ぜられ、別の?兵隊が警備することとなったので、その隊長たる大久保加賀守へよろしく引き継ぎ願うと
小弟は解釈してみた。

徳川実紀にも軍艦にて駿府表へ遣わされ候なる記述があるが、これが将軍東帰の後なのか、富士山艦の戻った後なのかによってどの軍艦に乗って駿府に向かったのか気になるところ。

これが開陽丸であったなら、子孫の会に入れるのにと今はその資格があるか否かハッキリしないことを楽しみながら史料を探している。

それにしても、東京市史稿の講武所を読んだら、筑後守叙任前の忠左衛門が将軍に降嫁される親子様の護衛として、仲間50名とともに京を発し、中仙道を通って江戸まで来ていたことが分かり驚いたことも報告しておかなければと、この記事を書いている。

この週末静岡に帰り、様々な宿題に取り組みたい。時には友人とグラスを傾けながら。。。
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9月18日 港区光林寺調査

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会員のクロサカです。
強烈な台風が三連休に直撃したため、あまり行動できませんでしたが、最終日の月曜日に軽い調査をしてきました。

場所は何度か訪れている港区麻布にある光林寺です。
ここには対馬宗家や高鍋秋月家、岩村松平家など多くの大名墓、旗本加藤家(大洲藩分家)、旗本松浦家の旗本墓が林立し、明治以降になると丸亀と多度津京極子爵家、古河男爵家といった華族墓も増えてきます。でも一番の著名人はヒュースケンでしょうか。
これらはすべて調査済みですが、今回は新たに見つけた、または再訪した墓を紹介します。
この光林寺に関する記事は以前に幹事のカネコさん、カトケンさんも書かれていますので合わせてご覧下さい。
10月4日 白金・麻布・広尾調査

8月27日 菅野覚兵衛の墓 (南麻布 光林寺)




まずは伊東善平夫妻です。
墓碑側面に「長嵜縣平民」とありますが、大日本帝国憲法の草案を作った伊東巳代治伯爵の両親の墓です。同所には巳代治の七男七郎の墓もありました。
巳代治の墓は、明大前にある和田堀廟所にありますが、宗派の異なる光林寺(臨済宗)になぜ墓があるのかは不明です。
ただし伊東家墓地の周辺には「釋」という浄土真宗に多くみられる戒名が入った墓碑がありましたので、どこからか移転してきたものかもしれません。



続いて高台にある納骨堂に合祀されている尚旦夫妻です。
これは以前、同幹事のカネコさんに教えてもらい、2度目の来訪になりました。
尚旦は、琉球藩王尚泰(のちに侯爵)の三男として生まれ、分家しています。
尚泰と兄尚典は宗家のため那覇玉陵、甥で侯爵を継いだ尚昌のみ上野桜木町津梁院墓地に墓があります。



朝吹誠はザ・フィンガーズで活躍したバンドマンです。
このフィンガーズに所属していた成毛滋はのちにザ・グループサウンズで活躍しています。
この朝吹誠の曾祖父は朝吹英二といい、三井四天王の1人に数えられ、三井財閥の隆盛に貢献しています。祖父の常吉も三越社長を務めました。
朝吹家は華麗なる一族といっても過言ではなく、福澤諭吉の福澤家、ノーベル賞の野依家、長岡外史の長岡家、中上川彦次郎の中上川家、山本権兵衛の山本家、園田孝吉の園田家、尾崎三良の尾崎家、公家東園家、石井光次郎の石井家などと縁戚関係があります。

この日は蚊も多くて両腕をたくさん刺されましたが、いい調査ができました。

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森鴎外記念館で「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」展を見る

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会員のカネコです。
7月の上旬に文京区立森鴎外記念館で開催されているコレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」を見てきました。







鴎外には二人の弟篤次郎と潤三郎がおり、共に学問の世界に生きました。
特に鴎外と17歳年が離れた潤三郎は考証学者として歴史学・書誌学の分野で活躍し、鴎外を陰から支えました。

私はかねてから、森潤三郎を探墓巡礼顕彰会の偉大なる先輩だと思っていました。
潤三郎は人物を調べるに当たり、墓を探し、墓碑銘を書き起こし、さらに子孫を探すという方法を行っており、我々が行っている方法論を既に確立していました。

鴎外の後期の作品である『澁江抽齋』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』あたりの史伝シリーズではこの墓碑調査や子孫探しがよく出てきますが、これはやはり潤三郎の力によるものが大きく、潤三郎なくして鴎外後期の作品の輝きはなかったものだと思います。

国立国会図書館サーチで森潤三郎を検索すると、様々な書籍や論文が出てきます。
特に『紅葉山文庫と書物奉行』『多紀氏の事蹟』あたりは当時、いや今もですが、あまり取り上げられることがない書物奉行や多紀氏を取り上げ、やはりここでも詳細な墓碑調査を行っています。

我々の中ではおなじみの『掃苔』では「現存する町奉行の墓」を連載し、大正・昭和初期まで現存し、現在失われてしまった墓の貴重な情報を得ることが出来ます(但し、釣洋一先生が指摘した矢部定謙の墓碑の戒名に誤字があり、誤字脱字等があることは前提としなければなりません)。
他に国会図書館には蔵書がないのですが、『鳥居忠耀事蹟』という本もあり大変興味深いものがあります。

私がとても驚いたのは『今昔』(3)11に掲載された「竹垣三右衛門の碑文」を読んだ時です。
竹垣直温の墓碑は菩提寺である愛宕青松寺かその塔頭の清岸院にあるはずでしたが、現在は不明となっています。
以前、その調査の経緯は当ブログに書きました。

中町奉行丹羽遠江守長守とその子孫達

潤三郎の記事によると、直温の墓は確かに愛宕青松寺にあり、関東大震災で倒壊してしまい、当時の様子も書かれています。その後、どうなったかは不明ですが、少なくとも関東大震災の直後までは倒壊しながらもその墓があることが分かり、これは大変貴重な記録であると思いました。

潤三郎の遺した業績を見る度に、現場に行き、記録を採ることの意義や、人物研究のための墓碑調査の重要性などを改めて再確認させられます。

展示品の中には鴎外が大正天皇の即位式に京都へ行った際に潤三郎と一緒に京都の墓巡りをする様子が分かるもののもあり、微笑ましくなりました。また、三兄弟の母が雑誌に子育て論を求められ、「ただ育ち放題に致しておきました」と言い、それぞれが勉強して学問の道に進んだと話していて、この記事も大変興味深かったです。

久々に常設展も見ましたが、7月は鴎外の命日とあって、いつもはレプリカで展示されている「遺言書」のオリジナルが展示されていました。
あの「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」を見る度に、男の生涯にとって死に様こそが生き様だとつくづく思います。

このコレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」は10月1日(日)まで開催されています。
残りわずかですが、ご興味がありましたら行かれてみてはと思います。
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伊皿子大圓寺にあった松本良順先祖の墓

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会員のカネコです。
11月12日(日)に開催される第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」ですが、私は今回、残念ながら講師として参加できませんので、その代わりにかつて大圓寺にあったお墓について紹介したいと思います。

平成23年(2011)5月に開催した第4回「谷中霊園巡墓会(前篇)-墓碑を訪ねて先人達に学ぶ-」で私は佐倉順天堂創始者である佐藤泰然の墓を紹介し、同墓域にある松本良甫や松本家先祖の墓も紹介しました。
この松本家先祖の墓は、墓碑の刻銘から、大圓寺が杉並に移転される以前の伊皿子にあった頃に改葬されたものが分かっています。

佐藤泰然の二男順之助は、泰然の親友である幕府奥医師松本良甫の養子となり、松本良順(維新後は順に改名)と改名し、徳川家茂の侍医となり、その死を看取りました。また、近藤勇ら新選組隊士の治療をしたこともあり、新選組ファンの間でも人気が高い人物ではないかと思います。

松本家の先祖については、まず『寛政重修諸家譜 第22巻』に本姓が不詳である「未勘」の部に系譜が記載されています。
初代善甫が元禄5年(1692)に5代将軍綱吉に召し出されたことに始まり、その後、尚興(善甫)-善甫-興長(善甫)-興世(善甫)と続きますが、興世が天明6年(1786)喧嘩をした事を隠そうとし、発覚したため改易となりました。そのため、系譜はここまでの記載となっています。

『蘭学全盛時代と蘭畴の生涯 伝記・松本順』には松本家の先祖についてかなり詳細な記述があり、松本家は本姓宇多源氏であり、陸奥会津の天満宮の神職家であったといい、元は興江という苗字を称し、松本は初代善甫の母方の苗字であったとあります。善甫は神事の些細な口論から土地の住民を数名傷害し、村を出て一家離散となり、一男子を伴い江戸に出ました。その際に世を忍ぶため松本善甫を称したといいます。江戸に出て医術を学び、口科(現在で言う耳鼻咽喉科)を専門としました。やがて非凡な手腕を認められ、幕府に召され、松本家が代々奥医師を勤めました。
興世(善甫)が改易となった理由は『寛政譜』と松本家に伝わる話しが少し異なり、松本家では興世(善甫)が飼っていた愛犬が防火夫に殴られていることが喧嘩の発端となっています。
興世(善甫)は改易後、甲州あたりに落ち延び9年後に死去しました。興世(善甫)には光という娘があり、親族でやはり幕医であった数原通玄方に身を寄せていましたが、通玄が松本家再興のため奔走し、親族で秀才な医師であった大澤良庵を光に娶せ、松本家の婿養子とし、松本良甫善賢と改名しました。この良甫善賢の子が良甫戴であり、良順の養父となります。尚、大澤家は良甫善賢二男道斎が相続しており、これは同書巻末の「松本家譜」に記載されています。

谷中霊園甲新16号24側の佐藤・松本家墓地は元々王子堀之内村にあったもので、『蘭医佐藤泰然 その生涯とその一族門流』によると、良甫戴が明治維新前に麹町平河天神町の邸宅を売却した後、堀江松五郎という人物の尽力により王子の邸宅を購入したとあります。
泰然と良甫は親友で、死後も離れぬ約束をしていたため、泰然が死去後に、実子である良順が松本家の邸宅内の墓域に泰然を葬りました。同書には王子の墓地は良順の生前から都合あって佐藤家で管理されていましたが、佐藤達次郎(泰然の曽孫)の代になり、佐藤家が所有していた谷中霊園の空地に移されたとあり、その際に松本家当主の松本本松が請い、松本家先祖の墓も同所に移されたとあります。
その松本家の墓碑銘は以下となります。

正面:
圓桂院殿善甫法眼源興正 元禄八年四月六日卒
諦了院殿善甫法眼 不詳 延享二年八月丗日卒
修心院殿善甫法眼源興信 明和二年十月廿二日卒
觀月院殿善甫法眼源興長 天明四年八月十八日卒
松壽院殿善甫法眼源興世 寛政七年八月四日卒
覺性院殿良甫  源善賢 文政九年八月廿日歿
右側面:
明治十年十一月従芝伊皿子大圓寺移之





この墓碑の刻銘から、かつて伊皿子にあった大圓寺より明治10年(1877)に移されたことが分かります。
しかし、前述の通り、佐藤達次郎と松本本松の時代に移されたとすると、明治10年(1877)時点では達次郎はまだ佐藤家に養子に入っておらず、時代的に全く合いません。
伊皿子大圓寺から直接移されたものか、一度、他地に移された後に谷中霊園に移されたものかは再考の余地があります。

大圓寺は巡墓会で解説されると思いますが、薩摩藩と縁が深い寺であり、薩摩藩関係者専用の過去帳が作られており、これは『薩陽過去帳(鹿児島県史料集第14)』として翻刻されています。元の過去帳は数冊に分かれており、「自天保五年 至明治十五年」の分は何故か薩摩藩関係者以外に、大圓寺の檀家であった旗本坂井家・土方家の人物も記載されており、松本家の人物も2名記載されています。

文久改元年辛酉年
四月廿五日   松本良甫殿 倅
 養善院実性不昧居士
明治三庚午年
十二月十九日 牛込 松本良甫嫡子
 玄暁孩子

[養善院]は良甫戴の子であると思われ、「松本家譜」に良甫戴の実子として夭逝した寅之助の名があり、この寅之助に該当するもと思われます。
[玄暁孩子]に関しては[良甫嫡子]とありますが、良甫戴だと時代が合わず、良順であると思われますが、良順の長男は明治12年(1879)に夭逝した銈であるので、[良甫嫡子]という記述は誤りであるか、銈は実が二男であったのか、こちらも再考の余地があります。

尚、谷中霊園の松本家の他の墓碑は2基あり、以下の墓碑銘となります。

正面:
  紀元二千五百三十九年四月十六日卒
           齢 二十八歳一月
従七位松本銈 墓 (松本良順長男)
 明治十二年三月十四東京日々新聞二千百七十九號
 (追悼文)

正面:
前侍醫法眼松本戴墓 (松本良順養父)
同 夫人三浦禄子
裏面:
戴 明治十年一月六日卒 壽七十二歳
禄 同 十四年十一月六日卒

また、良順は当初神奈川県中郡大磯町の鴫立庵に葬られ、その後、昭和29年(1954)に葬儀を行った妙大寺に改葬されていますが、現在鴫立庵にも墓碑が残されています。

11月12日(日)の第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」では大圓寺に残された様々なお墓が紹介されると思いますが、参加される方は伊皿子時代に松本家の墓があったという事も頭に入れて頂きたいと思います。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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10月8日 駒込・王子近辺調査

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会員のクロサカです。
本日は久しぶりに晴れたので駒込・王子方面に行って来ました。
同好の方には駒込圓勝寺を案内してもらい、こちらからは王子阿弥陀堂墓地と金剛寺を案内しました。

まず、圓勝寺は幕府数寄頭を歴代務めた伊佐家の菩提寺で、高台の墓地の真ん中辺りに伊佐家の墓所がありました。
写真は別のカメラで撮りましたが、正面に歴代の合祀墓が3基と両側に1基ずつの計5基の墓碑がありました。
この伊佐家は歴代「幸琢」を名乗り、左にあった夫婦合祀墓は裏面に「五代目 伊佐幸琢知芳」とありました。
詳しくは知りませんでしたが、伊佐家から彰義隊士が出ており、近くにはこの伊佐家出身の佐藤元次郎という隊士のお墓を教えて頂きました。
同墓地には他に旗本長山家や6代執権北条重時の末裔塩田氏の墓もありました。

続いて王子に移動して、阿弥陀堂墓地に向かいます。
近隣にある金輪寺が管理する墓地で王子神社社家の大岡家の墓所がありますが、こちらに榎本対馬守道章の墓があります。
こちらも墓域内に5基の墓碑があり、榎本道章のほか、養父または息子?の榎本克昌や縁戚と思われる瀬名家の墓もあります。
こちらは3度目ぐらいの再訪で、同好の方に案内したところ、大変喜んで頂きました。

最後に近くの金剛寺に移動し、徳川慶喜から相田姓と五三の桐を賜ったという相田家の墓所を案内したのですが、その近くに気になるお墓が....。
近くに寄ってみると岡田家の墓所のようですが、3基並んだ1番右にあった「岡田斧吉源良雄之墓」という名前と裏面には「明治二季己巳四月十七日」と刻まれていました。



調べてみると岡田斧吉という幕府遊撃隊の幹部を務めた人物の墓でした。
箱館戦争の松前折戸浜の戦いで戦死しています。

1番左の墓は岡田新五太郎という人物で斧吉の養父に当たります。
この人物も調べてみると、勝海舟の友人で共に勉学に励みましたが、文久二年に亡くなり、海舟も死去の報を聞くと、岡田家へ弔問に訪れたそうです。



ちなみに同墓域には子孫の墓もあり、墓誌に「義徴」という名前があります。
これは勝海舟の四男で岡田家が絶えるのを惜しんだ海舟によって、養子となっています。

王子は地元からバスや都電を使うと行きやすい場所なので調べればもっと幕末~明治関係者のお墓が見つかるかもしれないので、引き続き調べていきたいと思います。

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秋の巡墓会まであと3週間余り

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会員のカトケンです。

ただいま秋の巡墓会追い込み中。仕事の合間に通勤電車などで原稿書きや資料読み込み。疲れますが、気分転換になります。

我ながら、難しい課題を己に課してしまったー桜田門外の変に、江戸薩摩藩邸焼き討ちーと思いつつも。こんな話をしたら反応してくれるかなとか、この話に食いついてくれるかなど、楽しみもひとしお。

レジュメの写真も撮りにいかないかん。最近はフィルム撮りばかりであったため、これも楽しみながら撮りたいところ。

残り3週間ばかり、掃苔行脚の〆切や来年のことも考えながら進めていきます。どうぞ、お楽しみに。

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