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遅咲きの新年御挨拶

あけましておめでとうございます。会員のカトケンです。

少し時間が空いてしまったが、昨年最後の行事、11/27春日局ゆかりの地をめぐるオフ会を無事終えた。参加は13名、来てくださった方の一体感があって楽しく案内ができた。

お寺では、パンフレットを用意してくださり、こちらからお願いしたわけではなかったが、御朱印を受け付けてくださって、書いておくので帰りに寄ってくださいとの粋な計らいーー

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誠実にお願いすれば通じるなぁと悦びもひとしおであった。

今回、話せなかったことに祖心尼のことがある。春日局の姪に当たり、局亡き後大奥を取り仕切った。

祖心尼開基の寺院が新宿区榎町にある。麟祥院と同じ臨済宗妙心寺派で予約すれば見学させてくれる。

お墓も祖心尼のほか
岸和田藩主岡部家や
梅田雲浜の師匠山口菅山
新井白石・雨森芳洲の師匠木下順庵の家族
があって庭も見応えがある。

以前、ブログでも書いたと思うが、紹介しておきたかった場所だ。

1月23日 済松寺

ところで祖心尼の後夫町野幸和は、蒲生氏郷の旧臣で春日局の甥、幸宣(兄利宗の息)を養子にしている。

町野家が江戸へ来たときに、局が祖心尼の就職先として大奥を斡旋したようだ。

その町野家の菩提寺が局の兄利宗家と同じ千駄木養源寺なのだが、町野の墓は見つけられなかった。幕臣となった子孫の菩提寺はまた別にあるようで、そういったところも追跡調査してみたいものだ。

町野といってピンと来る人もいるかもしれないが、この町野は会津藩士町野主水の先祖でもある。
系譜を作成していて、会津系統の町野家までまとめ切れなかったから(幸和の孫重秀が主水家につながるようだ)、これも追跡の必要を感じた。

今回、春日局を調べたことで徳川三代将軍家光にまつわる大奥の人物何人かにたどり着き、将軍という権力者の孤独と安らぎに触れた気がした。

歴史上の人物の周辺の女性を洗い出すのは、これまで手つかずのものも多い。このようなアプローチで知られざる歴史を浮き彫りにしていくことは道半だが、我々にしかできない案内があると信じてこれからも続けていきたい。

最後になりましたが、本年もよろしくお願いします!

年頭のあいさつと謎の墓

お二人から遅れてしまいましたが、新年あけましておめでとうございます。
会員のクロサカです。
本年もあまり知られていないお墓を紹介していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

さて、2017年最初の投稿です!
昨年行われた麟祥院オフ会の事前準備として、当会員カトケンさんと文京区動坂近くの養源寺を中心に周辺調査を行いました。
その際に発見した「謎」の墓を紹介したいと思います。

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すごく変わったお墓で、墓碑正面は観音開きになっています。このお墓は海蔵寺にあります。
海蔵寺といえば、身禄行者や雲龍久吉をはじめとする相撲関係者、儒学者立原翠軒のお墓や多くの旗本が菩提所としています。
そんな錚々たる人々が眠る墓地にこのお墓があります。
台座には「酒井家」と「丸に剣片喰」が刻まれ、観音開きの取っ手付近にも「丸に剣片喰」が装飾されています。

墓碑左には、銅板の墓誌が置かれており、たいへん興味深いことが書かれていました。

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右から「初代経基王」、「六代義国」、「九代頼氏」、「十二代満義」、「十六代親氏」、「十八代氏忠」、「二代忠尚」、「四代忠季」、「五代忠潔」となっています。
初代経基王というのは、清和源氏の祖源経基のことです。六代義国は新田氏の祖になります。
九代頼氏と十二代満義は松平家の祖と同じく新田頼氏・新田満義のことです。この二人は世良田氏でもあります。
そして十六代親氏が松平家と酒井家の祖となる松平(酒井)親氏のことです。
実際に埋葬されてはいませんが、ここまで先祖を強調したお墓はあまり見たことがありません。
十八代酒井氏忠は、酒井家の祖親氏の子酒井広親(岡崎龍海院にも墓あり)の子で、左衛門尉家の初代です。
この左衛門尉家から徳川四天王の一人、酒井忠次が登場し、出羽荘内藩主酒井家となっていきます。

さて、問題なのは、次の二代忠尚からの3人です。
忠尚は三河上野城主で、酒井氏忠の子康忠の子で、酒井忠次の叔父に当たるとされています。
しかし、三河国一向一揆に参加するなどして、松平家から離反し、駿河国に落ち延びたと刻まれています。
その孫に当たる人物なのか、四代忠季は、信濃国木曽谷に移動し、木曽源氏の子孫で、武田・織田家の家臣木曽義昌に仕えたと刻まれています。その後、小笠原政信に仕え、大坂の陣後は信濃国筑摩郡竹淵村に帰農したようです。
この碑の末尾に末裔の酒井松吉氏が昭和55年に建立したことが刻まれています。
この銘板以外にもう一つ石造の墓誌があり、こちらに現在のご子孫の戒名と俗名などが刻まれていますが、ここにも初代として「坂井十五郎親忠改酒井左衛門尉源氏忠」と「淨賢道号愚王」の戒名が刻まれています。

この銘版碑文の真偽のほどは不明ですが、このような名族の子孫を名乗る一族は全国各地に点在し、自らの先祖を顕彰する活動をしている人びとも多いです。
そのなかでも公家や大名だった人びとだけ華族となり、爵位を得るわけですが、この酒井家のような一族も多いので、探っていきたいと思っております。

初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓

会員のカネコです。
昨年末、ロシアのプーチン大統領来日でにわかに北方領土が注目を浴びましたが、北方四島をはじめ、樺太・千島列島が日本の領土になった経緯というものはもう一度理解するべきなのではないかと思いました。
その中で出会ったのが今回紹介する初代蝦夷奉行羽太(はぶと)安芸守正養です。

江戸後期から明治にかけて様々な人物が北海道から周辺の島々を命がけで探険し、その土地に住む人々や風土を調査したことにより、未知の世界であったこの地域の実情が明らかになりました。例えば伊能忠敬や間宮林蔵などはその代表的な人物です。
今回紹介する羽太安芸守正養は地味な存在ではありますが、旗本で蝦夷地奉行、箱館奉行、松前奉行を歴任し、現在の北海道千歳市の「千歳」の命名者といわれている人物です。
『寛政重修諸家譜』によると正養は羽太勘兵衛正香の子で、通称を庄左衛門といい、御蔵奉行、田安家の用人、御目付などを歴任しています。寛政譜の記載はここまでですが、『徳川幕臣人名辞典』によると、享和2年2月23日(1802・3・26)に蝦夷奉行、同年5月10日(1802・6・9)に箱館奉行(文化4年10月24日(1807・11・23)に松前奉行と改称)となっており、まだ未開の地であった蝦夷地の行政や警固の任にあたっています。

正養の蝦夷地での業績については大塚武松著「追録 箱館奉行羽太正養と蝦夷地経営」(『幕末外交史の研究 』)、北海道総務部行政資料室編 『開拓の群像 中巻』に詳しく書かれています。

寛政11年(1799)幕府は南下政策を進めるロシアを警戒し、東蝦夷地を松前藩から引きあげ、直轄地としました。そして蝦夷地取締御用掛を新設し正養のほか、松平信濃守忠明・石川忠房・大河内政寿・三橋成方を任じました。
蝦夷地取締御用掛として箱館に赴いた正養は、箱館に造船場を建設し、通行の便を良くするため、堀を作り、そこに橋をかけ栄国橋と名付けました。
また、当時は渡航が危険であったクナシリ島(北方領土の国後島)へ渡航し、島の隅々まで検分を行いました。
飲み水が悪く困っていたトリマでは重松という従者に命じて井戸を掘らせた所、質の良い水が沸きだし、正養はこれを「重松の井」と命名し、次のような歌を詠いました。
「いく世々にくみて知るらむつくりなす 坂井の水のふかきめぐみを」
箱館に戻った正養は江戸に帰り詳細な、検分記録と地図を幕府に提出しました。

共に蝦夷地御用取締掛を務めた松平信濃守忠明とは深い友情で結ばれており、『開拓の群像 中』には次のようなエピソードが記されています。
正養は駿府城代に昇進した忠明に手紙を送って、忠明の敏腕を褒めながらも、はやる心をおさえて、おもむろに進むこともまた必要であると忠告をしています。これに対し忠明は「兄のことばのようにありがたくいただく」と答え「このごろのエトロフの発展をもって忠明の手柄のように評判する向きもあるが、これはみな、あなたのおかげである。この間も将軍家へそのように申し上げました」と功を譲り合い、ともに失敗のないよう戒め合いました。
また、ある年、正養が箱館へ赴く時、忠明は「何か贈り物をしたが、何が欲しい」と尋ね、正養は「奉行所勤務のひまひまに使いたいから、蹴鞠が欲しいのだが、手に入るかどうか」と返事をすると、忠明は蹴鞠を八方探し求め正養に送りました。
遠く離れた蝦夷の地で友を想いながら、蹴鞠に興じる正養の姿が目に浮かぶようです。

蝦夷地取締御用掛として功績を挙げた正養は享和2年2月23日(1802・3・26)戸川筑前守安論(宝暦12年(1762)~文政4年3月23日(1821・4・25)曲直瀬正山の二男)と共に初代蝦夷奉行に任じられ、交代で箱館に在勤しました。
正養と戸川は拡大された幕府直轄地への新政の確立と経費を定めることで、松前藩時代の悪弊が改められ、北方経営は順調に進展しました。また、両名は蝦夷地に三寺を新設し、箱館近辺の開墾、虻田に牧場を開設するなど、業績を挙げていきました。
文化2年(1805)には当時シコツと呼ばれていた千歳地方を訪れ、シコツ川を千歳川と改名し、このことにより「千歳の名付け親」とも呼ばれています。

順調に進んでいたかに思われた蝦夷地経営は文化4年(1807)に暗転することになります。
この年の4月29日(1807・6・5)ロシア船2艘がエトロフ島(北方領土の択捉島)ナイボ(内保)を襲撃し、さらに幕府の会所があったシャナ(紗那)を襲撃しました。会所を守っていた戸田亦太夫は詰めていた南部・津軽各藩の兵に命じ、上陸してきたロシア水平と一戦を交えましたが、陣屋は火器に劣り敗れ、夜に会所を焼き払い退却。その途中亦太夫はアリモエで責を負って自刃。亦太夫は寛政11年(1799)蝦夷地取締御用掛が新設された際に普請役として蝦夷地に赴いて以降、蝦夷行政に携わっており、志半ばにしての無念の最期でありました。
この事件の際、測量で訪れていた間宮林蔵は会所を打って出る主戦論を唱え奮戦、高田屋嘉兵衛の漁場の支配人川口寅吉も負傷しています。
この事件が正養のもとに届いたのが翌5月になってからで、正養は幕府に急報し、南部・津軽両藩の出動を促しました。7月に江戸から幕兵を連れて箱館に来た若年寄堀田正敦は蝦夷地を検分し、正養の治績が上がっていることを認めたものの、エトロフの敗戦の責は正養にあるとして、10月に江戸に戻され、戸川安論とともに奉行職を解かれ、小普請逼塞を命じられました。逼塞は翌年に解かれましたが、彼が再び表舞台に出ることはなく、文化11年1月22日(1814・3・13)62歳で没しました。

正養の大きな功績は『休明光記』を書き残したことです。
在任中の蝦夷地の行政をはじめ、松平忠明・戸川安論・最上徳内・近藤重蔵・高田屋嘉兵衛など、共に蝦夷で働いた仲間の事績も書かれており、本編9巻、その参考となる文書類を集めた附録11巻、附録一件物3巻、附録別録4巻の計27巻からなる大著となっています。これは幕府の蝦夷地行政を知る一級資料となっています。

『休明光記』は函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブで閲覧することができます。
『休明光記』

正養は元来蒲柳の質であったといい、幼い頃より心を文に寄せ、和漢の書に通じ、よく歌や句を詠みました。また、『羽太氏家訓』を遺し、忠孝五倫の大義より、父子・夫妻・主従・長幼の関係、学問の選択、日常細末の心得を古今和漢の例証に照らして書いています。

正養の墓は私の自宅から近い品川区南品川2丁目8-23の顕本法華宗別格山天妙国寺にあります。
『寛政重修諸家譜』によるとこの天妙国寺は羽太家3家が菩提寺としています。
羽太家は藤原氏利仁流を称し、徳川家康に仕えた羽太半蔵正次にはじまります。
正次は天正18年(1590)家康が関東へ移った際に従ったものの病のため三河国額田郡大門村に隠遁し、その子正俊は慶長2年(1597)29歳で早世、その子正成は祖父の許で養われ大門村で育ちました。慶長19年(1914)家康が大坂冬の陣へ向かう途中、正成は供奉する事を願い出て、大樹寺の門前で家康の御前に召され、姓名を尋ねられました。すると正成は家康の側に仕える事を命じられ供奉の列し、大坂夏の陣にも側で仕え、その後、駿府において近習を務めてました。家康死去後、大番となり、甲斐国八代郡のうちに150石を賜りました。
この正成には男子が多く、二男勘兵衛正弘は甲府宰相綱重の附属して桜田館の小性組を務め、後に綱重の子綱豊が将軍綱吉の世子家宣として西の丸に入ると幕臣となり300俵を賜っています。
三男庄左衛門正平も同じく甲府宰相綱重の小性から家宣に従い幕臣となり500俵を賜った家であり、この正平が正養の祖であり、正養は正平から数えて5代目となります。
尚、当会幹事のカトケンさんのご先祖も桜田館に出仕しており、羽太正弘・正平とは同僚であったことになります。
以上の本家・正弘家・正平家の3家が天妙国寺を菩提寺としており、正成五男清左衛門正次の家は四谷松岸寺を菩提寺としています。

正平家の墓は合葬墓となっており、正面に[羽太家累世之墓]と刻まれ、3面には撰文が刻まれており、享和3年(1803)正養によって建立された墓碑であることが分かりました。

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この墓は私が北品川に転居して間もない平成24年(2012)1月に初めて訪れ撮影しました。
この時のことは以前のブログにも書いています。

品川宿の寺々

その後、数度訪れていましたが、昨年末に訪れた際、京急本線ガード下付近の無縁集石地に移動されていました。

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後継者が絶えたためだと思われますが、昨今各地で無縁墓が廃棄される中で、このような形で保存されたことにお寺側の心遣いを感じました。
正弘家の墓所は墓地左最奥にあり、歴代の墓が良好な形で残されています。
また、本家の墓は今まで見つけることが出来ませんでしたが、昨年末の調査で、無縁集石墓に移された正平家の墓の左隣の小さい墓碑の側面に[羽太清右衛門]と刻まれてあるのを見つけ、清右衛門とは本家の当主の通称であることから、これが本家の墓であったことが分かりました。

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平成24年(2012)に訪れた際は正養の人物像については全く知りませんでしたが、昨年のプーチン大統領来日で北方領土の歴史を調べた中で、この羽太正養の名が出てきて、天妙国寺で見た墓と繋がりました。
そこから見えたのは当時未開の地であった蝦夷地の発展に半生を掛けた一人の男の生涯と、命をかけて蝦夷地で生きた仲間達の姿でありました。

間宮豊前守信盛の墓-間宮林蔵の先祖考-

会員のカネコです。
京急川崎駅の下りホームを降り、左側に目をやると、寺院墓地が広がっています。
これは曹洞宗瑞龍山宗三寺の墓地です。
私は日々この風景を見ながら出勤しています。
この墓地の京急寄りの壁際に間宮豊前守信盛の墓碑があります。
宗三寺は創建年不詳ですが、鎌倉期に創建された禅宗勝福寺が前身と言われ、佐々木四郎左衛門高綱の菩提寺となったものの、その後、衰退し、戦国期になり小田原北条氏の家臣であった間宮豊前守信盛が開基となって中興しています。

『寛政譜』によるとこの信盛は江戸期に複数の旗本家を輩出した間宮家の祖であり、宇多源氏佐々木庶流を称しています。
『寛政譜』の冒頭には次のように書かれています。
「間宮 先祖は萬石、眞野、船木等を称し、新左衛門信冬伊豆國田方郡間宮村に住せしより称号とす。」
系譜には上記信冬の後「寛永系図に、信冬より豊前守某にいたるまで、其間中絶せりといふ。」とあり、その後「某 豊前守 今の呈譜に信盛につくる。北條早雲及び氏綱につかふ。某年死す。法名宗三」とあり、その子「某 豊前守 今の呈譜に信元に作る。」その子「康俊 豊前守」と続いています。
康俊は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、伊豆山中城で戦死。その孫直元が徳川家康に仕え、旗本になっています。康俊の子信高、元重も旗本となっており、また、娘お久(普照院)は家康の側室となり、松姫を産んでいますが、松姫は早世しています。

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宗三寺の信盛の墓碑は正面に[人皇五十九代宇多天皇第八皇子一品式部卿敦實親王十六代後胤 當寺開基雲谷宗三居士 佐々木間宮豊前守入道源康信]と刻まれており、信盛ではなく、曾孫の康信の名が刻まれています。しかし、宗三は信盛の法名であり、寺の中興開基であるので、この墓碑が信盛のものであることは間違いないでしょう。
側面には天和3年(1683)に間宮金五郎尉盛正によって建立されたことが刻まれています。
この金五郎尉盛正の名が『寛政譜』には見られない名であり、信盛との繋がりは不明です。
側面と正面の刻銘を比べると、側面は天和の頃のものに思われますが、正面は後年彫り直したようにも見られ、改修が加えられたようにも見られます。
それはともかく、信盛が宗三寺の開基として大切にされていたことは間違いなく、江戸期に数多くの旗本家を生みだした間宮一族の祖の墓としての風格を持った墓碑であると言えます。

さて、間宮と言えば、前回の記事で名前が挙がった北方探検家間宮林蔵が最も著名な人物となります。

初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓

林蔵は常陸国筑波郡上平柳村の農家の生まれ、その才覚で出世し、最後は幕臣に取り立てられた人物です。
林蔵の先祖について、洞富雄著『間宮林蔵』(吉川弘文館 人物叢書)には次のように書かれています。
「庄兵衛(林蔵の父)の祖先は、間宮隼人という武士で、寛永年中(一説には、嘉吉年間あるいは慶長年間ともいう)に、この村に移り住んで百姓になったと伝えられる。」とあります。
この間宮隼人について前田右勝編著『神奈河戦国史稿』には康俊の子として、掲載されている系図にも康俊の子として記載されています。この出典として『磯子の史話』『茨城県大百科辞典』が挙げられていますが、さらにこれら書籍の出典元を確認する必要があります。
少なくとも『寛政譜』には康俊の子に隼人という名は見られません。
間宮隼人が果たして康俊の子であるかは、様々な資料を比較検討せねばなりませんませんが、このような名のある武士の子孫が帰農するという話は日本全国に見られるものであり、これらの話を眉唾と一蹴することは簡単です。しかし、その家にとっては代々大切に伝えられている話であり、何故その苗字になったのか?その家紋を使用しているのか?ということは様々な角度からの検討が必要であると思います。
先日黒坂さんが書いた信濃国筑摩郡竹淵村に帰農した酒井家などもその好例です。

年頭のあいさつと謎の墓

間宮林蔵の家が康俊の子孫であると断定はできませんが、かつて小田原北条氏の重臣であった間宮氏の一族の一人が上平柳村に辿りつき帰農し、一族の中で著名であった信盛や康俊の系統に結び付けた可能性はあるのではないかと思います。
これに関してはつくばみらい市上平柳にある間宮林蔵記念館や林蔵の菩提寺である専称寺へ行き、追跡調査をしたと考えています。

第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」開催のお知らせ

会員のカネコです。
探墓巡礼顕彰会では、第14回目となる巡墓会を5月14日(日)深川近辺の寺院にて行うことになりました。
深川近辺の寺院に眠る主に江戸初期と三大改革期の人物の墓参を行い、その事蹟を解説いたします。
皆さまのご参加をお待ちしております。

開催要項は以下のとおりです。

■開催要項
★日時 平成29年5月14日(日)雨天決行
12:30 地下鉄清澄白河駅A3出口にて受付開始
13:00 寺院へ移動後、開会式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
      巡墓会開始
      (途中・集合写真撮影・トイレ休憩有り)
16:30 現地にて解散式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
17:00 懇親会

★集合場所:地下鉄清澄白河駅A3出口を出た所
【交通】東京メトロ半蔵門線/都営地下鉄大江戸線 清澄白河駅
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★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★巡墓寺院
霊巌寺・成等院・浄心寺・本立院墓地・雲光院
※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

★主な巡墓人物
松平定信(白河藩主、老中、寛政の改革)
森陳明(桑名藩士、箱館新選組)
紀伊国屋文左衛門(商人、みかん船)
矢部定謙(江戸町奉行、火盗改)
三沢局(徳川家綱乳母)
間宮林蔵(幕臣、北方探検家、間宮海峡)
阿茶局(徳川家康側室、大坂冬の陣)
後藤三右衛門(商人、水野忠邦の三羽烏)

★参加費用:1,500円(資料代含む)
(定員20名~30名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000円程度/場所:清澄白河駅近辺にて)

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」-申込みフォーム-


【深川巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。墓碑解説の前に合掌をお願いいたします。
※墓地内移動中は檀家様の墓参の妨げとならいようお気を付け下さい。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※墓地内は一部、足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ゴミ等はお持ち帰り下さい。
※体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。

桑名照源寺にある楽翁公の墓

会員のクロサカです。
再来月に迫ってきた深川巡墓会。
そこで、今回の巡墓人物の目玉の一人、松平定信のもう一つのお墓について、簡単に紹介したいと思います。

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松平定信のお墓は、深川の寺町の一角、霊巌寺にあります。国指定史跡にも指定されており、歴史好きの方ならご存知の方も多いと思います。
しかし、定信の墓が松平家の領地だった三重県桑名に建立されているというのは、あまり知られていないかもしれません。
桑名の墓所は、松平家の菩提寺照源寺にあります。
現在こちらには、広大な面積に桑名藩主松平家の墓所が形成されており、初代定綱を筆頭に、6人の藩主や正室、側室、子女など、計20基以上の墓碑が林立しています。
その中に松平定信の墓があります。
墓碑正面には「樂翁源公之墓」とあり、立派な墓所ですが、代々の墓碑に比べて同じくらいかやや小ぶりな墓石でした。
寛政の改革を行い、幕府の中枢にいたということが、教科書や歴史書などで注目される人物ですが、国元と江戸にある彼の墓碑を見ることで、彼の生き様が垣間見えるような気がしました。

今度の巡墓会では、松平定信の本墓や多くの大名家の墓所がある霊巌寺を中心に巡る予定ですので、ご興味を持たれましたら、下記の参加フォームから申し込みをお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」-申込みフォーム-

こちらの参加フォームから本巡墓会の詳細が確認できます。
探墓巡礼顕彰会のメンバー一同、心からご参加をお待ちしております。

先祖への旅を続けながら江戸と京都を楽しむ

今年に入ってからわが先祖の住まいを3ヶ所回った。
いずれも赤坂・六本木

六本木の1ヶ所が分からなくてうちが住んでた後に住まいとしていた家を調べたらすぐ出てきた。

東京へ出てきて最初に働いた職場からそう遠くなく、よく散歩がてら歩いた場所だった。

かつて麻布市兵衛町と呼ばれたところで、今もある御組坂の東側である。

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ちなみに赤坂はこんな具合になっている。

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(薬研坂)

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(今井谷)

今月京都に行ったついでに見てきたのが、わが高祖母の実家野村家は領主堀尾家が断絶したため女系である石川家を頼ったのだが、その石川忠總の墓。
本禅寺

清浄華院の北隣にあり、梨木神社を覗いてから訪ねた。

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この石川忠總は大久保忠隣の息子で、同寺には大久保加賀守と刻まれた墓もあった。
この本禅寺でゆっくりできなかったのは、その後この5月に行う巡墓会の下調べがあったからである。

すなわち、金座銀座後藤家を追って十念寺、
大判座後藤家を調べに紫野常徳寺や蓮台寺を訪れる必要があった。

レンタサイクルを借りて最後に船岡温泉に入って汗を流し、宿へ向かったーーまだまだこの京都で調べた成果を5/14披露します。お楽しみに!

会員カトケン

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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」申込みフォーム

エトロフ(択捉)島の戸田亦太夫の墓

会員のカネコです。

当ブログでは会員が実際に行ったことがあるお墓を紹介していますが、今回は行ったことがない、否、行けないお墓を紹介します。

少し前に投稿した初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓の中で、羽太正養が奉行職を解かれる理由となった文化4年(1807)にロシアがエトロフ(択捉)島を襲撃した文化露寇について触れました。
この時にシャナ(紗那)会所を守っていたのが幕府の役人であった戸田亦太夫です。

戸田亦太夫は寛政11年(1799)蝦夷地取締御用掛が新設された際に普請役として蝦夷地に赴き、享和3年(1803)箱館奉行支配調役下役、文化4年(1807)調役下役元締に進み、エトロフ(択捉)島のシャナ(紗那)会所に勤めていました。

同年4月29日(1807・6・5)ロシア船2艘がエトロフ(択捉)島南部のナイボ(内保)を襲撃し、さらにシャナ(紗那)へ進撃してきました。亦太夫の上役菊地惣内は箱館に出張中であったため、亦太夫は詰めていた南部・津軽各藩の兵に命じて、ロシア兵と一戦を交えましたが、陣屋は会所に劣っており敗れ、夜になって会所を焼き退却しました。亦太夫はこの責を負い、アリモエ(有萌)の地で自刃しました。34歳の若さであったといいます。その場所はその後、腹切沢と言われるようになりました。

この戦いでは間宮林蔵が奮戦したという話がありますが、実はこのことについては不明な点が多く、林蔵は大した活躍をしていなかったという説もあります。
また、亦太夫についても毀誉褒貶があります。『潮騒の択捉 島を返せ』には、幕府の医師久保田見達の「北地日記」に亦太夫は怯懦の男であったように書かれているが、本城玉藻の「根室千島両郷土史」の中の「択捉沿革史」の中では亦太夫は誉高い武士として描かれており、「根室郷土史」を書いた寺島柾史もこの説をとっているとあります。
さらにこの『潮騒の択捉 島を返せ』には択捉の小学校の校長である昆校長は遠足のたびごとに亦太夫の墓を訪れ、鎌をもって草を刈り、お墓の掃除をした後で線香を立ててお参りをしてから、児童達に亦太夫の事績について語っていたとあります。同書にはこの昆校長による祭文も載せられています。
洞富雄『間宮林蔵』には上記の「北地日記」や林蔵が村上島之允に語ったという『丁卯筆記』に林蔵が先制攻撃を主張したことや、奮戦したことが書かれていることを紹介していますが、その真偽については疑義を示しています。
その後の林蔵の英雄化に対比して、シャナ会所から退却した亦太夫の評価が下げられたのではないでしょうか。
しかし、ロシアの圧倒的な武力の前では果たして先制攻撃は効果的であったのでしょうか。上役不在の中で退却を決断した亦太夫の行動は、致し方ないことであったと思います。
寛政11年(1799)から文化4年(1807)の8年間にわたり、異境の地であった蝦夷地の行政に尽力した亦太夫にとっては無念の最期であったことでしょう。

『根室・千島歴史人名事典』にはエトロフ(択捉)島アリモエ(有萌)の亦太夫の墓の写真が載せられています。

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正面に[戸田亦太夫藤原常保墓 文化四丁卯五月朔日]と刻まれており、これは亦太夫の息子又五郎によって建立されたものとあります。
亦太夫の自刃後の12月に、敗戦の責により俸禄、屋敷は没収されましたが、事情を考慮され、亦五郎は後に松前奉行支配同心に採用されています。
この事から見ても亦太夫は「怯懦の男」ではなく、エトロフを守るために一命を賭した男であったと思います。

この『根室・千島歴史人名事典』に載せられている亦太夫の墓の写真には「択捉島有萌にあった」と書かれていますので、果たして現在のこの墓が現存するかは分かりません。
例え墓石が無くなっていても、そう遠くない未来に再び日本人の手によって、この有萌の地に花が手向けれることを願っています。

尚、間宮林蔵については5月14日(日)開催の第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」にてお話したいと思っております。

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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」申込みフォーム

先祖と将軍の生母を追いかける

会員のカトケンです。

京都から帰って1週間。この勢いで一気に怒濤の掃苔計画を敢行。

まずは浅草から。先祖を調べながら土曜午後6時過ぎからテレビでやっていた《忠臣蔵の恋》を見て、先祖が仕えた桜田御殿が出てくるのがうれしくて主役月光院の実家の菩提寺唯念寺を訪ねる。
実父はこの寺の僧侶だといい、墓があるか小さな墓域をくまなく回ったが、歴代住職の墓は「当寺代の墓」にひとまとめになっていた。

その代わりといってはなんだが、桜田御殿に仕えた医師の墓があった。山田立長とぞいう。甲府藩名簿には山本立長とある。法名:瑞應院法眼直哉壽大居士

唯念寺は
真宗高田派 至心山 觸光院。
(台東区元浅草2-7-12)

東京本願寺では小栗忠順実父の実家中川家の墓を探し、2基見つけたが本当にその中川家なのか確証は得られなかった。
これは5/14の巡墓会で霊巌寺の日下数馬を説明するときに触れてみたい。

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日下数馬とは小栗の父が中川家から養子に来たあと(あるいはすでに養子が決まったあと)生まれたため養子に出された家で、わが先祖と同じ桜田御殿に仕えた。

その翌々日、高田へ。今は喜久井町という地名で、東京メトロ東西線の早稲田で降りて夏目坂をのぼる。

ここに来迎寺というわが先祖の甲府武具奉行前任者である今井次郎左衛門の墓があるか調べに来た。結果は空振りだったがいい雰囲気の寺院であった。

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さらに夏目坂を行くと将軍家定(13代)生母の実家跡部家の菩提寺である感通寺がある。ここも目的の墓碑には巡りあえなかったが、なんとも気持ちの良い寺院でしばらく離れ難かった。

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巡墓会で説明する人物ゆかりの墓に特化すれば良いのだが、ついつい先祖をはじめ追っかけているテーマで掃苔してしまう。特に感通寺のようなお寺に出合うとこの衝動は止められない。

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このテーマでの調査と先祖への旅は続く。

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間宮の里を行く-続・間宮林蔵先祖考-

会員のカネコです。
以前、間宮林蔵の先祖考として、間宮豊前守信盛の墓について書きました。

間宮豊前守信盛の墓-間宮林蔵の先祖考-


間宮豊前守信盛は川崎に居館を構えていましたが、その子信元は現在の横浜市港南区港南・洋光台・笹下に跨る笹下城に居城を移しました。
その後、この笹下城の一帯は間宮氏の本拠地として江戸時代に至るまで間宮氏一族との関係を保っていきます。

先日、この間宮の里とも言うべき笹下城跡の周辺を訪れました。
笹下城は現在の笹下4丁目11-5にある成就院の一帯にあったと言われています。
梅花山成就院の山門左脇にはその笹下城の跡を示す案内板があります。

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ちょうどこの辺りが空堀であったようです。
周辺は宅地開発が進み、城の遺構はあまり残されていませんが、寺院裏山墓地に土塁と思われる遺構がありました。

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さらにこの背後の台地上が本丸であったと言われていますが、こちらも宅地となっており、その形跡は分かりませんでした。
土塁の遺構がある墓地には成就院の住職の三男で、元治元年10月22日(1864・11・21)にイギリス人士官2名が斬られた鎌倉事件の実行者の一人間宮一の墓があります。
住職家の姓は間宮ではありませんが、一が間宮姓を称しているのは、やはり住職家と間宮氏に何らかの関係があったものと考えられます。

笹下から少し離れますが、港南区に隣接する磯子区杉田も間宮一族との縁が深い土地です。
間宮豊前守信盛の二男信常の系統は杉田の地に陣屋を構え杉田間宮氏となりました。
陣屋はJR杉田駅と京急杉田駅の間あたりにあったと言われています。

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杉田八幡宮の隣にはかつて別当寺間宮山妙観寺があり、山号の通り間宮氏が開基しています。
現在は廃寺となり、杉田幼稚園の敷地内に跡地を示す石碑が立っています。

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杉田間宮氏の菩提寺妙法寺には江戸時代に旗本となった杉田間宮氏歴代の墓があります。
江戸初期の立派な宝篋印塔もあり、旗本墓所としては良好の状態で残されています。

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間宮氏は江戸時代に入ると、笹下城主の信元-康俊-康信と繋がる本家、上記の杉田間宮氏、信元の二男綱信を祖とする氷取沢間宮氏の系統に分かれ、さらにこれらの家から分家を創出し、数多くの旗本家が出ています。

さて、先日書いた「間宮豊前守信盛の墓-間宮林蔵の先祖考-」では間宮林蔵の先祖間宮隼人が笹下城主間宮康俊の子という説があることを書きましたが、この説については追跡を続けています。
この説についてまず詳しく書かれているのが、「系譜のナゾ・玄白と林蔵の因縁」(市民グラフヨコハマ 21号)であり、それを基に様々な史料から比較検討した「間宮林蔵の祖「番匠・間宮隼人」は伊奈関東郡代の小貝川流域開発に協力するため横浜領から移住した 検地帳、古地図からその足どりを解明」(『間宮林蔵の再発見』)によって、この説が補強されています。

「系譜のナゾ・玄白と林蔵の因縁」では資料・フィールドワークを駆使して隼人が康俊の子であることの確証を探しますが、決定的な証拠は出てきていません。主に林蔵の実家茨城下平柳村の間宮家子孫の伝が根拠になっています。もちろん伝承や子孫の調査は有力な話でありますが、少々客観的な証拠が乏しいようにも思えました。

「間宮林蔵の祖「番匠・間宮隼人」は伊奈関東郡代の小貝川流域開発に協力するため横浜領から移住した 検地帳、古地図からその足どりを解明」では天正19年(1591)の杉田下郷の検地帳に「番匠隼人」の名があるのを見い出し、この「番匠隼人」こそが間宮林蔵の先祖である間宮隼人であるとしています。
この検地帳には間宮彦次郎直元、間宮惣七郎、間宮右衛門三郎等康俊の子や甥の見られます。小田原落城後、間宮氏は所領を安堵され、笹下近辺に居住しており、隼人もこの地に住んでいたと考えられます。この記事では推測として代官伊奈氏との関係で、隼人が笹下より茨城の下平柳村へ移住したのではないかとしています。
様々な史料を駆使した力作の記事で、これを読むと確かに隼人が康俊の子である可能性は高いなと思いました。
それでも尚、本当に隼人が康俊の子であったかという疑問は残ります。康俊の娘には徳川家康の側室となった人もいます。家康の側室の兄弟が農民になるのかという素朴な疑問もあります。
これについてはもう少し調べた上で、巡墓会のレジュメに記載したいと思っています。

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第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
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間宮氏研究余滴-火盗改間宮友三郎光徳-

会員のカネコです。
ここ数回にわたり間宮林蔵の先祖と考えられる小田原北条氏家臣間宮氏一族について書きましたが、間宮氏一族の中からは火附盗賊改を勤めた人物がいます。

我々の師である釣洋一先生著『江戸刑事人名事典』には次のように書かれています。

間宮友三郎光徳
元文5年(1740)申歳生まれの光徳には、藤五郎、与五郎という二人の兄がいたが、二人とも早世したため、宝暦14年4月4日(1764・5・4)25歳で亡父光政の遺跡を継いだ。同月18日(5・18)浚明院殿(家治)に初めて謁す。
明和2年11月29日(1766・1・10)西城御書院番に列し、御徒頭に進んだ後、寛政9年12月23日(1798・2・8)御先手鉄砲頭に転じ、5年後に火附盗賊改加役を務めた。

この釣先生の本には間宮友三郎光徳について三田村鳶魚が「泥坊の話」に記述したことを載せています。これによると文化元年(1804)の3、4月頃盗賊の清吉という者が荒かせぎをしていて、なかなか捕まらず、その被害は6、7月に増えていき、火盗改であった、間宮友三郎は御免願を出したとあり、間宮友三郎光徳が清吉を捕らえられなかったことで火盗改を辞職したことになっています。
しかし、釣先生は間宮友三郎光徳は文化元年7月4日(1804・8・9)に現職中に死去解任されたことを指摘しています。
つまり三田村鳶魚が清吉を捕らえられなかったことで辞職したと言っているのは誤認ということになります。

同書には間宮友三郎光徳は東京都葛飾区堀切の妙源寺に合葬墓があると記されており、法名は観立院殿誰有日珠居士。墓碑の写真も掲載されています。

私は平成21(2009)年7月に妙源寺にある二本松藩儒から昌平黌教授となった安積艮斎の墓所を見に来た際に間宮家の墓所も確認しました。

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正面中央に[妙法 顯了院殿法山日到居士]と刻まれています。『寛政譜』で照合すると光徳の父光政であることが分かります。その隣に刻まれている[卓曜院殿義峰日忠居士]は左側面の銘文から明治元年(1868)に死去した江戸期最後の当主光平であることが分かりました。

『寛政譜』によるとこの間宮家は笹下城主間宮豊前守信元の四男間宮監物信俊を祖としています。信俊は天正18年3月29日(1590・5・3)伊豆山中落城の際に兄康俊とともに討死にしたとあります。康俊は間宮林蔵の祖間宮隼人の父という説がある人物です。
信俊の長男源十郎も同じく戦死し、二男三郎右衛門光信が徳川家に仕え300石を賜り旗本となりました。妻は北条家の家臣江戸摂津守忠朝の女、後妻長谷川四郎兵衛重次の女とあります。
その後、正信-政重-政茂-光政と続き、友三郎光徳となります。
家紋は角四目結、五三の桐、三割桔梗とあります。

間宮一族を追跡する中で、火盗改となった人物を再発見し、改めて間宮氏族の幅広さを感じました。
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間宮林蔵の故郷を行く

会員のカネコです、
昨日は来月の深川巡墓会で解説する間宮林蔵の生誕地であるつくばみらい市上平柳へ行ってきました。
取手駅からバスで30分ほどの所にある上平柳。バス停を降りると田園風景が一面に広がっていました。

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林蔵の生家に隣接して間宮林蔵記念館があり、林蔵の愛用品や蝦夷図、北蝦夷地図などが展示されており、林蔵の業績がよく理解できる内容になっています。

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生家は小貝川の河畔に建っていたものを昭和46年(1971)に解体移築し、増改築されていたものを当時の状態に近づけて復元しています。

この記念館の近くにある浄土宗専称寺は間宮家の菩提寺で、林蔵が生前に建てた自身の墓や祖父母・両親の墓があります。

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また、林蔵の子孫は幕臣になった家と上平柳の農家を継いだ2系統に分かれますが、上平柳の子孫の墓も墓地内にあり、間宮姓の墓も数家みられました。

林蔵は16歳の時に江戸に修行のために出府する際、隣村狸淵の名主飯沼甚兵衛の養子となっていますが、その飯沼甚兵衛の墓と供養塔も探してきました。
飯沼家の墓所は専称寺の近くにある浄土宗浄圓寺にありました。
古い墓碑が数基あり、[當所飯沼甚兵衛]と刻まれた立派の墓碑もありましたが、甚兵衛は襲名の名であるかも知れませんので、果たしてこれが林蔵の養父かどうかは確証がありません。

『伊奈町の歴史散歩』には甚兵衛の供養塔が狸淵の旧家長塚家の近くの墓地にあると書かれており、その場所も探しました。
浄圓寺から小貝川沿いの道を西北に進むとその墓地はあり、甚兵衛の供養塔がありました。

上平柳・狸淵は静かな農村地帯でしたが、この地から大きな志を抱き、一人の若者が旅立ち、大きな偉業を成し遂げたことを想うと感慨深いものがありました。
今回の調査に関しては巡墓会のレジュメに詳しく記載したいと思っています。

再びバスで30分かけ取手駅に戻ると、時間があったので、本多作左衛門重次の墓所、取手宿本陣染野家の菩提寺念仏院、取手図書館を巡りました。

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取手図書館の2階には茨城県の郷土資料が豊富にあり、良い本とも出会えました。
4月にしては暑い一日でしたが、郷土に根付いた歴史を感じることができ、良い小旅行となりました。
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第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」迫る(開催要項一部変更あり)

会員のカネコです。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」が来週5月14日(日)に迫りました。

今回は深川近辺の寺院に眠る主に江戸初期と三大改革期の人物の墓参を行い、その事蹟を解説いたします。
鋭意準備中ですので、皆様のご参加お待ちしております。

開催要項は以下のとおりです。

■開催要項
★日時 平成29年5月14日(日)雨天決行
12:30 地下鉄清澄白河駅A3出口にて受付開始
13:00 寺院へ移動後、開会式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
      巡墓会開始
      (途中・集合写真撮影・トイレ休憩有り)
16:30~17:00 現地にて解散式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
17:00過ぎ 門前仲町駅近辺の居酒屋にて懇親会

★集合場所:地下鉄清澄白河駅A3出口を出た所
【交通】東京メトロ半蔵門線/都営地下鉄大江戸線 清澄白河駅
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★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★巡墓寺院
霊巌寺・成等院・浄心寺・本立院墓地・雲光院
※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

★主な巡墓人物
松平定信(白河藩主、老中、寛政の改革)
森陳明(桑名藩士、箱館新選組)
紀伊国屋文左衛門(商人、みかん船)
矢部定謙(江戸町奉行、火盗改)
三沢局(徳川家綱乳母)
間宮林蔵(幕臣、北方探検家、間宮海峡)
阿茶局(徳川家康側室、大坂冬の陣)
後藤三右衛門(商人、水野忠邦の三羽烏)

★参加費用:1,500円(資料代含む)
(定員20名~30名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000円程度/場所:地下鉄門前仲町駅近辺にて)
※当初清澄須白河駅を予定していましたが、門前仲町駅近辺に変更となりました。
※懇親会場へは解散後、幹事メンバーと一緒に移動します。
 大江戸線で清澄白河駅より1駅となります。

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」-申込みフォーム-


【深川巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。墓碑解説の前に合掌をお願いいたします。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※墓地内は一部、足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ゴミ等はお持ち帰り下さい。
※体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。
※一般の歩行者の方や、墓地内の墓参の方の妨げにならないよう、幹事メンバーの引率に従っての移動をお願いします。
※少人数の幹事での運営となります。参加者の中にはご年配の方・お子さまもおり、車の往来が多い道もありますので、なるべく引率のお手伝いもお願いします。

第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催しました

会員のカネコです。
昨日、5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催いたしました。

毎年この時期の巡墓会は初夏の暑さとなりますが、今回は曇り空で歩くにはちょうど良い気温となりました。
参加者27名(講師含む)の方にお集まり頂き、無事終了することが出来ました。
参加者の皆さまに厚く御礼申し上げます。

深川巡墓会にて解説した人物は以下の通りです。

霊巌寺 松平定信 白河藩主、老中、寛政の改革(カネコ)
    越後高田榊原家(クロサカ)
    近江膳所本多家(クロサカ)
    伊勢神戸本多家(クロサカ)
    丹波峰山京極家(クロサカ)
    尼崎藩松平家(クロサカ)
    伊勢桑名松平家(クロサカ)
    森陳明 桑名藩士、箱館新選組(カトケン)
    日下数馬 幕臣、小栗忠順叔父(カトケン)
成等院 紀伊国屋文左衛門 商人、みかん船(クロサカ)
浄心寺 三澤局・小堀家 遠州愛妾、家綱乳母、伏見義民に直訴された奉行家(カトケン)
    矢部定謙・父定令 定謙:勘定奉行、火盗改(釣先生・カトケン)
    安井算哲 囲碁、天文方渋川家初代渋川春海の父(クロサカ)
    永見貞之丞 幕臣、遠山景元伯父(カトケン)
    洲崎遊郭 (クロサカ)
本立院墓地 間宮林蔵 北方探検家(カネコ)
雲光院 後藤庄三郎光次 金座・江戸時代の貨幣制度について(カトケン)
    後藤三右衛門 金座御金改役、「水野の三羽烏」(カネコ)
    庄司甚内 吉原遊郭の祖(クロサカ)
    阿茶局・神尾家 徳川家康側室、大坂冬の陣、旗本(カネコ)
    中坊家 幕臣、大和の旧族、鳥居耀蔵妹婿・娘婿(カトケン・カネコ)

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今回も大阪より墓マイラーの巨匠カジポン・マルコ残月さんにお越しいただき、他には新人物往来社の元社長大出俊幸さん、古写真研究家の森重和雄さん、『乙女の日本史』著者滝乃みわこさんなどもお越し頂きました。

釣洋一先生にはオリジナルのレジュメをご用意頂き、矢部定謙の墓に関する詳細な情報、今回廻れなかった坂部山城守廣高の墓碑情報、松平定信、矢部定謙・定令、間宮林蔵、松田伝十郎の坂部山城守廣高の没日の暦表など貴重な資料を頂きました。

我々幹事メンバーのレジュメも過去最大の60ページのものになりました。解説できなかった内容もたくさんありますので、ご参加頂きました皆様には是非ゆっくりとご覧頂ければと思います。

今回は初の試みとして、カトケンさん作による、巡墓人物全員を日本通史に位置づける概説文を付けました。また、毎回時間が押し気味だったので、コース順路図にタイムテーブルを載せ、時間を意識した流れを作りました。

目玉だったのは最後の雲光院様で特別に本堂にご案内頂き、阿茶局の肖像画を見させて頂きました。ご参加頂いた皆様にも大変好評でした。
この場を借りて、改めて雲光院様へ御礼申し上げます。

懇親会には17名のご参加を頂きました。

参加者の皆さまには改めて御礼申し上げます。
ご協力頂きました各寺院の皆様にもこの場を借りて御礼申し上げます。

今後の活動に関しては決まり次第、当ブログ上にて告知いたします。
引き続き当会へのご支援・ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

港区天徳寺と新宿区浄運寺

会員のカトケンです。

金曜に休みをもらい、3連休3日目となった5/21(日)、ようやく念願の桑名帰りの収穫確認と将軍生母の実家追跡の再調査に出た。

まずは都内港区芝にある天徳寺。この愛宕近辺は小弟が13年前に上京した折、働いていた場所である。

愛着のある場所で、昼に散歩しても入ったことのない寺院であったが、まず入って六角堂にお参りし、葵の御紋の灯籠が目に入る。

小さな墓域には所狭しと墓碑が並ぶ。目的の江間啓之助政發(桑名藩士)の墓は無かったが、どうやら関東大震災で灰燼に帰したらしく、明治に没した者の墓が無くても致し方ない。

だが、1つ1つ見ていくと、大給と刻まれた墓(=写真)があった。側面に「松平求馬介」と刻む。ひょっとしてと思ってあとで調べてみると、14日の巡墓会で取り上げた矢部駿河守定謙(江戸南町奉行)の養子鶴松の実家の墓碑だった。

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矢部は言わずと知れた天保改革の疑獄にあって桑名に流罪となり、その生涯を閉じた人物。

目的は違えど、桑名へ調査に行ったおかげで巡り合えた縁であろうと思う。

墓が見つからなかった江間政發なる人物は、徳川慶喜の回想録『昔夢会筆記』を作るにあたり、前将軍に鋭い質問を投げ掛けた人物である。松平定信の研究や長州問責使として現地で殺された中根一之丞について講演した実績でも知られる。

桑名では伝馬町十念寺でも萱町顕本寺でも江間という苗字の墓碑はあったが、政發の家かどうか確証は得られなかった。引き続き、調査を続けていこうと思う。政發の法名は「修述院寛誉些亭居士」と伝わる。

さて、虎ノ門で銀座線に乗り、赤坂見附で丸ノ内線に乗り換え、四谷三丁目で降りる。ここも慣れ親しんだ場所だがそれはさておき、愛住町に浄運寺という浄土宗のお寺がある。

ここに京都見廻役 岩田通徳の墓があることは知っていたが、今回の訪問の目的は、12代将軍家慶の生母の実家押田家の墓があるかどうか。

墓域の奥に岩田家の立派な墓群に感心し、奥まで来るのに通らなかったエリアに足を踏み入れると、「従五位下朝散大夫」の文字が目に飛び込んでくる。

おう、これはと確かめるとありましたありましたーー将軍家慶生母お楽の方の実兄、押田丹波守勝長墓(=写真左)。将軍の伯父の墓がこのように残っているのは実に感慨深いものがある。

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しかも、この押田勝長の娘はおひさの方といって従兄弟家慶の側室となり、一橋初之丞慶昌を生んだ。この初之丞君は勝海舟が幼いころご学友となっているが、夭逝する。

ここには勝長の息近江守勝延など確認できたものは全6基で状態も良好だった。ただ、押田家の現代墓がないことから、子孫がいるかどうか分からなかった。この寺院の古い墓は倒れていたり、かなり磨耗が激しかったりして、押田家がかろうじて残っていたと言えるのかもしれない。

ともかく、一度中断していたこの調査でようやく成果が出たのは嬉しい。

百聞は一見に如かずーー故郷で感じたこと

会員のカトケンです。

前回ブログで、この間の深川巡墓会に参加いただいた皆さんにお礼を忘れておりました。常連の方をはじめ、新しい方、久しぶりに来てくださった方、そして釣先生を世に送り出した編集者の方ーー
楽しい中にも緊張感のある墓案内となりました。ありがとうございました!

さて、ここのとこ立て続けにふるさと静岡に帰省して、先祖の資料を収集したほか、久しぶりに大龍山臨済寺を訪れた。(=写真)
墓域では、雲水たちが木を伐ったり刈ったりしながら、気さくに挨拶をしてくれる。

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まず宮崎県知事永峰弥吉の墓を見た。(=写真)

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以前紹介したことのあるこの墓碑だが、まだ発見があった。建立者の笹間洗耳は、興津の咸臨丸殉難碑の設立にも尽力しているが、肝心の笹間の墓が見つかっていない。
台座裏面には妻の戒名が刻まれていた。(=写真)

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続けて駿河領主を務めた中村一氏の墓からも、そこから降りたところにある静岡県知事関口隆吉の墓からも、静岡市街が一望できる。

今川氏はもちろんのこと、静岡を治めた人たちは今でもこうしてこの街を守り続けてくれているんだなと、その眺めから感じとることができた。

このような見方ができたのも発見だった。夏を前に良い刺激になったと思う。

静岡市葵区大岩7-1

神奈川県立図書館で調べもの

会員のカトケンです。

この日は横浜へ行くと決めて、毎週のように通っていた図書館へ。

会員のカネコさんから鹿児島県史料集に伊皿子大円寺の過去帳があると聞き、調べたのです。

「薩陽過去帳」のタイトルですが、幕臣もかなり記述ーー土方八十郎やら坂井八郎右衛門やらがありました。

その中で興味深かったのは
調所笑左衛門の記述。こんな大物が葬られていたとは。今度の土曜、ぜひ足を運んでみたいと思います。

三百藩家臣人名事典によると、調所のほか岩下方平も葬られている由。これはぜひ確かめねばなりません。

図書館へ行った日、あいにくの雨で戸部で降りて、FUJIスーパーでサンドイッチを買い、掃部山公園にて井伊直弼像を眺めながら昼飯。かろうじて濡れてない空間に座り、食べた昼飯はうまかったです。

ジャージを着た地元の中学生だか高校だか、女の子たちが木の下で雨宿りをしてました。

小弟は井伊直安(直弼孫か)が寄進した噴水を見るなどして、あとで調べたら掃部頭像の台座は神奈川県立博物館を建てた人が創ったものとわかり、なおさら驚いたのでした。

こんな休日もたまには良いものです。

追跡調査 円十郎たちーー調所広郷と岩下方平

会員のカトケンです。

前回、杉並の大円寺に調所と岩下の墓があると思い、喜びいさんで出かけたところ、クロサカ幹事に前者は九品仏淨眞寺、後者は青山霊園だと知らされ、その後両所を訪問。

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ところが、淨眞寺をくまなく回ってやっとこさ見つけた調所の隣にある井上家の墓に、良智海軍中将の夫人豊子(旧姓調所)と刻まれ、系譜では笑左衛門娘となっているにもかかわらず、豊子は慶応生まれ、嘉永年間に没している広郷とは20年の開きがあり、広郷の子供であるはずがない。

調所家の一般的な系譜では広郷のあと笑左衛門を名乗るのは20才離れた息子たちではなく、孫の代だ。

だからひょっとして豊子は養女ではないかと考えた。広郷の没したあと養子に入ることは、長岡藩家老山本帯刀が戊辰の年に戦没したずっとあと高野五十六青年が養子となった例があり、十分あり得ることである。

残念ながらこの事に対する答えを今の小弟は持ち合わせていない。誰かこのことを検証してくださらないか期待しつつ、円十郎たち(薩摩藩士の隠語)を追跡していく。

間宮林蔵の養子鉄次郎孝順の実家について

会員のカネコです。
5月に開催された深川巡墓会では間宮林蔵について解説しました。
レジュメでは林蔵の実績はもちろん、その出自に関しても詳細に記載しました。
その一部は先行して当ブログでも紹介しました。

本番の解説の際に口頭で訂正させて頂いたのですが、レジュメの記述に誤りがありました。
それは林蔵の養子で幕臣間宮家を相続した鉄次郎孝順の出自について「浅草蔵前の札差青柳家の二男」と書いたことです。
この出典元は吉川弘文館の人物叢書『間宮林蔵』(洞富雄著 昭和35年(1960))です。インターネット上でもwikipediaの「間宮鉄二郎」のページに同様の記述があります。これは参考文献に人物叢書『間宮林蔵』が挙げられているので、これが元になっていると思います。

間宮鉄二郎

他にも新人物往来社『幕末維新大人名事典』、吉川弘文館『明治維新人名辞典』でも同様の記述があります。

これが何故誤りかと言うと、筑波書林『間宮林蔵の発見』(大谷恒彦 昭和57年(1982))に鉄次郎孝順の戸籍謄本の一部が載せあり、そこには「実父幕臣青柳繁右衛門亡二男」と書かれているのです。
札差は幕臣では無いはずだと思い、違和感を感じ調べてみると、江戸城多聞櫓で発見された古文書を翻刻した『江戸幕臣人名事典』には次のように書かれていました。
「浅草□町御蔵手代組頭青柳栄之助方同居 養父間宮林蔵死御普請役 実祖父青柳久左衛門死御蔵手代 実父青柳繁右衛門御蔵手代」

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浅草の何町かは分かりませんが、浅草の幕臣青柳家が、浅草蔵前の有名な札差である青地家と混同された結果、浅草蔵前の青柳家となったのではないでしょうか?。青柳という札差はありませんし、そもそも札差は幕臣の身分ではありません。

さらに『特集人物往来3(2)』に鉄次郎孝順の子孫である間宮林栄氏が書いた「隠密探険家間宮林蔵の生涯―間宮海峡の発見者林蔵は幕府の隠密だった!碩学の意外な素顔」という記事があり、そこには「幕令に依り、御船蔵手代青柳栄之助の子鉄次郎が選ばれて間宮家の跡目を相続した。」とあり、やはり札差云々という記述はありません。
これは、人物叢書『間宮林蔵』で洞富雄氏が誤って書いたことが、その後引用され続けているということになるのではないかと思います。

そのようなことで、「浅草蔵前の札差青柳家の二男」は誤りであると判断しましました。
レジュメの訂正を兼ねて、訂正に至った経緯を解説いたしました。

鉄次郎の名も、鉄二郎と書かれているものもありますが、『江戸幕臣人名事典』はじめ鉄次郎と書かれているもが多いため、「次」が正しいのではないかと思います。

尚、青柳家に関しては『寛政重修諸家譜』の青柳姓の家を調べましたが、久左衛門・繁右衛門・栄之助に該当する人物は見当たらず、旗本ではなく御家人の家であったものと思われます。
また、鉄次郎孝順以降の間宮家の墓は間宮林蔵墓所とは別域の本立院墓地にあります。

吉川弘文館の人物叢書は権威あるシリーズで数々の名著が出ており、これを参考に書かれているものも数多くありますが、今回のようなケースもありますので、やはり複数の資料や出典元を辿って行く必要性を改めて感じた次第であります。

池上太郎左衛門幸豊研究余滴

会員のカネコです。
昨年行った池上本門寺の巡墓会で田沼意次のブレーンの一人、池上太郎左衛門幸豊を紹介しました。また、一昨年には当ブログにて下記の記事を書き、幸豊に関する簡単な紹介をいたしました。

池上太郎左衛門幸豊-田沼意次のブレーンとなった川崎の名士-

池上太郎左衛門幸豊は川崎では郷土の偉人として知られていますが、日本史の中央の流れから見ると無名に近い存在かと思います。
巡墓会の解説・レジュメでは幸豊を郷土の偉人という枠を超え、日本史の中央の流れに位置づけることを心掛け、ある程度それは届いたのではないかと思っています。

さて、池上太郎左衛門幸豊及び池上家に関しては巡墓会以降も時折気に掛けて調べています。巡墓会以降の調査を2点程挙げてたいと思います。

巡墓会のレジュメ作成で参考文献に挙げた古江亮仁著『大師河原酒合戦』(多摩川新聞社 平成10年(1998))に幸豊の3代前幸広の弟が七左衛門幸繁の墓の写真が載せられており、これは明長寺にあることが記されています。幸繁は稲荷新田村の名主となり、楽寿亭と号し、子孫も代々名主となっています。

幸繁の兄幸広は先祖代々居住していた池上の地から、大師河原村に移住し名主となった人物であり、大酒呑みとして知られ、大蛇丸底深と称され、慶安2年(1649)に江戸の儒学者茨木春朔(六位酒官地黄坊樽次)と大師河原で酒呑み合戦をしています。この酒呑み合戦について書かれた『水鳥記』は嘉永5年(1852)に幕府奥儒者で池上家と姻戚関係にあった成嶋司直によって修訂されています。また、この合戦にちなんだ「水鳥の祭」が10月の第3日曜日に若宮八幡宮(神奈川県川崎市川崎区大師駅前2-13-16)にて現在も行われています。
弟の幸繁もこの酒呑み合戦に参戦し、池上七左衛門底安と称しています。

明長寺は川崎市大師本町にあり、有名な川崎大師平間寺の門前通りに面しています。
数年前に訪れ際は池上家の墓所には気づきませんでしたが、墓地の中ほどに池上家の墓所がありました。

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幸繁の墓碑には[長松院仙峯樂壽居士 貞享五戊辰年三月六日]と刻まれています。
池上家は先祖池上宗仲が日蓮に帰依し、その死後、屋敷を寄進し、現在の池上本門寺のとなっていることもあり、本門寺の有力壇越であり、川崎市川崎区大師駅前2丁目の池上家墓地(池言坊)にある池上本家の墓も日蓮宗の戒名が刻まれています。
一方、明長寺は天台宗であり、同族間で宗派が異なる例は多々ありますが、本門寺と池上家の関係を考えると大変興味深いものがあります。

もう1点、以前から気になっていたことがあり、池上姓は長野の伊那地方に多く見られ、別件で高遠藩の史料を見た際に、藩士や町人に池上姓の人名が多く見られこともあり、この池上氏族は一体どのような系統か?本門寺の池上家との関係はあるのか?と疑問を持っていました。
そうした所、大田区史編さん室 編『史誌 22』の中の「池上氏のルーツを尋ねて」(新倉善之著)という記事を見つけ、我が意を得たりという内容に出会いました。
これは大田区大林寺の住職で、大田区史編纂主任専門委員などを務め、大田区に関する著述も多い新倉善之氏が長野で現地調査をした記事で、高遠町、伊那市、飯田市の池上姓の旧家・日蓮宗寺院を訪ね、過去帳や位牌、文化財を調査しています。
その中には宗仲を祖と伝える池上姓の家があったり、「宗」の字を通字とする家があったり、また、本門寺との関係性がある寺院があるなど、この地域と池上本門寺、池上宗仲の関係を示す証拠が多々挙げられていました。
調査の結論としては「一応の成果はあったが、もう一度精査の要あり」とのことでしたので、続編の記事はないか探しましたが、残念ながらありませんでした。
しかし、この記事との出会いは今までの疑問をある程度解消してくれるものであり、氏族研究をしているとたまにこのような素晴らしい過去の調査に出会えることがあります。

池上太郎左衛門幸豊に関しては本門寺巡墓会で一区切りつけたつもりですが、引き続きこの周辺に関しては調査を続けていきたいと思っています。
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