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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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新年のご挨拶

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会員のカネコです。
新年あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願いいたします。

昨年は春の伝通院巡墓会、年末の芝金地院オフ会の2回のイベントを無事に開催する事が出来ました。
今年の巡墓会につきましては、従来通りの巡墓会かオフ会形式かまだ未定ですが、近日会合を行い活動予定を当ブログにて発表したいと思っております。
また、ブログの方も時折更新して行きたいと思っております。

本年が皆様にとって良い1年になることを祈念いたします。
引き続き、当会へのご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

新年会兼会合を行いました

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会員のカネコです。
本日、幹事メンバーであるカトケンさん、クロサカさん、私の3名で、高田馬場駅前みつぼにて新年会兼会合を開き、各メンバーの近況や、当会の今年1年の活動予定などを話し合いました。

恒例の年2回の巡墓会につきましては開催する方向性で決まりました。
春の巡墓会は5月中頃の開催を予定していますが、幹事メンバーの予定が現時点で不明のため、日時等の発表につきましては3月~4月頃を予定しております。
場所は都内の寺院で調整する予定ですので、決まり次第、当ブログにて発表いたします。
時折、当ブログをチェックして頂けると幸いに存じます。

本年も探墓巡礼顕彰会をよろしくお願い申し上げます。

三が日の本門寺

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会員のカネコです。
1月3日(日)の三が日に大田区池上本門寺へ行ってきました。





私は長年、大田区から川を挟んで向かい側にある川崎に住んでいた事から、幼少時より本門寺を訪れており、自転車で片道40分かけて、何度も訪れています。
三が日に訪れるのは初めてで、多くの人で賑わう本門寺の風景は新鮮でした。

本門寺には江戸初期から現代に至る様々な著名人の墓所があり、徳川将軍家・紀州徳川家・幕府絵師狩野家・陸奥白河藩主阿部家や、近・現代人では昭和のスター力道山、自民党副総裁などを務めた大野伴睦、福島県本宮市出身で「政財界の黒幕」と呼ばれた児玉誉士夫、七代目・八代目松本幸四郎など数多くの著名人があります。

本門寺を訪れる度にこれらの著名人や大名・幕臣・華族家等の墓所を調査していますが、毎回来るたびに新たな発見があるものです。
今回は14代将軍徳川家茂の生母実成院の納髪塔を初めて見てきました。



これは『徳川「大奥」事典』に紹介されているもので、これによると実成院は法華経信者であり、慶応4年(1868)の江戸開城後、徳川家存続が認められた後、剃髪してその髪を9代将軍家重生母深徳院の右隣に埋め円柱の納髪塔を建てたとあります。
深徳院墓は何度も見ており、この円柱塔も視界に入っていたでしょうが、実成院の塔とは全く気が付きませんでした。
正面に「南無妙法蓮華教」、側面に後から彫られたと思われる「松平操子納髪塔」という文字が確認出来ます。
大河ドラマ『篤姫』ではこの実成院は全く登場しませんでしたが、原作の宮尾登美子の小説には登場する人物です。家茂の生母として大奥へ入ってからは、相当派手な生活をしていたというエピソードがある人物ですが、大河ドラマでは本寿院や和宮との関係を重視した流れの中から、除外されてしまったのでしょう。

本門寺の墓地には都内の他の日蓮宗寺院の墓地があり、高輪承教寺や神楽坂善国寺の墓地などがあります。
『二本松寺院物語』によれば、二本松藩医の劉又郎国任が善国寺に葬られたという記述があり、法名を[善学院玉屋劉公府君]といったことが書かれています。
劉又郎国任は漢高祖劉邦の後裔で明国滅亡後、長崎に住んだ劉一水五世の孫といい、丹羽長貴の側医として170石を賜っています。
善国寺墓地は本行寺から大坊坂を登り、道路に出る手前を右折した細長いエリアにあります。今回この劉又郎国任の墓碑を探しましたが、残念ながら現存していませんでした。
その代わり幕臣であった河村藤綱という人物の墓碑を見つけ、右側面には撰文が刻まれていました。

その後、昨年に当ブログに投稿した池上家の墓所などを見て、日蓮上人が入滅した地に建てられた池上大坊本行寺で振舞い酒を頂きました。

池上太郎左衛門幸豊-田沼意次のブレーンとなった川崎の名士-

本門寺は春になると五重塔前参道の両脇を中心に桜の花が見事に咲き誇り、花見の名所になっています。



閑静な池上の町の小高い丘の上にある本門寺。緑も多く、ここに来ると心が安らぎます。

禊教と華族~足立区梅田編~

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皆さま、遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
これからもお墓と歴史に関する面白い記事を書いていきますので、どうぞよろしくお願いします。

今回は、禊教という神道系宗教と華族の関係性について述べたいと思います。
禊教とは、教派神道の一派で井上正鉄によって開かれました。
開教がなされた時期は不明ですが、天保期に京都の白川伯王家による神拝式許可が下りているため、この時期ではないかと思われます。
その後、天保11年頃に武州足立郡梅田村(現在の東京都足立区梅田)にあった梅田神明宮を再興し、そのまま宮司になりました。
ここで多くの人々に布教を行いますが、天保12年に布教の中に幕政を批判する内容があるという嫌疑がかけられ、井上も『神道唯一問答書』を著し弁護するも、天保14年6月に有罪となり、三宅島へ流されています。
三宅島でも布教をしていたようですが、嘉永2年に亡くなり、当地に埋葬されました。
井上没後、門弟らによって、明治5年に吐菩加美講の中で布教が公認され、その翌年には身禊講社と改称しました。
そして、明治27年に禊教として教派神道の一派に公認されています。

さて、井上は明治2年恩赦によって、罪を赦され、井上が布教を行っていた現在の足立区梅田に改葬されることになります。
その後、谷中霊園に再改葬されますが、それはまたの機会にしたいと思います。
井上正鉄・安西男也夫妻の墓所は、梅田神明宮からほど近い、梅田稲荷神社境内の本殿右奥に独立した墓域があります。
  
               

夫妻の墓所前には、門弟5人の墓碑があり、墓所裏の遍照院墓地にも子孫の祐鉄以降の墓所があります。

続いて、梅田神明宮の門前にこのような大きな石碑があります。

               

これは、井上正鉄の顕彰碑なのですが、この石碑の裏面に多くの門人の名前が列挙されています。
その中に「貴族」という欄があり、5名の華族の名前が列記されています。
「正三位侯爵徳川篤敬」
「従三位子爵平松時厚」
「正四位子爵牧野貞寧」
「正四位子爵小笠原壽長」
「正五位子爵本荘宗義」
これらの華族が禊教を信仰していたのかは不明ですが、少なくとも井上の顕彰碑に協賛したことは間違いないようです。
特に最後の本荘宗義子爵は、確実に信仰していたようで、境内にある別の石碑にも名前が刻まれています。
このように、華族による神道信仰を見ていくのも「明治」という新時代を見ていくうえで、大変重要となります。

第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」開催のお知らせ

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会員のカネコです。
探墓巡礼顕彰会では、第13回目となる巡墓会を5月22日(日)池上本門寺で開催することになりました。
池上本門寺は墓地が広く、著名人の墓所が多いため、2回に分けて開催する予定です。今回は本堂左側のエリアを中心に巡る予定です。

開催要項は以下のとおりです。

■開催要項
★主な巡墓人物
加藤清正・紀州徳川家・狩野探幽など

★日時 平成28年5月22日(日)雨天決行
12:30 東急池上線池上駅前にて受付開始
13:00 池上本門寺へ移動
      境内にて開会式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
      巡墓会開始
      (途中・集合写真撮影・トイレ休憩有り)
16:30 現地にて解散式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
17:00 懇親会

※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

集合場所:東急池上線池上駅前
※駅で集合してから移動となります。

【交通】
東急池上線 池上駅下車





★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★参加費用:1,500円(資料代含む)
(定員20名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000~4,000円程度/場所:池上線池上駅周辺の居酒屋にて)

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第13回巡墓会 「池上本門寺巡墓会 第1回」-申込みフォーム

【池上本門寺巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。墓碑解説の前に合掌をお願いいたします。
※墓地内移動中は檀家様の墓参の妨げとならいようお気を付け下さい。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※一部足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ゴミ等はお持ち帰り下さい。
※体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。
※コースが長めで高低差のある場所ですので、その点を予めご理解の上、ご参加下さい。

《先祖への旅1~まずは母校【高知大】にて批評を乞う~》

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会員のカトケンです。

年明けて早々
土佐へ行ってまいりました!!

20年前、挑戦した北添佶磨の生誕地を再び訪問!滞在先で自転車を借りて。。。











その時は気づかなかった記念碑は平尾先生の撰文でした。

そもそも土佐へ行ったのは平尾先生を尊敬してでした。

最初の1,2年は久万山のお墓に著書を持って墓参。谷干城の墓が目の前にありました。

今回は、北添の生誕地《岩目地》の帰途、池田屋つながりで望月亀弥太の墓のある水源地山を訪ねましたが、遂に判らずーー無念でしたが、

今回もたくさんの方々に優しくしていただき、往復の飛行機では立川談春の落語を聴ける大オマケ!!

母校にて無事先祖のことについて発表を終えました。参加いただいた皆様のご意見をヒントに先祖への旅は続きます。



(ちなみに、これはレジュメ一部です)

何はともあれ、本年度もよろしくお願いいたします。







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探墓巡礼顕彰会では5月22日(日)に【第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」-申込みフォーム-

第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」迫る

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会員のカネコです。
第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」が22日(日)迫って参りました。
現時点の天気予報では最高気温27℃となっており、高温になることが予想されます。
参加者の皆様には暑さ対策を十分にお願いいたします。
また、今回は高低差のある場所ですので、歩きやすい靴・服装でお越し下さい。

以下開催要項を再掲示いたします。

■開催要項
★主な巡墓人物
加藤清正・忠広、紀州徳川家、狩野探幽、日蓮聖人、鍵屋、津軽大石家、金保元泰など

★日時 平成28年5月22日(日)雨天決行
12:30 東急池上線池上駅前にて受付開始
13:00 池上本門寺へ移動
      境内にて開会式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
      巡墓会開始
      (途中・集合写真撮影・トイレ休憩有り)
16:30 現地にて解散式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
17:00 懇親会

※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

集合場所:東急池上線池上駅前
※駅で集合してから移動となります。

【交通】
東急池上線 池上駅下車





★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★参加費用:1,500円(資料代含む)
(定員20名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000~4,000円程度/場所:池上線池上駅周辺の居酒屋にて)

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第13回巡墓会 「池上本門寺巡墓会 第1回」-申込みフォーム

【池上本門寺巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。墓碑解説の前に合掌をお願いいたします。
※墓地内移動中は檀家様の墓参の妨げとならいようお気を付け下さい。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※一部足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ゴミ等はお持ち帰り下さい。
※体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。
※コースが長めで高低差のある場所ですので、その点を予めご理解の上、ご参加下さい。

第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」を開催しました

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会員のカネコです。
昨日、5月22日(日)に第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」を開催いたしました。
初夏を思わせる暑い1日となりましたが、参加者24名(講師含む)の方にお集まり頂き、無事終了することが出来ました。
参加者の皆さまに厚く御礼申し上げます。

本門寺は数年前から巡墓会の候補として挙がっていたのですが、やっと実現することが出来ました。

本門寺で行った巡墓会で解説した人物は以下の通りです。

中野石翁 お美代の方養父(カトケン・釣先生)
阿部正蔵 町奉行・阿部正外の父(釣先生)
加藤清正 肥後熊本藩主・七本槍・虎退治(カトケン)
鍵屋 花火師(クロサカ)
竹本正雅 外国奉行(カトケン)
日蓮 日蓮宗開祖(クロサカ)
狩野家 幕府絵師(カトケン)
能勢家 旗本・能勢妙見(カネコ)
金保元泰 幕府医官多紀家(カトケン)
加藤忠広 肥後熊本藩主(カネコ)
紀州徳川家 徳川御三家(クロサカ)
三木之次 徳川光圀育ての親(カネコ)
池上幸豊 池上新田開発者・国産砂糖功労者(カネコ)
津軽大石家 大石内蔵助一門(カネコ)
上田松平家 信濃上田藩主(クロサカ)







釣洋一先生もお越しになり、中野石翁・阿部正蔵の解説をして頂きました。

今回も「墓マイラー」として各方面で活躍しているカジポン・マルコ・残月さん、『乙女の日本史』シリーズの著者滝乃みわこさん、『静岡戦国武将墓巡り』の著者岩堀元樹さんにご参加頂きました。

今回私は、加藤忠広・三木仁兵衛之次・武佐夫妻・池上太郎左衛門幸豊・津軽大石家というマニアックな人選で挑みました。

加藤忠広は熊本藩主加藤清正の2代目で改易され庄内に配流となった悲劇の藩主です。この忠広の代に先日の熊本地震と同規模の地震が起こり城が倒壊したという話を拾い出し解説しました。

三木仁兵衛之次・武佐夫妻は水戸黄門こと徳川光圀育ての親。この子孫である三木啓次郎は松下幸之助を支援した人物で、松下に浅草雷門を再建することを薦めた人物です。しられざるその人物像に迫りました。

池上太郎左衛門幸豊は川崎の新田開発をした郷土の名士ですが、老中田沼意次の支援を受け、各地にさとうきびの栽培と砂糖の製造を伝授した国産砂糖産みの親です。

津軽大石家は忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄の一族で、赤穂浪士を影から支えた一族です。知られざる大石家の子孫達の話をしました。久々に本格的な系図も作成しました。

毎回、あまり知られていないエピソードを国会図書館などで掘り起こし紹介していますが、今回も調べていて、驚くような発見がありました。この会は自分のスキルアップにもなっています。

運営に関してはまだまだ改善の余地があると思いますので、今回の反省点など幹事メンバーで話合い、次回以降に反映させて行きたいと思います。

懇親会には15名のご参加を頂き、様々なお話をさせて頂きました。
釣先生もお元気なご様子でした。

参加者の皆さまには改めて御礼申し上げます。
本門寺様にもこの場を借りて御礼申し上げます。

次回巡墓会につきましてはまた決まり次第、当ブログ上にて告知いたします。
引き続き当会へのご支援・ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
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★レジュメの訂正
配布したレジュメに誤字がありましたので、訂正いたします。
P.7 11行目
誤)奥野→正)奥津
P.7 23行目
誤)丸に桔梗→正)花菱
P.33 15行目
誤)昭和年(1982)→正)昭和57年(1982)
P.33 22行目
誤)七代良興→正)九代良興

★落とし物のご連絡
加藤清正墓近辺で折りたたみ傘の落とし物がありました。心当たりのある方は幹事メンバーまでお知らせ下さい。



6/17,18 土佐、讃岐掃苔~土佐史談会創立100年記念行事の出席を兼ねて~

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また性懲りもなくサンライズ瀬戸に乗って土佐へ行っちょった会員のカトケンです。

○高知市内
水源地山の望月亀弥太(=写真)



今年1月に北添佶磨の生家へは行けたのですが(高知県高岡郡日高村岩目地)、

帰りにどうしても望月亀弥太の墓が分からなくて。

何のことはない。すぐ目の前まで来ていたのに入る山を間違えちょっただけやったきね(土佐弁)。

あとで地図見て愕然としたことは言うまでもなかったのですが。

まあ、何よりたどり着けて良かったです。

○香川県仲多度郡琴平町榎井(えない)日柳燕石の墓(=写真)



帰りは高松から寝台に乗るので
いったん琴平で降りて高杉晋作などが匿われた呑象楼へ。榎井小学校の校内に塀が取っ払われた形で建っていた。燕石の胸像もあり。向かいの春日神社には燕石の記念碑が。

呑象楼の元あった場所はここではなく、琴平駅から程近い商店街を抜けたところに呑象楼の跡という石碑が建っている。

そしてこの石碑をまっすぐ突き抜けた正面が日柳燕石の生家跡。ここにも石碑あり。

そこを左に折れて踏切を渡りずんずん行き、右手に日柳燕石の墓これより二丁と刻まれた石碑を頼りに民家の間を抜けていくと、こんもりとした樹の陰にひょっこり墓石が顔を出している。

犬を散歩させている人に会釈をしながら、その木陰のところに来ると両側に石柱を拵え、いくつか記念碑を配した墓地が現われた。(=写真)





これぞ日柳燕石こと加島屋長次郎の墓。向かって右に両親の墓、左には長男の墓。(=写真)



奥には御子孫の墓と思われる新しい墓碑が2基建つ。

琴電の出発時間を気にしながら、フィルム写真の撮影を一通り終え、次の目的地へ。

昨夏と同じ勝手知ったるコース。今回は高松築港まで行かず、栗林公園で降り今回の旅の締めくくりに訪れた姥ヶ池(ばあがいけ)墓地を訪ねる(高松市宮脇町)。

無事、
○徳川慶喜の侍医 柏原学而の墓(=写真)


を見つけて悠々とJR高松駅へ向かったーーおしまい





土佐史談会100年記念行事の写真

巡墓会を終えて…

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カトケンです。
今回の5月の巡墓会にて、池上本門寺を取り上げたが、直前になって掃苔仲間からの指摘で分かった人物の墓がある。

一番最初に説明した中野石翁の左側2つ隣りに「奥津氏」と刻まれたもので、提供された情報では家斉の側室「お蝶の方」とのこと。法名「速成院」で没年は嘉永5年6月(1852)と刻まれている。

ものの本によれば、このお蝶の方は、奥津氏娘とも、曽根重辰娘ともされ、私は当日まで墓碑を「奥野氏」と誤読していたから、謎のまま説明もしないでいた。

ところが、当日説明を終えて改めて見てみると、「奥津氏」となっており、その後、幕臣たちの履歴から「奥(興)津」を拾ってみたところ、

寛政譜では曽根弥三郎重辰(しげとき)といい、戦国時代に駿河国興津の城主から派生した家であった。

重辰の長女が「本城に仕う」とあるから、これがお蝶の方と考えられ、幕末は断絶しているようだが、菩提寺は深川法禅寺とある。現在の神田寺のことかーー

訪ねてみたいが、なかなか時間がとれない。平日は2時間かけて職場に通ってるし、土日は洗濯せないかん、健康維持も欠かせない。

仕事も経理は日々責任が伴うから休むわけにはいかん。夜は人との付き合いもある。

そんなこんなで本来、や、本業とも云ふべき掃苔を怠っている。

いつか訪ねることを楽しみに、今は目の前のことに専念しようと思う。ーおわりー

写真は池上本門寺 石翁の1基おいて左隣「お蝶の方」墓碑(正面及び裏面)




「豊臣氏」滅びず-芝金地院にある木下家の墓-

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会員のカネコです。
大河ドラマ『真田丸』も半年を過ぎ、折り返しを過ぎましたが、これからは年末の大坂夏の陣に向かって、豊臣家が崩壊に向かって行く様子が描かれます。
大坂夏の陣で豊臣秀頼が自刃し、その子国松が処刑されることによって太閤秀吉の血筋が絶え、豊臣家が滅亡したことは言うまでもありませんが、実は豊臣秀吉の名跡を継いだという木下利次という人物がいたことはあまり知られていません。

昨年末に開催した当会のオフ会芝金地院巡墓会で私はこの木下利次について解説をしました。
金地院の墓地の片隅、無縁墓が集石されている一角に隣接して、旗本木下家の墓所があり、その中にこの旗本木下家初代の木下利次の墓があります。



正面:碧雲院殿徹叟利三居士
裏面: 元禄二巳巳年
   家門元領豊臣姓木下氏民部墓
    正月十三日
この墓碑にははっきりと「豊臣」の文字が刻まれています。

『寛政重修諸家譜』に書かれた略歴によると、利次は高台院(北政所ねね)の甥である備中足守藩主木下宮内少輔利房の二男として生まれました。幼少時より高台院に養われ、元和9年(1623)将軍徳川秀忠と世子家光に拝謁。この際に高台院の請願により、高台院の養子となっています。寛永元年(1624)2月、江戸に参府。同年高台院が危篤になると、秀忠より時服七領、羽織一領、家光より馬一疋を賜り、京都へ赴き看病するよう命じられています。9月6日(1624・10・17)高台院が逝去すると、11月にその遺物として秀忠に小瞿夢の茶壺、家光に記録一部、お江の方に菊の源氏一部を献上しています。
寛永3年(1626)近江国野洲栗太両郡の内に3000石を賜ります。この時、秀忠・家光が上洛するため、あらかじめ京都に参るよう命じられ、家光より時服四領、羽織等を賜り、秀忠・家光が江戸に帰る際にも時服、羽織を賜った後領国へ赴いています。寛永11年(1634)7月の家光上洛の際にも供奉。後に寄合に列し、貞享4年7月10日(1687・8・17)致仕して家督を長男の利値に譲っています。
元禄2年正月19日(1689・2・2)83歳で死去。妻は御船奉行向井将監忠勝の養女。四男崇達は芝金地院広恵の弟子となり、後に金地院の住職として僧録となっています。木下家の菩提寺が金地院となったのはその関係であろうと思われます。
利次以降の歴代当主は次の通りです。
利値=秀三=秀就=利意=利常―利嵩―秀般―秀舜

高台院の兄木下家定の系統は江戸時代を通じて本姓「豊臣」を称しています。
『寛政譜』第18巻には豊臣の項が置かれ、備前足守藩主、豊前日出藩主の大名2家、足守藩分家の旗本2家、日出藩分家の旗本2家、計6家の木下家が記載されています。

さて、インターネットで「木下利次」を検索すると「豊臣宗家の社稷を継ぐことを認められた」という記述が出てきますが、『寛政譜』には高台院の養子になった記述はあっても、豊臣宗家を継いだような記述は全くありません。
そこで『寛政譜』以外の木下家の系譜を探してみると、利次の本家筋にあたる『備中足守木下家譜』(東大史料編纂所蔵)があり、その中に次のような記述があったのです。
系図部分に「秀忠有命太閤秀吉為名跡於河内國三千石ヲ賜准諸侯列席」家譜部分に「寛永三丙寅年故太閤秀吉公家名相續被命」とあり、幕府の命により秀吉の家名を相続した事が記されています。
尚、この家譜の中では「利次」では無く「利三」と記されています。これは法名の「利三」と混同されたものではないかと思われます。
また、家譜部分にはさらに次のような記述があります。
「利三秀吉公ノ名跡ナルヲ以テ宗家タラン事ヲ云テ一族不敬甚シク仍一族公ニ訴テ義絶ス」とあり、利次が豊臣宗家である事を鼻にかけるような態度があり、木下一門がそれを怒り幕府に利次を義絶したという記述です。
その後「六世左門利常ニ至テ木下一統和睦天明三癸卯年八月廿八其旨公ニ訴フ」とあり、6代利常の代に木下一族と和解したとあります。
以上の記述は『寛政譜』には記述されておらず、利次の子孫が『寛政譜』編纂の際に提出した系譜にはあえて記さなかったのではないかと思います。
尚、『備中足守木下家譜』には利次の所領を「河内」と記していますが、これは「近江」の誤りであり、『備中足守木下家譜』の正確さについては若干疑問が残ります。
木下家には秀吉・高台院の遺品や肖像画などが伝来しており、『寛政譜』には8代将軍吉宗が木下家に伝来する豊臣秀吉の甲冑を台覧したとあります。また寛文6年(1666)に木下家で制作した高台院の肖像画は現在、名古屋市秀吉清正記念館に所蔵されています。
『備中足守木下家譜』は東京大学史料編纂所HPの所蔵史料目録データベース から閲覧できます。

ちなみに本姓豊臣氏を称した家は冒頭で紹介した『寛政譜』記載の6家以外に『地下家伝』に瀧口武者を再興した「瀧口」の中に豊臣姓を称した木下家があり、初代は木下秀峯といいますが、大名家の木下家との関係など出自は不詳です。
また、明治初期の政府官員の名簿を収めた『明治初期の官員録・職員録』には明治2年(1869)の職員名簿に職員の本姓も記されており、その中に豊臣朝臣を称した平山勝清という人物が見られます。この平山勝清出自も全く不明ですが、大名木下家以外にも豊臣姓を称した家がある事は興味深いものがあります。
大坂夏の陣で秀吉系豊臣本家は滅亡しましたが、実際のところ、姓としての「豊臣」は江戸時代を通じて残されており、特にその使用を憚るものではありませんでした。

金地院の現在の木下家の墓所の様子を見ると、無縁墓地隣の狭いスペースに並べられていて、長年子孫の墓参が無いように思われます。明治以降の子孫の墓が無い事から断絶したか、遠方に移住したものと思われます。
金地院は徳川将軍家の菩提寺のすぐ裏にあります。「豊臣」の文字が刻まれた墓が、徳川将軍家の墓所のすぐ背後にあることに歴史の因縁を感じさせられます。
また、金地院を創建した金地院崇伝は大河ドラマ『葵徳川三代』でも描かれた通り、大坂冬の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件にも深く関与しています。その崇伝の寺に「豊臣」氏の墓があるというのも皮肉な話であるように感じられます。

[参考文献]
『寛政重修諸家譜』続群書類従完成会
早川晴夫『豊臣氏存続―豊臣家定とその一族―』今日の話題社
東大史料編纂所蔵『備中足守木下家譜』
三上景文編『地下家伝』
宝賀寿男「会員研究 明治初期の政府官員の姓氏」(『歴史研究』)

「国師」と呼ばれた若き日の昭和天皇の師杉浦重剛の墓

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会員のカネコです。
本日は71年目の終戦の日となります。
終戦の日を迎えるとやはり昭和天皇の玉音放送のことが思い起こされます。
私は子供の頃に一般参賀で昭和天皇の最晩年のお姿を拝したことがあり、その時の印象はとても強いものがありました。
昭和天皇のご事跡を深く知るようになると、やはり戦中から戦後にかけて苦悩するお姿にとても胸が痛む思いをしました。
今回は終戦の日にちなみ、昭和天皇に縁のあった人物を取り上げたいと思います。

私は昨年開催した伝通院巡墓会で昭和天皇の若き日の師である杉浦重剛について解説をしました。
杉浦重剛をWikipediaで見てみると「明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家」と出てきます。
私は伝通院巡墓会のためにに杉浦重剛ついて調べる際に、まずこの「国粋主義的教育者」という部分を疑いました。
果たして本当にそうであろうか?。調べてみると杉浦重剛の思想の多様性が見えてきたのです。

杉浦重剛(安政2年3月3日(1855・4・19)~大正13年(1924)2月13日)は近江膳所藩の儒学者杉浦重文(蕉亭)・八重の二男として生まれ、幼名譲次郎といい、諱を重剛、後年、天台道士と号しました。
3歳の時、護送される頼三樹三郎を目撃しています。
6歳の時、藩校遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂・作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学洋学を学びました。”予の精神は之を坦堂先生に受け、学問は之を麹盧先生に受け、識見は之を月洲先生に受けた”と後に懐述するように、この三人より受けた教育的感化は重剛の一生を支える程強いものでありました。
膳所藩の藩主本多家は譜代大名でしたが、京より近いこともあり、尊王攘夷派の勢力が強く、重剛の師高橋正功は尊攘派(正義党)の代表人物でしたが、膳所城宿泊中止事件で投獄され、慶応元年10月21日(1865・12・8)処刑されています。戊辰戦争が勃発すると膳所藩はいち早く新政府側に従い、桑名藩領接収のために出兵しています。

明治3年(1870)15歳の時、藩より貢進生に選ばれ東京に下り大学南校入り、翌年、制度変更により、東京開成学校に学びました。在学中、猛勉強の結果、明治6年(1873)10月、明治天皇への御前講演に選ばれ理化学の実験を行います。この時、6名の学生が選ばれましたが、その中に仏法科の古市公威がいました。
明治9年(1876)第2回文部省派遣留学生に選抜されて渡欧し、化学を専攻。当初は農業を修めるつもりでサイレンシスター農学校に入りましたが、英国の農業は牧畜が中心で、穀物は麦で、勉強をしても帰国後役には立たないと気付き放棄しています。化学に転向し、マンチェスター・オーエンスカレッジに移り、ロスコー、ショーレマン両教授の指導下で研究に従事。更にロンドンのサウスケンジントン化学校、ロンドン大学等で学ぶうちに神経衰弱にかかり、さらに右肺も病に冒され、明治13年(1880)5月に帰国。伝通院近くの貞照庵に寄宿し、療養をしながら文部省より依頼された「有機化学沿革史」の翻訳などを行いました。
明治15年(1882)東大予備門長となり、また大学予備門など旧制高校進学のために英語でもって教授する予備校であった東京英語学校(後に日本中学に改称)創立の中心の一人となりました。

明治18年(1885) 東大予備門長を退き、読売新聞論説に従事。明治20年(1887)には小村寿太郎らと乾坤社を創設、井上馨外相の条約改正反対運動に参加しています。
明治21年(1888)政教社に加わり三宅雪嶺、志賀重昂らと雑誌『日本人』発刊に尽くし、国粋主義を唱道し、当時の社会に影響を波及させる。この『日本人』はやがて『日本及日本人』に発展して行きました。三宅雪嶺は、西欧を知り明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者で、雑誌もその方向に染まっていきました。重剛をはじめ、島田三郎、福本日南、池辺義象、南方熊楠、三田村鳶魚、徳田秋声、長谷川如是閑、鈴木虎雄、丸山幹治、鈴木券太郎等在野の名士達が執筆しました。
しかし、大正12年(1923)に三宅雪嶺が政教社を去ると神秘的国粋論が多くなり、昭和12年(1937)以降は戦争協力体制の色彩を強めていきました。太平洋戦争後は大物右翼児玉誉士夫の関連会社となった日本及日本人社より発行され、児玉の広告機関の役割も果たしましたが、児玉がロッキード事件で政財界での力を失った後、発行会社が日本及日本人社よりJ&Jコーポレーションに変わり、平成16年(2004)1月通巻1650号で休刊しています。

重剛は明治21年(1888)文部省参事官兼専門学務局次長となりましたが、明治23年(1890)退官。小石川区議員を経て、第1回衆議院選挙に故郷滋賀より出馬し当選。同郷の伊庭貞剛(後の住友総理事)もこの時当選しています。
大成会に所属しましたが、すぐに脱会し、翌年議員辞職。この間に新聞『日本』を後援、明治22年(1889)日本倶楽部に参加し大隈重信の不平等条約改正案に反対。明治25年(1892)から明治37年(1904)まで朝日新聞論説員を務めています。
その後は子弟の養成と共に東京文学院を設立し、以後も國學院学監や東亜同文書院院長などを歴任。
大正3年(1914)東宮御学問所御用掛となり、倫理を担当迪宮裕仁親王(昭和天皇)の御進講役を務めました。大正10年(1921)に退官。

大正9年(1920) 山縣有朋らが裕仁親王妃に内定していた良子女王及び実家久邇宮家に婚約辞退を迫った宮中某重大事件が起きると、重剛は久邇宮家と結んで、山縣有朋に対抗。頭山満が山縣を襲撃するという噂を流したり、山縣を糾弾する怪文書を撒いたりしました。この事件は翌年、裕仁親王の以降で婚約辞退は撤回され、大正13年(1924)1月26日裕仁親王と良子女王は御成婚しました。この御成婚を見届けると重剛は同年2月13日に70歳で没しました。
葬儀は日本中学校講堂で行われ、友人総代として法学者穂積陳重が弔辞を読んでいます。
昭和26年(1951)6月20日重剛に学んだ吉田茂はこの日本中学校創立50年記念祝賀に訪れ、講演を行い、重剛の霊に「天台学堂」と揮毫した額を献じています。

重剛の門下生は巌谷小波、江見水蔭、大町桂月、岩波茂雄、横山大観、佐佐木信綱、鏑木清方、高山樗牛、長谷川如是閑、朝永三十郎、荻野久作、丸山千里、小西得郎、入江啓四郎、吉村公三郎、小川琢治、吉田茂、河野一郎、河野謙三など枚挙に暇がありません。
この中でプロ野球解説者となった小西得郎は重剛との関係について次のように語っています。
得郎の父であるロシア文学者小西増太郎は重剛とかねてより親しく、野球に熱中し、勉学を疎かにしていた息子の勉学の面倒を重剛に依頼しました。重剛は『吉田寅次郎』を共著した世木鹿吉の許に得郎を書生として預けることにしました。
世木は頑固者で強面で知られていましたが、得郎が野球に熱中する姿をニコニコ笑って見ていたといいます。
得郎はそれが重剛の配慮であることに気づき、これ以降自ら勉学にも励むようになりました。
後年「十六歳で野球部の選手になり七十二歳の当年まで野球一筋に生きてこられたのも、一にかかって中学時代の恩師、杉浦重剛先生のおかげです。もし杉浦先生がいらっしゃらなかったら、どのような人生を歩んでいたか、思うだけでぞっとします」と回想しています。
このエピソードからは重剛が個人の個性を大切にして育てる、暖かい教育者としての側面を感じられることが出来ます。

重剛は長年吉田松陰を尊崇しており、大正4年(1915)国漢文学者世木鹿吉との共著『吉田寅次郎』を刊行しています。
重剛は松陰への想いを、この本の中の小稿「松陰四十年」の中で語っており、若き日に松陰の思想に触れてからの40年間を振り返っています。
松陰を思慕していた重剛は、明治23年(1890)2月11日に門下生を引き連れ、松陰神社の松陰墓所を参詣し、その後、毎年その日に門下生と共に参詣を続けました。その際、必ず近くの豪徳寺にある井伊直弼の墓も拝していたといいます。重剛は松陰を死に追いやった張本人の墓参をする理由についてこう述べています。
「松陰神社に詣でたる時、帰途必ずこれに接近せる豪徳寺なる井伊大老の墳を掃うを例とす。井伊大老は安政の大獄を起こしたる人物にして、吉田松陰はこの大獄に連なり、いわば井伊大老のために死刑に処せられたるに外ならずといえども、識力と胆力とは、両者相似たるところにあるのみならず、もし松陰をして海外周遊の志を果たせしめば、帰りて大いに井伊大老の説を賛するに至りしやもいまだ知るべからず。かくの如きは史をひもとく者の留意せざるべからざるところなり。ゆえに松陰神社に詣でしあと、井伊大老の墳を掃うなどは、表面の事実に拘泥して、軽々しく妄断を下すの不可なるを警むる効あるが如きなり」
重剛は松陰に心酔していましたが、一方で歴史を客観的に視る眼を持っており、上記の通り、感情的に井伊を悪者にするようなことは妄断であるとして、その戒めとして井伊の墓参を続けるのでした。
この『吉田寅次郎』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができます。

重剛には嘉永3年(1850)生まれの菊路という姉がいました。
菊路は18歳の時に京都守護のために上洛していた会津藩士小池帯刀の養子周吾に嫁ぎましたが、その直後に鳥羽伏見の戦いが起こり、周吾とともに江戸に逃れた後、さらに会津へ赴きました。菊路は他の藩士子女とともに城に立て籠もりましたが、夫周吾・舅帯刀が共に戦死、戦後残された家族とともに下北半島の厳寒地斗南へ移住しました。
若かった事もあり、同じく会津藩士であった辰野宗城の許へ再嫁し、さらに北海道札幌に移住し、一女をもうけましたが、故あり辰野と離別。
東京の杉浦家へ戻りましたが、晩年が病気がちで明治34年(1901)8月23日52歳で没しました。
重剛は姉の波瀾万丈の生涯を「女兄氏傳」に綴っています。
近親者が会津へ嫁ぎ、敵味方に分かれてしまった悲劇を体験していたからこそ、重剛は勝者・敗者へ対し公平な視点を持ったのではないかと思います。

重剛のことを調べる過程において、重剛が我が会の偉大な先輩であることも分かりました。
重剛はかねがね門下生に「探墓行」の大事を説いていたのです。
「『論語』に「終りを慎み遠きを追えば民の徳厚きに帰す」とある。古賢を尚び、遺烈を追うのはわが国古来の美風である。」として、毎年、塾生をして探墓を行わせ、先賢烈士の多くの人の顧みざるものを選び、あるいは草堆裏に探らせ、あるいは所在の明らかざるものを探させました。
泉岳寺赤穂四十七士の墓参や前述の吉田松陰・井伊直弼の墓参など、重剛はよく門下生を連れ名墓の巡礼・顕彰を行っています。

重剛の妻楠猪の兄千頭清臣は土佐藩の出身で、栃木県・宮城県・新潟県・鹿児島県の各知事を歴任し、貴族院勅選議員に任じられた人物で、大正3年(1914)には刊行された『坂本龍馬』の著者としても知られています(実際は田岡正枝がそのほとんどを書いたと言われています)。
この『坂本龍馬』は博文堂「偉人傳叢書」シリーズの第2弾として刊行されており、重剛はこの「偉人傳叢書」シリーズの監修を務めています。

重剛は決して「国粋主義的教育者」というような狭い人物ではなく、むしろ若き日に西欧を訪れ、学び理解した上で、日本の良さ、あるべき姿を見出した人物です。戊辰戦争における勝者・敗者へ公平な視線など、重剛には歴史を様々な側面から視る視線を持っていました。
このような見識を持った人物であったからこそ、裕仁親王の師として抜擢されたのだろうと思いますし、後年の昭和天皇の公平無私のお姿を見るにつけ、その根底には若き日に杉浦重剛をはじめとする教育者の教えというものがあったと思います。

調査に使用した重剛の伝記の多くは戦前に書かれたものが多く、戦後は国粋主義者のイメージからあまり顧みられなかったように感じられます。今こそ重剛の思想の多面性をもう一度再評価する必要があるのではないかと思います。

最後に伝通院の杉浦家の墓所について紹介します。
杉浦家の墓所内には3基の墓が建立されています。

1.正面:杉浦重剛之墓
  裏面:大正十三年二月十二日歿
2.正面:楠陰杉浦先生之墓(重剛兄)
  裏面:明治廿一年十一月廿四日歿
3.正面:杉浦家代々之墓
  裏面:大正十五年十一月二十四日建之



墓碑には刻まれていませんが、重剛の法名は[温徳院殿剛誉清簾天台道士]
父重文(蕉亭)の墓は大津市別保墓地にあり、こちらにも重剛の墓碑が建立されていますが、まだ未確認です。

[参考文献]
『日本近現代人名辞典』吉川弘文館
『杉浦重剛全集 全6巻』杉浦重剛全集刊行会
『回想杉浦重剛』杉浦重剛先生顕彰会
猪狩史山『杉浦重剛』新潮社
大町桂月『杉浦重剛先生』
杉浦重剛『吉田寅次郎』博文堂
藤本尚則『国師杉浦重剛先生』敬愛会
渡辺一雄『明治の教育者杉浦重剛』毎日新聞社

山口・萩・防府・岩国・津和野の華族墓調査

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会員のクロサカです。
8月6日から11日まで岩国、防府、山口、萩、津和野に行って来ました。ムーンライト長良を利用したので実質7日から動きました。
今回調査出来たの華族墓を列挙してみると、
岩国で吉川子爵家、沖原光孚男爵、平佐良蔵男爵、井上光男爵。
防府で楫取素彦男爵夫妻、飯田俊助男爵。
山口で寺内正毅・寿一伯爵、木梨精一郎男爵、井上馨侯爵、杉孫七郎子爵の先祖墓?、毛利公爵家、国司男爵家。
萩で渡邉章男爵、山田繁榮伯爵夫人、槙村正直男爵の実家羽仁家と実兄の羽仁稼亭正路、東光寺の毛利家と維新殉難者(楫取道明や周布政之助、三家老など)、毛利元寿(右田毛利家廃嫡)、伊藤博文公爵先祖、田中義一男爵。
津和野で亀井伯爵家、西周男爵の実父壽雄と西家先祖。


旧津和野藩主・亀井茲監伯爵夫妻の墓


陸軍大将元帥・寺内正毅伯爵の墓


井上侯爵家分霊墓(井上馨夫妻、井上勝之助夫妻、井上家先祖合葬)

この他にも山口県文書館や津和野町郷土館、岩倉・野山獄などの史跡も行きました。
文書館では、東京府内各所から松陰神社に隣接していた若林墓地に改葬された経緯に関する日誌なども調査しました。

本年の秋巡墓会の開催について

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会員のクロサカです。
本日探墓巡礼顕彰会の会員3名で下見と会合を行いました。
下見を1時間ほど行ったのち、近くのファミリーレストランで今後の巡墓会について議論し、開催日と本巡墓会ではなく、ミニ巡墓会となることが決定しました。
開催日は、11月27日(日)で、忘年会を中核としたものとなります。
開催場所などについては、今後決定次第、随時当ブログにて案内していきますので、定期的に当ブログをご確認ください。

山岡鉄舟実父 小野朝右衛門高福の墓ほか

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会員のカトケンです。

つい2週間前になるが、休みの日に山手線に乗っていて、日ごろ幕臣の墓リストを作成している関係から、沿線の寺院で記憶に残っているところは何処かと考えて、恵比寿の松泉寺を思い出した。

山岡鉄舟の実家 小野家の菩提寺で、長崎奉行を勤めた徳永伊予守昌新家のそれでもある。

JR恵比寿駅西口を出て左に折れ、坂になっている道をひたすら昇る。突き当たりを右へ、大きめの通りを渡って2つ目の角を右に入ると左手にある。向かいは公園になっている。

手前の墓域は隣の近代的な造りの泉明寺のそれであって、松泉寺のそれは寺院の入口を入って奥の左手にある。

墓域の一番奥手前に徳永家(藤原姓)の墓があった(=写真)。



3基あり、奥が慶応2年(1866)に没した人物のもの、中央が昌新の五代前昌寛が建てた徳永本家寿昌(ながまさ)及び分家初代昌成の供養墓、手前が累世之墓となっている。

奥の墓は伊予守(予州刺史)となっていて、昌新も伊予守だが長崎奉行を命ぜられるのが慶応2年だから、おそらくその父昌賢の墓だろう。法名、隆徳院殿賢空松翁大居士。文久2年(1862)まで書院番頭を務めていた。(=写真)



徳永家の後方を右に回って少し行くと幕臣の墓のガイドブック『江戸の旗本たちー墓碑銘をたずねてー』(河原芳嗣著、アグネ技術センター刊)にも載っている北町奉行 小田切土佐守直年一族の墓がある。墓誌や現代墓もあって、子孫がたどれそうである。

小田切家の向かい側に背を向けて建っている墓に文字が刻まれていたので、よく読むと蜷川邦之助親敬という幕臣の墓であった(500石、養父錬之助)。
こちらは意図せず知ったものであり、収穫だった。正面に回ってみると、静岡縣士蜷川敬之墓と刻む。

幕府麾下で小姓組、明治政府でも工部省にて電信事務に携わったことが分かる。よく調べてみると、この蜷川邦之助は実は滝川播磨守具挙の兄弟(弟であろう)である。滝川は、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の開戦時に出てくる有名な幕臣。さすがにこのつながりには驚かされた。

ひと通り墓域をめぐって小野家の墓はないものと諦めかけたとき、本堂前の無縁墓にふと目をやると、中央の背の低い墓の右面に俗名「小野朝右衛門橘高福」(=写真)と刻まれ、これがまさしく山岡鉄舟の実父の墓であった。



正面に「徳照院殿雄道賢達大居士」、その上方左右にそれぞれ蔦と丸に橘の家紋、右面には俗名の右に没年月日「嘉永五壬子年閏二月二十七日」(1852・4・16)が刻まれている。

高福は「たかとみ」と読むのが『寛政重修諸家譜』や『定本山岡鉄舟』(牛山栄治著、新人物往来社刊)であるのに対し、『山岡鉄舟』(大森曹玄著、春秋社刊)は「たかよし」とルビが振られているが、どちらだろうか。偶然にも徳永家に昌福と書いて「まさよし」と読ませる人物がいる。

なお、鉄舟実弟 芝彦一郎忠福が「福」の一字を受け継いでいる。

通称の朝右衛門も「あさえもん」というよりも人名としては「ともえもん」だろうと思うが、牛山栄治は音読み「ちょうえもん」とする。どうだろうか。
ちなみに小野家初代高光は麻右衛門で、これだと「あさえもん」しかあり得ないだろう。

この朝右衛門の称は2代高雲以降、隔代ごと受け継がれた呼び名で、高福の父も朝右衛門だから、ここで二代連続朝右衛門。さらに高福は銕(てつ)太郎とも称しているから、姓は山岡にこそなれここも二代連続鉄太郎となっている。

ところで小野高福は飛騨郡代在任中に没し、岐阜県高山市宗猷(そうゆう)寺町にある宗猷寺に妻磯と並んで墓が建てられている。小弟はまだ足を運んでいないが、鉄舟実父の墓といえば、こちらが一般的だろう。

江戸時代の菩提寺もダメ元で訪ねてみるものである。夕方の、ものの30分位だったが、充実した掃苔となった。

松泉寺は龍徳山、臨済宗妙心寺派。渋谷区恵比寿南1-28-1

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探墓巡礼顕彰会では11月27日(日)に【第14回巡墓会-麟祥院と春日局の足跡-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
巡墓会参加フォーム

追悼 小杉雅之進の御子孫、小杉伸一さん

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会員のカトケンです。

咸臨丸で太平洋を渡り、箱館戦争にも従軍した小杉雅之進の御子孫、小杉伸一さんが今月11日に逝去された。

小杉さんを通して、小弟は主に開陽丸子孫の会の方々と交流させていただいている。

行事の時は必ず声をかけてくださり、函館や浦賀などに御一緒させていただき、東軍慰霊祭ではわがふるさと静岡市にも来てくださった。

会の行事となると、行動計画や交通機関の利用は緻密に計算し尽くされ、御年配の方が参加されても配慮が行き届いていた。

また、恰幅がよく声が通るから、皆迷子になりにくい。絶好の案内人だった。

その姿にノウハウを学ぼうといつも必死な小弟であったが、まだまだ学ばせていただきたかったことは数多く、大変心残りである。

雅之進の話で印象的だったのが、日清戦争終結時の下関談判で、交渉会場となっている小高い場所にある春帆楼において談判しているところ、見下ろすと関門海峡をたくさんの船が航行していた。ただ、これは船を往復させてたくさんの船が航行しているように見せていただけだったのだが、これを指揮できるのは雅之進をおいて他にいなかったという話。

実はこれは、談判を有利に運ぶため、日本の国力を示す格好となったのだが、この逸話を小弟はまだ実証する材料を持っていない。それでも、もしそれが事実なら、幕臣が明治を生きていても国に尽くそうとしていたことがよく分かる好きな話である。

また、南北海道を回ったときは小杉さんの告知によって、木古内で大勢の人たちが出迎えてくださったり、他の機会に連絡を取るべく電話をしたところ「いま塩飽(香川県丸亀市本島)で打合せ中だ」と驚かされたりもした。

オランダ大使館の方に講演を依頼したり、しっかりメールのやり取りをしていたりしたのも印象に残っている。

歴史を通しての交流は、幅広い地域や時に海外の方々とも、遠距離を厭わず行なわれた。これを一介のサラリーマンという立場で続けられていたことは、驚嘆に値する。まだまだ背中を追いかけさせていただきたかった。

心より御冥福をお祈りします。合掌



一昨年の4月末の咸臨丸フェスティバルのとき、久里浜や浦賀を散策していて撮影したスナップ。右端が小杉さん。

探墓巡礼顕彰会オフ会-麟祥院と春日局の足跡ーの開催迫る!

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会員のクロサカです。
さて、今月27日(日)開催の探墓巡礼顕彰会オフ会が約3週間前に迫ってまいりました。
今回は、巡墓予定の人物と当日の詳細な行程をご案内いたします。

★巡墓人物
斎藤福(春日局)・正親町三條(嵯峨)実愛・橋本綱維・杉浦愛蔵両親・斎藤摂津守家・大名稲葉家(淀・館山)

★当日の行程
○麟祥院


○出世稲荷神社(春日局屋敷跡)


○礫川公園(春日局銅像)


○東京メトロ後楽園駅駅ビルの居酒屋にて懇親会

以上となります。
当日までわずかになりましたが、講師一同一生懸命やらせていただきますので、是非ご参加ください。

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
探墓巡礼顕彰会オフ会「麟祥院と春日局の足跡」への参加

探墓巡礼顕彰会オフ会-麟祥院と春日局の足跡-終了しました

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会員のクロサカです。
先日、11月27日(日)に「探墓巡礼顕彰会オフ会-麟祥院と春日局の足跡-」を開催いたしました。
昨年好評だった「オフ会」を本年も開催いたしました。
短めの巡墓会と早めの時間からの忘年会を兼ねた懇親会を行いました。
そして今回から新しい試みとして、周辺にある史跡もめぐりました。
今回は、巡墓人物の一人である春日局に関する史跡(出世稲荷神社・礫川公園の春日局銅像)でした。

麟祥院で行った巡墓会で解説した人物は以下の通りです。
橋本綱維 (クロサカ)
杉浦萱水・杉浦譲 (カトケン)
春日局 (カトケン)
稲葉家 (クロサカ)
斎藤摂津守家 (カトケン)
正親町三條(嵯峨)実愛 (クロサカ)

春日局関係史跡で解説した場所は以下の通りです。
出世稲荷神社 (カトケン)
礫川公園の春日局銅像 (カトケン)



釣洋一先生もお越しになり、巡墓会の開会式にて、暦に関するお話をしていただきました。。

私は、橋本綱維・稲葉家・正親町三條実愛を解説しましたが、橋本と正親町三條については、一番力を入れて調べました。

当日は雨の予報でしたが、巡墓会が終わるまでの間、なんとかもってくれました。
講師含め参加者13名の巡墓会は無事に終了しました。
懇親会にも多くの方に参加して頂き、年内最後の良い締めくくりとなりました。

寒い中、ご参加頂いた皆様に心から御礼申し上げます。
麟祥院様にもこの場を借りて改めて御礼申し上げます。

来年の活動につきましては12月中に話し合った上で、発表いたしますが、引き続き当会へのご支援・ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

忘年会兼下見・会合を行いました

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幹事のクロサカです。
昨日は来年度以降に巡墓会として実施予定の清澄白河周辺の下見を行いました。
立ち寄ったのは、霊巌寺・雲光院・浄心寺(本立院・円珠院)・成等院の4ヶ寺でしたが、新たな発見もあり、とてもよい下見となりました。

その後、深川江戸資料館近くにある居酒屋「だるま」さんにて、当会幹事の忘年会と来年度以降の巡墓会や運営について話し合いをいたしました。
その結果、例年通り5月中旬付近で春の巡墓会を実施することが決定しました。
また、開催場所の詳細についても3~4月頃に当ブログにて発表予定ですが、現段階では未定です。
開催日と場所の発表をお待ちください。

今年度も春の池上本門寺と秋の麟祥院の巡墓会が滞りもなく、実施・終了出来たのは、ひとえに参加者の方々のおかげです。
私たちもその期待に応えられるように精進してまいりますので、これからも探墓巡礼顕彰会をよろしくお願いします。


★レジュメの訂正
前回の麟祥院巡墓会において、配布しました「春日局と稲葉家関係図」に訂正がありましたので、こちらでお知らせいたします。稲葉正邦の出身について、丹羽長貴と宇和島藩主伊達家の女と記載しておりますが、実際は、長貴の孫長富と側室の間に生まれたのが正邦でした。謹んでお詫び申し上げます。

新年のご挨拶

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会員のカネコです。
新年あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願いいたします。

年末年始の間、幹事メンバー各自で春期巡墓会の構想を練っております。
概要が決まり次第、当ブログにて発表したいと思っております。

その他にも、普段のお墓調査に関する記事も時折更新して行きたいと思っております。

本年が皆様にとって良い1年になることを祈念いたします。
引き続き、当会へのご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
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