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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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中野村と名主堀江家と宝仙寺

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会員のカネコです。
とある理由で現在の中野区の中央、中野、本町周辺にあった中野村の事を調べています。

先月21日(月)に中野区立中央図書館など、中野区内を巡ってきました。
中野区立中央図書館はJR中野駅から徒歩10分弱の所にあり、なかのZEROの館内にあります。中はとても綺麗で、中野区の郷土資料が豊富にあり、なかなか良い図書館でした。



中野村といえば、5代将軍綱吉が出した「生類憐れみの令」によって作られた中野御囲(犬屋敷)があった所です。現在のJR中野駅の周辺にあったと言われ、駅前にある区役所にはその事を記念した犬の像があります。



「生類憐れみの令」は「天下の悪法」と言われましたが、動物愛護の精神から学ぶものがあるのでは無いかと思っています。将軍綱吉の治世もだいぶ評価されるようになりましたし、奸臣と言われた柳沢吉保も実は安定した治世を補弼した名臣だったという評価もあります。水戸光圀との不和も実は無かったと言われますし、赤穂事件の対応も決して悪いものでは無かったとの評価もあります。以前、当会の巡墓会で賄賂政治家と呼ばれた田沼意次の再評価を行いましうたが、いずれ柳沢吉保についても取り上げてみたいと思っています。

中野村の中心は現在のJR中野駅の周辺では無く、中野区中央の宝仙寺付近であり、青梅街道の宿場町として発展していました。
中野村の名主は堀江家といい、家伝では始祖堀江兵部が越前より農民十数名を連れ、この地にやって来て、弘治元年(1555)に中野村の開発を始めたとされています。当時の領主小田原北条氏より支配権を認められ、その後、徳川幕府からも名主を命じられ、江戸期を通じて中野村最大の有力者となりました。
その墓所は前述の宝仙寺の墓地に2ヶ所に分かれて現存しています。





宝仙寺の墓地は4月5日に調査して来ました。

この宝仙寺には伊達政宗の弟秀雄の墓もあります。



伊達政宗の弟と言えば、政宗が小田原に参陣する直前に自ら手討ちにした伊達小次郎が知られています。大河ドラマ『独眼竜政宗』でも大変印象的なシーンでした。
伊達家の系図には政宗の弟としてこの小次郎しか記載されておらず、秀雄という人物は見あたりません。
この秀雄は五日市横沢の大悲願寺の住職であり、同寺の記録によって政宗の弟という事が明らかになっています。秀雄はその後、宝仙寺の住職となったため、同寺に墓所があります。
この秀雄は小次郎と同一人物で実は政宗が密かに逃したという説もありますし、、別人で父輝宗の庶子だったため、伊達家の系図には出てこないという説もあります。真相を明らかにする事は難しそうですが、私個人としては、やはり小次郎を斬らずに逃していたらいいなという願望があります。

前述の堀江家に関しては大量の古文書が残されており、これらは東京都立大学に寄贈され、現在は首都大学東京に保管されています。
一部は翻刻され『武蔵国多摩郡中野村名主堀江家文書翻刻』として中野区立歴史民俗資料館より刊行されています。この本は都立中央図書館や中野区立中央図書館にて閲覧できます。また中野区立中央図書館には堀江家文書の中の絵図のみを複写した『堀江家文書絵図』全2冊があり、そこに中野区立歴史民俗資料館に他の文書の複写があると書いてあったので、歴史民俗資料館に問い合わせた所、文書を撮影し出力したものがあり、事前連絡で閲覧できるとの事で、近いうちに閲覧しようと思っています。

大円寺・和田堀廟所調査会と会合と今後のお知らせ

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会員のカネコです。
昨日は幹事メンバーのカトケンさん、クロサカさんと杉並区の大円寺・和田堀廟所へ調査へ行き、その後会合を行い、今後の活動内容を決めました。

大円寺は元は現在の港区高輪にあり、伊皿子大円寺として知られていました。
薩摩藩主島津家の江戸における菩提寺であった事から現在も薩摩藩士の古い墓碑が数多く見られます。
墓地は本堂前側と後側に分かれており、まず、前側にある明治元年戊辰の役戦死者の墓や森有礼の兄横山安武、西郷隆盛の子午次郎など、薩摩関係者の墓を調査した後、旗本土方出雲守勝政と飯野藩主保科家の墓所を見てきました。



飯野藩主保科家は会津藩主松平家の家祖保科正之の義叔父正貞の系統であり、正之から保科家の家宝等を譲られた事で、保科家の嫡流となっています。会津藩主松平家とは深い関係が続き、松平容保の義姉照姫は飯野藩主保科正丕の三女で、松平家に養女に入っています。

後側の墓地には旗本五井松平家の広大な墓所があります。大名家クラスの墓地であり、旗本家の墓所これだけのものは都内ではなかなか見られません。
他にこちらにも薩摩藩士諸士の墓所があります。
それから、釣洋一先生の『江戸刑事人名事典』に書いてある坂井右近政輝建立の墓碑があります。政輝は火盗改や浦賀奉行を歴任し、南町奉行鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)の実弟にあたります。本人の墓は確認できませんが、一族や子孫の墓が現存しています。



大円寺の後、杉並区永福の栖岸院にある丹南藩主高木家の墓所を拝し、最後の目的地和田堀廟所へ行きました。
ここは築地本願寺の墓地で著名人の墓も数多くありますが、今日は最近場所が移動された佐藤栄作元首相の墓所を確認してきました。

調査会の後、下高井戸駅前の居酒屋たつみで会合を行い、年内の活動について話し合いました。
当会では発足以来、春・秋の年2回の巡墓会を開催してきましたが、今年の秋は一旦お休みをする事にして、その代わりに12月に懇親会をメインとしたオフ会を開催する事にしました。
1ヶ所だけ寺院墓地を巡った後、近くで懇親会を行う予定です。
探墓巡礼顕彰会としては初の試みですが、いつもの巡墓会ではなかなか参加者の皆様との親睦が深められない事もありますので、今回は皆様と様々な情報交換やご意見などお聞きしたいと思っております。
場所・日時等は後日発表しますので、ご参加をご検討して頂けると大変嬉しく思います。

掃苔本の紹介①

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会員のクロサカです。
今回はいつもの墓紹介ではなく、僕らが墓調査を行う上で、使用している掃苔本を紹介したいと思います。
と言っても膨大な数に及ぶため、調査報告の合間にちょくちょく更新したいと思っております。



第1回目を飾るのは、河原芳嗣氏の『図説 徳川将軍家・大名の墓―江戸の残照をたずねて』です。
こちらは、東京に遺る徳川将軍家や大名家のお墓について、丹念な調査と豊富な写真で紹介されている本です。
僕の掃苔人生は、この本がきっかけと言っても過言ではありません。この本は、携帯するのに少々不便なサイズですが、掃苔調査に出かける際には、毎回携帯して、墓所に着き、本の内容と現物を比較しながら、楽しんでおりました。
この本は平成15年に刊行された本なのですが、変化の激しい"首都東京"の大名墓所を一基一基記録されています。
そして、紹介された大名墓所のなかに著名な人物が居れば、簡単な人物紹介も入っているので、掃苔初心者が読んでもどんな人物なのかすぐに勉強することが出来ます。



この河原氏の本に多くのモデルチェンジが存在していて、都内や関東近県に存在する比較的有名な旗本のお墓を紹介している『江戸の旗本たち』やこの2つの本を合わせたような内容となっている『探訪 江戸大名旗本の墓』という本もあります。
特に『徳川将軍家・大名の墓』を携帯しやすく、コンパクトにしたダイジェスト版の『将軍・大名家の墓』というものもあり、価格も半額ほどになっており、非常に良い本となっております。
近年、都市開発や寺院・霊園の墓地整理によって、多くの大名墓が消滅していますが、河原氏の本を片手に大名家のお墓をお参りしてみませんか?

探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-

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会員のカネコです。探墓巡礼顕彰会では、発足以来、春・秋2回の巡墓会を開催して来ましたが、今秋の巡墓会は諸般の事情により、お休みすることになりました。
その代わりに当会初の試みとして、「探墓巡礼顕彰会オフ会」を開催する事になりました。
いつもの巡墓会より短い1時間程度の巡墓会の後、同好の方との情報交換・当会へのご意見・ご要望など、幅広い意見交換を目的とした懇親会を行いたいと思います。
巡墓会は芝公園にある臨済宗南禅寺派金地院にて開催いたします。

開催要項は以下のとおりです。

■開催要項
★主な巡墓人物
近藤勇の養父近藤周斎・盛岡藩主南部家・盛岡藩士相馬大作・子爵渡辺国武など

★日時 平成27年12月13日(日)雨天決行
14:00 受付開始
14:30 主催者挨拶
14:40~15:30 金地院にて巡墓会
16:00~ 懇親会

集合場所:金地院前(東京タワー向かい側)
東京都港区芝公園3丁目5-4
※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

【交通】
都営地下鉄大江戸線 赤羽橋駅下車 出口:赤羽橋口 徒歩5分
東京メトロ日比谷線神谷町駅下車 出口: 1番 徒歩7分
都営地下鉄三田線 御成門駅下車 出口: A1 徒歩6分
都営地下鉄浅草線 大門駅下車 出口: A6 徒歩10分
JR山手線・京浜東北線 浜松町駅下車 出口: 北口 徒歩15分


 
★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★参加費用:1,000円(資料代含む)
(定員20名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000~4,000円程度/場所:地下鉄大門駅周辺の居酒屋にて)

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-申込みフォーム

【芝金地院巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。墓碑解説の前に合掌をお願いいたします。
※墓地内移動中は檀家様の墓参の妨げとならいようお気を付け下さい。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※一部足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ゴミ等はお持ち帰り下さい。
※体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。

『歴史研究』最新号掲載「少年隊士の生き残り佐野常樹とその一族の墓」

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会員のカネコです。
当会幹事メンバーでリレー連載をしている『歴史研究』「掃苔行脚」ですが、最新号は私が書いた「二本松掃苔録⑬~少年隊士の生き残り佐野常樹とその一族の墓~」が掲載されています。



佐野常樹は元の名を浅見四郎といい、二本松少年隊士として戊辰戦争を戦い、その後、縁あって佐賀藩出身で日本赤十字の父と呼ばれた佐野常民の養子となり、初代ニチメン社長となりました。
詳しくは『歴史研究』最新号をご覧頂ければ幸いですが、誌面には青山霊園の常樹の墓写真しか掲載していませんでしたので、常樹の実家である丹羽浅見家の墓所と丹羽浅見家の祖である浅見忠政の墓の画像を掲載します。

丹羽浅見家の墓所は二本松市成田にある藩主丹羽家の菩提寺である曹洞宗巨邦山大隣寺で、今年の7月に二本松製糸工場の創設者である山田脩の墓所をお寺の方に尋ね案内して頂いた際、山田家墓所に隣接した所に、この丹羽浅見家の墓所を見つけました。



初代忠政の墓は同市竹田にある真宗大谷派棚倉山正慶寺にあり、子孫が建てた比較的新しい墓碑の側面にその名が刻まれています。同墓地には少年隊隊長木村銃太郎の墓もあります。正慶寺は私の母方の墓がある事から幼少時より何度も訪れていますが、この浅見家の墓碑に気づいたのは8年前の事です。



14名の戦死した二本松少年隊士の最期は、会津白虎隊士の自害に並び、東北諸藩の戊辰の悲劇を象徴したものでありますが、生き残った隊士達がその後どのような人生を歩んだかという事は意外と知られていません。
最近は少年隊士に限らず、戊辰を生き残った二本松藩士が明治という新しい世をどのように生き抜いたか?という事に非常に興味があります。
今後の連載でも戊辰を生き残った二本松藩士達を取り上げて行きたいと思っています。

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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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農民から旗本へ-川崎出身の名士田中休愚-

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会員のカネコです。
歴史好きな方は大抵、生まれ育った郷土の歴史に興味を持つものかと思います。
最近、私は福島県二本松市に関わる記事をよく投稿していますが、二本松は両親の出身地であり、私自身は神奈川県川崎市で生まれ育ちました。
川崎は近代になり京浜工業地帯が栄え発展した町であり、やはり歴史的に見ると、私としては室町時代以来続く城下町である二本松の方に強い関心が向いてしまいます。
しかしながら、現在ではあまり歴史的な風情を感じなくなった川崎にも様々な歴史があり、それぞれの時代に名士を生んでいます。

小学生の頃に社会科の授業で郷土の歴史を学んだり、もしくは夏休みの自由研究で郷土史を調べたりした方も多いかと思いますが、川崎では郷土の名士として必ず登場するのが、二ヶ領用水の開発者小泉次大夫、池上新田の開拓者池上幸豊、そして今回取り上げる田中休愚です。

田中休愚(丘隅・諱は喜古)(寛文2年3月15日(1662・5・3)~享保14年12月22日(1730・2・9日))は武蔵国多摩郡平沢村の農民窪島家の生まれで、東海道川崎宿本陣の田中兵庫の養子となり、川崎宿の繁栄に尽力し、後に大岡越前守忠相に見いだされ、8代将軍徳川吉宗に幕臣として登用され、多摩川の治水、二ヶ領用水、六郷用水の改修工事の他、荒川の水防工事、酒匂川補修などを任させ、この功績が認められ、代官となり武蔵国多摩郡・埼玉郡のうち3万石の支配を任されました。
『寛政重修諸家譜』第20巻によると休愚の後、喜乗-喜道-喜和-正純と旗本として家が続いています。

休愚の墓は川崎市幸区小向町の妙光寺にあります。





これは平成23年4月に調査したした際の写真です。

休愚の法名は深心院速成日解居士。
休愚の墓は実家の菩提寺である、あきるの市の広済寺にもあるとの事ですがこちらは未調査です。

また、二ヶ領用水の開発者小泉次大夫の墓所がある川崎区宮前町の妙遠寺には次大夫と休愚を顕彰して明治22年(1889)に建立された「泉田二君功徳碑」があり、篆額は内閣総理大臣黒田清隆によるものです。
また、左下の部分は損傷して現在、文字を読み取ることが出来ませんが、『郷土神奈川36』「川崎市妙遠寺の泉田二君功徳碑」によると、戦前の写真から「元老院議官従四位勲四等金井之恭書」と刻まれていたようです。



このように農民から1代で幕臣に取り立てられた人物は他に二宮尊徳が挙げられます。尊徳も荒村の復興の功績が認められ、幕臣となりました。身分制度が厳しかったと思われがちな江戸時代ですが、能力があれば認められ、出世した人物は数多くいます。特に幕末に活躍した幕臣の中には農民や各藩の下級武士の出身の人物が見られます。

みなさんの地元にもこのような1代で出世した名士がいるかと思います。彼らの出世物語を見る事で、従来の固定化した江戸時代観も変わるかも知れません。

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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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5代目三遊亭円楽と吉川経家

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会員のクロサカです。
今回は自分の地元にある著名人の墓とある人物との繋がりについて書いていきたいと思います。
下の写真は、墓碑銘からも分かる通り、亡くなってしまったことも記憶に新しい5代目三遊亭円楽師匠のお墓になります。このお墓が建立されているのは、東京都足立区伊興にある「易行院」というお寺です。墓地の最奥にこのお墓が建立されています。



易行院は円楽師匠の実家でもあり、父もまた住職を務めていました。
5代目三遊亭円楽の本名は「吉河寛海」です。名前からも見てもあまりピンと来ないと思いますが、ある戦国武将と深いつながりがあります。その人物が毛利家家臣の吉川経家という人物です。
この人物は、羽柴秀吉による中国攻めで行った「鳥取城の渇え殺し」の際に鳥取城主でした。そのため降伏の際、本国への帰還を許されていましたが、頑強に自害を請い、信長による切腹許可を得て、見事な切腹を行った“義士”とも呼ぶべき人物になります。
では、三遊亭円楽と吉川経家との関係はどういうことなのでしょうか?
実は経家の3男家好が後に、鳥取藩池田家の家臣として取り立てられています。『藩翰譜』によれば、円楽の曽祖父が安政7年に切腹したという記述があります。
この安政7年は桜田門外の変が行った年でもあり、鳥取藩主池田慶徳も水戸藩主徳川斉昭と親子という関係もあるので、関連性もありますが、詳細は不明です。
その息子寛雅は、当時7歳でしたが、父の切腹に立会い、「侍というものは、かくも悲惨なものか、もう厭だ」と考えたと云われています。その後、武士を廃業し、増上寺に入り、僧侶となりました。号は「才蓮社辯譽上人寛雅老和尚」となっております。寛雅は苗字を代々の「吉川」から「吉河」に改め、その子が円楽の父である「雄譽寛快和尚」です。



易行院の墓地には、円楽師匠のお墓だけではなく、吉河家の墓所も建立されていますが、円楽の墓所とは異なり、墓地に入って正面奥に建立され、墓誌には、吉川家・吉河家歴代当主の戒名と没年月日が記されています。一番右は、初代吉川家好となります。しかし、この墓誌にも疑問があり、『藩翰譜』に記録が残る安政7年ではなく、「安政二年十一月四日」となっており、墓誌の方が間違って刻んだものと思われますが、今後の課題としたいと思います。



この易行院の周辺には、関東大震災によって、浅草から複数の寺院が移転してきているため、多くの史跡があります。今後も「伊興の寺町」に残る多くの著名人のお墓について、書かせて頂きたいと思います。

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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
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『歴史研究』の連載から~出雲に眠る男爵家たち~

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会員のクロサカです。今回は千家男爵家・北島男爵家・小野男爵家について紹介したいと思います。
今回の話は、現在でも連載をさせて頂いている『歴史研究』で発表した内容となります。
しかし、数年前に発表したということもあり、入手が少々困難である可能性が高いため、再掲載させて頂きたいと思います。
その他にも紙面の都合上、載せられなかったカラー写真を少し追加し、見やすいものにしたいと思い、再掲載に至りました。
以下、一部加筆修正が入っていますが、どうぞ御覧ください。

出雲調査については、大学院に進学後初の地方調査として赴きました。
出雲は古くより、八百万の神が集う場所として崇敬されており、出雲大社を始め、日御碕神社などの古社が多くあります。そういうこともあり、出雲大社の社家である千家家と北島家、日御碕神社の社家である小野家の三家が出雲国造の末裔とされて男爵に叙されました。この三家は、明治期以前より当地に歴代墓所を形成しており、現在まで連綿と続いています。本稿では、三家の近代以後の墓所に関して紹介していきたいと思います。



 はじめに、出雲大社社家である千家家と北島家の二男爵家の墓地ですが、両家ともに松林寺御墓所に歴代当主、旧松源寺墓所に千家家の婦女子と分家、神光寺に北島家の婦女子と分家の墓所があります。この三つの墓所は、全て出雲大社の周辺に集まっていますが、それぞれ独立しています。
 松林寺御墓所には、近世から現代までの千家家歴代当主と近代以後の北島家歴代当主の墓所があります。出雲国造家の墓所は、当主と夫人・婦女子でしっかりと分けられているため、こちらには、女性の墓が一基も建立されていません。墓型は、共に自然石墓を踏襲しており、神道墓所の姿をよく留めています。特に千家家における近世の墓型は、自然石ではあるものの石を横に置いたような墓標で何も刻まれていません。辛うじて墓標の隣に代数と当主名が刻まれた案内の標石があるのみです。北島家については、案内の標石が建立されていないため、歴代当主の特定は絵図や史料を確認しなければなりませんが、近代以降のものに関しては、墓石正面に位階と俗名がしっかりと刻まれています。両家ともに同じような墓型の変化を遂げているという事実は非常に面白いと思います。上の写真は、各県知事や司法大臣、貴族院議員、大社教初代管長も務めた千家尊福男爵の墓になります。下の写真は、出雲教初代管長北島脩孝男爵の墓です。



 つづいて、千家家と北島家の婦女子と分家の墓地は、旧松源寺墓所と神光寺に建立されています。旧松源寺墓所には、近世の千家家一族の墓所と近代以降の夫人、子女、分家の墓碑も建立されています。神光寺には、北島家の墓所があり、こちらには近世の北島家の夫人、分家の墓所があります。
 


 さらに、日御碕灯台のすぐ近くにある日御碕神社の社家小野家の墓所については、日御碕神社入口の大鳥居の向かいに見える小高い丘に小野家の墓所があります。しかし森の中には、他の社家の墓地や一般の方の墓地もあるため、一番奥まったところにある小野家墓地を見つけるのは容易い事ではありません。出雲大社社家の墓地と違い、全く整備がなされていないため、探墓難易度は非常に高いと思われます。小野家の墓所は、二ヶ所存在し、近世墓所と近代以降墓所があります。近代以降墓所には、当主と夫人の墓のほか、近代以降に分家した一族の墓所もあります。上の写真が小野尊光男爵夫妻の墓碑で、以前『歴史読本』の特集で秋元茂陽氏は、「マッチ棒のような形」と形容している通り、風変わりな墓標です。下の写真は、『歴史研究』11月号の本会員のカネコさんの連載に関係する小野尊正男爵と夫人の米子の墓標です。米子は佐野常樹伯爵の長女で、嫁いだ相手が小野尊正男爵です。



 ちなみに、これらの墓所調査を行うために、JR出雲市駅で借りた電動自転車で巡りましたが、往復20kmのアップダウンを走ることになり、追い打ちをかけるように電池も切れるという災難に遭い、ホテルに戻った頃には、全身が筋肉痛状態に陥っていました。しかし、とても有意義な調査をすることが出来ました。

最後に今回紹介した墓所における当主の墓標に刻まれている墓碑銘を掲載して締めたいと思います。

[千家男爵家]
千家尊孫『前国造千家尊孫奥都城』
千家尊澄『従五位千家尊澄奥都城』
千家尊福『貴族院議員正二位勲一等前出雲國造男爵千家尊福奥都城』
千家尊紀『出雲大社宮司従三位勲六等千家尊紀奥都城』
千家尊統『第八十二代出雲國造出雲大社宮司千家尊統奥都城』
千家尊祀『第八十三代出雲國造出雲大社宮司千家尊祀奥都城』

[北島男爵家]
北島全孝『従三位出雲國造北島全孝奥都城』
北島脩孝『従三位男爵出雲國造北島脩孝奥都城』
北島齊孝『貴族院議員従三位勲四等男爵出雲國造北島齊孝奥都城』
北島貴孝『元貴族院議員従三位勲三等出雲國造北島貴孝奥都城』
北島英孝『第七十九代出雲國造北島英孝奥都城』

[小野男爵家]
小野尊安『尊安命』
小野尊光『第九十五代従二位尊光命』
小野尊正『九十六代尊正命米子命』
小野勝彬『九十七代勝彬命貞子命』

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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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次回予告、会員カトケン

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会員のなりきり松田優作ことカトケンである。

久しぶりに本気で予告編をやってみようと思う。ここらで帳尻を合わせておかないと将来、使ってもらえなくなるからである。

12/13(日)午後、芝金地院にて探墓巡礼顕彰会のオフ会。

私は近藤勇の養父周斎と高知県権令小池国武こと渡辺国武を案内させていただく。





やはり、歴史に最初に興味を持った中学の修学旅行で京都に行き、《新選組と坂本龍馬》をテーマに壬生寺や池田屋跡、酢屋や寺田屋を廻った。

それからというもの、文学部史学科を目指して高校時代はひたすら古典を勉強、大学に入って読み下しは誰にも負けなかった。

古文書の読解も2年からのゼミで夏休み後には上級生のレベルに追いつき追い越せで、3年では4年生を差し置いて常にゼミを引っ張ってきた。ーーま、4年生は就職活動でいなかっただけだけどーー

京都で坂龍を調べなかったら、高知へは行かなかっただろう。だけど、読んだ本は小説ではなく実録もの。新人物往来社の本は片っ端から読み漁り、いつしか土佐の郷土史家平尾道雄にあこがれ、あっという間に高知に住むことになっていた。

だが、いざ高知へ行ってみると、気になるのは坂龍よりも非業の死を遂げた青年たちばかり。

北添佶磨や望月亀弥太、野老山五吉郎など新選組と白刃を交えた者の墓を訪ねたほか、亀山社中乃至海援隊の池内蔵太や澤村惣之丞の小伝を同人誌に書かせてもらったりもした。近藤長次郎なぞ、本当にかわいそうで仕方がない!

そんなこんなで、私の拙く短き歴史とともに歩んできたこの25年を振り返ってみたわけだが、果たして、今回の金地院は高知へ行ったお陰で知った西南戦争時の知事である渡辺と島崎家から天然理心流宗家へ養子に行った近藤の二人の国(邦)武を取り上げてみたいというのはそのような理由から。これが吉と出るかはたまた凶と出るかーー

これはもう、私としてはちょっとした集大成だと思っている。

たくさんの御参加、お待ちしております!
どうぞお楽しみに!!

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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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週刊『ビジュアル江戸三百藩』に掲載されました

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会員のカネコです。
当会会員の久保さんが以前ブログに投稿した鹿児島旧福昌寺跡のお由羅の方の墓碑写真が、週刊『ビジュアル江戸三百藩』最新号に掲載されました。



元の記事はこちらになります。

お由羅の墓碑について

週刊『ビジュアル江戸三百藩』は315の各藩の歴史を豊富な写真・図版を加えてコンパクトにまとめた、藩史の入門書としては最適の本です。

週刊『ビジュアル江戸三百藩』公式ホームページ

久保さんの写真が掲載された最新号では庄内藩・熊本藩・館林藩・米沢藩・加賀藩が特集され、「江戸事件帖」の特集記事として「お由羅騒動」が紹介されています。

今回の掲載は週刊『ビジュアル江戸三百藩』の出版社の方より、「お由羅騒動」を特集するにあたり掲載依頼がありましたので提供しました。
写真協力者の欄に当会と久保さんの名前も記載されています。
久保さんは鹿児島の幕末維新関係者の墓碑を熱心に調査されており、当会ブログでも数度に亘り調査の報告をされています。
今後益々のご活躍を期待しております。
週刊『ビジュアル江戸三百藩』ご興味のある方はご一読下さい。

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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
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滝乃みわこさん『乙女の真田丸』のご紹介

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会員のカネコです。
私の友人で当会巡墓会にも何度もご参加頂いているイラストレーターで編集者でもある滝乃みわこ先生が作家の堀江宏樹さんとの共著『乙女の真田丸  真田一族と関ヶ原の武将たちの愛すべき素顔』を出版されました。



滝乃先生には吉祥寺巡墓会の際に画家甲斐庄楠音のお話しをして頂いたりと当会では大変お世話になっております。

この『乙女~』シリーズは2009年『乙女の日本史』のヒット以降、『乙女の美術史』や今年1月に発売された『乙女の松下村塾読本 吉田松陰の妹・文と塾生たちの物語』など多くのヒット作を出す人気シリーズとなっています。
基本的には歴史に興味を持ち始めた初心者の方に分かりやすい内容となっていますが、所々マニアックな内容も散りばめられていて、上級者の方でも楽しめる内容に工夫が施されています。

今回の『乙女の真田丸』のあとがきにもあるように滝乃さんは日本史の本を作る時には必ず舞台となった土地に行き、取り上げる人物の足跡を辿ります。その姿勢にはとても共感をしております。
『乙女の真田丸』の冒頭には滝乃さんが実際に訪れ撮影した写真がカラーで載せられています。
心眼寺に2014年に建立された信繁(幸村)の墓碑の事はこれで初めて知りました。

たいてい、この関ヶ原から大坂の陣辺りに活躍する武将は西軍側が人気が高く、徳川贔屓の私にとってはその辺が不満なのですが、本編は、「真田一族」「西軍」「東軍」の3章に分かれおり、真田がメインのはずなのにちゃんと「東軍」の武将達も取り上げられています。

早くも再来年の大河ドラマの主人公井伊直虎の事にも少し触れられていましたが、次作は『乙女の女城主』とか『乙女の女武将』みたいな感じなのかなと思ったりしています。
滝乃先生の今後ますますのご活躍を祈念いたします。

乙女の真田丸: 真田一族と関ヶ原の武将たちの愛すべき素顔

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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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佐久間勝親と二本松-織田旧臣達の絆-

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会員のカネコです。
先日、このような記事を読みました。

長沼藩主の位牌修復へ 長野・偲ぶ会が二本松・龍泉寺を訪問

二本松へ配流された信濃長沼藩主佐久間勝親を偲び、地元長沼の人達が勝親の墓所がある二本松へ訪れたという記事です。

二本松ではこの佐久間勝親については殆ど知名度が無いと思います。
佐久間勝親は、日向高鍋藩主秋月種信の五男で、長沼藩主佐久間勝豊の養子となり、17歳の若さで藩主となりました。元禄元年(1688)20歳の時、5代将軍徳川綱吉より御側小性を命ぜられたが、すぐに病と称して辞退しようとしたため、綱吉の勘気を蒙り、所領没収の上、二本松藩主丹羽長次に預けられました。勝親は元禄4年正月2日(1691・1・30)23歳の若さで死去し、二本松龍泉寺に葬られました。法名大通院殿智厳浄勝居士。





この画像は今年の7月26日に訪れた際のものです。
翔龍桜という大木の下に墓碑があります。

佐久間家と言えば、佐久間信盛など、織田家の重臣を想起しますが、この勝親の家もその一族です。初代勝之は佐久間盛次の四男で、母は柴田勝家の姉。兄に猛将で知られた盛政、信濃飯山藩主となった安政、柴田勝家の養子となった勝政がいます。
勝之は佐々成政の娘を妻として佐々姓を名乗っており、成政切腹後、小田原北条氏に仕え、北条氏滅亡後、秀吉に召し出され、佐久間姓に復し、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、常陸北条において大名となりました。さらに大阪夏の陣の戦功により加増され、信濃長沼藩1万8,000石の藩主となりました。

『二本松寺院物語』によると勝親が二本松に到着した後に監守を命ぜられたのは佐々吉兵衛という人物であり、吉兵衛の祖父太右衛門は佐々成政の一族で、丹羽長重が小松城主であった時に仕官したとあります。この事から勝親は二本松では織田旧臣の誼から厚遇されていたのでは無いかと推測されます。

佐久間家・柴田家の子孫が丹羽長秀の子孫に預けられ、佐々成政の一族が世話をするという姿に織田旧臣達の絆を感じました。
そして、没後324年を経て、地元長沼の人達が旧藩主を偲び二本松を訪れた事に深い感慨を覚えます。

尚、『寛政重修諸家譜』によると「勝茲」とあり、「初勝親 萬作 織部」とありますが、今回は新聞記事に合わせて「勝親」の表記を使いました。

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続・江戸蒲田氏の墓

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会員のカネコです。
2011年の記事になりますが、私が長年住んでいた川崎にある江戸蒲田氏の墓所について書きました。

江戸蒲田氏の墓

現在の東京の父とも言うべき江戸氏は、鎌倉・江戸時代にかけて江戸を中心に勢力を誇示していましたが、小田原北条氏の勢力に押され衰退。
一族の中から、旗本となった喜多見氏がおり、喜多見重政は5代将軍綱吉の側用人として出世し武蔵喜多見藩主として大名になったものの、元禄2年(1689)将軍の意向にしばしば背き、勤務も疎かであるとして突如改易となっています。
また、常陸に勢力を広げた江戸氏の子孫は結城秀康に仕え、水戸氏と改姓して、福井藩士として続いています。

そして、蒲田氏は現在の大田区を中心に勢力を持っていた一族で、「大慈恩寺文書」などに見られる江戸蒲田四郎入道道儀の代に勢力を拡大したと考えられています。
蒲田氏については系図が残されておらず、はっきりとした系譜は不明ですが、『関東武士研究叢書1江戸氏の研究』の門馬義芳「江戸蒲田氏の研究」に平賀本土寺大過去帳より蒲田氏関係者の記載を抜き出し、系図を復元したものが記載されています。
蒲田氏は小田原北条氏の麾下に入り、蒲田重武の代に小田原北条氏が滅亡、土井利勝に仕官し、禄100を賜っています。その子孫は後に土井家を去り、相馬中村藩主相馬家に仕官し、小嶋と姓を変え、幕末まで続いています。その系譜は『相馬市史資料集 衆臣家譜』に記されています。

「江戸蒲田氏の研究」には川崎区大田区円真寺の他に、妙典寺にある蒲田氏の墓について書かれており、「蒲田下総守致重入道重蓮墓碑 五世孫兵庫重行謹建」から始まる撰文が載せられています。この致重は『相馬市史資料集 衆臣家譜』の小嶋氏の項の冒頭に書かれている「江戸新五郎致重于武州六郷蒲田故称氏蒲田」とある人物で、この致重より三代下総守定重男が蒲田重武となっています。ただし、撰文では致重は慶長13年(1608)90余歳で没しており、4代の孫である重武が「慶長之末年歿」とあるので、時代が少々合わない気がします。
墓碑は妙典寺の境外墓地にあり、塀際にあるため、撰文が読みにくい状態となっています。





この墓碑の周囲には蒲田にそのまま土着した子孫の墓があり、これは『新編武蔵風土記稿』に記されている北蒲田村旧家百姓権兵衛の家であります。『新編武蔵風土記稿』には各村の旧家についての記載がありますが、武蔵国にはやはり北条や武田の旧臣が土着しているケースが多く見られます。

江戸蒲田氏の子孫は相馬藩士や、本拠地であった蒲田や、以前の記事に書いたように蒲田から多摩川を挟んだ川崎南河原に土着して現在も続いています。

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「二本松市の指定文化財」展と二本松菊人形

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会員のカネコです。
11月15日(日)に二本松へ日帰りで行って来ました。
二本松歴史資料館では二本松市合併10周年記念特別企画展「二本松市の指定文化財」展が10月3日(土)から11月29日(日)まで開催されています。







市内に点在する貴重な指定文化財が一同に会する貴重な企画展です。
私が特に見たかったのが、大隣寺に所蔵されている丹羽家御歴代の肖像画です。
この肖像画は『二本松藩史』にも白黒写真で載せられていますが、現物を見る機会はなかなかありませんので、とても満足しました。
あの有名な初代長秀公の肖像画に始まり、11代長富公まで全ての肖像画をじっくり見ました。
ふと気づいたのが、6代秀延公は36歳で亡くなっているのですが、肖像画では白髪混じりの老人の姿で描かれている事でした。これは『二本松藩史』の白黒写真では分からない部分でしたので、実物を見てこれは何故だろうという疑問が起こりました。これは謎です。

その他、11代長富公筆の藩校敬学館の扁額、狩野益信筆の3代光重公の小姓西村志摩之助の肖像画など丹羽家好きにはたまらない内容となっています。

秋の二本松と言えば、二本松提灯祭りと菊人形です。
二本松提灯祭りは毎年10月4日から6日に開催される祭りで、二本松に生まれた人にとっては1年の内で最も大切な3日間です。この祭りは必ず4日から6日と決まっているので、平日に開催される事が多く、私は数年前に1回と、幼少時に行ったくらいです。数年前に行った際は、晴天で太鼓台に提灯が灯され二本松町内を曳き回す姿は圧巻でした。私の両親が二本松から川崎に移住した後も提灯祭りをいつも懐かしんでいた気持ちが良く分かりました。



これは7月に二本松へ訪れた際に購入した二本松限定発売のガイドブックです。

今年は提灯祭りには行けませんでしたが、菊人形が11月23日まで開催されているので、行ってきました。この日は午前中に小雨が降っていましたが、雨に濡れた菊の花もまた趣があるものでした。











今年はのテーマは「幕末維新伝」で、松下村塾、和宮降下、池田屋事件、戊辰戦争などの菊人形が並んでいました。丁度紅葉も見頃でした。

この日の午後は雨が止み、薄日が差してきたので、恒例の寺院巡りをして二本松藩士の墓所を調査しました。こちらの方はまた機会がありましたら書きたいと思っています。

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池上太郎左衛門幸豊-田沼意次のブレーンとなった川崎の名士-

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会員のカネコです。
以前、第8回染井周辺寺院巡墓会にて老中田沼意次の解説をしました。
所謂「ワイロ政治」で悪名名高い田沼意次ですが、実際の姿はワイロ政治家とはほど遠い、かなり開明的な名政治家であった事を当会幹事全員で解説しました。
その際に私は意次のブレーンの一人として、川崎の大師河原村名主池上太郎左衛門幸豊を紹介しました。
田沼政治に関してはだいぶ再評価がされて来ていますが、まだまだワイロ政治の文脈で語られる事がありますので、池上幸豊を通して田沼政治の擁護をしたいと思います。

殖産興業を進める意次は朝鮮人参の国産化、白砂糖の国産化などに取り組みました。意次はこれらの政策を推し進めるために民間の力を積極的に利用しました。
その流れの中で、意次は白砂糖の国産化のために川崎大師河原村の名主池上太郎左衛門幸豊を重用したのです。

池上家は本姓藤原氏、家紋は雁金。遠祖池上左衛門大夫宗仲が日蓮を庇護し、その死後、日蓮が死去した場所である自邸を寄進し、寺院を建立し、それが現在の池上本門寺に発展して行きました。池上氏は本門寺の大檀越として、池上の地で力を保持して戦国期に至りますが、江戸初期の21代当主幸広が池上の地から川崎大師河原へ新田開拓のために一族郎党を引き連れ移住し、大師河原村の名主となりました。

24代幸豊は新田開発を積極的に行い、現在でも川崎区池上新町という地名に新田開発の名残りが残っています。
幸豊は甘蔗の栽培にも力を入れており、本草家田村元雄(藍水)の許で甘蔗から白砂糖を製造する方法を学び、白砂糖の国産化を目指しました。当時白砂糖はオランダ・中国からの輸入に依存しており、国産化が課題となっていました。
幸豊は明和3年(1766)に御用取次であった意次の上屋敷で砂糖製造の実演を行いました。これは田村元雄と意次の関係からと思われます。意次の知遇を得た幸豊は、明和5年(1768)甘蔗砂糖の製法を伝授するため、幸豊が関八州その他の農村へ巡回するのを許され、その礼状を意次に送っています。天明6年(1786)には京・大坂・畿内の農村へ巡回を許され、意次の支援を受けた幸豊によって白砂糖の国産化は飛躍的に進むこととなりました。

幸豊の墓は川崎市川崎区大師駅前2丁目の池上家墓地(池言坊)にあります。



これは2011年4月30日に撮影したものです。
同墓地には幸豊の養女となった成嶋道筑の娘の墓もあります。



成嶋道筑と言えば、8代将軍吉宗の侍講を務め、子孫には成嶋柳北がいます。一名主の家が幕臣との姻戚関係を結ぶという事から見ても、当時の幸豊の出世の様子が窺い知れます。
もし意次が失脚せずに政策が継続していたならば、幸豊は確実に幕臣に取り立てられていた事でしょう。

池上本門寺には日蓮を庇護した池上宗仲夫妻の墓所があり、隣には池上家の墓所もあります。



歴代の名が刻まれた墓誌には幸豊の名も刻まれています。
與楽院博望十利大本日豊居士 寛政十年二月廿五日 幸豊
いずれ池上本門寺でも巡墓会を開催したいと思っております。
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中町奉行丹羽遠江守長守とその子孫達

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会員のカネコです。
私が子供の頃に『江戸中町奉行所』という時代劇がありました。この中町奉行所とは北町・南町奉行所が裁けない悪を闇の白州で裁く秘密任務を行い、この秘密任務を行う5人がドラマの主人公でした。少々必殺仕事人を彷彿させるものがありますが、この中町奉行を演じていたのが故丹波哲郎さんで、役どころは丹羽遠江守長守という実在の人物です。
実際の中町奉行所はもちろん闇の白洲なんかではありませんが、この丹羽遠江守長守と坪内能登守定鑑の2名しか務めていない短命な奉行所でした。
そのようなポジションのため、時代劇にしやすかったのでしょうが、丹羽遠江守長守が時代劇の題材になるとは今にして思うと凄い事だなと・・・。

丹羽長守はその名が示す通り丹羽長秀の子孫で、二本松藩主丹羽家の分家である旗本丹羽長吉の長男として江戸で生まれました。母は赤井忠泰の娘。幼名吉松、通称権十郎、左近、五左衛門。官名は遠江守。
寛文10年(1670)に4代将軍徳川家綱に拝謁し、寛文12年(1672)小性組番士。元禄元年(1688)家督を継承し、使番、目付と累進、元禄5年(1692)には浅草寺普請の功績により時服一領、羽織一領、黄金二枚を賜っています。
元禄8年(1695年)には長崎奉行に就任、同15年閏8月15日(1702・10・6)には中町奉行に栄進し、宝永4年4月22日(1707・5・23)から北町奉行に転向、正徳4年1月26日(1714・3・12)まで勤めました。辞任後は旗本寄合席となり、享保11年(1726) 84歳で死去しています。

この旗本丹羽家の墓所は文京区本駒込吉祥寺にあり、2013年秋に開催した第9回吉祥寺巡墓会の際に私が解説しました。
現在丹羽家の墓は宝篋印塔1基のみ残されており、宝篋印塔横にある墓誌には明治以降の子孫のみが刻まれており、江戸時代の埋葬者については不明です。



宝篋印塔 正面:丹羽家代々之墓
裏面:昭和三十七年三月改修之
墓誌:(9霊)

昭和初期に書かれた『掃苔』「現存する町奉行の墓(二)」(森潤三郎)には当時の丹羽家墓所の様子が記されており、それによれば鳥居氏(壬生藩主鳥居家のことか?)墓域の前を南へ数歩行った所に長道夫妻の宝篋印塔2基、その角から東へ曲がった両側に丹羽氏の墓域があり、その南側の2基目が長守、3基目が長堅であったとのことです。
それぞれの碑面には
曹源院殿從五位下前江州刺史一滴全海大居士(四代長道)
寛延四年辛未年閏三月二十二日
勝壽院殿從五位下前遠州刺史義雲宗功大居士(三代長守)
享保十一丙午歳四月初七冥
楊善院殿從五位下前江州太守徳翁長海大居士(七代長堅)
嘉永四年辛亥十二月三日
と刻まれていたそうです。
長道の墓について石階五級の上に石門石扉を有していたとあることから、現存する墓碑は位置的にも長道の墓碑と思われます。

長守の長男長道は西城御小性組番頭などを務め、その長男百介は、本家二本松藩主丹羽秀延に後継者がいなかったことから、その養子となり名を高寛と改め、丹羽家7代目当主を相続しました。高寛は二本松に初入国した際、藩祖長秀の廟所が不明になっている事に憤慨し、家臣に命じ捜索させ、越前宗徳寺に廟所、総光寺に位牌があることを確認し、直ちに法会を行い、毎年4月16日に家臣を派遣し代拝させ、以降幕末まで続きました。
当時二本松藩は財政窮乏・農村荒廃などの難題に直面しており、高寛は家老丹羽忠亮を重用し藩政改革を推進。忠亮と親しかった幕府儒官桂山彩厳の門人岩井田昨非を登用し、文武学習推進、綱紀の粛正、税目の新設、年貢収納の的確化、人材の登用などの施策を進めました。この改革は昨非が藩主・家老を後ろ盾として推進したため、下級家臣・農民からの反発も起き、抗争や一揆も起きています。延享2年(1745)改革半ばにして病を理由に、嫡男高庸に家督を譲り隠居。その後も高庸を後見し、藩政を指導しました。
寛延2年(1749)高寛41歳の時に、藩政改革と綱紀粛正の指針として岩井田昨非が進言した戒石銘碑を藩庁入口に建立。この碑には「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」という四句十六字の漢文が刻まれています。
「お前達武士の俸給は、民が脂して働いた賜物より得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて民を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」という意味のこの文は藩庁に出仕する藩士を戒める意味がありました。
しかし、辞句の曲解などが広まり、それが凶作下の農民に広がると、積達農民一揆が起き、別名昨非騒動とも言われました。高寛の目指した改革は成功したとは言えませんが、高寛が戒石銘碑に表した「孝」「敬」「義」の精神は後世に受継がれ、二本松藩の士風の形成に大きな影響を与え、戊辰戦争の少年隊士にも受け継がれた言われています。



私は二本松を訪れた際にはこの戒石銘碑を必ず訪れています。

高寛の墓は二本松市成田町曹洞宗大隣寺の丹羽家歴代墓所にあり、岩井田昨非の墓は同市竹田浄土宗台運寺にあります。岩井田昨非の墓については以前の記事で紹介しています。

8月11日・12日 郡山・二本松調査

高寛が本家を相続したため、次弟の長利が旗本家を相続し、その子長裕に高寛の娘が嫁いでいます。長利の次男長義は清水徳川家に仕え、三男直温は旗本竹垣直照の養子となり、竹垣家を相続。竹垣家が世襲していた代官職を継ぎ、大坂谷町代官・関東郡代付代官などを歴任。大坂代官時の手腕が買われ、荒廃した北関東の農村の復興に尽力しました。その施策は間引きの禁止、産児奨励金支給制度、越後の真宗門徒を入植、民衆教化のために心学者の講話を行うなど多岐にわたり、死後、真岡・上郷に徳政碑が建立され現在も残っています。その子直清も代官を務め、その日記は『江戸幕府代官竹垣直清日記』(新人物往来社)に翻刻されています。

竹垣家の菩提寺は港区愛宕にある清岸院であり、2013年秋に竹垣家の墓所の所在をご住職に尋ねた所、現在竹垣姓の檀家はおらず、寺の記録も明治以降のものしか無いとのことでした。清岸院の場所も100年前程に青松寺入口右側辺りから移転しているとのことで、古い墓碑も無いとのことでした。名代官竹垣直温の墓所が不明になってしまっていることは大変残念に思います。
尚、前述の徳政碑はつくば市上郷金村別雷神社と真岡市田町海潮寺に現存しています。

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『寛政重修諸家譜 別巻一 葬地・寺社名索引』の活用

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会員のカネコです。
当会のメンバーがよく使用する本に『寛政重修諸家譜 別巻一 葬地・寺社名索引』という本があります。

寛政重修諸家譜 別巻一 葬地・寺社名索引 - 出版詳細情報

これは『寛政重修諸家譜』の本文中に記載されている大名・旗本の葬地をはじめ寺院に関する事項を寺院ごとに纏めた索引で、2010年に八木書店から出版された比較的新しい本です。

この本を初めて見た時は画期的な本だと思いました。正に私が欲しかった内容でした。
基本的に寺院調査に行く際は目的の人物のお墓を探しに行く訳ですが、実際に現地へ赴くと目的以外の人物も気になって来ます。その時は興味が無くとも、後日興味を持ち、「このお寺前に行った事あるじゃん」という事をよく経験しました。
この本を見たのが2011年頃だったのですが、それ以降、都内の寺院調査の際にはこの索引をチェックして、記載されている旗本家を一通り確認します。



そうすると都内には意外と旗本家の墓が残っている事が分かりました。
もっとも、無名の旗本家を調査する意味はあるのか?という疑問もありますが、それはさておき、備忘録程度に寺院と家名をエクセルに入力しておきます。そうするとデータはだいぶ蓄積されてきて、じわじわとその効果を上げてきています。
歴史調査の醍醐味は点と点だったものが調べる内に線になって行く事です。後から、「あの人物とこんな関わりがあったのか!」と思う事は多々あります。最近もある家の調査をしていて、その分家筋の家の墓を既に見ていて、ちゃんとエクセルに入力してありました。墓碑の撮影をしていたので、再び現地に赴く事なく確認が出来ました。
現在は備忘録程度の記録ですが、情報をいかに詳しく、分かりやすく管理して行くか今後の課題です。

『寛政重修諸家譜 別巻一 葬地・寺社名索引』は村山貴久男さんという方が編集されたのですが、これは本当に凄い仕事です。地道な積み重ねが歴史学を切り開いて行くものだと思います。この場を借りて敬意を表したいと思います。

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探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-【最終告知】

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会員のカネコです。
先日より告知しております、「探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-」まであと4日となりました。
幹事一同、配布資料の作成など準備を進めております。
ここ数日天気予報が変わりやすくなっておりますので、予報をよくご確認の上、寒さ対策、雨対策を十分にしてお越し下さい。

再度開催要項を掲載します。巡墓人物も発表いたします。

■開催要項

探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-

★日時 平成27年12月13日(日)雨天決行
14:00 受付開始
14:30 主催者挨拶
14:40~15:30 金地院にて巡墓会
16:00~ 懇親会

集合場所:金地院前(東京タワー向かい側)
東京都港区芝公園3丁目5-4
※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

【交通】
都営地下鉄大江戸線 赤羽橋駅下車 出口:赤羽橋口 徒歩5分
東京メトロ日比谷線神谷町駅下車 出口: 1番 徒歩7分
都営地下鉄三田線 御成門駅下車 出口: A1 徒歩6分
都営地下鉄浅草線 大門駅下車 出口: A6 徒歩10分
JR山手線・京浜東北線 浜松町駅下車 出口: 北口 徒歩15分


 
★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★巡墓人物
渡辺国武(カトケン)
近藤邦武(カトケン)
木下利次(カネコ)
堀杏庵(カネコ)
相馬大作(クロサカ)
南部直政(カネコ)
南部信房(クロサカ)

★参加費用:1,000円(資料代含む)
(定員20名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000~4,000円程度/場所:地下鉄大門駅周辺の居酒屋にて)

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-申込みフォーム

【芝金地院巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。墓碑解説の前に合掌をお願いいたします。
※墓地内移動中は檀家様の墓参の妨げとならいようお気を付け下さい。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※一部足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ゴミ等はお持ち帰り下さい。
※体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。

探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-開催しました

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会員のカネコです。
本日、12月13日(日)に「探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-」を開催いたしました。
今年は定例秋の巡墓会が開催できなかったため、当会初めての試みとして「オフ会」を開催しました。
いつもより短めの巡墓会と、早めの時間からの忘年会を兼ねた懇親会を行いました。

芝金地院で行った巡墓会で解説した人物は以下の通りです。
南部直政 (カネコ)
南部信房 (クロサカ)
相馬大作 (クロサカ)
堀杏庵 (カネコ)
木下利次 (カネコ)
近藤邦武 (釣先生)
渡辺国武 (カトケン)
金地院の由来 (カネコ)



釣洋一先生もお越しになり、近藤勇の養父である近藤邦武(周斎)の解説をして頂きました。
墓碑に刻まれた家紋と戒名の謎について詳しく説明して頂きました。

私は今回、外様大名から5代将軍綱吉の側用人となった南部直政と、豊臣秀吉の名跡を継いだ木下利次について力を入れて調べました。
木下利次については『寛政重修諸家譜』に書かれていない事柄を『備中木下家譜』より掘り出して解説をしました。この時についてはまた後日当ブログにて書きたいと思います。

開始時には小雨が降っていたのですが、途中から止み、終了時には雲がだいぶ薄くなっていました。講師含め参加者15名の巡墓会は無事に終了しました。
懇親会にも多くの方に参加して頂き、年内最後の良い締めくくりとなりました。

寒い中、ご参加頂いた皆様に心から御礼申し上げます。
金地院様にもこの場を借りて改めて御礼申し上げます。

来年の活動につきましては年明けに話し合った上で、発表いたしますが、引き続き当会へのご支援・ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

今年1年間の活動報告

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会員のカネコです。
今年も無事に1年の活動を終える事が出来ました。ご支援頂きました皆様に厚く御礼申し上げます。
今年1年の活動を振り返ります。

1月28日(水)
当会会長の釣洋一先生のお店四谷春廼舎にて新年会を行い、今年1年の活動が始まりました。
春廼舎は1月末日で多くの人に惜しまれながら閉店しました。

2月8日(日)
幹事メンバーにて春の巡墓会開催地小石川伝通院にて下見会を行い、その後、後楽園駅の居酒屋にて巡墓会の計画を立てました。

5月27日(日)
第12回巡墓会「伝通院巡墓会~「江戸」と「明治」が息づく墓地~」を開催しました。この日は晴天となり、汗ばむ陽気でしたが、無事に3時間半に及ぶ巡墓会を終える事が出来ました。



7月22日(水)
幹事メンバーにて東京駅の居酒屋にて会合を行い、春の巡墓会の反省会と今後の活動計画を立てました。
秋の巡墓会開催は困難である事から、その代わりとして、12月に懇親会をメインとしたオフ会を開催する事を決定しました。当会では初めての試みとなりました。
また、長らく更新が少なくなっていたブログの再活用を決めました。

10月4日(日)
以前より計画していた幹事メンバーによる調査会を杉並区大円寺・築地本願寺和田堀廟所にて行いました。その後、下高井戸駅前の居酒屋にて会合を行い、12月のオフ会を芝金地院にて行う事を決定しました。

10月25日(日)
幹事メンバーにてオフ会開催地である芝金地院での下見会を行い、その後、大門駅近くの居酒屋にて、オフ会の計画を立てました。

12月13日(日)
「探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-」を開催いたしました。開始時は小雨が降っていましたが、終了近くには雨は止みました。大門駅近くの居酒屋にて忘年会を兼ねた懇親会を行い、多くの方にご参加を頂きました。



私個人としては近年地方での調査が出来なかったのですが、二本松で夏、秋2回の調査、夏に富津・小田原での調査、秋に白河での調査を行う事が出来ました。その他、都内での調査も引き続き行い、様々な情報を得る事が出来ました。

当会では年明けに来年の活動予定を決め、ブログにて発表する予定です。
来年も当会へのご支援・ご指導等よろしくお願いいたします。
皆様にとって来年が良い1年になる事を祈念いたします。
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