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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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「“道灌以後”の戦国争乱 横浜・上原家文書にみる中世」展と黒田基樹先生の講演「太田道灌の子孫たち」

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会員のカネコです。
本日、13日(土)横浜市歴史博物館の企画展「“道灌以後”の戦国争乱 横浜・上原家文書にみる中世」を見てきました。



横浜市歴史博物館へは昨年の「明治150年記念企画展 戊辰の横浜 名もなき民の慶応四年」以来でしたが、神奈川県で育った私にとっては郷土の歴史にも強い関心があり、この博物館は時々訪れています。

私は普段、近世~近代のことを書くことが多いのですが、例えば江戸時代の大名・旗本の家系を辿ると中世の武士団や土豪、戦国大名の家臣などに行きつくことが多く、この辺りの知識も必須となります。
最近、たまたま岩付太田氏に関係することを調べていたこともあって、今回の企画展は見に行こうと思っていた所、13日(土)に黒田基樹先生による講演「太田道灌の子孫たち」が開催されるとこを知り、事前に申し込みをして講演を聴くことができました。

講演の前に展示を見ましたが、本当に道灌以後の岩付太田氏や江戸太田氏に関する展示がほとんどで、今まであまり取り上げられることが少なった部分であるので、大変見ごたえがありました。
文書以外にも太田氏に関連する法恩寺や静勝寺などの寺院、墓碑の写真パネルもあって、これも良い展示だなと思いました。

黒田先生の講演の冒頭で、博物館の方からの紹介がありましたが、その博物館の方が黒田先生を初めて知ったのが、20年ほど前に横浜市歴史博物館の開館準備室が設置された際に、小田原北条氏研究の大家下山治久先生が「凄い若い研究者がいる」とよく話していて、それが黒田先生だったとのことでした。
今では小田原北条氏はじめ関東の戦国史において黒田先生の名を聞かないことはないくらいですが、大先輩である下山治久先生もその才能を見出していたことに感心しました。

講演は黒田先生曰く「マニアック」な内容でした太田氏に関しては25年前に『北区史』を編纂した際に全国各地の史料を収集し、青森から長崎まで史料を探しに行ったそうです。当時はバブルの頃で、予算もそれなりついたそうで、行く先々で良い史料が出てきたそうです。
しかし、それ以降は太田氏に関する史料はほとんど増えていないとのことで、今回の講演では25年の間で思っている太田氏に関する疑問点についてを中心にお話しをされました。
特に道灌の後、2世代くらいの動向に関して不明な点が多いとのことで、確認できる文書からの推定で、道灌以降の太田家の家督がどう継承されたかについて詳しいお話しがありました。
あと、興味深かったのは江戸太田氏の資高が道灌の子資康の子ではないかも知れないということでした。資高の子康資の娘が徳川家康の側室英勝院となり、兄重正の子孫が遠州掛川藩主太田家になる訳ですが、資高が道灌の孫ではないとすると、掛川藩主太田家は道灌の直系ではなくなくるということになります。
黒田先生の研究では資高は道灌の叔父大和守資俊の系統ではなかとのことで、様々な根拠からその説を導き出していました。

私も様々な家の系図を見ますが、特に江戸期以前のものに関しては注意をして見なければなりません。黒田先生のお話にもあったのですが、発給文書などで名前が確認できれば存在が確定できますが、子孫が後世作成した系図には伝承された話に誤りがあったり、もしくは意図的に作られたものもあり、特に江戸期以前の系図を見る時には書かれていることを鵜呑みにしてはいけなものだと改めて思いました。

好きな音楽はコンサートに行って生で聴くのが良いですが、本も同じで、良い本を読んだらその著者のお話しを聴くと、著者の想いを感じることができますし、本を読んだ時とは違った側面も感じることができ、なるべく講演会などには行くべきだなと思いました。





(伊勢原市にある太田道灌の墓所(首塚) 平成24年(2012)撮影)



(北区赤羽西の稲付城跡 平成22年(2010)撮影)
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総司忌にて『探墓巡礼』の宣伝

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会員のカトケンです。

7月21日(日)、総司忌に参加。『探墓巡礼』の宣伝をさせていただいた。



あいにくお寺の都合で墓参は中止となったが、不心得者がお寺に問い合わせしたわけではなく、主催者である大出さんの説明で参加者は安堵していたように見受けられた。

小弟はというと、今年墓参できないと知り、仲間と午前中に集まって、植木屋平五郎の墓に詣でた。そのあと平五郎の玄孫で昨年亡くなった女優江波杏子さんの墓がないか探し、墓に父親の名前は刻まれていたが本人の名前は無かった。

途中、以前『歴史研究』(平成29年10月第655号)に書いた将軍徳川家慶の生母お楽の方の実家である旗本押田家の墓を巡るなどして、千駄ヶ谷の沖田総司終焉の地を訪ねた。



わずかに残る木々や新宿御苑の緑を眺めながらしばし沖田に思いを馳せたーー

昼食後、100円バスに乗って渋谷へ出てカネコ幹事の待つ講演場所に駆けつけ、二人で手分けして『探墓巡礼』刊行のチラシを配らせていただいた。

墓参がなくても例年と遜色のない参加者を得て、終始伊東成郎講師の話に笑いが絶えなかった。

いつもながら新しい資料がふんだんに紹介され、新選組ファンの満足度もさぞ高かったことだろう。

『探墓巡礼』の紹介もそこそこに手元の冊数を減らすことができた。ご購入に感謝!

最後に懇親会に出て様々な方と歓談、賑やかなうちにお開きとなった。

年内行事が残り少なくなる中、引き続き宣伝に努めていきたい。
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次郎長、鉄舟の清水港。意外なところから松岡磐吉出没

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会員のカトケンです。

平成25年に我がふるさと静岡市で行われた東軍慰霊祭の史跡ツアーで回った清水の史跡に足を運んだ。









あのときはまだ見られた宝物館がなくなって久しい鉄舟寺、時間がなくて寄られなかった梅蔭寺を訪れ、リニューアルされた次郎長生家にはパネルに次郎長の主治医植木重敏の説明があった。(=写真はパンフレット)土佐出身の医師を次郎長が清水で開院させたもの。



詳しくは『土佐史談』256号にご子孫である植木豊氏が[清水次郎長に出会った土佐の医師]を寄稿されているので、参照されたい。

船宿末廣を経てフェルケール博物館で西園寺公望と水口屋の展示を見る。企画展も伊藤博文・山県有朋・井上馨の書もあって見応えがあったが、タンカーや軍艦長門の模型にも目を見張った。

なかなか充実した清水めぐりができた。これに奮起させられ、『探墓巡礼』に次郎長の記述は1ヶ所しか書かなかったことも悔いもあり、今回の旅の復習していたところ[次郎長翁を知る会]会報で偉大な先人の研究成果を目の当たりにし、岩波新書『清水次郎長』には一説として韮山代官手代の息子松岡磐吉が函南の大場久八を甲陽鎮撫隊に送り込んだことが書かれてある。これは発見だった。

松岡が富士山艦で近藤・土方と出会ったというのだが、その裏づけは取れていない。

一見関係ないやうに見えることでも少し興味の対象を拡げてみると意外な関わりが分かることがある。

それでも、『探墓巡礼』[松岡磐吉]の項に咸臨丸沈没地である北海道木古内町のことは書いたのに、地元静岡の興津清見寺にある咸臨丸殉難碑のことは書き忘れた自分のセンスの無さに今更ながらあきれ返るばかりである。

静岡を軸に引き続き調べを続けていきたい。
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自分で売るつもりが…そして目指すは土佐

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会員のカトケンです。

今週は詩吟の大会があり、静岡の実家に里帰り。

近所のお祭りのとき売れ残った『探墓巡礼』を母がお盆(静岡市は7月の地域あり)で来た親戚に売っていた。

謹呈すれば良いのに、わざわざ支払ってくれたとぞ。これほど嬉しくありがたいことはない。

先考が没して7年。未だに兄弟姉妹が来てくださることは母の何よりの励みになっている。

小弟はというと、先々週恒例の同級生とのバーベキューを楽しんだ。去年は白河に流星忌・『探墓巡礼』の宣伝に赴いたため欠席していた。そこで渡せなかった『探墓巡礼』を同級生たちに謹呈。

大学を卒業した年『海南史学』37号の抜き刷りを同じ仲間に分けた。「明治初期における高知県の反自由民権派について」などといふタイトルでは誰もなんのことやら分かるまい。しかし、自分では世界に一つしかない研究をやった自負があったーー武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎亡き後の土佐勤王党がどうなったのかーー誰も後を追おうとしない。それがテーマだった。

今回は箱館戦争を巡る群像の墓を歩いて訪ねられるガイドブックだから渡すのも気軽だし、説明するのも前よりははるかに容易い。

それでも思いとしては龍馬没後を追ったことから、今回も吉井源馬に辿り着くことができたのだと思う。真逆、松岡磐吉女が吉井の息子茂則に嫁いでいたとはーー

源馬のルーツなどを調べに今週から土佐を訪れるーーまだまだ解明せねばならぬことは数多い。果たして、成果や如何に?



(写真=静岡からの帰りやうやくにしてたどり着けた土佐出身宰相 濱口雄幸首相の遭難プレート)

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サンライズ瀬戸に乗って土佐へ

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会員のカトケンです。

仕事が忙しく夏休みが取れるかずっと不安だったが、何とか職場を脱出。

帰宅して準備を整え、いざ東京駅へ。四国に足を運ぶ醍醐味は夜行に乗れるから。小さい頃ブルートレインが好きで東海道を走る寝台列車は数多かったことから、よく朝早く起きては写真を撮りに行った。いつかはこれに乗るんだと思っていたが、大人になったらほとんど廃止されていた。

だが、自分とゆかりのある四国行(と山陰行)はわずかに残った。だから歴史探訪もさることながら、一晩眠ると目的地に着いている喜びを味わうことができる。

夏休みに需要が高いサンライズは切符を買うのだけでも必死。今年は幸い切符の発売日が例のお祭り明けで、月曜午前中お休みして午後からの出勤となり、途中駅で発売と同時に切符を購入できた。

四国に入ると坂出で途中下車して朝食を。特急しまんとに乗ると車窓から四国三郎や徳島池田高校のグランド(いつの間にその上に大きな橋がかかっていた)を眺めて高知着。

そんなこんなで早速土佐でいつもの宿へ。荷物を置いて県立図書館と市民図書館が一緒になったオーテピアに向かう。

帰省していた土佐史談会関東支部の理事に出くわし史談会事務局へ。新任の事務局の方と初顔合わせ。交付金を直接お預かりする。これも大事な会計の仕事である。

さて、土佐の資料コピーに専念しようとしたが、件の理事と一献傾けるため早めに図書館を後に。入った店は駅横のチェーン店だったが意外にも地元の食が豊富で、それらに舌鼓を打つ。侮れない。舌も柔らかくなったところで相手に苦言を呈したつもりがすっかりごちそうになってしまった。

そんな初日で始まった土佐の夏休みは、
・高知海南史学総会に出席
・ある明治土佐人の文書解読
・何人かの土佐人の出自調査
を目的としてあっという間の滞在であった。

母校の学会である海南史学総会は、参加人数こそ学生のころより減ったものの、良き伝統と活気に溢れ、次の世代も確実に育ちつつあった。

中でも、小弟の指導教官と入れ替わりで来た先生と実に20年ぶりの再会を果たし、学会の動向や携っている調査につき示唆に富むお話をうかがった。

明治人の文書解読は、県立図書館時代からずっと続けてなかなか進まなかったが、今回1日かけて前回の復習と目録更新に専念したところ、少し骨格が見えてきた気がした。

解読のための補助資料の更新を怠っていたことを思い出し、何が必要かだいぶ見えてきた。名士と多数交流していることが更に判ってきたこともやる気を起こさせている。

何人かの出自調査は、例の吉井源馬の父がずばり出てきて利平太、治右衛門、重六と遡ることができる。だが、この家の身分となるともっと文書を読み込まなければ位置づけが難しい。

土佐の場合、士格はある程度追いかけやすいが軽格は証拠が少なかったり、親の名前も判らず尻尾すらつかめなかったりする人物もいて厄介だ。

だが、出発ぎりぎりまで調査ができたのは台風のおかげか、夏の掃苔は危険ゆえ建物に籠もったおかげか。ご協力いただいた皆様に心より感謝したい。

読みたかった『土佐史談』もある程度コピーができ、これから間隙をぬって読むのが楽しみである。













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歴史を感じ、命を学ぶ

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会員のカトケンです。土佐に滞在した夏休み、久しぶりに古文書解読を半年習った渡部淳館長(高知城歴史博物館)を訪ねる。

いつも訪ねると決まってタイミングが合わなかったが、今回はようやくお目にかかれた。

山内家宝物資料館の学芸員からたたき上げで館長になった努力の人で、大学時代に授業のあとよく飲みに連れて行ってもらった。

大河ドラマ[功名が辻]放映の年に刊行された著書『検証・山内一豊伝説』(講談社現代新書)はその慎重な実証性や博物館職員らしいビジュアルに楽しめるコラム、土佐藩政初期の主要な家臣団のコンパクトな解説が現在でも土佐藩近世研究の入口として重宝するありがたいものだ。

先生とは立ち話だったが、高知の歴史研究の現状や課題が垣間見え、ある研究者の方の消息などもお聞きし衝撃を受けたことは、進まざる土藩研究に危機感を覚えざるを得ないものがあった。

そこで託されたのが次回企画展[大名墓をめぐる世界そのすべて]のポスターとチラシ。









なんでも、仏教各宗派の音楽会が催され、寺院のみならず神社も加わるのだとか。一体どんな展開になるのか。

ともあれ、土佐藩主の病と遺言、葬礼と法要、神格化に至るまで。ここまで墓をめぐる企画展がかつてあったかどうか。

秋から冬にかけて様々な催しが計画されている。まずは9月後半の3連休、渡部先生の講演会をはじめ、墓所散策はもちろんのこと、あらゆる角度から墓に迫ったものとなっている。

高知城歴史博物館は山内家宝物資料館時代から毎度図録が充実しているし、新しく研究紀要も発行され、早速注目すべき土佐藩士の格式階級に関する論文が載っている。



研究の薄い分野について展示会で忙しいさなか論文にしている学芸員の方々には本当に頭が下がる。

渡部先生の薫陶を受けて、ますます利用価値の高い博物館になることを祈るばかりである。

県立図書館と市民図書館が合併した至近のオーテピアと併用すれば相乗効果は計り知れない。

プロもアマも史学徒なら一度は足を運んでおきたい場所である。

土佐に着いて、この[お城下文化手帳]を駅前のとさてらすで手に入れれば、市内の主要博物館の場所は素より年間スケジュールも手にとるやうに判る優れもの。



さあ、いざ土佐へ参られよ!
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わが心の田中城

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会員のカトケンです。

閑話休題。土佐から帰り、仕事に復帰して週末は職場のボウリング大会、次の週世間ではお盆のころ、静岡へ帰省した。

母方の祖母・叔父(焼津)と大叔母・母の従兄弟(大井川)の墓参に向かった。

焼津から旧150号線を行くと姉がよく言っていたピンク・レディーが出た幼稚園がまだ残っていた。

道が新しくなってからずいぶん通らなくなったが、久しぶりに150号線らしさを味わった。

大井川の手前には父が気に入っていた栃山川がある。水がきれいで来るたびに植えたクレソンの育ち具合を見ていたことなど、今となっては良き思い出である。

大叔母たちの墓参を終えて、母のお気に入り[立花ガーデン]がやっているか行ってみたが、お盆休み。母がすかさず「何処か行ってみたいところはない?」と声をかけてくれたのを渡りに舟として、田中城を指名した。

『探墓巡礼 谷中編』で取り上げた[高橋泥舟]が地方奉行として滞在していたところにまだ足を運んでいなかったからだ。

本を書いたときは、泥舟の四男村山偏通の墓がある源昌寺しか行っていなかった。いざ田中城下屋敷跡に足を運んでみると茶室(=写真)や櫓(=写真)があって歴史的景観として十分雰囲気があるし、その周りは城跡や堀が迷路のようになっていて、まるごと史跡ではないかと思わせるほどだった。





泥舟の資料が無いか櫓にも登ったがボランティアの方の説明がなかなか終わらず、パネルにすべて目を通すことができなかった。

それでも人の居ない受付にあった資料をもらい、あとで母と行った蓮華寺池公園のスターバクスで読んでみると興味深い田中城にさらに目を見張った(=写真)。



小弟はやはり城郭などの無い城跡が好きなのだ。生活の中に史跡があるーーそんなところに惹かれてしまう。

また父方の先祖が仕えていた土岐氏が田中城主だった折りの痕跡が何か無いか捜したところ、正定寺の「願いの松」は土岐の殿様が大坂城代に出世したことを記念して植えたものという(=写真)。



そんな探索を終え、改めて母方の先祖が田中城に刀を持って行ったとの言い伝えを母が口にして、父母両方の先祖に近づけた気がした。

母方は神官とぞいふ。まだまだ調べることは数多い。



(写真=田中城下屋敷跡の櫓からの風景)
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家系研究協議会関東地区例会に出席しました

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会員のカネコです。
8月3日(土)に家系研究協議会関東地区例会に出席しました。
家系研究協議会には数年前から所属しており、関東例会には平成25年(2013)、平成26年(2014)、平成27年(2015)の会に出席していましたが、今回は久々の出席となりました。

今回の講演は山梨県甲州市塩山の塩山市民病院の医師で、荒木村重一族のご子孫である荒木幹雄先生による「甲斐武田家臣板垣氏の子孫が所持していた織田信長朱印状について」でした。
演題からみて戦国時代の話かと思っていたのですが、戦国にはじまり江戸時代~近現代に至る塩山の名家の話で、私的には「えっ、こんな人も」というような人物も出てくる大変興味深い内容でした。

塩山にある於曽屋敷は中世にこの地の豪族であった於曽氏の居館でその後、板垣氏の居館であり、その後板垣氏を継承した廣瀬氏の屋敷として続き、現在も廣瀬氏の子孫がお住まいで、屋敷の右半分が公園として公開されています。荒木先生がこの於曽屋敷に保管されていた織田信長の禁制を発見したことからこの講演の話は始まり、廣瀬氏を中心とした一族・姻族を調査した内容が発表されました。

詳しい内容はネタバレになるので、控えますが、幕末維新ではやはり甲斐板垣氏といえば板垣退助となりますが、その他に新選組隊士と言われている結城無二三(新選組隊士であることは同時代の資料では確認できず)、浪士組の依田熊弥太道長、内藤矢三郎、黒駒勝蔵と親交があった武藤外記、琵琶湖疎水を作った田辺朔郎、近現代では小林一三、網野善彦、中沢新一といった人物が繋がっており、それぞれの関係性がよく分かり大変楽しめる内容でした。

荒木先生が丹念に地元の文献を調査し、関係者に取材した成果に心から敬意を表したいと思います。

例会には私がかねてから尊敬している家紋研究家の高澤等先生もお越しになっており、興味深いお話しを聞かせて頂きました。また、会長の宝賀寿男先生には以前もご著書にサインを頂きましたが今回も古代氏族の研究⑬『天皇氏族―天孫族の来た道』にサインを頂き、数点質問をさせて頂きました。また、事務局の馬原様には以前の会報で『探墓巡礼』を取り上げて頂き、推薦のお言葉も載せて頂いたので御礼を申し上げました。

この会は講演はいつも大変勉強になります。来年も楽しみにしています。家系研究協議会の今後ますますの発展を祈念いたします。
いずれ会誌『家系研究』に寄稿したと思っています。



(以下は昨年5月に塩山へ行った際に撮影したもの)



向嶽寺



恵林寺



武田信虎の墓





大小切騒動殉難の碑と案内板



秋山光朝の墓
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神奈川県立歴史博物館「北からの開国 ―海がまもり、海がつないだ日本―」を見てきました

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会員のカネコです。
昨日24日(土)に神奈川県立歴史博物館で開催中の「北からの開国 ―海がまもり、海がつないだ日本―」を見てきました。





開国というとペリー来航を思い浮かべますが、それよりも早くからロシアは開国通商を求めており、幕府はロシア南下への危機感を持っていました。
今回の展示は幕府ロシアへの対応、研究、防衛策といった幕末の日露関係の流れがよく分かる非常に興味深い内容となっていました。

展示品は福山藩阿部家、彦根藩井伊家、古河藩土井家、白河藩松平家、松代藩真田家といった当時にロシア問題に関わった幕閣の家に伝わる史料などを始め、林子平や会沢正志斎といった学者による海防論の書、間宮林蔵など蝦夷探検家による調査記録などがあり、図録(1,000円)もよくまっとまっていたので、購入しました。

私は大学の卒論で会沢正志斎の『新論』について書いていたので、今回の展示に会沢の自筆稿本があったので、しばし見入りました。
後期水戸学は戦前と戦後でガラリと評価が変わりましたが、その両極端な評価から一度離れ、フラットな視線で見たいと思っていたのですが、卒論を書いていた時期は小泉内閣の発足や9.11などが起こった時期でもあり、なんとなくその時代の空気の影響も受けながら書いた思い出があります。
その後、特に後期水戸学について深く研究していませんが、やはり常に心のどこかに引っかかるものがあります。

日露関係では平成29年(2017)に開催した第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」で私は松平定信と間宮林蔵を担当したため、この時にいろいろと調べたものです。

間宮林蔵の出身地つくばみらい市上平柳にも行きました。

間宮林蔵の故郷を行く

また、その前後には関連事項として初代蝦夷奉行羽太安芸守正養などの記事も書きました。

初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓

この流れもあり、昨年刊行した『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』では日露交渉に関係した人物も取り上げました。ロシア対策からの蝦夷地開拓は箱館戦争の背景にも関わりますので、一つの「裏テーマ」として日露関係も念頭に置いて執筆にあたりました。

現在も日露間には北方領土などの難しい問題を抱えていますが、強大な力を持った隣国とどのように付き合っていくか、先人たちの苦労に学ぶ所も大きいのではないかと思います。



(水戸市本法寺の会沢正志斎の墓 平成28年(2016)撮影))
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第9回平島松尾顕彰会「柳渓忌」に出席しました

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会員のカネコです。
8月11日(日)に二本松市市民交流センターにて開催された「第9回平島松尾顕彰会「柳渓忌」」に出席してきました。



平島松尾といっても地元二本松の人の間でもあまり知られていませんが、二本松少年隊の生き残りで、維新後は自由民権運動に身を投じ、福島事件で国事犯として逮捕され、出獄後は衆議院議員に数度当選し、現在に続く福島民友・福島民報の創刊にも関わっています。

平島家の親族を中心にして顕彰会が組織され、毎年4月に総会と8月13日の松尾命日近くに「柳渓忌」が開催されています。

私は一昨年に、東京二本松会幹事で平島松尾の弟の孫にあたる藤井様のお誘いで入会し、その年の「柳渓忌」に出席しました。

「柳渓忌」は親族・来賓による献花、平島家ご子孫の平島フク様により献詠などが行われました。
「柳渓忌」の後、例年は講話があるのですが、今年は講話は短めにして出席者による懇談会が行われました。
講話は会長の小島喜一先生による「各地の自由民権研究・顕彰運動の現在」と題して福島県を中心に各地の自由民権運動に関する研究団体や顕彰活動の状況についてお話しがありました。
「三春地方自由民権運動血縁の会」は福島県の自由民権運動の本拠地にも関わらず、ご子孫の高齢化などによりここ数年は活動休止状態になっているとのことでした。
その反面、石川町では「石陽社顕彰会」「石陽史学会」などにより活動が活発に行われているとこのとで、早稲田大学名誉教授で自由民権運動の研究家である安在邦夫氏寄贈の安在邦夫文庫の整理などが行われており、今後の活躍が期待できます。
その他、「福島自由民権大学」「喜多方歴史研究協議会」「全国自由民権研究顕彰連絡協議会」など各活動が紹介されました。
何でも「全国自由民権研究顕彰連絡協議会」は昨年結成され、事務局が我が母校大正大学に置かれているということで、誇らしい思いをいたしました。

懇談会では毎回平島家のご縁者が出席しているにも関わらず、今までご紹介が少なかったとのことで、今回は平島家の系図が配布され、ご子孫・縁者の方々のご挨拶や伝わっているお話しなどがありました。
平島家の姻族を辿ると榊山潤の『歴史―二本松藩士の維新』の主人公片倉新一郎のモデルとなった佐倉強哉、筑紫広門の子孫林家、二本松少年隊士武谷剛介、信州の教育に大きな足跡を遺した浅岡一、報国六烈士の脇光三を始め、沢井家・大谷家・寺田家といった二本松藩史に名を残す家々があり、大変興味深いものがあります。

懇談会ではその他の出席者からも挨拶があり、不肖私も少しお話しさせて頂きました。
たまたま隣になった方が、ブログ「年寄りの漬物歴史散歩 東京つけもの史」を運営している方で、何でも福神漬の歴史を調べているうちに二本松関係者に行き着いたとのことで、情報を求め今回ご出席されたとのことでした。
その方から平島松尾の同志である花香恭次郎のお話しも出たのですが、これも偶然で、私が数年前からご縁があった方が現在千葉県旭市大原幽学記念館で開催されている「あさひ 羽ばたいた人々」で平島松尾の同志である花香恭次郎を取り上げるように働きかけをしており、この日はその案内チラシも持って来ていたのでお渡ししました。

あさひ 羽ばたいた人々

自分が調べたことや関わっていたことがいろいろリンクしてくるのは大変面白いことです。

懇談会では、平島松尾顕彰会を細く長く続けるにはどうすれば良いかという話もあり、平島松尾自体の知名度がまだまだ低く、安達ケ原ふるさと村にある「先人館」でも取り上げられていないことや、少年隊士であったこともあまり知られていない現状なども話題に上がりました。
私からは少年隊の顕彰は戦死者がメインで、生き残りの隊士のその後についてあまり知られていないので、その辺の話が認知されるよう活動をしたいとお話ししました。

郷土の名士の顕彰活動は地道なもので、中には運営者の高齢化等で継続が困難になることがあります。
小島会長も仰っていたように「細く長く」でも継続することが大切だと思います。平島松尾顕彰会がこれからも続いていくよう私も微力ながらお役に立ちたいと思っています。

さて、「柳渓忌」の前後は、恒例二本松の寺院巡りをしてきました。
二本松の掃苔本としては平島松尾の弟平島郡三郎が書いた『二本松寺院物語』があり、私にとってはバイブル的存在で、いつもその本を基に墓探しをしています。
今回もレンタサイクルで心安寺墓地、蓮華寺、台運寺、正慶寺、長泉寺、顕法寺、香泉寺、大隣寺、松岡寺を巡りました。

『二本松寺院物語』は昭和初期に書かれたものなので、墓地の状況はだいぶ異なっており、記載されているお墓が無いことも多々あります。
今回は無縁集石となっている墓碑からいくつかの戊辰戦争殉難者の墓碑を確認しました。
一度みたお墓でも来た時には再度確認をするようにしています。
二本松の寺院は山裾にあることが多く、特に藩士の墓は山の中や斜面にあり、夏ともなると夏草が生い茂り、中には密林状態の場所もありますが、午前中の短時間、一心不乱に墓碑の撮影をしました。
途中、霞ヶ城前で行われている幕末の家老丹羽図書の屋敷跡発掘現場なども見てきました。
日帰りでしたが、今年も二本松で濃密な時間を過ごすことができました。



台運寺 平島松尾の墓



正慶寺 義人加茂石松の墓



正慶寺 彦根藩士小倉健輔の墓



丹羽図書屋敷跡



大隣寺 戦死群霊塔



大隣寺 小此木間雅の碑



大隣寺 武谷嘯雲の碑
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島田篁邨と服部宇之吉

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会員のカネコです。
昨日、埼玉方面に所用があり、帰りに日暮里を通るので、ふと思い立ち夕方の小1時間谷中霊園を歩きました。
最近は「士族」と刻まれている墓碑など、気になった墓碑はなるべく撮影しておくようにしています。
また、以前撮影した墓碑でも天候や時間によって写り方が変わるので、気になった墓碑は何度でも撮影するようにしています。これは釣洋一先生の教えによるものです。

さて、先日22日に釣先生が主催している「新選組勉強会」へ行き、旧唐津藩士で箱館新選組の栗原仙之助のご子孫佐野昭義様によるお話をお聞きしました。唐津藩出身の著名人や他の箱館新選組とも姻戚関係になっており、大変興味深い内容でした。
その中で、大野右仲とも姻戚関係になっており、釣先生作成のレジュメには天王寺墓地の大野家の墓碑と、大野右仲の妹澄子が嫁いだ島田篁邨夫妻の墓碑の写真が載せられていました。
この大野家・島田家のお墓については当会が以前開催した谷中霊園巡墓会においても釣先生が解説をしています。

島田篁邨については「篁村」と表記するものが多くみられますが、釣先生も指摘していることですが、墓碑には「篁邨」と刻まれていますので、この記事中では「篁邨」で表記を統一をします。



そのような経緯があったので、久しぶりに両家のお墓へも行ってきました。
島田家の墓域に入ってすぐ篁村の長男釣一の碑が眼に入ったので読んでみると、そこには「帝國學士院會員正三位勲一等文學博士服部宇之吉撰」とありました。



服部宇之吉は二本松藩出身の漢学者で、ちょうど今年、『歴史研究』に連載している「掃苔行脚」で取り上げ、ブログでも取り上げていました。

昭和天皇漢学の師、服部宇之吉の墓

なるほど漢学者仲間か、と思って次に篁邨の巨大な碑を読むと子女の記述の中に「女(略)適服部宇之吉」とあったのです。



ここに来て、やっと繋がったのですが、『大衆人事録 昭和3年版』には宇之吉の妻繁子の欄に「文學博士島田重禮長女」とあり、重禮が篁邨の諱であることにいまさらながら気づいた訳です。これは迂闊でした。
つまり、繁子は大野右仲の姪にもあたります。

繁子夫人はブログでも書きましたが、『斯文 21巻9号』所載「服部隨軒先生追悼録」で「我良人の生立の記」と題して宇之吉の生い立ちを詳しく書いており、その中には赤子であった宇之吉が戊辰戦争で一命を取り留めた話なども書かれていて、大変貴重な証言となっています。

また、碑文には島田家の先祖についての記述があり、足利義晴に仕えた島田若狭守重國を祖とし、武蔵大崎に帰農し邑正(名主)となったことが書かれています。
大崎の名主島田家で思い出したのが、品川に引っ越した頃に区内のお寺を自転車で巡った時に見たお墓のことで、撮影画像を確認すると、東五反田寳塔寺に正に「元祖島田若狭重國先孫代々之各霊」と刻まれており、篁邨の先祖の墓も既に見ていたことに気付きました。

さらに碑文には安積艮斎に学んだことが書かれており、安積艮斎と言えば二本松藩領であった郡山の安積国造神社の出身で、江戸に出て私塾を開いた後、二本松藩校敬学館教授を経て昌平黌教授となった人物です。
実家の安藤家の本家は安積国造神社の神職家で、分家は二本松神社の神職家となり、NHK朝ドラ『まんぷく』の主人公今井福子のモデルである安藤仁子の父は二本松神社の安藤家の出身です。

安積艮斎には門人が数多く、当ブログでも以前、『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』で取り上げた人物で艮斎の門人が数多くいることを書きました。

『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』調査余滴-安積艮斎門下生の墓-

篁邨が娘の夫となる服部宇之吉と初めて会って出身地を聞いた時に、「おぉ、艮斎先生のお国か」と言ったかも知れないと想像するとなんだか和みました。

不思議なもので、今まで調べていたことで、点と点だったものが、昨日島田家のお墓をよく見たことで、一瞬にして繋がりました。

このようなことがあるのが墓碑調査の醍醐味ではないかと思います。
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大鳥圭介のふるさとと青山霊園散策

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会員のカトケンです。

夏休みに乗ったサンライズ瀬戸で内陸側の座席だったのに、明け方に太陽が右に見えたときがあった。これは線路が北上してるなと思った。

しばらくして通り過ぎる駅名をみると[上郡]という名前だった。箱館政府の陸軍奉行大鳥圭介の出身地である。

赤穂出身だから赤穂線沿いかと思ったが、山陽本線沿いに駅があるとは思わなかったし、もう岡山かとも思っていたがまだ兵庫だったわけだ。

だが、大鳥の故郷はこの上郡駅から智頭急行に乗り換える。しかも生家跡に近年設けられた記念館[いきいきふるさと交流館]に行くには、それだけにとどまらず同急行苔縄駅で降りて徒歩1時間というから気が遠くなってしまう。

これは去る6月史誠会様のお招きで青山霊園を案内したときに調べて分かったことだ。それまでサンライズに乗ってもそういう意識を持ったことが無かったから、今回寄り道はできなかったが、機会があれば訪れてみたいものだ。(同館は第1,3日曜しか開館していないので訪れる際は要注意。)

また、上郡町役場には銅像もあるようでこちらは上郡駅から行ける距離のやうで、大鳥ファンにはまた格別な場所であらう。

5月には圭介祭りもあるというから微笑ましい。

いきいき交流ふるさと館

そんな大鳥の墓は青山霊園一種イ1号3側にある。広い通りに面して簡易な囲いがぐるりとあり、入口に扉のある一風変わったものだ。

中央奥が大鳥以降の累代墓。右側に次男次郎の墓、左側に妻道子の墓(=写真。右後方に大鳥圭介墓)。



殊に夫人の墓の裏面には大鳥自ら撰文を書いていて、先立った妻への気持ちが伝わってくる。そんなお話を6月のときにさせてもらった。

史誠会催行での青山霊園巡墓会

もし『探墓巡礼 青山編』を作るとしたらとの思いで、出張帰りに散策するのが今は楽しみである。
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みやこにてお話し申し上げ候①

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会員のカトケンです。

3連休の中日となる15日、京都にて[『探墓巡礼ー谷中編』の刊行意義と京都にもあるゆかりの場所]と題して講演をさせていただいた。

歴史が好きになった記念の街でお話できるのは大変光栄で、レジュメを作りながらついあれもこれもと欲張って取り上げようとして、案の定時間が足りなくなってしまった。

14日に下見を兼ねて蹴上疏水公園の田辺朔郎の銅像(=写真)、大日山墓地の田辺朔郎夫妻の墓を見てきた。



場所はインクラインを登りきったところにかかる大神宮橋を渡って坂を登り、日向大神宮の方ではなく、安養寺の壁際の道を登っていくと墓地に着く。

登ってきた道が墓地でも階段になっていて、それをまっすぐ登っていき、右側の生け垣を横目に突き当たりまで上がりきり、左側を奥へ奥へ行くとドンづまりの少し手前に田辺夫妻の墓があった(=写真)。



妻は琵琶湖疏水設計のため田辺朔郎を抜擢した京都府知事北垣国道の長女静子。事前に見た青山霊園の田辺家墓誌にもそのことが書かれてあった。

なぜ田辺ゆかりの地を回ったかというと、『探墓巡礼ー谷中編』に載せた唯一京都にある墓が箱館政府松前奉行人見勝太郎のもので、その母の墓の撰文が田辺太一だからである。ちなみに父の墓のそれは谷中に墓のある中村正直(=写真は長遠寺人見家墓所)。



かつてこのブログでも紹介した人見家墓所の両親の墓を間違って[入って左側]と書いたが[右側]に訂正しようとずっと機会を伺っていたこともある。

3月13、14日 京都市③ 長遠寺、妙恵会総墓所

ともあれ、太一の『幕末外交談』をネタに近代化京都の水を整備した甥朔郎にも触れてみたのだが、ちょうど復活した琵琶湖疏水船の宣伝や九条山ポンプ場のパネル展示が充実していて時宜を得た訪問となった(=写真は疏水船のパンフレット)。



太一の娘花圃は三宅雪嶺に嫁ぎ、樋口一葉もその文章に嫉妬したという女流作家なのだそうで、青山霊園の太一と同じ一角に雪嶺・花圃の墓があることもお話しした。

1種ロ8号16〜17側で太一は少し奥に入ったところ、花圃は通り沿いにある(=写真は太一らの墓)。家紋は丸に桔梗。



14日はもう1箇所、瑞泉寺に今年建てられた岩瀬忠震・橋本左内の碑を見てきた。池田屋のすぐ近く、三条小橋の手前だった(=写真。木屋町通り三条下ル)。



翌日の講演で京都町奉行を務めた永井尚志に触れ、岩瀬の戒名[爽快]の話やこの新しい石碑も紹介させてもらった。幕末の新しい史跡として記憶にとどめておきたい。
ーつづくー
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みやこにてお話し申し上げ候②

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会員のカトケンです。

京都滞在2日目の15日。この日午後から講演会だったため、午前中に長遠寺と妙泉寺を回った。

場所はそれぞれ千本出水と大宮三条。実は今回の講演は、3月の山南忌に来られる方で[山南会]会員限定の催しであった。著書の横顔に毎年山南忌に参加していると書いておきながら、今年腰痛ですっぽかしてしまったことから、なんとか穴埋めしたいとの思いで引き受けることにしたものだ。

講演は壬生の旧前川邸近くで行われるため、壬生に出やすい場所を当日に選んだのだった。

人見の墓へ行ったのは、『探墓巡礼ー谷中編』の項目に[雲井龍雄]があることが大きい。谷中にある雲井の墓の撰文を人見が書いているため、箱館戦争関係として項目立てしたことをお話しした。

懇親会で聞き手の中に雲井と同じ米沢藩の宮島誠一郎の姻族の方がいたと伺って大いに盛り上がった。

それともう1箇所、大宮三条の妙泉寺に去年ブログで書いた永持亨次郎の墓を訪れた。これもまた恥の上塗りになるが、昨年ブログに[京都での流星忌の宣伝①]と題して永持のことを書いたまま、今の今まで②を書かず仕舞いにしていたことである。

あの後、京都で何を書こうとしていたのか今となっては思い出せないが、今回の講演で永持とその実兄柴田剛中に触れた。

永持は長崎海軍伝習所で勝海舟と矢田堀景蔵とともに艦長要員の修行中、卒業を待たず栄転。前後に日露交渉を抱えていて、長崎にとどまって『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[平山省斎]とともに取り組んでいたようだ。[徳川慶喜]が禁裏御守衛総督のとき目付介として京都に来たとき病没。

流星忌の宣伝に京都へ。山南忌で説明①

講演では、永持の墓が壬生から近いところにあることと(=写真)、その実兄柴田剛中が竹内保徳遣欧使節員として手記を残し、欧州滞在中の様子を紹介した。





一行は食事が合わなかったようで、生魚に持ってきた醤油をかけて、ようやくそれらしい食事にありつけたとなかなか苦労が伝わってきて面白い。

その中で[ボートルを塗って]という表現が出てきて、[ビネガー]かドレッシングか何かをかけたのではと話したところ、後で[バター]ではないかとご指摘を受けた。この辺り、いま一度じっくり追求してみたい。

柴田は一行が夜遊びなどしないように自らガキ大将となって外での鑑賞や飲んだあとの喫茶、腕相撲などに興じたようで、名上司ぶりを発揮した人物だった。

拙共著『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[福地源一郎]や[福田重固]など同行者の様子がこれで少し分かるだらう。柴田の墓のことは、インターネットで調べると面白いことが分かるかもしれない。

やはり項目立てした[徳川慶喜]命名の尊攘苑にある原市之進の墓(長楽寺)やかつて書いた『歴史研究』2015年4月第630号[日本に鉄道を敷いた男 佐藤政養の墓]のコピーをお渡しし、佐藤政養の建てた京都の墓も紹介(以前書いたブログを参照)。

3月13日 京都市① 源義経を支えた佐藤継信・忠信兄弟の墓

この場所について、東大路渋谷通東入ルを[シブヤ通り]と発言したところ、[シブタニ通り]との訂正が入った。

長年京都で歴史案内をされている旧知の方から何よりのご指摘をたまわった。後で聞いたら毎年うるさ型の出席者が多いそうで、その程度で済んで良かったと冷や汗ものであった。

最後に『探墓巡礼ー谷中編』で壬生に関わりがあるのは浪士組で山岡鉄舟が新徳寺に来たとの話で締めくくった。

同書には清河八郎の故郷に行くと[高橋泥舟]・[山岡鉄舟]義兄弟の書が清河家の墓や石碑に刻まれていることを書いたことも紹介した。

作った本で意外にも京都の様々な場所に触れることができたが、講演後京都に幕臣の墓がまだあるかとの話題などでしばし歓談し、盛り上がった。

行ったことはないが、幕府方なら会津の山本覚馬を入れても良いかもしれない。大河『八重の桜』のころは行けたが、今は荒れてしまって行けないのではないかなどという話に。

さて、まだまだ教えていただくことが多く、参加者の方々には最後までお聞きくださり感謝申し上げたい。

お招きくださった旧前川邸の田野様には懇親会後までお付き合いいただき、地元の方とも触れ合えて何よりの京都滞在となった。

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みやこにてお話し申し上げ候③

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会員のカトケンです。

京都滞在3日目、前日の講演で触れながらしばらく訪ねていない場所に行こうかと思ったが、ゆっくり睡眠を取ることができたので、寺町通の進々堂で朝食を食べて、神宮丸太町から出町柳に出た。

百万遍知恩寺に高知城築城の奉行百々越前安行の墓があるとの情報を得たからである。

残念ながら墓を見つけることはできず、京大キャンパスの周辺の学生相手に店を出してそうなハンバーグの店で昼食。手作りの味に励まされ、京都の学生気分を少し味わったところで気を取り直して午後も散策を続けることに。おまけに出町柳駅のロッカーに荷物を預けてきたままだから、そのまま徒歩で近くの墓を巡ることに決した。

それは1日目に琵琶湖疏水創設に関連してホテル近くの京都府知事北垣国道像(=写真)へ行った手前、墓に行かなきゃならんとの思いに駆られ、金戒光明寺の墓まで足を運ぶことにした。



金戒光明寺といえば、途中土佐関連で真如堂の墓地に石田英吉の墓にまだ行ってなかったし、京大キャンパスの脇を通ったら尊攘堂が見えた(=写真)ので寄ってみた。



気になっていたのは北垣の裏に新選組命名を武家伝奏として伝えた飛鳥井雅典の墓があるはずで、もう一人の野宮定功の墓はちょうど神宮丸太町と出町柳の間にあるけれど今回は諦め、飛鳥井に絞ることにした(=写真)。



だが、行ってみるとこのフェンスの背景は、以前釣洋一先生が教えてくださった井汲恭平(谷川辰吉。土佐浪士らによる大坂焼討ちの陰謀を阻止)の墓があるなとピンと来たら案の定であった(=写真)。



京大正門から吉田神社の手前をコの字形を描くように山の方へ登っていき、真如堂を入って右手の塔頭寺院を通り、墓地に出ると小さな生け垣に囲まれた、周囲より背の高い石田英吉の墓があった(=写真)。



高知県の東部に位置する安芸郡安田町の出身で坂本龍馬の義兄高松順蔵の弟子、幕末は伊吹周吉を名乗る。

各県知事を歴任し、明治26年高知県知事を務めたとき、土佐藩士たちの維新での活躍を調査させ貴重な資料を残した。

ここには英吉はじめ、妻高島氏、娘と思われる菊枝、関係不明の半田絹、養子八弥夫妻および現代墓の計6基がある。

そこから再び真如堂の山門を出て、金戒光明寺の北門へ。北垣国道の墓が何処にあるか分からないので、墓域をずんずん進んでいくと、一番奥のエリアの中心に囲いがあり、5基の北垣国道関係墓があった。向かって左から国重恒升(関係不明)、北垣国道夫妻、母、現代墓2基が横一列に並んでいる(=写真)。



その後方に飛鳥井家之墓があり、点在する栄摂院墓地の移転に伴い雅典や他の墓地に祀られし人々を新たにまとめたものである(=写真)。北垣の墓を下に降りてきたところ、井汲恭平(谷川辰吉)墓の並びにも同じ解説の飛鳥井家之墓がある。



谷川は言わずと知れた土佐国佐川脱藩の浜田辰弥・那須盛馬らによる大坂焼き討ちの企てを未然に通報し新選組谷万太郎らが石蔵屋に斬り込み、大利鼎吉を討ち取ったときの功労者である。

その場所は「新選組の石蔵屋襲撃事件の跡」の釣洋一撰文、平成24年に設置された銀のプレートが掲げられている(大阪府大阪市中央区瓦屋町1-11松屋町筋)。

目的の墓は一通り巡ることができたので安心していると、旧前川邸から連絡があり、金戒光明寺にいるなら新しくできた容保公銅像の一瞥を勧められたのだが、出町柳まで歩く体力を考慮して御遠慮申し上げ引き上げる途中、北門から出て石田英吉墓のある墓域に接する道を登ったら難なく辿り着けた(=写真)。



会津殉難者たちを見守る勇姿がここにあった。

ーおしまいー
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中村正直宅跡

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会員のカトケンです。静岡に帰ったついでにグーグルマップで気になる史跡があったので訪ねてみた。

幕府倒壊により英国留学の切り上げを余儀なくされた中村正直(敬宇)が『西国立志編』を訳した場所である。

富春院というお寺の入口に「尚志」の石碑の存在や山門に掲げられた扁額が中村の書というのは知っていたが、まさか石碑があるとは思わなんだ(=写真)







果たして高校の社会科の先生が教えてくれた石碑はどちらが正しかったのだらうか。
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森重氏講演の告知

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会員のクロサカです。
今回の記事は知人の講演の告知となります。

来る11月2日(土)に僕の職場がある取手市で森重和雄氏による講演会が行われます。
場所は取手宿本陣となっております。
普段は毎週金・土・日が本陣の公開日となっていますが、今回はこれに加えて近くにある長禅寺のさざえ堂の内部も公開されます。
さざえ堂は珍しい螺旋形式のお堂となっていますので合わせていらしてください。
以下詳細となります。ちなみに市民以外も参加可能です。

歴史講演会
人見寧は函館五稜郭に立てこもり、後に茨城県令となった人物です。
市内下高井出身の広瀬誠一郎とともに、利根運河を開削しました。
日時11月2日(土)13時30分~15時
会場旧取手宿本陣染野家住宅(座敷での講座となります)
演題人見家秘蔵写真について~遊撃隊・人見勝太郎(寧)が所蔵していた写真~
講師森重和雄氏(古写真研究家)
定員先着40人


旧取手宿本陣染野家住宅主屋

旧取手宿本陣染野家住宅表門

徳川斉昭歌碑

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今年の東軍慰霊祭に出席できず

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会員のカトケンです。

10月第2週の3連休は、予定していた東軍慰霊祭に参加できませんでした。それというのも台風による鉄道の計画運休を踏まえ、前日のうちに最寄駅で払い戻しをしておりました。

各地で大きな災害となり、心よりお見舞い申し上げます。
今年は会津若松での開催でしたが、行き来の途中で罹災したり、交通機関が寸断されたりした場合、仕事に差し支えるので諦めたのです。

週明けに大きな行事で大事な役割を割り当てられていたからです。ぶら下がるならともかく、指示を出さなきゃいけない立場でしたので、休むわけにはいきません。

慰霊祭に行った方の話では大変盛況だったようで、東軍戦士たちには何よりの供養になったことと思います。

以前、友人を巻き込んで今回の会場となった天寧寺に付き合わせてしまい、近藤勇の墓までは行ってくれましたが、会津藩家老田中土佐の墓までは行ってもらえませんでした。一度は行ってみたいものです。でも、近藤の墓には青々とした紫陽花が咲いて絵になる写真が撮れました(=写真)。



会津はその時以来5年足を運んでいません。如来堂や母成峠など個人ではなかなか行けないところに2日目のツアーの行程で予定されていて、なおさら惜しかったなと思っています。

会津に足を運ぶ前に牧野登著『会津人の書けなかった会津戦争』(歴史春秋社)を読みました。西郷頼母家の血が流れる井深家から誤診による入院をきっかけに看護師としてハンセン病患者の世話を生涯にわたり続けた井深八重という人物の存在を知りました。静岡にお墓があるようなのでいつか訪ねてみたいと思います。(写真=その父井深彦三郎墓。青山霊園1種ロ23号9側南向き)



会津城下の西郷邸で頼母の娘の最期を看取ったのが土佐の中島信行かどうかを探る文章にも目を見張るものがありました。会津の本にまさか平尾道雄先生の名前が出てくるとは思いもよりませんでした。

発刊からすでに20年以上経過した古い本ですが、自分が本や催しで取り上げた会津の人物について、現地へ行って更に掘り下げる作業をこれから行うに当たって、光を与えてくれた気がしました。

明治150年をきっかけに様々な催しが開かれ、参加もし、本の出版や催しを行う側も経験したことにより、1つの軸、土台ができたのではないかと思っています。

今年イベントが開けなかったのは忸怩たる気持ちがありますが、様々な機会を通じてお話させていただく回数が増え、そのために本を読み込んだり、情報収集のためできるだけ効率的にたくさんの場所を訪ねたりする必要性を痛感しました。

そうして得られた生の情報が嬉しく、どれだけ励まされたことか。ですが、裏づけのためにはまだ調べが足りません。

その成果を活かせるか分かりませんが、森重さんの講演が終わったら行うつもりの告知(11月末に土佐モノの講演をします)をお見逃しなく。
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11/30土佐史談会関東支部にて講演

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会員のカトケンです。

来たる11月30日㈯2時から新橋の浪漫亭にてお話しさせていただきます。

今回は黒坂さんとかぶりますが「青山霊園に眠る近代土佐人群像」と題してまずはこんな人物が眠っていることを紹介します。

今日は錦糸町で毎年開かれる関東高知県大懇親会にてチラシを配らせていただきました(=写真)。



後藤象二郎と大江卓の向かいに板垣退助の娘軍子の墓、その横には西山志澄実弟 山本幸彦の墓があります。

また軍子のつながりから、沢辺琢磨・山地土佐太郎に話が及びます。

さらに佐川に養子に行った那須盛馬こと片岡利和の撤去危機の墓にも触れ、その甥の土木学者廣井勇の話もさせていただきます。

片岡とともに陸援隊に属した中島信行の甥でやはり土木学者の白石直治にも触れられればと思います。

加えて軍人も取り上げたく、甲申事変殉難者である磯林真三を取り上げるか、姫路城・名古屋城を存続させた中村重遠にするか迷っているところです。

ともあれ、高知県人向きのお話が盛りだくさん。お時間ある方はぜひお越しください!
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11/30案内②「わしゃ、土佐の野村でえい」

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会員のカトケンです。肝心なことを書き忘れていました。前回は自分の宣伝ばかり書いてしまい、お恥ずかしい限りでした。

今回の土佐史談会関東支部例会は会員は無料、非会員は参加費が1,000円かかります(当日申し受け)。

また、小弟は1人目の演者に過ぎず、2人目は高知から今井章博本部副会長がお見えになり、野村茂久馬のお話をしてくださいます。

野村は高知県東部の奈半利村出身、四国の交通王と言われた実業家で、フォードの日本代理店を依頼されながら断った人。土佐で育った唯一の総理大臣濱口雄幸とは同級生、濱口に「東京へ乗り出さんか」と言われてもやはり「わしゃ、土佐の野村でえい」と故郷を離れなかった。

そんな野村の生誕150年の催しが奈半利の旧野村邸で開かれています。

土佐の交通王、野村茂久馬の生涯の軌跡をたどってみませんか

野村といえば高知城丸の内緑地の銅像の印象が強いですが、上記企画展の写真を見ると像からは想像できない矍鑠(かくしゃく)たる老人にして好々爺、土佐史談会関東支部の鍋島高明支部長がまとめた『高知経済人列伝』(=写真。高知新聞社、平成28年刊)にも野村の記述があり、自身の講演に向けて青山に眠る土佐実業家とともにこの本にてチェックしているところです。



7月の北代・谷村両先生(いずれも関東支部役員)による『漂巽紀畧』(ジョン万を事情聴取した河田小龍が記す)の解説もそうでしたが、第一線の研究を進める先輩方を前に身が引き締まる思いがしています。

京都で欲張って話そうとしたことも時間の制約を考えて話すことを絞っていきたいと思います。
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