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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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東京都文化財ウィークにて再び本田家へ et 講演告知③

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会員のカトケンです。
今月はじめに東京都文化財ウィークで限定公開の催しに足を運んだ。

昨年は明治維新150年の催しが多くどれも行きたいものばかりだったが、今年は一服の観がある。

それでも、一昨年行った国立市の本田家へ。正式に国立市に寄贈され、修復して全面公開する準備の真っ只中。しばらく見られなくなる絶妙な時に訪れることができた(=写真)。





土方歳三の親戚であることはもとより、市河米庵などの名士との交流があった家であり、パンフレットが新調され、ご当主のインタビューが冊子になっていて国立市の今後の調査が期待される。

2ヶ所目は多摩市聖蹟桜ヶ丘にあった富沢家(=写真)、現在多摩センターのパルテノン多摩に隣接する多摩中央公園で常時公開されている。ちょうど新選組関連の展示がされていて、近藤らの手紙の写しや勇のドクロの稽古着などを見ることができた。



いずれも新選組を後援していた有力者だが、なかなかこのような後ろ盾になっていた人たちのことが分かってこない。

例えば、近藤周斎が亡くなったときに香典を出した人たちのうち、素性が分かる人はごく僅か。多摩にいても雲を摑むようでなかなか尻尾を出さないからますます調査に躍起になる。

気を取り直して帰りにパルテノン多摩に寄ったところ、かつて旧多摩聖蹟記念館で展示したものが図録になっており、田中光顕の資料が充実していたので購入した(=図録の背表紙)。



近藤勇は「私たちと同じ志を持った人だった」とは田中が多摩聖蹟記念館建立の場所探しの途上、近藤勇の遺墨に接して発した言葉。

これがきっかけとなって平尾道雄『新撰組史録』が生まれることになるのだが、今回の講演では引用されている那須盛馬こと片岡利和書簡を活用させていただいた。

ついでに片岡の佐川脱藩時の仲間池大六(明治に山中安敬と改名)の墓を祝賀御列の儀の最中青山霊園でようやく見つけることができた(=写真)。



片岡の養父那須橘蔵の諱が「利家」か「利宗」か判別がつかなかったため、大学の先輩が務める青山文庫に恐る恐る電話したところ、1時間後にあっけなく以前撮った墓の写真で正しい諱が判明したと知らせてくださった。

よくよく話すと小弟のことを覚えてくださっていたようで、気恥ずかしいものがあったが、調査が再来週の講演のためであると告げると最後に激励してくださった。

昨日今年の課題をまた1つ終えたので、講演準備のラストスパートに再び力を注ぎたいーー

借りてきた本に載っていた片岡の写る写真(=写真)の撮影場所はひょっとしてーー?



11/30(土)の講演は「酒菜 浪漫亭」港区新橋4-14-7(桜田公園前、TSUTAYA左入る)2時からが小弟、3時半からが今井本部副会長の出番、5時終了予定。同じ場所で懇親会(自由参加)あり、参加費(=1,000円)とは別に5,000円くらい。
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「文芸ジャンキー・パラダイス20周年記念企画&世界墓マイラー同盟第2回企画【あの人に会いたい~青山霊園前編・魂の墓参行脚】」に参加しました

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会員のクロサカです。
昨日は冷たい雨が降りしきる中、「文芸ジャンキー・パラダイス20周年記念企画&世界墓マイラー同盟第2回企画【あの人に会いたい~青山霊園前編・魂の墓参行脚】」に講師として参加しました。
今回紹介したのは以下の人物となります。

(1)乃木希典(まれすけ) //1種ロ10号26側4、5番
(補足1)安部守太郎1種ロ10号33側2番乙
(2)尾崎紅葉(1867-1903)//1種ロ10号14側5番
(補足2)中村吉右衛門(1886.3.24–1954.9.5)//1ロ12-7/10側
(3)有村次左衛門(じざえもん) 1種ロ12号7/10側9番
(4)海江田信義/有村俊斎1種ロ12号7/10側1番
(補足3)篠原泰之進//2種イ12号3側5番
(補足4)加藤友三郎 //1種ロ12号1/6側3番
(補足5)小村寿太郎(1855-1911)//1種ロ12号1、2側2番
(5)犬養毅(1855-1932)//1種ロ8号1側14側
(6)牧野伸顕(のぶあき 1861-1949)1種ロ12号1/6側12番
(補足6)頭山満(1855-1944)1種ロ8号1/14側38番
(7)山口多聞(1892-1942)1種ロ8号1側14側
(補足7)白川義則(よしのり)//1種ロ8-1/14側13番
(補足8)井上準之助(1869-1932)1種ロ8-1/14側8番
(8)浜口雄幸(おさち 1870-1931)1種ロ8号1/14側7番
(補足9)加藤高明(1860-1926)//1種ロ8号1/14側6番
(9)忠犬ハチ公(1923-1935)1種ロ6号12側
(10)川路利良(としよし) //1種イ4号1/3側1番甲、乙
(11)斎藤茂吉(1882-1953)1種イ2号13/15側3/4番
(12)大久保利通(1830-1878)//1種イ2号15-19側1番
(13)志賀直哉(1883~1971)1種イ2号11側2番

この他にも有村国彦、東郷平八郎の母についても追加で解説しました。
当日はインフルエンザなどで欠席された方もおりましたが、講師含めて計18名で巡墓を行い、カジポンさんの魂の解説に参加者は耳を傾けておりました。
来年5月or7月には中編が行われるとのことなのでお楽しみに!



写真は川路利良の墓前での解説中のクロサカです。
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講演、無事終了

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会員のカトケンです。

カネコさんがtwitterでも触れてくださいましたが、一昨日11月晦日「青山霊園に眠る近代土佐人群像」と題してお話させていただきました。

土佐史談関東支部の打上げでいつも使っていた酒菜浪漫亭さんにて、今回は例会から利用させていただき、お陰様を持ちまして25名の出席者を得ました。

大勢来ていただき、話したいことの半分も話せなかった忸怩たる思いもありますが、ともあれ今ご紹介できるすべてを尽くして主として次の三者を取り上げました。

一、板垣退助の娘から山地土佐太郎まで

二、千島列島に名前を残した片岡利和こと那須盛馬

三、姫路城・名古屋城を残した功労者中村重遠

青山霊園の地図と墓所番号を用意し、その位置と知りうる限りの土佐人の墓所を明記。また一、二は系図を用いて説明し、土佐人と青山に眠る一族や同胞を系統だてました。

講演のあと、聞き手の方から「引っ張っちゅう」という言葉を教わり、狭いところでいろんな人と親戚になっているという意味の土佐弁だそうで、知る人ぞ知る関係性をお示しした甲斐がありました。

カネコさんも応援に駆けつけてくれ、大変心強かったです。

また、高知県大懇親会で初めてお目にかかり来てくださった方と楽しく歓談ができ、他の方も混じって高知市の有名な飲み屋の話や昭和時代のある郷土力士が「わしの後輩で本名は〇〇じゃ」などと参加者から話が飛び出していろんな話題で盛り上がりました。

後半の今井本部副会長の野村茂久馬の話で昔の動画などが披露されたことも相まって、土佐の懐かしい話に拍車をかけたことは言うまでもないでしょう。

今回の講演の下調べにいちばん使った『高知県人名事典』新版の編集者がよく市役所にご子孫を連れて見えたとの話を思い出し、改めてその事典の正確性に感服。親兄弟、従兄弟、先祖子孫の情報量に助けられ、『土佐史談』がそうした情報を補ったり人物を紹介するのに格好の逸話が載っていたりしたことが大変役に立ったこともつけ加えておきましょう。

資料をまとめるのに協力を仰いだ方々と何より最後まで拙い話に耳を傾けてくださった方々にお礼申し上げます。



参考資料の1つで片岡利和の甥、廣井勇の伝記
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今年、青山にて

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会員のカトケンです。

『探墓巡礼』刊行から既に1年。本を作ったことをきっかけに様々な方からお声掛けいただき、いろいろなところでお話させていただきました(青山巡墓、京都、土佐史談会関東支部例会)。

その準備のため、今年はとにかく青山霊園をよく巡りました。

その中から将来『探墓巡礼』を作るとしたら候補になりそうな墓を紹介します。

○小笠原賢蔵(立山1種ロ4号1側=写真)
 慶応4年(1868 )8月、品川脱出時の大江丸を率い、宮古湾海戦の高雄船将として降伏。
 幕末時は小笠原島へ渡り、慶応3年(1867)に小野友五郎の軍艦買いつけの渡米に同行。そのときの同行者尺振八(のち共立学舎設立)の墓のすぐ裏側にあり(=写真)、父小林省三と兄弥三郎らの墓もある。





 その後、明治政府の海軍操練所に務め、のち郵便蒸汽船会社の船長となる。
 墓碑裏面に[小笠原賢蔵君東京人也。明治十八年(1885)三月十一日歿。年四十有四]と刻む。

○本山漸(1種ロ2号17側=写真)
 品川脱出時の美嘉保乗組員で銚子沖で破損し箱館には行けず。菊間藩を経て海軍創設に携わり、海軍大学校教頭や海軍兵学校長を務め、天寿を全うした。晩年は庶民夜学校を無償で行い東京府知事に賞をもらう。
 正面[本山家累代之墓]、裏面に[大正九年(1920)三月四日歿行年七十九]と刻む。



 適塾出身。昭和4年まで生きた岩瀬忠震の六女吉子の夫。雑司ヶ谷の岩瀬家奕世之墓を建てた人物の墓にようやくたどり着くことができた。息佗吉、孫櫻一も墓碑に刻まれている。

○江間政發(1種ロ2号18側=写真)
桑名出身の歴史家。桑名や現地で得た情報により港区天徳寺を探したが見つからずじまいだった。コメント欄にヒントをいただいたおかげでたどり着け、感謝申し上げたい。墓誌に[修述院寛譽些亭居士 大正五年(1916)八月二十四日 政発 六十五才]と刻む。



○村松 一(立山1種ロ4号5側=写真)
 今の東洋英和女学院の創設者の1人。養父は村松遠江守武義で、紀州藩家老から幕臣となった将軍家茂の小姓。実父はその同僚諏訪頼功。わが高祖父加藤忠恕とともに働いていた方の墓にようやくたどり着けた(諏訪は未見)。
 左面に[大正四年六月九日永眠/行年五十八歳]と刻む。



○望月光蔵(富岡忠幸。1種ロ16号5側=写真)
神奈川奉行所に務めていた人物で、戊辰の戦いで元新選組永倉新八、その友芳賀宜道、米沢出身雲井龍雄とともに会津を救おうと転戦したが、米沢の降伏により断念。「夢乃うわ言」と題する手記を残す。正面[富岡忠幸/配宮原芳子之墓]、左面に[忠 明治二十三年(1890)十二月二日卒/芳 同三十三年(1900)一月三十一日卒]と刻む。



○渡瀬寅次郎(1種ロ7号16側=写真)
幕臣。父源四郎。札幌農学校を出て伊豆に蜜柑園を創り柑橘振興に功労あり。息彦太郎らの名を墓誌に刻む。継母の墓碑あり。加藤弘之・市川兼恭に連なる一族にして小坂善太郎外相、小坂憲次文科相の先祖。
寅次郎は[大正十五年(1926)十一月八日歿]と墓誌に刻む。



まだまだほんの一握りと思いますが、来年もできる限り足を運んで少しずつ見つけていきたいと思う。
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青山霊園の土佐の墓まとめ

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会員のカトケンです。

11/30土佐史談会関東支部にてお話させていただくに当たり、夏ころからコツコツ回って様々な墓に遭遇。

まだ見つからない墓もありますが、一先ずご報告まで。

○千頭清臣(1種ロ25号2側=写真)
博文館から出た『坂本龍馬』の著者とされるが、実際は山内家史料編纂所の田岡髪山が著したもの。千頭は新潟、鹿児島などの県知事から貴族院議員となった人物。
 妹が土佐の刀剣家秋山久作の息に嫁ぐ。秋山の墓は1種イ2号13側にあり、大久保利通や斎藤茂吉の墓に近接。



○澤本孟虎(2種イ9号13側=写真)
長岡郡介良(現高知市)の出身。新聞記者から田中光顕の秘書になった人物。



○山中安敬(池 大六。1種イ1号19側=写真)
佐川出身。勤王志士の見張り番から一転仲間に加わり、那須盛馬(片岡利和)や浜田辰哉(田中光顕)らとともに赤土峠に集まり脱藩。中江兆民(1種イ1号24側6番)の6列北側。一族の方(橋本達広氏)が『土佐史談』最新号(272号)に「山中安敬伝」を寄稿。



○武田秀雄(1種イ4号24側=写真)
香宗我部一族で、海軍機関中将から一転実業界(三菱)に転じた人。姉は無著尼といい、野市に吉祥寺という禅寺を立てたが今はない。



○加賀美繁子(1種イ5号18側=写真。 佐々木高行(1種イ21号8側8,9番に墓)の次女。光賢夫人)女官として宮中に仕えた。



○仁尾惟茂(1種イ15号2側)
迅衝隊に属し戊辰の役を戦い負傷。大蔵省に仕え専売局の濱口雄幸の先輩。

○浅川範彦(1種イ18号4側=写真)
北里柴三郎(至近の1種イ19号2側1-5番に墓)を支えた血清学者で、中江兆民の従兄弟。



○石本釒貫太郎(1種イ22号5側=写真)
大連市長、代議士を務めた人物で、仙石貢のすぐ前にある(1種イ22号9側3番)。ちなみにこないだお話しした片岡利和の甥広井勇の後を仙石貢が、広井の前に白石直治(中島信行甥)が土木学会会長を務めている。



発表で触れられなかった人たちですーー
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【追跡】染井霊園の改葬危機の墓所

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会員のカネコです。
3月に「撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓」と題し、改葬危機が迫っている酒井忠績の墓所や山内豊城家の墓所・水戸徳川家分家徳川圀禎家の墓所を紹介しました。

撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓

昨日、久々に染井霊園を訪れ、その後の状況や新たに立札が建てられた墓所を確認しました。

酒井忠績の墓所は期限付きの立札ははずされたものの、現在はこの立札になっています。



改葬危機の状態には違いありませんが、お花が供えられていました。
この状況を知った方によるものでしょうか。

山内豊城家の墓所も変わらずで、期限付きの立札となっています。危機状態です。



徳川圀禎家の墓所は立札が撤去され、改葬危機を脱しました。



霊園内を結構歩きましたが、立札の数が増加しているように感じました。
その中でも経歴等が分かる人物を紹介します。

足利衍述
一種イ9号2側
愛媛県宇和郡伊賀上村出身の日本儒学史研究家。



寺見機一
一種イ9号5側の辺り
岡山県出身の外交官。ロシア公使館書記官。
明治11年(1878)榎本武揚シベリア横断に当時留学生だった寺見が随行。他に市川文吉・大岡金太郎が随行。





結城素明
一種ロ6号12側
日本画家。聖徳記念絵画館蔵の「江戸開城談判」を描く。







林唯翁
一種ロ6号9側
経歴不明。墓碑裏面に「徳川幕府籏下林唯翁」とあり。







鈴木定津
一種ロ16号の辺り
支那事変戦病死者。左側面に撰文あり。



これらの墓もご縁者が現れ、管理料が支払われない限りは無縁改葬される運命にあります。
以前も書いた通り、少子化の影響や価値観の変化に伴い、無縁墓が増加することは仕方のないことであり、墓所は基本的にご子孫の祭祀の場である以上、個々の事情によって墓所が消滅することはやむを得ないことであります。
個人的には、墓碑は歴史的な価値があるものと考えており、後世に残されるべきものだと思っていますので、ご縁者が現れ、これらの墓所が残されることを願っております。
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近況と年末ご挨拶

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会員のカネコです。
9月以降、多忙のためほとんど投稿をしていませんでしたので、駆け足で振り返ります。

9月

・戎光祥ヒストリカルセミナー「戦国大名伊達氏の魅力に迫る!」へ。演題は新進気鋭の研究者の方々による「郡主・国衆からみた戦国大名伊達氏」「戦国大名伊達氏の魅力に迫る!」。政宗以前の稙宗-晴宗-輝宗時代の伊達氏に焦点を当てた内容で、伊達氏が政宗一代で飛躍したイメージがありますが、それ以前の胎動期があってこその飛躍であったように感じました。二本松畠山氏に関しても少し言及があり、大変勉強になりました。

・大崎図書館分館で歴史講座「江戸時代の大崎ってどんなところ?」を受講。品川歴史館の学芸の方による講座。地元品川区の郷土史は私のワイフワークの一つでもあり興味深く拝聴しました。。戦災による被害が大きい地域ながら意外と古文書が残っていて、農村地と武家屋敷地がある大崎の多面性がよく分かりました。



・雑司ヶ谷みちくさ市のモロ古書店さんにお邪魔しました。我々とはお付き合いの長い幕末維新の貴重本の蒐集家である茂呂さんの古書店で、毎回貴重な本が出品されています。『探墓巡礼』のプロデューサー森重さんや当会のクロサカさんも来ていました。昨年の流星忌にお越し頂いた「幕末諸隊研究」の吉野式さん、常盤海さんにもやっとご挨拶ができ、良い機会を得ました。



・市川市の木内ギャラリーで行われていた「木内重四郎展」へ。重四郎の姉の子孫で実家を継承されている木内昭博氏による講演「木内重四郎の活躍を励みに生家を守って」と芝山町学芸員の方のギャラリートークを聴きました。木内重四郎については以前、染井霊園での巡墓会で三菱関係者を案内した際に岩崎弥太郎一族の系図を作成した時から関心を持っていました。弥太郎の娘婿には加藤高明や幣原喜重郎といった総理大臣がおり、それに比べると木内重四郎は地味な存在となっていますが、展示と講演からは重四郎は非常に優れた人物であったことが分かりました。また、実家のご子孫のお話ともあって、私が興味を持っていた芝山町の木内家のこともよく分かり、とても良い機会となりました。
尚、重四郎の長男良胤の妻淑子は枢密顧問官関屋貞三郎の長女であり、関屋貞三郎は栃木県生まれですが、関屋家は二本松藩医の家系で、貞三郎の大叔父の娘が声楽家の関屋敏子となります。





近くの弘法寺にある松平直基の墓

10月
・ある仕事の関係で、お客様と佐野市へ。お寺や図書館などを巡った後、佐野市郷土博物館企画展『中根東里展-「芳子」と門人たち-』を見学。事前に博物館の方と連絡を取って説明をして頂きました。中根東里は磯田道史先生の『無私の人』で知られるようになった陽明学者ですが、幕府や大名家に仕官せず、生涯民間に身をおき、その名を残さぬよう、自分の足跡をほとんど残さなかった人物です。数少ない資料からを集め、この企画を実現させた博物館の方々の執念のようなものを感じました。図録もとても力の入ったものでした。
実はこの1週間後、佐野市は秋山川の大洪水が発生したため、博物館が休館となってしまい、企画展はそのまま閉会してしまいました。幻の企画展をみれたことは奇跡的でした。





東光寺に移設された佐野陣屋の大手門

・ある仕事の関係で千葉方面へ。初めて市営桜木霊園へ行きました。霊園内には千葉市内で市街地の開発で移転した寺院の墓地もあり、所々千葉の旧家の古い墓石がありました。その後、市原市八幡の飯香岡八幡宮や小弓城跡などを巡りました。
この時は台風15号の爪痕が随所に残っており、台風の威力の恐ろしさを感じました。





・即位礼正殿の儀は一部始終テレビの生中継をみました。礼砲が撃たれると、テレビの音とは少しズレて外からも音が聞こえました。その瞬間がその日一番の感動でした。

・ある仕事の関係から、お客様と平島松尾顕彰会で知り合った漬物研究家の方と三人で千葉県旭市での大原幽学記念館の企画展「あさひ 羽ばたいた人々」へ。
戸田伊豆守氏栄の五男で萬歳村花香家の養子となり、自由民権運動に身を投じた花香恭次郎を初めて取り上げたということで見学。萬歳にある花香家の墓所へも行きました。
花香恭次郎は福島新聞の記者となり、福島事件で投獄され、その後大赦で釈放されたものの間もなく35歳で死去しました。江戸で生まれ、民権運動では福島で活動したため、花香家の実家がある旭市ではほとんど紹介されていませんでしたが、ご一緒したお客様のご尽力により今回の展示に繋がりました。私にとっても大変喜ばしい出来事でした。





東福寺の花香恭次郎顕彰碑

11月

・国立公文書館で資料閲覧後、1Fで開催されてた「行幸-近現代の皇室と国民-」を見学。
大正天皇が皇太子時代の東北行啓のスケジュールが書かれたものがあり、二本松で下車したことが書かれていて、興味深くみました。後で『大正天皇実録 第3巻』を確認すると、双松館製糸工場に行啓していたことが分かりました。



・品川歴史館特別展「中世寺院と品川-妙国寺の歴史と寺宝-」へ。これも地元の郷土史。妙国寺は現在天妙国寺といい、初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の菩提寺でもあります。今回の展示は中世にスポットを当てたものですが、伝加藤清正の手形など珍しいものをみることができました。羽太安芸守正養については以下を参照。

初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓



・都立中央図書館で資料閲覧後、4Fで開催中の「木子文庫に見る御大礼」を見学。
会場内で上映されていた平成の御大礼の映像を食い入るようにみました。これはリアルタイムでもみていたので、懐かしさなど様々な想いが込み上げました。
木子家は京都の大工棟梁でしたが、近代以降の墓所は青山霊園にありますが、この見学の後、訪れると、墓石が新しい現代風のものに変わっていました。



・「祝賀御列の儀」へ。13時頃から赤坂御所前にスタンバイし、15:20に両陛下のお姿を拝しました。2時間以上待った割には本当にあっという間でしたが、この場に居合わせたこと自体が私にとって大きな意味を持つものとなりました。
その後、青山一丁目駅で足止めされ、パレードを見れなかった墓マイラーカジポンマルコ残月さんと、当会のクロサカさんと合流して青山霊園を散策した後、飲み会をしました。カジポンさんとは同じお墓を対象とする活動をする仲間として様々な意見交換をして有意義な時間を過ごせました。
帰りは東京タワーの祝賀ライトアップをみました。













・三春町へ。小雨の降る中、法蔵寺、紫雲寺、北野神社、光岩寺、天沢寺、法華寺を巡りました。そして目的であった三春歴史民俗資料館特別展「武士の時代の終わり-三春藩から三春県へ」の展示解説へ。昨年も特別展の「戊辰・明治150年 三春藩の選択」の展示解説を聴きに行きましたが、今年は天候が悪かったためか、私を含め3人ほどのお客さんしかいませんでした。そのおかげもあって、終わってから館長さんとゆっくりお話する時間ができ、有意義な時間を過ごせました。
私は二本松側の人間で、二本松といえば、三春は裏切り者、父母や祖父母の時代には「三春から嫁を貰うな」ということが言われていました。そんな私ですが、よくよく調べると二本松と三春は非常に密接な関わりがあることが分かり、両者の関係を深く調べたいと思うようになりました。2年連続の三春訪問となりましたが、やはり双方の人の往来が多かったことが分かりましたし、戊辰戦争での行為を果たして本当に「裏切り」という言葉で片付けてよいのか、という疑問がますます深まってきました。
一つの事象をみる上では双方の置かれた立場を知ることが大切だと思います。



加波山事件志士遺徳顕彰碑「自由の魁」





紫雲寺の墓地

・皇居東御苑で公開中の大嘗宮を見学。天気が良かったこともあり、人出が多く、宮殿前は写真を撮る人がなかなか動かず大混雑。平成の大嘗宮は小学生の時に見学していたので、今回は2回目。私の世代で2回目というのもなかなかいないかと思います。
その後、新橋で土佐史談会関東支部例会へ出席し、当会幹事のカトケンさんの講演を拝聴。演題は「青山霊園に眠る近代土佐人群像について」。カトケンさんのワイフワークともいえる土佐出身者の墓所調査の発表で、人と人との繋がりがよく分かる内容でした。私も青山霊園は結構行っていますが、土佐出身者の墓については知らないものも多く大変勉強になりました。









12月

・前日の大嘗宮見学に続き、國學院大學博物館企画展「大嘗祭」へ。江戸時代の大嘗祭の史料などが展示されていましたが、大嘗宮自体は現在よりも簡素なものでした。伝統的な儀式ですが、その仕様については時代によって変化している様子が分かりました。



・釣洋一先生主催の「江戸史談会」へ。今回は12月ともあって、半分は赤穂浪士のお話し。討ち入りの日である12月14日は現在の暦に直すと、まだ川崎の平間村軽部五兵衛宅に到着した日ということで、この日を赤穂浪士討ち入りの日とする暦に対する無神経さには驚愕の一言というレジュメの一文が印象的でした。
平間村の軽部五兵衛ですが、私が以前住んでいた川崎市幸区南加瀬の了源寺に墓所があり、そのことも過去に記事にしています。五兵衛の邸宅は下平間にある称名寺の向かいにあったそうで、現在はマンションが建っています。
史談会の後は忘年会で、釣先生奥様よる久々のピアノ演奏と歌も聞け、参加者の皆さんと楽しい一時を過ごしました。

軽部五兵衛の墓

・森鴎外記念館特別展「荷風生誕140年・没後60年記念 永井荷風と鴎外」へ。荷風の鴎外への敬愛がよく分かる展示でした。荷風は『下谷叢話』で鴎外の『渋江抽斎』のスタイルを踏襲するなど、所々で鴎外へのオマージュを見せています。荷風が死亡した際、部屋には読みかけの『渋江抽斎』があったという話には感銘を受けました。図録はデザインが洗練されていて、とても良かったです。
森鴎外記念館へ行く前に向丘の蓮光寺に久々に行きましたが、幕末の二本松藩とも関わりが深い大垣藩主戸田家の菩提寺ともあって、大垣藩士の墓も数多くあり、戊辰戦争に出兵した人の墓もあるのではないかと思いました。また前述の花香恭次郎の実父でもある戸田伊豆守氏栄の墓碑もあり、没年月日が本人の個人墓、新しく建てられた墓誌、ウィキペディアの記述でそれぞれ異なり、検討の余地があるなと思いました。





忙しい中でしたが、以上の通り様々な講演や展示をみることができ、また歴史的な代替わりに関する行事などもみることができ、充実した日々を過ごせたと思います。

今年は自然災害も非常に多い年でした。私が訪問した千葉県や佐野市、そして私の郷里福島県でも馴染み深い本宮市が大きな被害を受けました。報道のたびに馴染みある風景の変わり果てた姿をみる度に心が痛みました。
被害を受けた方々にお見舞いを申し上げるとともに、一日も早い復興を願っております。

今年は幹事メンバーの「ソロ活動」ということで、会としての活動は流山市立博物館友の会催行『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』のボランティアガイドのみとなりました。
幹事メンバーは各自でさまざまなイベントにお邪魔しましたが、一昨年発売となりました『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の宣伝の場を設けて頂くなど、各関係者には大変お世話になりました。
この場を借りて改めて御礼申し上げます。

来年の当会の活動については未定ですが、引き続き皆さまにはご支援ご鞭撻の程お願い申し上げます。
来年も皆様にとって、よいお年でありますよう願っております。
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続・谷中霊園の改葬危機の墓所

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会員のカネコです。
昨日、染井霊園の改葬危機の墓所について書きましたが、谷中霊園でも改葬危機が迫っている墓所が増加しています。
谷中霊園の改葬危機の墓所についは今年5月に下記の記事にて紹介しました。

谷中霊園の改葬危機の墓所

今回は2ヶ所紹介します。

小倉敏晴
『人事興信録』第4版に京橋区銀座の資産家として記載があります。





森野森吉
同一人物か不明ですが、『昭和新修華族家系大成 上巻』に真田幸治伯爵の子幸長氏の夫人の父に森野森吉の名があります。





共に明治期の自然石墓です。現在ではこのような自然石墓はなかなか新設できないでしょう。

前回の記事で年末の挨拶をさせて頂きましたが、改めて今年もご覧頂きましてありがとうございました。
来年も様々ことをお伝えできればと思っておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。
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新年のご挨拶

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会員のカネコです。

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年は幹事メンバーの「ソロ活動」ということで、会としての活動は行わず、各自さまざまな活動に取り組みました。
また、一昨年発売となった『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の宣伝活動も行い、おかげさまで多くの方にご購入を頂きました。
改めて御礼申し上げます。

本年の活動については未定ですが、2月~3月頃に幹事メンバーにて会合を行い、決定したいと考えております。

本年が皆様にとって良い1年になることを祈念いたします。
引き続き、当会へのご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
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榎本ー片岡ー郡司ー白瀬

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会員のカトケンです。

あけましておめでとうございます。

昨年11月晦日土佐史談会関東支部の発表で那須盛馬こと片岡利和を取り上げたとき、千島の話をした。

片岡は明治25年(1892)に千島を探検し、最北の占守島に上陸。「片岡湾」の名を残した。その後、幸田露伴の実兄郡司成忠が白瀬矗を伴い開拓したが、度重なる戦争で離島を余儀なくされ開発が及ばなかった。

白瀬は置き去りにされたと郡司を恨み訴えたが、結局白瀬が南極に行くときに船を提供してくれた。

白瀬は秋田市にかほ市出身だが、三河にも墓があるという。ちなみに郡司成忠の墓は池上本門寺五重塔のたもと。千島・樺太交換条約を締結した榎本武揚の墓は言わずと知れた駒込吉祥寺。

もとより青山霊園に墓のある片岡利和については、未だご子孫にたどり着けずにいる。青山のアパートにご子孫がいることを突き止め、行ってみたがすでに引っ越した後だった。

昨年1月に新聞記事に載ったのをきっかけに探り当てたが、引越先が分からないから、あんなに青山霊園が近いのになぜ墓参に来ないのか聞くこともできないでいる。

今のご当主は千葉にお住まいのはずだが、その線を追いかけて電話をしても通じなかった。やはり何処かへ引っ越されて容易に墓参に来られないのかもしれぬ。

片岡の甥廣井勇の顕彰会は高知だから容易には墓参に来られまいし、多磨霊園にある廣井勇家や片岡の養女珊を母に持つ藤村義朗家(片岡養孫和雄の実家)の墓所は判っても、ご子孫宅までは判らないから連絡しようがない。

今のところ打つ手なしの状態である。しかし、こうして片岡利和のことを調べてみると様々な人物(閨閥ばかりでなく千島占守島開発の系譜)との関わりが見えてきて、歴史上の人物に関わる証言者に出会えるまであきらめず調査を続けてみたいと思っている今日このごろである。(=写真は白瀬のぶに由来する横須賀停舶中の南極観測船[しらせ]。横須賀軍港クルーズにて撮影)



本年もよろしくお願いします。
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我が青春の中島三郎助

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会員のカトケンです。
『探墓巡礼ー谷中編』を購入してくださった方から参考文献にないと『中島三郎助文書』(=写真)を進呈していただいた。



今ではなかなか手に入らない、中島家に代々受け継がれてきた遺稿を翻刻した貴重な書籍である。

そもそも中島三郎助に興味を持ったのは昭和63戊辰の年の、年末時代劇スペシャル『五稜郭』を観てからだ。父子ともに壮絶な死を遂げ、函館に町名として残っていることもあって、大学卒業前の夏気仙沼の親戚の家から箱館戦争の旅に出で、宮古湾ー青森・弘前にある降伏後の寺院ー鷲ノ木(森町)ー函館市街ー江差ー松前を回ったのが懐かしい。

開陽丸が復元されていると知っていてもたってもいられない気持ちになった。昼間はもちろん夜もホテルからライトアップ姿の開陽丸の写真を撮りに行ったものだ。

そんな箱館の戦で鮮烈な印象を残した中島三郎助にさらに興味を持ったのは、島田紳助が司会をする番組で取り上げられ、静岡市に住むご子孫がインタビューを受けていたからだった。

その中島さんが住まわれていた洋館が印象的で、その建物がどこにあるのか分かったのは、今のご当主恒英さんに東軍慰霊祭をきっかけとして知り合いになり聞いてからのことだった。

当時出演されたのは、その恒英さんの叔父で三郎助の孫に当たる清さんだと知った。葵区東草深で産婦人科を営まれていたという。

先祖のことをことさら話したがらない、押し殺したような印象が記憶に残っている。

30を前にして横浜に住みはじめて中島三郎助文書の入った図書館に通い、『開国史研究』を読むなどして三郎助の勉強を重ねてきたが、真逆今になってこの書が手に入るとは思わなかったし、箱館戦争に関わるガイドブックを自ら出すことになるとは思わなんだ。

恒英さんから時折話を伺っていると、三郎助がペリー来航前に軍艦製造に情熱を傾けた姿が重ね合わされる。新しい時代に対応するためにもがく技術者のときめきが伝わってくるからだ。

ご定年されるまで格別三郎助を意識して来られなかった恒英さんもがむしゃらに三郎助と同様、必死に時代を切り開こうとしてきたのだと思う。

学生の時分に歴史に興味を持って以来、いろんな機会に触発されてその足跡を追い求めてきた人物の最も詳しい資料を前にしばし次なる探究に思いを馳せたーー今月25日(土)新たに誕生祭となった中島三郎助祭りに顔を出す。どんな方々にお目にかかれるか今から楽しみにしているーー
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なかなかたどり着けない成瀬正典の墓

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会員のカトケンです。

今年の正月はいつもの仲間と富士で飲むことになり、夕方まで時間があるので、沼津まで足を伸ばし駅前の蓮光寺を訪れた。荒井郁之助の叔父成瀬正典の墓を探したかったからだ。何年か前に訪れたが見つけられなかった。

成瀬はポーハタン号に乗って日米修好通商条約の批准のため米国に渡った人物としてはあまり知られていない。

新見正興、村垣範正、小栗豊後守忠順に比べて知名度が低いからだらうか。その写真がこの度風狂童子から発売された『勝海舟関係写真集』(=写真)に載っている。これはなかなかシブいチョイスだと思う。





その写真の所有者は石井至誠氏という。この石井氏のご先祖は成瀬の妻タキの姉妹フクの夫石井至凝。小筒組差図役頭取を経て沼津兵学校資業生2期、横浜税関に勤務した人。その息子至喬は釜山税関に務めた。

今回同山に墓碑のある吉田泰門は見つけられたが、成瀬には辿りつけなんだ。吉田は慶応4年(1868)陸軍御用取扱、翌明治2年沼津勤番組世話役頭取。明治8年(1875)12月25日没、享年44才(=写真。右側の戒名:真光院圓覺道照居士)。



孫に日清役後、日本領となった台湾に当時東洋一の長さ(1,500メートル強)を誇る鉄橋をかけるのに尽力し、その完成を見ず40才で亡くなった鉄道技師飯田豊二がいる。

妻暢は成島柳北の娘。なお、成島柳北の別の娘の墓が静岡市葵区沓谷霊園にある(黒水家の墓。以前ブログに紹介した梅澤孫太郎墓の隣)。

成瀬は慶応4年(1868)砲兵頭陸軍御用取扱、翌明治2年7月2日没(1869・8・9)、享年47才。

日本人として幕末に真っ先に海外へ行きながら、明治という新しい時代をほとんど見ることがなかった、小栗忠順同様の人物の墓探しをこれからも続けたい。

ちなみに一昨日は、出版舎風狂童子から発売された『勝海舟関係写真集』著者のひとり高山みな子さんと新年会で一緒になり、勝家や目賀田家のふるさと・米山検校・渋田利右衛門などの話に花が咲いた。

そして昨夜は日蘭協会新年会にて佐倉の山岡さんと久しぶりにお目にかかり、仲間が佐藤泰然を書いたのでぜひ読んでくださいと『探墓巡礼ー谷中編』を謹呈。本のチラシもお渡しした。

これも日蘭協会に誘ってくださった小杉雅之進ご子孫故伸一さんのお導きであらう。昨年の伸一さんをしのぶ会では大雄寺にまだ知らぬ小杉家の墓があることを雅之進の兄直吉のご子孫からうかがった。

正月に詣でた静岡市蓮永寺の小杉直吉墓(=写真)には、■正面[正五位小杉直吉墓]、右面に直吉について[泰嶺院殿松韻日響居士/明治三十六年(1903)八月廿四日歿行年六十八]と刻む。また左面には[泰信院殿清庫日貞大姉/小杉直吉妻庫子、行年六十七。明治四十三年(1910)八月十日死/泰溪院妙峰日通大姉/行年七十歳。大正十年(1921)十二月六日没]とある。最後の女性は関係不明。



『探墓巡礼ー谷中編』でこの直吉墓を取り上げながら碑面を載せそびれたので、ここで補っておきたい。

おまけーー沼津駅前のビルに貼ってあった韮山のイベントチラシ(今週末の催し)


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中島君招魂碑の前で三郎助生誕祭

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会員のカトケンです。
先週土曜、朝早く起きて一路浦賀へ。

中島三郎助生誕祭に参加するためだ。てっきり初かと思ったら第2回だった。

知らない方々ばかりだったらどうしようかと初めて出るイベントに行く前はいつも緊張する。

浦賀に着いて大衆帰本塚を見ていたら時間がなくなってきた。途中同じ目的地に向かっているであろう女性2人を尻目に、西浦賀の愛宕山公園へ通ずる「浦賀園」の看板のある入口(=写真)から急な階段をずんずん登ると、中島君招魂碑の前にもうたくさんの人が集まっていた。



着くと、「なあんだまるで同級会みたい」と誰かが後で話したとおり、何人もの知った顔が参加していて内心ホッとしたことだった。

挨拶も束の間、そのうちに地元の方とおぼしき女性の司会で生誕祭が始まったーーご遺族中島さんはじめゆかりの深い方々からの献花、ご挨拶に加え、甘酒で献杯。筆者も献花の機会を与えられる。

ご挨拶の中で遊ぶ会の大内会長からこのような催しは建碑以来ではないかというお話や郷土史家山本先生から今回、依田学海が別に建碑の構想を持っていたことが分かったというお話が印象的だった。

後でお聞きしたところ、40名ほど集まったようである。
その後、場所を移してご子孫の挨拶(=写真。背後の三郎助像は美術部の中学生の手作り)、榎本武揚のご子孫の名代として黒船研の中山さんのミニ講演とも言えるご講話に続き、自ら脚本を書かれた俳優さんによる2人芝居(中島門下の桂小五郎との掛け合い風のものだった)、昼食後2Fの展示パネルを担当した方による講演があり、充実した生誕祭となった。



中でも中山さんのお話は、榎本武揚が中国との平和を志向したと目から鱗が落ちるもので、もう少しその先を聞いてみたかった。

講演終了後、武揚のご子孫が到着、しのぶ会で使ういつもの梅本にて、生誕祭を一貫して取り仕切った安斎さんをみんなで慰労した。この一杯のためにがんばったと言わんばかりの飲みっぷりに、皆の顔がほころびるーーここにも小杉伸一さんの志が継承されていることを感じずにはいられない。

三郎助の建碑由来碑(=写真)の撮影がしたくて車で移動する参加者のみなさんとはぐれてしまい、第2会場と早合点した浦賀コミュニティセンターから件の同じ目的地に向かうであろうと知りつつ尻目にお声かけさえしなかった女性2人が、実は浦賀コミュの職員であり、次の会場となる浦賀行政センターまで送ってもらうという、なんとも気恥ずかしい事態とあいなってしまった。



『三郎助文書』をいただいたお礼に訪れた浦賀の方々の情熱と親切に触れて忘れ難い訪問ができた。(写真=中島君招魂碑前)


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続 足立区梅田善立寺調査

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お久しぶりです。会員のクロサカです。
仕事の合間を見て、毎週のように調査をしていますが、整理が追い付いていないため、なかなかブログ更新が出来ていません汗

さて、今回はおよそ10年前にも調査した地元にある善立寺の再調査を行いましたのでご報告します。
前回の調査についてはこちらをご覧ください。

OGPイメージ

11月17日 足立区善立寺調査 - 探墓巡礼顕彰会-歴史研究会連携団体による墓碑調査プロジェクト-

会員のクロサカです。最近調査しつつも合間に大学の予定などと重なり調査報告をすることが出来なかったのは申し訳ありませんでした。あまり写真の整理...

11月17日 足立区善立寺調査 - 探墓巡礼顕彰会-歴史研究会連携団体による墓碑調査プロジェクト-

 

前回にも記しましたが、ここには多くの旗本の墓碑が残されています。
そして当時の状況と大きな変化がありました。
まず、墓地に入り、左に折れたところにあった無縁墓の集石はトイレに変わり、墓地中ほどに移動しています。
「藤堂氏」と彫られた五輪塔を中心とし、他の墓碑が所狭しと並べられているため、一基一基の確認は難しくなりました。
『寛政譜』によって、一般墓地にも多くの幕臣墓が見受けられましたので、無縁墓で確認出来た家を含めてここで列挙すると、鈴木・戸祭・小笠原・安藤・漆戸・布施(いくつか)・野一色・今村・永見・小出・阿久沢と10家以上現存していました。
ほとんどが合祀され、当時のままの墓碑は少ないです。
例えば永見家には文久三年に歩兵差図役頭取を務めた永見権七郎、布施家には慶応二年に目付を務めた布施孫兵衛が埋葬されていると思われます。
そして善立寺には浅草にある善慶寺の墓地が移転しており、伝馬町の牢屋奉行を代々務めた石出帯刀家や幕臣片山家を確認出来ました。
そして『寛政譜』に記されておりませんが、幕臣阿久沢家の墓碑もあり、静岡に移住した阿久沢義処も刻まれています。
これら以外にも武士と思われる墓碑がまだまだありますので今後も調査を続けていきたいと思います。

永見家の墓

石出帯刀家の墓(移転時に無縁のため合祀)

阿久沢家の墓

右端の戒名が阿久沢義処
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鹿鳴館はここですか?

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会員のカトケンです。

1年で仕事がいちばん忙しいこの時期、都内出張で早く上がれる機会を使って、日蘭協会新年会でお目にかかった木村さんと食事をした。新年会の抽選で当たった食事券をせっかくだから利用しようと前から約束していたためだ。

歴史上の人物のご子孫やお墓の情報をお持ちで、お生まれは那須塩原だという。御用邸の様子や元勲の別荘などが話題にもなった。

だが、いちばん面白かったのは洋館をめぐる話だ。池之端岩崎久弥邸はもちろん三田綱町三井倶楽部も経験済み、しかも霞ヶ関にある洋館を「鹿鳴館はここですか?」と訪ねていったらしい。曰く「中に法律の本がたくさんありました」と。「それは法務省庁舎ではないですか」と赤レンガの写真を見せたら「それだ」とおっしゃった。

確かに似た雰囲気もあるが(=写真は往時の鹿鳴館)、非公開とはいえ三菱の持っている開東閣も似た雰囲気だと伝えるとすぐにメモを取られていた。



自分自身、かつて鹿鳴館は本当に残っているのではないかとずいぶん探してジョサイア・コンドル設計の洋館を回ったことを思い出した。似たようなことをしている人がいたと知り、とてもうれしかった。

西洋館に明治の香りを求めて、上京当初訪ねたのは駒込の古河庭園や若松河田の小笠原伯爵邸など。いちばん気に入っていた日比谷の三信ビルはもう取り壊されてしまった。内部が素晴らしかった。

その一方で、ニコライ堂や東京駅のように建築当時のものを復元する試みが始まっていて、関東へ出てきた面白みはむしろ増していると言えなくもない。

勤務の関係で2,3年前に度々訪れていた日本大通り界隈には日本郵船ビルや横浜開港記念館があって、見るのが楽しくて早く仕事が上がるとウロウロしたものだ。

そのとき工事していたのが神奈川県立歴史博物館で、入れないことをずいぶん悔やんだものだが、企画展「北のまもり」や今開催中の井伊直弼に関する展示はこの洋館で見られる。元は横浜正金銀行の建物である。

掃部山銅像建立110年 井伊直弼と横浜

以前、このブログにて掃部山の直弼像の台座設計者が同博物館の設計者と同じだと書いたが、その時は名前まで挙げなかった。

妻木頼黄(よりなか)という長崎奉行を父に持つ旧幕臣の建築家で、辰野金吾・片山東熊・曽祢達蔵と同様、コンドルの弟子である。寛永寺墓地の墓があるようなので、一度訪ねてみたいと思っている。

写真は鹿鳴館現況=千代田区内幸町1-1日比谷UIビル(帝国ホテルの隣り)。



昨年訪れたコンドル設計の諸戸清六邸の写真(三重県桑名市)「いだてん」の三島邸として使われた撮影地。


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図書館だより「ハトダヨ」に拙共著が紹介される

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会員のカトケンです。

函館市中央図書館発行の「ハトダヨ」に拙共著『探墓巡礼ー谷中編』が紹介されている。

ハトダヨ 2020年2月号

内容からして、ちゃんと本文を読んで紹介文が書かれていることが分かる。

しかも箱館参戦者5名を選んでくれていて心憎いーー偶々か意図してか著者3名おのおのが書いた項目を万遍なく取り上げてくれているーー

函館という場所からその地を踏んだ人を並べるのは当然としても、もう1つ著書に込めた意味ーー谷中本という性格も捉えてくれているようだ。

項目で取り上げた人物たちが箱館を舞台に様々な意味で足跡を残したことがよくにじみ出ていると思う。

とてもありがたいことで、今もう一度著書と向き合い、この本をもっと活かせる術は無いか思案しているときにこのような紹介文に触れて大いに感銘を受けた。

つい先日、仲間に都立霊園公式サイト「TOKYO霊園さんぽ」ホームページ、谷中霊園の[谷中文庫をリニューアルしました]に載った展示書籍リストに『探墓巡礼ー谷中編』が取り上げられていると伝えたばかりだったから、地域本としての本領をようやく発揮し出したと感慨深いものがある。

谷中文庫リスト



(写真=谷中霊園管理所)

まずは、着実におすすめできる本として定着することを願うばかりだが、できればその独創性が際立ち、利便性を向上させるべく工夫を凝らしていきたい。
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流星忌以後ー雑司ヶ谷を例にー

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なかなか時間がとれないカトケンです。

残念ながら楽しみにしていた山南忌がなくなり、京都行をあきらめた矢先、仕事がまた増えてしまい、4月に異動したらしたで毎日遅くまでやることが山積み。

そんな気持ちを打ち消すために『探墓巡礼 続編』を妄想して、かねてから雑司ヶ谷に候補となりそうな墓を何度も巡っていたときのご報告。

まずは豊島区池袋2丁目にある妙典寺(日蓮宗、蓮華山)に幕府海軍軍艦役並から榎本軍に参加した
○高橋栄司の墓。前に塞がるように兄昇吉の墓が建つ(=写真)。



昇吉は諱敏慎。正面[萬延元季歳(止ではなく山)次庚申/勤信院昇船聞(米の下に耳)法居(古ではなく立)士/七月廿三日](1860・9・8)
撰文は塚本明毅、書は荒井顕道。大浦(神奈川県三浦市?)でつむじかぜに遭い船が破損し殉職した人物だ。

矢田堀景蔵に従って長崎海軍伝習所に学び、安政5年(1858)に海軍助教となる。生きていれば、『探墓巡礼ー谷中編』にも書いた根津・高橋(永峰)、古屋・高松、柴・松岡たちのように兄弟で榎本軍に身を投じていたかもしれない。

箱館の役を戦った栄司は、その後海軍大機関士となり正七位を贈られる。明治十八年(1885)五月廿七日歿、行年四十四。戒名:庭月院殿榮柏日昭居士
家紋は丸に花菱。

その後、雑司ヶ谷霊園に行き、さくらトラムと呼び方が変わった都電荒川線の駅から管理事務所正面所通りにハリスと折衝に当たった下田奉行支配組頭 
○若菜三男三郎の墓(=写真)。明治八年(1875)九月九日没と白い[若菜家之墓]の裏面に刻む。



若菜はその後、甲府町奉行となった。1種1号6側。岩瀬忠震の近くに開国期外交当局者の墓があるのは興味深い。

○村山久五郎鎮。1種1号7側(=写真)駿府移住後、徳川家家従。その後、農商務省に勤務。実父は加藤小左衛門。墓碑左面に息敏雄による撰文あり。家紋は五つ鐶に二つ引き?



○薗鑑(=写真)1種5号30側。正面真ん中に[判事正七位薗鑑]、右面に[明治十七年(1884)十二月十日卒/歳四十六/法性院真譽理鑑居士]と書かれている。幕末は鑑三郎と称す。沼津兵学校で英語を教え、教科書に給料を挟んでいる朴訥な先生。残念ながら写真が伝わっていないという。家紋は揚羽蝶。



○古川宣誉 古川ロッパの一族。1種12号7側。
宣誉は通称郁郎、小筒組差図役並、沼津兵学校資業3期生、陸軍中将。養父鐘太郎、実父星合精四郎。
息武太郎は工学博士。この人がロッパの養父。ロッパは加藤弘之の実孫。

宣誉は[古川家代々之墓](=写真)と正面に刻む墓碑左面の右端に[大正十年(1921)十月十九日]と没年月日を刻む。72才。右面右端に[ロッパ 昭和三十六年一月十六日歿 行年六十七歳]とある。家紋は丸に立ち沢瀉。



その一族
○加藤弘之は1種4B号3側。左面に[從三位勲二等医学博士男爵照麻呂/大正十年月日薨]と刻む。これが古川ロッパの実父(=写真)。右端の鈴子は市川兼恭養女から弘之に嫁ぐ。[昭和十六年八月二十八日歿(刀が口)]家紋は丸に隅立て四つ目。



その横に遣露留学生
○市川文吉やその父兼恭の墓がある(=写真)。
兼恭は明治二十二年(1889)八月二十六日歿。
文吉は昭和二年(1927)七月三十日歿。



1種4A号4側には
○成瀬隆蔵と思しき墓あり(=写真)。なぜなら背面に接して実父川村順次郎墓の建立者に成瀬の名前を刻んでいるから、そうではなかろうかと考えている。

成瀬は沼津兵学校資業7期生、慶応大学を出て大阪高等学校長、三井合名理事長を務めた元幕臣。妹婿が江原素六。

[成瀬家之墓]の左面には、大正元年(1912)九月に願正寺・善仁寺・南蔵院に収められし先塋の遺骨をここに葬れり。昭和十八年(1943)一月これを建つとある。
家紋は丸に片喰。



○松平忠政(=写真)
1種5号13側 [形原松平家先祖代々諸霊]と書かれた墓誌の右から三番目に[松壽院義岳忠政居士 大正四年(1915)七月廿一日歿/松平忠政]と刻む。
慶喜公側室信の父。家紋は丸に蔦。



○井上源三郎(=写真)、小姓組番頭。以前、護国寺・雑司ヶ谷巡墓会で釣先生が案内した幕臣。正面[井上源三郎/妻楢梅墓]、右面[源信院呉山徳潤惠光居士 大正九年(1920)一月九日歿]。1種14号15側、いだてんにも出てきたアムステルダム五輪監督山本忠興(土佐の人、テレビ開発者)の墓近く。
家紋は隅立て井筒。



ほとぼりがさめたら、巡ってみてください。
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いつか有朋自遠方来、不亦楽乎を願って

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会員のカトケンです。

長のご無沙汰をいたしてをりました。新型コロナウイルス感染症の蔓延で掃苔にも出かけられず、2ヶ月余り在宅勤務を余儀なくされ鬱々とした日々を過ごさゞるを得ませんでした。

やうやく活動しやうと思つてゐた矢先、東京で作つた歴史の集まりのメンバーのひとりが8月に関西へ転勤になるとの知らせを受けました。

それならば送別会をしやうとお誘ひしたところ、何とその方の職場で新型コロナウイルスにかかつた人がゐるため、出発前に会へないと言ふのです。

大変残念ではありましたが、共通テーマでつながつてをり、ある歴史上の人物と遠い親戚であることやお互ひ先祖研究を切磋琢磨して来た仲間でもあることから、今後もラインのやうな少しのやり取りでも有意義な情報交換を続けて行きたいと願つてやみません。

人のご縁に感謝するとゝもに、その方がご先祖について研究発表されたときに示した資料に、偶々わが高祖父の名前が出てきたことが今でも強く印象に残つてゐます。

ちやうど3月に皆で集まらうとしてコロナ自粛でかなはなかつたため、尚更しばらくお目にかゝれないとなると寂しさが募るばかりです。

それでも、こゝはこらへてまた関東にお見えの際は《朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや》と同好の士との再会を心待ちにしたいと思ひます。

追記 歴史的仮名遣ひで書いてみましたが、中々難しいものです。
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土佐人の意外な人脈を有する片岡直輝・直温兄弟を思ふ

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会員のカトケンです。

毎朝通勤時に駅を降りると寝台特急サンライズが止まつてをり、土佐へ足を運びたい気持ちに駆られるが、なかなかこの社会的状況下では実現できないでゐる。

さうこうしているうちに土佐の土を踏んでから1年が経つてしまつた。昨夏高知駅前の観光案内所「とさてらす」でもらつてきた高岡郡「津野町偉人&歴史探訪」パンフレットをペラペラめくつてゐると、まるで双子のやうな瓜二つの兄弟の写真が目に入つた(=写真)。



旧葉山村(現高岡郡津野町。江戸時代は半山村)に生まれた3つ違ひの片岡直輝・直温兄弟である。

弟直温は昭和の金融恐慌を誘発した失言大蔵大臣としてつとに有名だが、小弟の場合、高知大学人文学部日本近代史のゼミで佐佐木高行日記『保古飛呂比』を読んでゐて、陳情のため高岡郡書記として上京し、伊藤博文に非凡さを見出された立志伝中の人物といふ印象がむしろ強い。

他方、今までさほど意識して来なかつた兄直輝の履歴を見てみると、海軍主計学校に学び、学友だつた斎藤実首相、以前このブログで紹介した土佐人武田秀雄(海軍機関中将、三菱造船会長)、島村速雄海軍元帥(=墓写真。青山霊園1種ロ8号1-14側5番甲)らとの友情は生涯続いたといふからその人脈に驚かされる。



直輝は語学力を買はれ、海軍大臣西郷従道の補佐官として渡仏、3年の滞在の間に原敬(首相。東京駅遭難=写真)、仙石貢(土佐人、土木学会長。後藤象二郎の下足番。青山霊園1種イ22号9側にある墓は、以前このブログで紹介した土佐人石本釒貫太郎の墓の向かい。この石本は西郷従道の通訳官を務めてもゐる。)、岩下清周(後述)とは特別強い絆で結ばれたといふ。



さらに父片岡孫五郎の土佐勤王党時代の同志、河野敏鎌内務大臣(万寿弥。青山霊園1種イ11号11側に墓)の秘書官も務めてゐて、これまた有名な歴史上人物との接点が伺へる。

関西財界で重きをなし、阪急電鉄や宝塚歌劇団を作つた小林一三(松岡修造のひいぢいさん)を見出した岩下清周(前述した仏滞在時に親交)との交流やその岩下の作つた北浜銀行の経営危機救済に直輝が奔走してもゐる。

土佐人川田小一郎(三菱から日銀総裁。染井霊園1種イ4号17の2側に墓)に見出されて日銀大阪支店長を務めた後には、大阪ガス、堺ガス、広島ガスの役員を務めてゐることは、わが国ガス事業の開発に功績を上げたと評される所以であらう。

一方で直温も日本生命社長を務めるなど兄弟うちそろつて実業界でも活躍してゐることが分かる。

日生では創業者の一人として第二代社長に直温が収まつてゐるが、創業一族である弘世家には雑司ヶ谷霊園の記事で紹介した旧幕臣の家から出た成瀬隆蔵の息子現が養子に行つてをり、日生第五代社長を務めてもゐる。

この弘世家は近江国(現滋賀県)愛知川の旧家で、中井弘滋賀県知事時代に同県警察部長を務めた直温により築かれたであらう人脈を想起させる。

直温は土佐では国民派出身の政治家として知られるが、今まで見てきた如く様々な足場を基礎に加藤高明内閣の商工大臣、若槻礼次郎内閣の大蔵大臣に道が開けたのは、土佐人脈から云へば必然だつたのかも知れない。

大学当時、友だちに原付を借りて葉山や梼原を訪れたとき、片岡兄弟の生家にあつた石碑(顕彰碑か)しか記憶にないが、一昨年に生家がリニューアルオープンした。

片岡直輝・直温生家

それにしても、昭和2年(1927)4月13日金融恐慌により大蔵大臣として直温が矢面に立たされてゐる最中、兄直輝がこの世を去つた。その8日前に直温は兄直輝の見舞ひに関西へ下り、4日前に東京へ戻つてゐる。

そんな兄弟の墓を見にいま一度葉山を訪れてみたいと思ふ今日この頃である(写真=「津野町偉人&歴史探訪」パンフレット)。


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新年のご挨拶

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会員のカネコです。

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年は新型コロナウイルスの世界的大流行があり、我が国においても緊急事態宣言が発せられ、東京では2ヶ月弱の間、外出自粛を余儀なくされました。その後も人と人との接触をなるべく少なくする行動を意識せざるを得ない状況が続いております。
当会では当初、春先までには幹事メンバーの会合を行う予定でしたが、感染拡大や各人が多忙になってしまったことなどから、会合を見合わせ、会としての活動は行いませんでした。

幹事メンバー個人個人では各自の研究テーマを追い続けています。
コロナ禍にあって、外出の自粛や図書館・文書館など公共機関の使用制限などマイナス面が多かった一方で、インターネット上での調査活動の発展など今後プラスになって行く方向性もみられたと思います。
昨年8月に国立国会図書館が運営するジャパンサーチがリリースされるなど、これからデジタルアーカイブの分野が発展して行くとみられ、今後の展開に期待が持てます。

私個人の研究としてはライフワークである二本松を中心とした福島県中通りの研究に焦点を絞り、墓のみではなく、藩士の名簿類や系譜などの収集をしています。ここ数年の間にだいぶ情報が集まっているので、それをどのように整理してまとめるかということが課題になっています。
今年はしばらくこの二本松方面の研究に全集中したいと思っております。

我々が共通のテーマとしている「お墓」に関しては、残念ながら年々厳しい環境に進んでいる状況です。
都立霊園をはじめとして、無縁墓の撤去が増加している上に、近年では後継者がいない家や墓所が遠方にある家で「墓じまい」をする傾向が増加しており、無縁になっていない墓も急に姿を消すという現象が起きています。
「無縁墓の撤去」と「墓じまい」は本来別個の問題ではありますが、特にこの2、3年はこの点が相まって、消えていく墓が急増していることを肌で感じています。
以前の記事でも書きましたが、著名人・歴史的人物の墓所とはいえ、ご子孫の祭祀の場である以上、ご子孫の事情によって墓所が変化することは仕方のないことだと思います。
墓所の管理維持に縛られ、今を生きる人の生活に支障が出てしまうのであれば、改葬は仕方のないことだと思います。
過去を振り返っても、人々の営みは常に変化し、生活様式・価値観が変わっていくことは決して悪いことではなく、我々もそのような変化に柔軟に対応して、より良い社会になるべきだと思います。
その中で、歴史や伝統とどう向き合い、それに対して何ができるかということを考えるべきなのではないかと思います。
このお墓問題については今の所、撮影等の記録を残し、情報共有して行くことが我々に出来ることではないかと考えております。

お墓の問題以外に憂うべき問題として「個人情報」の問題があります。
個人情報保護法が施行されて以降、「個人情報」の取り扱いに関する意識が高まり、法律で定義されている以上に保護されている傾向があります。
個人情報保護法では個人情報の定義を「生存する個人の情報」としており、故人の情報は含まれません。但し、故人の情報が生存する個人に繋がるもの、例えば相続に関することなどは例外とされています。
この定義でいけば、幕末・明治期を生きた人物の情報というものは本来、法律で保護される範囲外ですが、機関の判断によっては氏名・生年月日・住所・職業等が含まれる文書の閲覧を拒まれることがあります。寺院の過去帳に関しても各宗の本山より非公開の通知が出ています。
現在、先祖調査の必須アイテムともいえる戸籍謄本や旧土地台帳に関してもこのまま運用されるのか、何らかの制限が課せられるのか、今後の動向を注視する必要があります。
個人的な考えとして、これらの制限は歴史学の発展を妨げるものであり、「生存する個人の情報」と一部の例外を除いては原則公開されるべきだと思いますが、制限が課せられるのには理由がありますので、利用者の立場としても依頼は常に謙虚に、そして運用・活用に関しては適切に行うといことを心がけたいと思っております。

当会の命名者であり、我々が師事している釣洋一先生はコロナ拡大までは月1回旧春廼舎である猫廼舎をお借りして勉強会を開いていましたが、昨年は中断せざるを得なく、また、秋には体調を崩され、ご入院されていましたが、11月に退院され、その月の勉強会は開催され、お元気なご様子であったそうです。
本年は勉強会が再開されることを願っております。

ここ数年巡墓会の方はお休みしていた当会メンバーの河内貞芳さんより、昨年末にご連絡を頂き、ご多忙ながらも『侍たちの警視庁』続編に向けて、掃苔活動を続けているというお話を頂きました。仲間がそれぞれの道で活躍している様子は大変嬉しく励みになります。

平成30年(2018)に刊行した『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』もおかげさまで、昨年も複数の方にご購入いただきました。
本年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一やその主君徳川慶喜など関連人物も取り上げています。
ご興味のある方はお読みいただけますと嬉しく思います。

本年もコロナ禍が続いている状態であり、会としての活動は当面未定となっています。
しばらくは個々の活動に専念したいと思います。
昨年開催できなかった幹事メンバーによる会合は春~夏の間に行いたいと考えておりますので、またその折にはご報告したいと思っております。

本年が皆様にとって良い1年になることを祈念いたします。
また、1日も早いコロナ禍からの脱却、かつての自由な行動ができる日々が戻ることを願っております。
引き続き、当会メンバーへのご支援ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。
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