会員のカネコです。
以前、間宮林蔵の先祖考として、間宮豊前守信盛の墓について書きました。
間宮豊前守信盛の墓-間宮林蔵の先祖考-
間宮豊前守信盛は川崎に居館を構えていましたが、その子信元は現在の横浜市港南区港南・洋光台・笹下に跨る笹下城に居城を移しました。
その後、この笹下城の一帯は間宮氏の本拠地として江戸時代に至るまで間宮氏一族との関係を保っていきます。
先日、この間宮の里とも言うべき笹下城跡の周辺を訪れました。
笹下城は現在の笹下4丁目11-5にある成就院の一帯にあったと言われています。
梅花山成就院の山門左脇にはその笹下城の跡を示す案内板があります。
ちょうどこの辺りが空堀であったようです。
周辺は宅地開発が進み、城の遺構はあまり残されていませんが、寺院裏山墓地に土塁と思われる遺構がありました。
さらにこの背後の台地上が本丸であったと言われていますが、こちらも宅地となっており、その形跡は分かりませんでした。
土塁の遺構がある墓地には成就院の住職の三男で、元治元年10月22日(1864・11・21)にイギリス人士官2名が斬られた鎌倉事件の実行者の一人間宮一の墓があります。
住職家の姓は間宮ではありませんが、一が間宮姓を称しているのは、やはり住職家と間宮氏に何らかの関係があったものと考えられます。
笹下から少し離れますが、港南区に隣接する磯子区杉田も間宮一族との縁が深い土地です。
間宮豊前守信盛の二男信常の系統は杉田の地に陣屋を構え杉田間宮氏となりました。
陣屋はJR杉田駅と京急杉田駅の間あたりにあったと言われています。
杉田八幡宮の隣にはかつて別当寺間宮山妙観寺があり、山号の通り間宮氏が開基しています。
現在は廃寺となり、杉田幼稚園の敷地内に跡地を示す石碑が立っています。
杉田間宮氏の菩提寺妙法寺には江戸時代に旗本となった杉田間宮氏歴代の墓があります。
江戸初期の立派な宝篋印塔もあり、旗本墓所としては良好の状態で残されています。
間宮氏は江戸時代に入ると、笹下城主の信元-康俊-康信と繋がる本家、上記の杉田間宮氏、信元の二男綱信を祖とする氷取沢間宮氏の系統に分かれ、さらにこれらの家から分家を創出し、数多くの旗本家が出ています。
さて、先日書いた「間宮豊前守信盛の墓-間宮林蔵の先祖考-」では間宮林蔵の先祖間宮隼人が笹下城主間宮康俊の子という説があることを書きましたが、この説については追跡を続けています。
この説についてまず詳しく書かれているのが、「系譜のナゾ・玄白と林蔵の因縁」(市民グラフヨコハマ 21号)であり、それを基に様々な史料から比較検討した「間宮林蔵の祖「番匠・間宮隼人」は伊奈関東郡代の小貝川流域開発に協力するため横浜領から移住した 検地帳、古地図からその足どりを解明」(『間宮林蔵の再発見』)によって、この説が補強されています。
「系譜のナゾ・玄白と林蔵の因縁」では資料・フィールドワークを駆使して隼人が康俊の子であることの確証を探しますが、決定的な証拠は出てきていません。主に林蔵の実家茨城下平柳村の間宮家子孫の伝が根拠になっています。もちろん伝承や子孫の調査は有力な話でありますが、少々客観的な証拠が乏しいようにも思えました。
「間宮林蔵の祖「番匠・間宮隼人」は伊奈関東郡代の小貝川流域開発に協力するため横浜領から移住した 検地帳、古地図からその足どりを解明」では天正19年(1591)の杉田下郷の検地帳に「番匠隼人」の名があるのを見い出し、この「番匠隼人」こそが間宮林蔵の先祖である間宮隼人であるとしています。
この検地帳には間宮彦次郎直元、間宮惣七郎、間宮右衛門三郎等康俊の子や甥の見られます。小田原落城後、間宮氏は所領を安堵され、笹下近辺に居住しており、隼人もこの地に住んでいたと考えられます。この記事では推測として代官伊奈氏との関係で、隼人が笹下より茨城の下平柳村へ移住したのではないかとしています。
様々な史料を駆使した力作の記事で、これを読むと確かに隼人が康俊の子である可能性は高いなと思いました。
それでも尚、本当に隼人が康俊の子であったかという疑問は残ります。康俊の娘には徳川家康の側室となった人もいます。家康の側室の兄弟が農民になるのかという素朴な疑問もあります。
これについてはもう少し調べた上で、巡墓会のレジュメに記載したいと思っています。
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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」申込みフォーム
以前、間宮林蔵の先祖考として、間宮豊前守信盛の墓について書きました。
間宮豊前守信盛の墓-間宮林蔵の先祖考-
間宮豊前守信盛は川崎に居館を構えていましたが、その子信元は現在の横浜市港南区港南・洋光台・笹下に跨る笹下城に居城を移しました。
その後、この笹下城の一帯は間宮氏の本拠地として江戸時代に至るまで間宮氏一族との関係を保っていきます。
先日、この間宮の里とも言うべき笹下城跡の周辺を訪れました。
笹下城は現在の笹下4丁目11-5にある成就院の一帯にあったと言われています。
梅花山成就院の山門左脇にはその笹下城の跡を示す案内板があります。
ちょうどこの辺りが空堀であったようです。
周辺は宅地開発が進み、城の遺構はあまり残されていませんが、寺院裏山墓地に土塁と思われる遺構がありました。
さらにこの背後の台地上が本丸であったと言われていますが、こちらも宅地となっており、その形跡は分かりませんでした。
土塁の遺構がある墓地には成就院の住職の三男で、元治元年10月22日(1864・11・21)にイギリス人士官2名が斬られた鎌倉事件の実行者の一人間宮一の墓があります。
住職家の姓は間宮ではありませんが、一が間宮姓を称しているのは、やはり住職家と間宮氏に何らかの関係があったものと考えられます。
笹下から少し離れますが、港南区に隣接する磯子区杉田も間宮一族との縁が深い土地です。
間宮豊前守信盛の二男信常の系統は杉田の地に陣屋を構え杉田間宮氏となりました。
陣屋はJR杉田駅と京急杉田駅の間あたりにあったと言われています。
杉田八幡宮の隣にはかつて別当寺間宮山妙観寺があり、山号の通り間宮氏が開基しています。
現在は廃寺となり、杉田幼稚園の敷地内に跡地を示す石碑が立っています。
杉田間宮氏の菩提寺妙法寺には江戸時代に旗本となった杉田間宮氏歴代の墓があります。
江戸初期の立派な宝篋印塔もあり、旗本墓所としては良好の状態で残されています。
間宮氏は江戸時代に入ると、笹下城主の信元-康俊-康信と繋がる本家、上記の杉田間宮氏、信元の二男綱信を祖とする氷取沢間宮氏の系統に分かれ、さらにこれらの家から分家を創出し、数多くの旗本家が出ています。
さて、先日書いた「間宮豊前守信盛の墓-間宮林蔵の先祖考-」では間宮林蔵の先祖間宮隼人が笹下城主間宮康俊の子という説があることを書きましたが、この説については追跡を続けています。
この説についてまず詳しく書かれているのが、「系譜のナゾ・玄白と林蔵の因縁」(市民グラフヨコハマ 21号)であり、それを基に様々な史料から比較検討した「間宮林蔵の祖「番匠・間宮隼人」は伊奈関東郡代の小貝川流域開発に協力するため横浜領から移住した 検地帳、古地図からその足どりを解明」(『間宮林蔵の再発見』)によって、この説が補強されています。
「系譜のナゾ・玄白と林蔵の因縁」では資料・フィールドワークを駆使して隼人が康俊の子であることの確証を探しますが、決定的な証拠は出てきていません。主に林蔵の実家茨城下平柳村の間宮家子孫の伝が根拠になっています。もちろん伝承や子孫の調査は有力な話でありますが、少々客観的な証拠が乏しいようにも思えました。
「間宮林蔵の祖「番匠・間宮隼人」は伊奈関東郡代の小貝川流域開発に協力するため横浜領から移住した 検地帳、古地図からその足どりを解明」では天正19年(1591)の杉田下郷の検地帳に「番匠隼人」の名があるのを見い出し、この「番匠隼人」こそが間宮林蔵の先祖である間宮隼人であるとしています。
この検地帳には間宮彦次郎直元、間宮惣七郎、間宮右衛門三郎等康俊の子や甥の見られます。小田原落城後、間宮氏は所領を安堵され、笹下近辺に居住しており、隼人もこの地に住んでいたと考えられます。この記事では推測として代官伊奈氏との関係で、隼人が笹下より茨城の下平柳村へ移住したのではないかとしています。
様々な史料を駆使した力作の記事で、これを読むと確かに隼人が康俊の子である可能性は高いなと思いました。
それでも尚、本当に隼人が康俊の子であったかという疑問は残ります。康俊の娘には徳川家康の側室となった人もいます。家康の側室の兄弟が農民になるのかという素朴な疑問もあります。
これについてはもう少し調べた上で、巡墓会のレジュメに記載したいと思っています。
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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
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