Quantcast
Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
Viewing all articles
Browse latest Browse all 295

年頭のあいさつと謎の墓

$
0
0
お二人から遅れてしまいましたが、新年あけましておめでとうございます。
会員のクロサカです。
本年もあまり知られていないお墓を紹介していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

さて、2017年最初の投稿です!
昨年行われた麟祥院オフ会の事前準備として、当会員カトケンさんと文京区動坂近くの養源寺を中心に周辺調査を行いました。
その際に発見した「謎」の墓を紹介したいと思います。



すごく変わったお墓で、墓碑正面は観音開きになっています。このお墓は海蔵寺にあります。
海蔵寺といえば、身禄行者や雲龍久吉をはじめとする相撲関係者、儒学者立原翠軒のお墓や多くの旗本が菩提所としています。
そんな錚々たる人々が眠る墓地にこのお墓があります。
台座には「酒井家」と「丸に剣片喰」が刻まれ、観音開きの取っ手付近にも「丸に剣片喰」が装飾されています。

墓碑左には、銅板の墓誌が置かれており、たいへん興味深いことが書かれていました。



右から「初代経基王」、「六代義国」、「九代頼氏」、「十二代満義」、「十六代親氏」、「十八代氏忠」、「二代忠尚」、「四代忠季」、「五代忠潔」となっています。
初代経基王というのは、清和源氏の祖源経基のことです。六代義国は新田氏の祖になります。
九代頼氏と十二代満義は松平家の祖と同じく新田頼氏・新田満義のことです。この二人は世良田氏でもあります。
そして十六代親氏が松平家と酒井家の祖となる松平(酒井)親氏のことです。
実際に埋葬されてはいませんが、ここまで先祖を強調したお墓はあまり見たことがありません。
十八代酒井氏忠は、酒井家の祖親氏の子酒井広親(岡崎龍海院にも墓あり)の子で、左衛門尉家の初代です。
この左衛門尉家から徳川四天王の一人、酒井忠次が登場し、出羽荘内藩主酒井家となっていきます。

さて、問題なのは、次の二代忠尚からの3人です。
忠尚は三河上野城主で、酒井氏忠の子康忠の子で、酒井忠次の叔父に当たるとされています。
しかし、三河国一向一揆に参加するなどして、松平家から離反し、駿河国に落ち延びたと刻まれています。
その孫に当たる人物なのか、四代忠季は、信濃国木曽谷に移動し、木曽源氏の子孫で、武田・織田家の家臣木曽義昌に仕えたと刻まれています。その後、小笠原政信に仕え、大坂の陣後は信濃国筑摩郡竹淵村に帰農したようです。
この碑の末尾に末裔の酒井松吉氏が昭和55年に建立したことが刻まれています。
この銘板以外にもう一つ石造の墓誌があり、こちらに現在のご子孫の戒名と俗名などが刻まれていますが、ここにも初代として「坂井十五郎親忠改酒井左衛門尉源氏忠」と「淨賢道号愚王」の戒名が刻まれています。

この銘版碑文の真偽のほどは不明ですが、このような名族の子孫を名乗る一族は全国各地に点在し、自らの先祖を顕彰する活動をしている人びとも多いです。
そのなかでも公家や大名だった人びとだけ華族となり、爵位を得るわけですが、この酒井家のような一族も多いので、探っていきたいと思っております。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 295

Trending Articles