会員のカトケンです。
土佐勤王党で幕末に仲間を斬つた罪で揚屋入り、維新を迎へ晴れて娑婆に出た今橋権助といふ人物の墓が特定できたご報告。
青山霊園2種イ10号70側北向きに高田家之墓があり、その敷地内に茶色い[今橋家之墓]がある(=写真)。
側面に[巌 明治二十二年(1889)一月十八日没]と刻まれてゐる。巌は権助の明治以降の名前。まさかと思つたが、『高知県人名事典 新版』には[明治32年(1899)1月18日没]と書かれてゐて、没した年は違へど月日は同じだから間違ひなからうけれども、10年違ひなのが気になつて何とも煮え切らない思ひをしてゐた。
それがこの程部屋の片づけをしてゐたら、今橋の死亡記事を引用してゐる『須崎市史』のコピーが出てきて、没年の[明治二十二年]が正しいことが分かつた。
卒論を書くときにーーテーマは古勤王党から国民派へと言つて、土佐勤王党の生き残りの明治を追ひかけたものーー大概大学図書館の郷土コーナーに高知県内の市町村史が所蔵されてゐたのだが、『須崎市史』と『野市町史』(野市町は現在香南市)だけ所蔵が無くて、しかもこの2冊が古勤王党を取り上げるには重要だつたため、仕方がなく高知県立図書館(現在は市民図書館と一緒になり場所も移りオーテピアとなつてゐる)まで自転車に乗つて借りに行つたのだつた。
その時、テッキリ『須崎市史』はコピーしてゐないものとばかり思つてゐたので、意外だつた。しかもこの記述が今回確定する決め手となつたから尚更有難かつた。
そこには簡単な家系図が記され、息子と孫の名前が明記されてをり、単なる同姓同名でないことが分かつて没年月日の一致を見た。しかも、東京で亡くなつたことまで書かれてゐる。
東京で亡くなつたからといつて、当てずつぽうで墓探しをして青山霊園だとか谷中霊園だとか、さうさう当たるものぢやない。一地方のどちらかといふと郷土人物に位置づけられる者の墓に青山で出くはすとは何たる偶然かそれとも必然か。
ともあれ、この今橋権助こと巌といふ人物の功績は、明治10年(1877)に板垣退助ら立志社と対立する古勤王党も西南戦争に呼応して挙兵しようと企てるのだが、それを高知県西部に位置する高岡郡で完全に阻止して見せたことだ。
これには中央政府の佐佐木高行司法大輔の激励が一役買つてゐたし、派遣された土佐出身の陸軍軍人北村重頼が立志社の調達した武器を一気に取り上げたことの側面支援にもなつてゐる。
高知県は今にも挙兵せんとする危険な状態で、大阪に来た政府要人の暗殺まで企てゝゐたのだから、実現してゐたら相当歴史がひつくり返つてゐたことだらう。
それだけたつた10年足らずの明治政府に物申す、或いは転覆してやるといふ批判が大きかつたわけで、そこで捕まつた立志社幹部や同志は数年の獄中生活を送つて、再び娑婆に出た後に議員や閣僚を務めた者もゐる。
土佐の人物だけでなく、陸奥宗光もゐたことを考えるとこのとき大物たちが受けた大打撃がより一層分かるし、反対に阻止した側の貢献度がいかに重要か推して知るべしといふものだ。
これを私はよく警察が事件を未然に阻止したときに例へる。つまり、事件になつてゐたら損失は計り知れないけれど、事件を阻止した側は余り評価されない、寧ろ不当に評価されないでゐると思つてしまふ。
いかに何も起こさせない、未然に防ぐことにより事件や戦争に巻き込まれなくて済んだわけだから、阻止した側はもつと評価されて良いのではないか。お巡りさんの役割は報はれないなと感じてしまふ。
皆さんはどう思はれるだらうか。
佐佐木高行が明治6年末(1873)に板垣退助らが政府を辞めて一斉に土佐に帰つたとき暴発が起きないか常に気を配り、時には古勤王党を阻止陣営にあの手この手で味方に引き入れようとする、いはゞそれが奏功して見事高知県が焦土と化すのを免れたわけである。
かういふ歴史の陰になつてゐる部分を取り上げれば少し違つた見方ができるのではないか。実はこの辺を卒論以降の論文第2段にしようとして、既に20年以上の月日が経つてしまつた、何とも情けないお話。
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土佐勤王党で幕末に仲間を斬つた罪で揚屋入り、維新を迎へ晴れて娑婆に出た今橋権助といふ人物の墓が特定できたご報告。
青山霊園2種イ10号70側北向きに高田家之墓があり、その敷地内に茶色い[今橋家之墓]がある(=写真)。
側面に[巌 明治二十二年(1889)一月十八日没]と刻まれてゐる。巌は権助の明治以降の名前。まさかと思つたが、『高知県人名事典 新版』には[明治32年(1899)1月18日没]と書かれてゐて、没した年は違へど月日は同じだから間違ひなからうけれども、10年違ひなのが気になつて何とも煮え切らない思ひをしてゐた。
それがこの程部屋の片づけをしてゐたら、今橋の死亡記事を引用してゐる『須崎市史』のコピーが出てきて、没年の[明治二十二年]が正しいことが分かつた。
卒論を書くときにーーテーマは古勤王党から国民派へと言つて、土佐勤王党の生き残りの明治を追ひかけたものーー大概大学図書館の郷土コーナーに高知県内の市町村史が所蔵されてゐたのだが、『須崎市史』と『野市町史』(野市町は現在香南市)だけ所蔵が無くて、しかもこの2冊が古勤王党を取り上げるには重要だつたため、仕方がなく高知県立図書館(現在は市民図書館と一緒になり場所も移りオーテピアとなつてゐる)まで自転車に乗つて借りに行つたのだつた。
その時、テッキリ『須崎市史』はコピーしてゐないものとばかり思つてゐたので、意外だつた。しかもこの記述が今回確定する決め手となつたから尚更有難かつた。
そこには簡単な家系図が記され、息子と孫の名前が明記されてをり、単なる同姓同名でないことが分かつて没年月日の一致を見た。しかも、東京で亡くなつたことまで書かれてゐる。
東京で亡くなつたからといつて、当てずつぽうで墓探しをして青山霊園だとか谷中霊園だとか、さうさう当たるものぢやない。一地方のどちらかといふと郷土人物に位置づけられる者の墓に青山で出くはすとは何たる偶然かそれとも必然か。
ともあれ、この今橋権助こと巌といふ人物の功績は、明治10年(1877)に板垣退助ら立志社と対立する古勤王党も西南戦争に呼応して挙兵しようと企てるのだが、それを高知県西部に位置する高岡郡で完全に阻止して見せたことだ。
これには中央政府の佐佐木高行司法大輔の激励が一役買つてゐたし、派遣された土佐出身の陸軍軍人北村重頼が立志社の調達した武器を一気に取り上げたことの側面支援にもなつてゐる。
高知県は今にも挙兵せんとする危険な状態で、大阪に来た政府要人の暗殺まで企てゝゐたのだから、実現してゐたら相当歴史がひつくり返つてゐたことだらう。
それだけたつた10年足らずの明治政府に物申す、或いは転覆してやるといふ批判が大きかつたわけで、そこで捕まつた立志社幹部や同志は数年の獄中生活を送つて、再び娑婆に出た後に議員や閣僚を務めた者もゐる。
土佐の人物だけでなく、陸奥宗光もゐたことを考えるとこのとき大物たちが受けた大打撃がより一層分かるし、反対に阻止した側の貢献度がいかに重要か推して知るべしといふものだ。
これを私はよく警察が事件を未然に阻止したときに例へる。つまり、事件になつてゐたら損失は計り知れないけれど、事件を阻止した側は余り評価されない、寧ろ不当に評価されないでゐると思つてしまふ。
いかに何も起こさせない、未然に防ぐことにより事件や戦争に巻き込まれなくて済んだわけだから、阻止した側はもつと評価されて良いのではないか。お巡りさんの役割は報はれないなと感じてしまふ。
皆さんはどう思はれるだらうか。
佐佐木高行が明治6年末(1873)に板垣退助らが政府を辞めて一斉に土佐に帰つたとき暴発が起きないか常に気を配り、時には古勤王党を阻止陣営にあの手この手で味方に引き入れようとする、いはゞそれが奏功して見事高知県が焦土と化すのを免れたわけである。
かういふ歴史の陰になつてゐる部分を取り上げれば少し違つた見方ができるのではないか。実はこの辺を卒論以降の論文第2段にしようとして、既に20年以上の月日が経つてしまつた、何とも情けないお話。
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