会員のカネコです。
当会では平成21年(2009)の発足時より全国歴史研究会の会誌である『歴史研究』の「史談往来」のコーナーにて「掃苔行脚」をリレー連載しています。
各幹事年2回担当が回ってきて、私はライフワークである福島県二本松市に関わる人物を取り上げています。
昨日配本となった第671号(2019年年5月号)で連載20回となりますが、今回は二本松藩士の子で昭和天皇の漢学の師となった服部宇之吉を取り上げました。
服部宇之吉は慶応3年4月30日(1867・6・2)二本松藩士服部藤八の三男として二本松城下で生まれました。父藤八は翌年の戊辰戦争における二本松城奪還戦において戦死したため、叔父服部喜平の養子となりました。明治6年(1873)喜平が東京麻布の丹羽邸に仕えるために上京した際に一家と共に上京し、麻布小学校、共立学校大学予備門、東京帝国大学文学大学へ進み、卒業後は文部省に入り、先日のブログでも取り上げた文部大臣浜尾新の秘書官などを務めました。
明治32年(1899)漢学研究のため北京へ留学した際に義和団事件に遭遇し、日本軍や在留邦人と共に2ヶ月の籠城を経験し、このことを後に『北京籠城日記』『北京籠城回顧録』として著しています。北京の後、ドイツへ留学し、帰国後は東京帝国大学教授となっています。
また、清国より文科進士を授与され、日本における中国哲学・史学・文学研究者の第一人者としてその名声を高めました。小柳司気太との共著『詳解漢和大字典』は漢和字典の定番として長年多くの人たちに重宝されています。
大正7年(1918)・大正9年(1920)御講書始で漢書の御進講を務め、大正10年(1921)9月30日に東宮職御用掛となり、週1回、皇太子裕仁親王(昭和天皇)への漢文の御進講を務めています。大正11年(1922)摂政宮となった裕仁親王への御講書始を務め、『昭和天皇実録 第3巻』に「論語為政篇子曰吾十有五而志于学章」と題した内容であったことが記されています。
皇太子妃良子女王(香淳皇后)が第一子を懐妊した際には芳賀矢一らと共に皇子・皇女の諱・通称各三案を考案しています。この時に生まれた第一子が照宮成子内親王で、その諱と通称は漢書『易経』を出典としています。
晩年は関東大震災で焼失した湯島聖堂の再建に尽力しました。
郷里二本松との関わりである寛延3年(1749)藩士達への訓戒として藩庁前に設置された戒石銘碑の研究を行い、『旧二本松藩戒石銘碑説明書』を著しています。また、『二本松藩史』刊行会理事長も務めています。
昭和4年(1939)7月11日73歳で死去。葬儀は築地本願寺で行われ、墓所は護国寺(真言宗豊山派、神齢山悉地院。東京都文京区大塚5丁目40―1)に設けられました。
墓所には宇之吉夫妻の墓碑と門下生によって建立された[服部隨軒先生墓碑銘]があります。
二本松における服部家の菩提寺は顕法寺(浄土真宗本願寺派、塩松山。福島県二本松市竹田1丁目198)であり、山の斜面にある墓地の中腹部に父藤八の墓をはじめ18基の墓碑が現存しています。
また、本堂近くには平成20年(2008)に二本松史跡保存会によって建立された[服部宇之吉博士顕彰碑]があります。
墓所・墓碑銘に関しては『歴史研究』をご覧頂ければと思いますが、文字制限により割愛した部分について紹介したいと思います。
服部宇之吉の生涯について参考になる資料としては『服部先生古稀祝賀記念論文集』、『斯文 21巻9号』所載「服部隨軒先生追悼録」があります。
『服部先生古稀祝賀記念論文集』には昭和11年(1936)に宇之吉本人が書いた「服部先生自叙」が収められています。
「服部隨軒先生追悼録」は縁者による追悼文が掲載されていますが、特に妻繁子による「我良人の生立の記」に宇之吉の生い立ちについて詳しく書かれています。
宇之吉が生れた翌年、戊辰戦争が起こり、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加盟し、落城するまで戦いました。父藤八もこの戦闘に加わり、落城の翌月の二本松城奪還戦で戦死ししました。母はこの年の春に既に病死していたため、赤子であった宇之吉は叔父夫妻に養育されていました。叔父も藩主丹羽長国のお供のため米沢に赴いていたため、養母と宇之吉は炎上する城下で死を覚悟していた所、服部家に出入りしていた農民が二人を救出し、自宅のある上川崎村(旧安達町)に匿われました。
やがて西軍が落人の詮索を始めると、養母に農家の婦人の服装をさせて農事を手伝わせました。しかし、農婦の姿をしてもどこか様子が違うので、家人が心配し、ある時西軍の兵士がやって来ると慌てて養母と宇之吉を馬小屋に入れて、山積みの馬糧の下に押し込みました。養母は短剣を抜き側に置いて、もし宇之吉が一声泣こうものなら、短剣で刺し、自らも自害する覚悟をしました。西軍兵士は槍の柄を頻りに糧のあちらこちらを突きましたが、幸いにも発見されずに済みました。宇之吉はこの時、一声も泣かなかったといい、さらにもう一度、馬小屋に隠れたことがありましたが、その時も発見されずに済んだといいます。
母子を匿った農家の主人はある時西軍兵士の怒りを買い斬られてしまいましたが、養母はそれを物陰から見て「胸ももえ上るばかりの怒り」を感じたといいます。
賊軍と呼ばれた二本松藩の藩士の子とした生まれた宇之吉ですが、学問で大成し、やがて天皇の師となったことで、その汚名をそそぐことができたのではないかと思います。
その表れとして、宇之吉は皇室への尊崇の念が強く、昭和8年(1933)皇太子明仁親王(今上天皇)が誕生すると、奉祝の念に堪えず、夫人と伊勢神宮、熱田神宮に参拝し、皇室の繁栄を祈りました。
宇之吉の病が重くなった時には昭和天皇・香淳皇后より見舞いの果物を下賜されると、感激し子供たちを呼び集め、「天恩の有難き由を聞かせ、宮城の方に向ひ御礼を申し述べた」といいます。
その声は病中にあって大きく明瞭であったといい、「謹しみて天を拝し天恩の有難きを拝謝し一日も早く御奉公申上度切願致し候」と三度同じように述べたといいます。
宇之吉の教え子は数多くいますが、その中に中国文学者目加田誠がおり、『斯文 21巻9号』に「先生の憶ひ出」と題し服部宇之吉との思い出を寄稿しています。
目加田誠は平成の改元の際の考案者の一人であり、つい先日、生前に残した元号案を推敲したとみられるメモが見つかり、政府の最終案に残った「修文」などを考案していたことが分かっています。
先日は皇太子徳仁親王の養育・教育に貢献した濱尾實、さらに以前は昭和天皇の倫理の師杉浦重剛のことも取り上げましたが、平成から令和の代替わりで皇室への注目が高まっている今、皇室を影で支えてきた人たちの存在も広く知られるべきだと思っています。
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当会では平成21年(2009)の発足時より全国歴史研究会の会誌である『歴史研究』の「史談往来」のコーナーにて「掃苔行脚」をリレー連載しています。
各幹事年2回担当が回ってきて、私はライフワークである福島県二本松市に関わる人物を取り上げています。
昨日配本となった第671号(2019年年5月号)で連載20回となりますが、今回は二本松藩士の子で昭和天皇の漢学の師となった服部宇之吉を取り上げました。
服部宇之吉は慶応3年4月30日(1867・6・2)二本松藩士服部藤八の三男として二本松城下で生まれました。父藤八は翌年の戊辰戦争における二本松城奪還戦において戦死したため、叔父服部喜平の養子となりました。明治6年(1873)喜平が東京麻布の丹羽邸に仕えるために上京した際に一家と共に上京し、麻布小学校、共立学校大学予備門、東京帝国大学文学大学へ進み、卒業後は文部省に入り、先日のブログでも取り上げた文部大臣浜尾新の秘書官などを務めました。
明治32年(1899)漢学研究のため北京へ留学した際に義和団事件に遭遇し、日本軍や在留邦人と共に2ヶ月の籠城を経験し、このことを後に『北京籠城日記』『北京籠城回顧録』として著しています。北京の後、ドイツへ留学し、帰国後は東京帝国大学教授となっています。
また、清国より文科進士を授与され、日本における中国哲学・史学・文学研究者の第一人者としてその名声を高めました。小柳司気太との共著『詳解漢和大字典』は漢和字典の定番として長年多くの人たちに重宝されています。
大正7年(1918)・大正9年(1920)御講書始で漢書の御進講を務め、大正10年(1921)9月30日に東宮職御用掛となり、週1回、皇太子裕仁親王(昭和天皇)への漢文の御進講を務めています。大正11年(1922)摂政宮となった裕仁親王への御講書始を務め、『昭和天皇実録 第3巻』に「論語為政篇子曰吾十有五而志于学章」と題した内容であったことが記されています。
皇太子妃良子女王(香淳皇后)が第一子を懐妊した際には芳賀矢一らと共に皇子・皇女の諱・通称各三案を考案しています。この時に生まれた第一子が照宮成子内親王で、その諱と通称は漢書『易経』を出典としています。
晩年は関東大震災で焼失した湯島聖堂の再建に尽力しました。
郷里二本松との関わりである寛延3年(1749)藩士達への訓戒として藩庁前に設置された戒石銘碑の研究を行い、『旧二本松藩戒石銘碑説明書』を著しています。また、『二本松藩史』刊行会理事長も務めています。
昭和4年(1939)7月11日73歳で死去。葬儀は築地本願寺で行われ、墓所は護国寺(真言宗豊山派、神齢山悉地院。東京都文京区大塚5丁目40―1)に設けられました。
墓所には宇之吉夫妻の墓碑と門下生によって建立された[服部隨軒先生墓碑銘]があります。
二本松における服部家の菩提寺は顕法寺(浄土真宗本願寺派、塩松山。福島県二本松市竹田1丁目198)であり、山の斜面にある墓地の中腹部に父藤八の墓をはじめ18基の墓碑が現存しています。
また、本堂近くには平成20年(2008)に二本松史跡保存会によって建立された[服部宇之吉博士顕彰碑]があります。
墓所・墓碑銘に関しては『歴史研究』をご覧頂ければと思いますが、文字制限により割愛した部分について紹介したいと思います。
服部宇之吉の生涯について参考になる資料としては『服部先生古稀祝賀記念論文集』、『斯文 21巻9号』所載「服部隨軒先生追悼録」があります。
『服部先生古稀祝賀記念論文集』には昭和11年(1936)に宇之吉本人が書いた「服部先生自叙」が収められています。
「服部隨軒先生追悼録」は縁者による追悼文が掲載されていますが、特に妻繁子による「我良人の生立の記」に宇之吉の生い立ちについて詳しく書かれています。
宇之吉が生れた翌年、戊辰戦争が起こり、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加盟し、落城するまで戦いました。父藤八もこの戦闘に加わり、落城の翌月の二本松城奪還戦で戦死ししました。母はこの年の春に既に病死していたため、赤子であった宇之吉は叔父夫妻に養育されていました。叔父も藩主丹羽長国のお供のため米沢に赴いていたため、養母と宇之吉は炎上する城下で死を覚悟していた所、服部家に出入りしていた農民が二人を救出し、自宅のある上川崎村(旧安達町)に匿われました。
やがて西軍が落人の詮索を始めると、養母に農家の婦人の服装をさせて農事を手伝わせました。しかし、農婦の姿をしてもどこか様子が違うので、家人が心配し、ある時西軍の兵士がやって来ると慌てて養母と宇之吉を馬小屋に入れて、山積みの馬糧の下に押し込みました。養母は短剣を抜き側に置いて、もし宇之吉が一声泣こうものなら、短剣で刺し、自らも自害する覚悟をしました。西軍兵士は槍の柄を頻りに糧のあちらこちらを突きましたが、幸いにも発見されずに済みました。宇之吉はこの時、一声も泣かなかったといい、さらにもう一度、馬小屋に隠れたことがありましたが、その時も発見されずに済んだといいます。
母子を匿った農家の主人はある時西軍兵士の怒りを買い斬られてしまいましたが、養母はそれを物陰から見て「胸ももえ上るばかりの怒り」を感じたといいます。
賊軍と呼ばれた二本松藩の藩士の子とした生まれた宇之吉ですが、学問で大成し、やがて天皇の師となったことで、その汚名をそそぐことができたのではないかと思います。
その表れとして、宇之吉は皇室への尊崇の念が強く、昭和8年(1933)皇太子明仁親王(今上天皇)が誕生すると、奉祝の念に堪えず、夫人と伊勢神宮、熱田神宮に参拝し、皇室の繁栄を祈りました。
宇之吉の病が重くなった時には昭和天皇・香淳皇后より見舞いの果物を下賜されると、感激し子供たちを呼び集め、「天恩の有難き由を聞かせ、宮城の方に向ひ御礼を申し述べた」といいます。
その声は病中にあって大きく明瞭であったといい、「謹しみて天を拝し天恩の有難きを拝謝し一日も早く御奉公申上度切願致し候」と三度同じように述べたといいます。
宇之吉の教え子は数多くいますが、その中に中国文学者目加田誠がおり、『斯文 21巻9号』に「先生の憶ひ出」と題し服部宇之吉との思い出を寄稿しています。
目加田誠は平成の改元の際の考案者の一人であり、つい先日、生前に残した元号案を推敲したとみられるメモが見つかり、政府の最終案に残った「修文」などを考案していたことが分かっています。
先日は皇太子徳仁親王の養育・教育に貢献した濱尾實、さらに以前は昭和天皇の倫理の師杉浦重剛のことも取り上げましたが、平成から令和の代替わりで皇室への注目が高まっている今、皇室を影で支えてきた人たちの存在も広く知られるべきだと思っています。
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