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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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今上天皇の恩師、小泉信三の墓

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会員のカネコです。
平成最後の投稿となります。
いよいよ今日で平成が終わりますが、私は10代から30代の人生の大事な期間を「平成」の時代に過ごしました。この探墓巡礼顕彰会を結成したのも「平成」、初めての本を出版したのも「平成」です。
昨年末の平成最後の天皇誕生日での会見で、今上天皇は「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。」と述べられましたが、私たちが平和を享受して今を生きているのも、今上天皇の平和へのたゆみない努力の賜物であるといっても過言ではありません。
今上天皇は第125代天皇の役割を全うし、未来を新天皇に託します。

その今上天皇に大きな影響を与えた人物として、東宮御教育常時参与として若き皇太子明仁親王の教育責任者となった小泉信三が挙げられます。
平成最後の記事としてこの小泉信三を取り上げます。

小泉信三は旧紀州藩士で慶応義塾総長・横浜正金銀行支配人などを務めた小泉信吉の二男として明治21年(1888)5月4日に生まれました。
父信吉が明治27年(1894)46歳で亡くなると一時期、家族で福沢諭吉の邸内に同居しています。福沢死去の翌年である明治35年(1902)慶応義塾普通部に編入学し、大学部では政治科に進みました。卒業後は教員に採用され、経済学部教授として、経済原論・経済史・社会問題などを教えました。信三は自由主義を論調として、反マルクス主義の旗手としてその名声を挙げました。
昭和8年(1933)から13年余り慶応義塾塾長を務め、昭和19年(1944)には内閣顧問を務めています。
太平洋戦争中に長男信吉が戦死し、自身も東京大空襲の際に焼夷弾に接触し顔面に火傷を負いました。
戦後、昭和天皇にたびたび御進講を行い、昭和24年(1947)東宮御教育常時参与となり皇太子明仁親王の教育全般を担う事になります。

信三はサー・ハロルド・ニコルソン著『ジョージ5世伝』、福沢諭吉著『帝室論』などを講義し、自由主義・民主主義の新時代の帝王学を明仁親王に説きました。
また、明仁親王が人と交わることが少なかったことと、牧野伸顕が文学をよく読み老化しなかったことを挙げて、小説を読むことをすすめ、幸田露伴『運命』をはじめ、志賀直哉『城の崎にて』などを一緒に読みました。
また、皇太子妃の選定にも関与し、美智子妃選定に至る過程でも尽力しています。

「勇気ある自由人」と呼ばれた信三は昭和41年(1966)5月10日、78才で死去。
弔問には皇太子明仁親王・美智子妃も訪れました。
葬儀は青山の葬祭場にてキリスト教式で行われています。

小泉信三の墓は多磨霊園(府中市多磨町4丁目628)3区1種17側3番にあり、正面[小泉家之墓]と刻まれ、墓誌には父信吉以降の小泉家の人々の名が刻まれています。



また、1区1種2側11番には妻とみの父で明治生命の創立者である阿部泰蔵の墓もあります。信三の長男信吉が戦死したため、とみの兄泰二の子準蔵を婿養子としおり、小泉家と阿部家は二重の姻戚関係となっています。



『慶應義塾 歴史散歩』によると、和歌山県和歌山市本町5丁目32の善稱寺(浄土真宗本願寺派)にも父信吉が建立した小泉家の墓があるとありますが、筆者は未確認です。

小泉信三については様々な書籍が出ていますが、昨年中公文庫より出版された小川原正道著『小泉信三―天皇の師として、自由主義者として』が読みやすと思います。

小泉信三の先祖についてですが、『小泉信三全集 別巻』に祖父小泉文庫が明治3年(1870)に提出した「小泉家系譜」が所載されています。
これによると、小泉家は源姓、家紋は横木瓜であり、祖父文庫の父小泉良左衛門芳房を初代としており、良左衛門芳房は「元御手弓同心小泉次左衛門保友養子 実根来者青木内膳房輝二男」とあります。また、同じく提出された「親類書」では文庫の母が小泉次左衛門とあるので、良左衛門芳房は次左衛門保友の婿養子となり小泉姓を称し、一家を興したことが分かります。
また、紀州藩士の系譜・親類書をリスト化した『紀州家中系譜並に親類書書上げ』( 和歌山県立文書館編)によると、次左衛門の父は宇治田次郎右衛門とあり、宇治田姓となっています。ただ、次左衛門の諱に「保」の字があり、この「保」の字を通字としている小泉家が別にあることから、宇治田家より小泉家に養子に入り、小泉姓を称して別家を興したものと思われます。
この小泉諸家の関係は和歌山県立文書館所蔵の系譜や親類書を調査するとはっきりするのではないかと思います。
また、『小泉信三全集 別巻』には信三の母方林家の系譜も所載されており、林家も紀州藩の藩医の家柄となっています。

徳川御三家というと尾張藩・水戸藩は勤王で知られますが、紀州藩は2人の将軍を輩出したこともあり、徳川将軍家とは近いように思われますが、その紀州藩の藩士の子が現代の皇室に貢献したということは大変興味深いことだと思いました。

信三は昭和35年(1960)明仁親王の長男徳仁親王が誕生し、命名された際に「皇孫殿下御命名」と題して帝都日日新聞に寄稿しており、『小泉信三全集 第26巻』に全文が所載されています。

「皇孫殿下御命名
 皇孫殿下の御命名も目出たく行われ、両陛下や御父母殿下のおよろこびもいかばかりかと御察し申上げられる。どうぞこれからの長い年月に心身いよいよ健やかに御成長になることをお祈り申し上げている。
 皇室の御任務は、旧帝国憲法のときとは違ったものになったが、それは他面において精神的道徳的にはいよいよ重いものになったと考えられる。この事を最も早く説いた一人は福澤諭吉であった。明治15年先生は『帝室論』を著しその冒頭に「帝室は政治社外のものなり。苟も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、其主義に於て帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可らずとの事は、我輩の持論にして」云々といった。
 かく自ら政治の衝に当らず、政争者のいずれを是、いずれを非とすべきものでないとすれば、帝室の任務はいずれの辺にあるとすべきであるか。先生は答えていう。それは民心融和の中心となられることにある。政争は苛烈なもので、それは火の如く水野如く、また盛夏の如く厳冬の如くであろうけれども、「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し」という。先生はまた西洋の語に、皇室は栄誉の源泉であるというのを引いて「王家は勧る有て懲らす無く、賞する有て罰するなきもの」だともいった。
 立憲君主制の下において国会の支持を受ける首相が政治の全責任を負うべきはいうまでのないことである。しかし政党の首領であり、且つ三、五年にして更迭する首相が今日のやめ後日を、党のために国家と国民を忘れることは、決してないとはいわれないのである。
 立憲君主はもとより直接政治の衝に当るべきものではないが、不偏不党の立場にあってそうして連続して国の最高位に坐するところから、自然の国家及び国民の永続的利害に対し政治家の及ばぬ、特殊の見識と感覚とを抱くに至るべきは、当然考えられるところである。
 このことは聡明なる立憲君主を、政治家に対する最良の道徳的奨励者及び警告者たらしめる。それは政治家の責任を、少しも軽くするものではない。けれども公平にして、国民の過去と未来により遠く思い及ぶ君主の所見を、平生談笑の間にきくことは、達識ある政治家にとっての絶大の所得となり得るであろう。
 皇室の任務が精神的道徳的にいよいよ重いものになったと、前に記したのは主としてこれをいうのである。
 皇孫殿下御命名の日に『帝室論』をくり返すのも野暮な話と思われるかも知れないが、この皇孫殿下の末長き御健康と心身の見事な御成長を願う国民の一人として、今日それをいうことも許されるかと思う。ひとえに人々の寛恕乞う。」

小泉信二が「末長き御健康と心身の見事な御成長を願」った皇孫殿下は、明日、第126代天皇として御即位されます。
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