会員のカネコです。
先日より告知しております『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の訂正についてお知らせいたします。
本来は刊行前のチェックで気づくべき所でしたが、見落としがあり、読者の皆様にはご迷惑をおけかして申し訳ございません。
ご購入済みの方は一度、ご確認頂けますようお願い申し上げます。
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P.9 [谷中霊園-2案内図] 右上、乙葉林八(浅田麟之助)の下の丸囲みの霊園地番
誤「乙3号」
↓
正「乙8号」
P.12 [永井尚志] ④第三段落目、第一文
誤「主水主」
↓
正「主水正」
P.13 [永井尚志] ⑤第三段落目、第二文
誤「円月姫」
↓
正「円月院」
P.17 [近藤庫三郎・鎮三] ⑤第三段落目
誤「第二霊廟近くにに建立」
↓
正「第二霊廟近くに建立」
P.34 [松平忠敏] ④第一段落目、第十文
誤「他方で分家に養子として入った松平正綱が大名に取り立てられ、正綱の出身の大河内氏から「大河内松平」家が一般的に長沢松平と呼ばれている。」
↓
正「他方で大河内正綱が長沢松平家分家へ養子に入り、松平正綱を名乗ったが、本姓は大河内氏のままであった。」
P.48 [雲井龍雄] ⑤第一段落目、第四文
誤「証は張滋昉」
↓
正「書は張滋昉」
P.59 [渋沢栄一] 墓碑写真右側
誤「渋沢栄一の墓所の位置については、P57徳川慶喜の項目を参照して下さい。」
↓
正「渋沢栄一の墓所の位置については、P10「寛永寺墓地周辺案内図」を参照して下さい。」
P.61 [阿部正弘] 墓碑写真右側
誤「阿部正弘の墓所の位置については、P57徳川慶喜の項目を参照して下さい。」
↓
正「阿部正弘の墓所の位置については、P10「寛永寺墓地周辺案内図」を参照して下さい。」
P.65 [平山省斎] ⑤第二段落目、第二文
誤「しかし同所には「活同斎」という似た名前の人物の墓があり、省斎の実父として整合性も合うことから、この人物が「活円斎」のことではないかと考えている。」
↓
正「しかし同所には「活道斎」と「哲円斎」という二人の人物の墓がある。近年の調査で祖父が活道斎、父が哲円斎であり、省斎の養子成信が養父の伝記を書いた際に二人が混ざってしまい、「活円斎」として広まってしまったという説が有力である。」
P.66 [岩橋教章] ①
誤「箱館戦争を描いた開拓方」
↓
正「箱館戦争を描いた絵図方」
P.66 [岩橋教章] ④二段落目、第二文
誤「軍艦操練所絵図方出役」
↓
正「軍艦操練所絵図認方出役」
P.66 [岩橋教章] ④三段落目、第二文
誤「伊勢へ向かう途中」
↓
正「伊勢国鳥羽へ向かう途中」
P.66 [岩橋教章] ④四段落目、第三文
誤「軍艦組三等製図方を務め」
↓
正「蒸気三等、総裁附を務め」
P.66 [岩橋教章] ④五段落目、第一文
誤「明治六年(1873)四月出国」
↓
正「明治六年(1873)三月末出国」
P.71 [高松凌雲] ④七段落目、第一文
誤 「乙部上陸」
↓
正 「乙部へ上陸」
P.72 [高松凌雲] ④後ろから三段落目、第四文
誤 「渋沢栄一・福地源一郎・松平太郎」
↓
正 「渋沢栄一・福地源一郎(四六ページ参照)・松平太郎」
P.83 [伊東玄伯] ⑤第一段落目、第三、六文
誤「正三位」
↓
正「従三位」
P.84 [小杉雅之進] ④三段落目
誤「明治五年(1872)何者かにより」
↓
正「明治六年(1873)何者かにより」
P.91 [松岡磐吉] ④後ろから二段落目、第二文
誤 「咸臨丸が仙台藩白石からの移住者四〇一名を乗せたまま、北海道釜谷村泉沢の更木岬沖で座礁、船としての生涯を閉じている。」
↓
正 「咸臨丸が仙台藩白石からの移住者約四〇〇名を乗せたまま、北海道釜谷村泉沢の更木岬沖で座礁、乗船者は助かったが、船としての生涯を閉じている。」
P.97 [海老名季昌先祖] ④後ろから六段落目、第三文及び後ろから四段落目、第二文
誤 「横山主税常守」「横山常守」
↓
正 「横山主税常忠」「横山常忠」
P.104 [参考文献] 左列13行目
誤 「『韮山町史』第6巻上・通史Ⅱ近世第11韮山町」
↓
正 「『韮山町史』第6巻上・第11巻通史Ⅱ近世 韮山町」
P.104 [参考文献] 右列21行目
誤「・稲垣敏子(翻刻)・樋口雄彦(校正・解説)「福田重固手控「陸軍局御用留」」・ (『横浜開港資料館紀要』29 号) 横浜市ふるさと歴史財団) 平成23年」
↓
正「・稲垣敏子(翻刻)・樋口雄彦(校正・解説)「福田重固手控「陸軍局御用留」」(『横浜開港資料館紀要』29 号 横浜市ふるさと歴史財団) 平成23年」
P.104 [参考文献] 右列下から8行目
誤「・土佐博文「依田学海 佐倉藩士、漢学者として幕末から明治を見つめた男」(『千葉史学』54 号) 千葉歴史学会) 平成21年
↓
正「・土佐博文「依田学海 佐倉藩士、漢学者として幕末から明治を見つめた男」(『千葉史学』54 号 千葉歴史学会) 平成21年
P.107 [★墓所索引] 右列6行目
誤 「国泰寺(富山県高岡市) ・・・79」
↓
正 削除。関連墓碑が無いため。
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上記以外にも誤りがありましたら、コメント覧にてご教示頂ければと思います。
よろしくお願いいたします。
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先日より告知しております『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の訂正についてお知らせいたします。
本来は刊行前のチェックで気づくべき所でしたが、見落としがあり、読者の皆様にはご迷惑をおけかして申し訳ございません。
ご購入済みの方は一度、ご確認頂けますようお願い申し上げます。
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P.9 [谷中霊園-2案内図] 右上、乙葉林八(浅田麟之助)の下の丸囲みの霊園地番
誤「乙3号」
↓
正「乙8号」
P.12 [永井尚志] ④第三段落目、第一文
誤「主水主」
↓
正「主水正」
P.13 [永井尚志] ⑤第三段落目、第二文
誤「円月姫」
↓
正「円月院」
P.17 [近藤庫三郎・鎮三] ⑤第三段落目
誤「第二霊廟近くにに建立」
↓
正「第二霊廟近くに建立」
P.34 [松平忠敏] ④第一段落目、第十文
誤「他方で分家に養子として入った松平正綱が大名に取り立てられ、正綱の出身の大河内氏から「大河内松平」家が一般的に長沢松平と呼ばれている。」
↓
正「他方で大河内正綱が長沢松平家分家へ養子に入り、松平正綱を名乗ったが、本姓は大河内氏のままであった。」
P.48 [雲井龍雄] ⑤第一段落目、第四文
誤「証は張滋昉」
↓
正「書は張滋昉」
P.59 [渋沢栄一] 墓碑写真右側
誤「渋沢栄一の墓所の位置については、P57徳川慶喜の項目を参照して下さい。」
↓
正「渋沢栄一の墓所の位置については、P10「寛永寺墓地周辺案内図」を参照して下さい。」
P.61 [阿部正弘] 墓碑写真右側
誤「阿部正弘の墓所の位置については、P57徳川慶喜の項目を参照して下さい。」
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正「阿部正弘の墓所の位置については、P10「寛永寺墓地周辺案内図」を参照して下さい。」
P.65 [平山省斎] ⑤第二段落目、第二文
誤「しかし同所には「活同斎」という似た名前の人物の墓があり、省斎の実父として整合性も合うことから、この人物が「活円斎」のことではないかと考えている。」
↓
正「しかし同所には「活道斎」と「哲円斎」という二人の人物の墓がある。近年の調査で祖父が活道斎、父が哲円斎であり、省斎の養子成信が養父の伝記を書いた際に二人が混ざってしまい、「活円斎」として広まってしまったという説が有力である。」
P.66 [岩橋教章] ①
誤「箱館戦争を描いた開拓方」
↓
正「箱館戦争を描いた絵図方」
P.66 [岩橋教章] ④二段落目、第二文
誤「軍艦操練所絵図方出役」
↓
正「軍艦操練所絵図認方出役」
P.66 [岩橋教章] ④三段落目、第二文
誤「伊勢へ向かう途中」
↓
正「伊勢国鳥羽へ向かう途中」
P.66 [岩橋教章] ④四段落目、第三文
誤「軍艦組三等製図方を務め」
↓
正「蒸気三等、総裁附を務め」
P.66 [岩橋教章] ④五段落目、第一文
誤「明治六年(1873)四月出国」
↓
正「明治六年(1873)三月末出国」
P.71 [高松凌雲] ④七段落目、第一文
誤 「乙部上陸」
↓
正 「乙部へ上陸」
P.72 [高松凌雲] ④後ろから三段落目、第四文
誤 「渋沢栄一・福地源一郎・松平太郎」
↓
正 「渋沢栄一・福地源一郎(四六ページ参照)・松平太郎」
P.83 [伊東玄伯] ⑤第一段落目、第三、六文
誤「正三位」
↓
正「従三位」
P.84 [小杉雅之進] ④三段落目
誤「明治五年(1872)何者かにより」
↓
正「明治六年(1873)何者かにより」
P.91 [松岡磐吉] ④後ろから二段落目、第二文
誤 「咸臨丸が仙台藩白石からの移住者四〇一名を乗せたまま、北海道釜谷村泉沢の更木岬沖で座礁、船としての生涯を閉じている。」
↓
正 「咸臨丸が仙台藩白石からの移住者約四〇〇名を乗せたまま、北海道釜谷村泉沢の更木岬沖で座礁、乗船者は助かったが、船としての生涯を閉じている。」
P.97 [海老名季昌先祖] ④後ろから六段落目、第三文及び後ろから四段落目、第二文
誤 「横山主税常守」「横山常守」
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正 「横山主税常忠」「横山常忠」
P.104 [参考文献] 左列13行目
誤 「『韮山町史』第6巻上・通史Ⅱ近世第11韮山町」
↓
正 「『韮山町史』第6巻上・第11巻通史Ⅱ近世 韮山町」
P.104 [参考文献] 右列21行目
誤「・稲垣敏子(翻刻)・樋口雄彦(校正・解説)「福田重固手控「陸軍局御用留」」・ (『横浜開港資料館紀要』29 号) 横浜市ふるさと歴史財団) 平成23年」
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正「・稲垣敏子(翻刻)・樋口雄彦(校正・解説)「福田重固手控「陸軍局御用留」」(『横浜開港資料館紀要』29 号 横浜市ふるさと歴史財団) 平成23年」
P.104 [参考文献] 右列下から8行目
誤「・土佐博文「依田学海 佐倉藩士、漢学者として幕末から明治を見つめた男」(『千葉史学』54 号) 千葉歴史学会) 平成21年
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正「・土佐博文「依田学海 佐倉藩士、漢学者として幕末から明治を見つめた男」(『千葉史学』54 号 千葉歴史学会) 平成21年
P.107 [★墓所索引] 右列6行目
誤 「国泰寺(富山県高岡市) ・・・79」
↓
正 削除。関連墓碑が無いため。
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上記以外にも誤りがありましたら、コメント覧にてご教示頂ければと思います。
よろしくお願いいたします。
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