会員のカネコです。
11月12日(日)に開催される第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」ですが、私は今回、残念ながら講師として参加できませんので、その代わりにかつて大圓寺にあったお墓について紹介したいと思います。
平成23年(2011)5月に開催した第4回「谷中霊園巡墓会(前篇)-墓碑を訪ねて先人達に学ぶ-」で私は佐倉順天堂創始者である佐藤泰然の墓を紹介し、同墓域にある松本良甫や松本家先祖の墓も紹介しました。
この松本家先祖の墓は、墓碑の刻銘から、大圓寺が杉並に移転される以前の伊皿子にあった頃に改葬されたものが分かっています。
佐藤泰然の二男順之助は、泰然の親友である幕府奥医師松本良甫の養子となり、松本良順(維新後は順に改名)と改名し、徳川家茂の侍医となり、その死を看取りました。また、近藤勇ら新選組隊士の治療をしたこともあり、新選組ファンの間でも人気が高い人物ではないかと思います。
松本家の先祖については、まず『寛政重修諸家譜 第22巻』に本姓が不詳である「未勘」の部に系譜が記載されています。
初代善甫が元禄5年(1692)に5代将軍綱吉に召し出されたことに始まり、その後、尚興(善甫)-善甫-興長(善甫)-興世(善甫)と続きますが、興世が天明6年(1786)喧嘩をした事を隠そうとし、発覚したため改易となりました。そのため、系譜はここまでの記載となっています。
『蘭学全盛時代と蘭畴の生涯 伝記・松本順』には松本家の先祖についてかなり詳細な記述があり、松本家は本姓宇多源氏であり、陸奥会津の天満宮の神職家であったといい、元は興江という苗字を称し、松本は初代善甫の母方の苗字であったとあります。善甫は神事の些細な口論から土地の住民を数名傷害し、村を出て一家離散となり、一男子を伴い江戸に出ました。その際に世を忍ぶため松本善甫を称したといいます。江戸に出て医術を学び、口科(現在で言う耳鼻咽喉科)を専門としました。やがて非凡な手腕を認められ、幕府に召され、松本家が代々奥医師を勤めました。
興世(善甫)が改易となった理由は『寛政譜』と松本家に伝わる話しが少し異なり、松本家では興世(善甫)が飼っていた愛犬が防火夫に殴られていることが喧嘩の発端となっています。
興世(善甫)は改易後、甲州あたりに落ち延び9年後に死去しました。興世(善甫)には光という娘があり、親族でやはり幕医であった数原通玄方に身を寄せていましたが、通玄が松本家再興のため奔走し、親族で秀才な医師であった大澤良庵を光に娶せ、松本家の婿養子とし、松本良甫善賢と改名しました。この良甫善賢の子が良甫戴であり、良順の養父となります。尚、大澤家は良甫善賢二男道斎が相続しており、これは同書巻末の「松本家譜」に記載されています。
谷中霊園甲新16号24側の佐藤・松本家墓地は元々王子堀之内村にあったもので、『蘭医佐藤泰然 その生涯とその一族門流』によると、良甫戴が明治維新前に麹町平河天神町の邸宅を売却した後、堀江松五郎という人物の尽力により王子の邸宅を購入したとあります。
泰然と良甫は親友で、死後も離れぬ約束をしていたため、泰然が死去後に、実子である良順が松本家の邸宅内の墓域に泰然を葬りました。同書には王子の墓地は良順の生前から都合あって佐藤家で管理されていましたが、佐藤達次郎(泰然の曽孫)の代になり、佐藤家が所有していた谷中霊園の空地に移されたとあり、その際に松本家当主の松本本松が請い、松本家先祖の墓も同所に移されたとあります。
その松本家の墓碑銘は以下となります。
正面:
圓桂院殿善甫法眼源興正 元禄八年四月六日卒
諦了院殿善甫法眼 不詳 延享二年八月丗日卒
修心院殿善甫法眼源興信 明和二年十月廿二日卒
觀月院殿善甫法眼源興長 天明四年八月十八日卒
松壽院殿善甫法眼源興世 寛政七年八月四日卒
覺性院殿良甫 源善賢 文政九年八月廿日歿
右側面:
明治十年十一月従芝伊皿子大圓寺移之
この墓碑の刻銘から、かつて伊皿子にあった大圓寺より明治10年(1877)に移されたことが分かります。
しかし、前述の通り、佐藤達次郎と松本本松の時代に移されたとすると、明治10年(1877)時点では達次郎はまだ佐藤家に養子に入っておらず、時代的に全く合いません。
伊皿子大圓寺から直接移されたものか、一度、他地に移された後に谷中霊園に移されたものかは再考の余地があります。
大圓寺は巡墓会で解説されると思いますが、薩摩藩と縁が深い寺であり、薩摩藩関係者専用の過去帳が作られており、これは『薩陽過去帳(鹿児島県史料集第14)』として翻刻されています。元の過去帳は数冊に分かれており、「自天保五年 至明治十五年」の分は何故か薩摩藩関係者以外に、大圓寺の檀家であった旗本坂井家・土方家の人物も記載されており、松本家の人物も2名記載されています。
文久改元年辛酉年
四月廿五日 松本良甫殿 倅
養善院実性不昧居士
明治三庚午年
十二月十九日 牛込 松本良甫嫡子
玄暁孩子
[養善院]は良甫戴の子であると思われ、「松本家譜」に良甫戴の実子として夭逝した寅之助の名があり、この寅之助に該当するもと思われます。
[玄暁孩子]に関しては[良甫嫡子]とありますが、良甫戴だと時代が合わず、良順であると思われますが、良順の長男は明治12年(1879)に夭逝した銈であるので、[良甫嫡子]という記述は誤りであるか、銈は実が二男であったのか、こちらも再考の余地があります。
尚、谷中霊園の松本家の他の墓碑は2基あり、以下の墓碑銘となります。
正面:
紀元二千五百三十九年四月十六日卒
齢 二十八歳一月
従七位松本銈 墓 (松本良順長男)
明治十二年三月十四東京日々新聞二千百七十九號
(追悼文)
正面:
前侍醫法眼松本戴墓 (松本良順養父)
同 夫人三浦禄子
裏面:
戴 明治十年一月六日卒 壽七十二歳
禄 同 十四年十一月六日卒
また、良順は当初神奈川県中郡大磯町の鴫立庵に葬られ、その後、昭和29年(1954)に葬儀を行った妙大寺に改葬されていますが、現在鴫立庵にも墓碑が残されています。
11月12日(日)の第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」では大圓寺に残された様々なお墓が紹介されると思いますが、参加される方は伊皿子時代に松本家の墓があったという事も頭に入れて頂きたいと思います。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ申込みフォーム
11月12日(日)に開催される第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」ですが、私は今回、残念ながら講師として参加できませんので、その代わりにかつて大圓寺にあったお墓について紹介したいと思います。
平成23年(2011)5月に開催した第4回「谷中霊園巡墓会(前篇)-墓碑を訪ねて先人達に学ぶ-」で私は佐倉順天堂創始者である佐藤泰然の墓を紹介し、同墓域にある松本良甫や松本家先祖の墓も紹介しました。
この松本家先祖の墓は、墓碑の刻銘から、大圓寺が杉並に移転される以前の伊皿子にあった頃に改葬されたものが分かっています。
佐藤泰然の二男順之助は、泰然の親友である幕府奥医師松本良甫の養子となり、松本良順(維新後は順に改名)と改名し、徳川家茂の侍医となり、その死を看取りました。また、近藤勇ら新選組隊士の治療をしたこともあり、新選組ファンの間でも人気が高い人物ではないかと思います。
松本家の先祖については、まず『寛政重修諸家譜 第22巻』に本姓が不詳である「未勘」の部に系譜が記載されています。
初代善甫が元禄5年(1692)に5代将軍綱吉に召し出されたことに始まり、その後、尚興(善甫)-善甫-興長(善甫)-興世(善甫)と続きますが、興世が天明6年(1786)喧嘩をした事を隠そうとし、発覚したため改易となりました。そのため、系譜はここまでの記載となっています。
『蘭学全盛時代と蘭畴の生涯 伝記・松本順』には松本家の先祖についてかなり詳細な記述があり、松本家は本姓宇多源氏であり、陸奥会津の天満宮の神職家であったといい、元は興江という苗字を称し、松本は初代善甫の母方の苗字であったとあります。善甫は神事の些細な口論から土地の住民を数名傷害し、村を出て一家離散となり、一男子を伴い江戸に出ました。その際に世を忍ぶため松本善甫を称したといいます。江戸に出て医術を学び、口科(現在で言う耳鼻咽喉科)を専門としました。やがて非凡な手腕を認められ、幕府に召され、松本家が代々奥医師を勤めました。
興世(善甫)が改易となった理由は『寛政譜』と松本家に伝わる話しが少し異なり、松本家では興世(善甫)が飼っていた愛犬が防火夫に殴られていることが喧嘩の発端となっています。
興世(善甫)は改易後、甲州あたりに落ち延び9年後に死去しました。興世(善甫)には光という娘があり、親族でやはり幕医であった数原通玄方に身を寄せていましたが、通玄が松本家再興のため奔走し、親族で秀才な医師であった大澤良庵を光に娶せ、松本家の婿養子とし、松本良甫善賢と改名しました。この良甫善賢の子が良甫戴であり、良順の養父となります。尚、大澤家は良甫善賢二男道斎が相続しており、これは同書巻末の「松本家譜」に記載されています。
谷中霊園甲新16号24側の佐藤・松本家墓地は元々王子堀之内村にあったもので、『蘭医佐藤泰然 その生涯とその一族門流』によると、良甫戴が明治維新前に麹町平河天神町の邸宅を売却した後、堀江松五郎という人物の尽力により王子の邸宅を購入したとあります。
泰然と良甫は親友で、死後も離れぬ約束をしていたため、泰然が死去後に、実子である良順が松本家の邸宅内の墓域に泰然を葬りました。同書には王子の墓地は良順の生前から都合あって佐藤家で管理されていましたが、佐藤達次郎(泰然の曽孫)の代になり、佐藤家が所有していた谷中霊園の空地に移されたとあり、その際に松本家当主の松本本松が請い、松本家先祖の墓も同所に移されたとあります。
その松本家の墓碑銘は以下となります。
正面:
圓桂院殿善甫法眼源興正 元禄八年四月六日卒
諦了院殿善甫法眼 不詳 延享二年八月丗日卒
修心院殿善甫法眼源興信 明和二年十月廿二日卒
觀月院殿善甫法眼源興長 天明四年八月十八日卒
松壽院殿善甫法眼源興世 寛政七年八月四日卒
覺性院殿良甫 源善賢 文政九年八月廿日歿
右側面:
明治十年十一月従芝伊皿子大圓寺移之
この墓碑の刻銘から、かつて伊皿子にあった大圓寺より明治10年(1877)に移されたことが分かります。
しかし、前述の通り、佐藤達次郎と松本本松の時代に移されたとすると、明治10年(1877)時点では達次郎はまだ佐藤家に養子に入っておらず、時代的に全く合いません。
伊皿子大圓寺から直接移されたものか、一度、他地に移された後に谷中霊園に移されたものかは再考の余地があります。
大圓寺は巡墓会で解説されると思いますが、薩摩藩と縁が深い寺であり、薩摩藩関係者専用の過去帳が作られており、これは『薩陽過去帳(鹿児島県史料集第14)』として翻刻されています。元の過去帳は数冊に分かれており、「自天保五年 至明治十五年」の分は何故か薩摩藩関係者以外に、大圓寺の檀家であった旗本坂井家・土方家の人物も記載されており、松本家の人物も2名記載されています。
文久改元年辛酉年
四月廿五日 松本良甫殿 倅
養善院実性不昧居士
明治三庚午年
十二月十九日 牛込 松本良甫嫡子
玄暁孩子
[養善院]は良甫戴の子であると思われ、「松本家譜」に良甫戴の実子として夭逝した寅之助の名があり、この寅之助に該当するもと思われます。
[玄暁孩子]に関しては[良甫嫡子]とありますが、良甫戴だと時代が合わず、良順であると思われますが、良順の長男は明治12年(1879)に夭逝した銈であるので、[良甫嫡子]という記述は誤りであるか、銈は実が二男であったのか、こちらも再考の余地があります。
尚、谷中霊園の松本家の他の墓碑は2基あり、以下の墓碑銘となります。
正面:
紀元二千五百三十九年四月十六日卒
齢 二十八歳一月
従七位松本銈 墓 (松本良順長男)
明治十二年三月十四東京日々新聞二千百七十九號
(追悼文)
正面:
前侍醫法眼松本戴墓 (松本良順養父)
同 夫人三浦禄子
裏面:
戴 明治十年一月六日卒 壽七十二歳
禄 同 十四年十一月六日卒
また、良順は当初神奈川県中郡大磯町の鴫立庵に葬られ、その後、昭和29年(1954)に葬儀を行った妙大寺に改葬されていますが、現在鴫立庵にも墓碑が残されています。
11月12日(日)の第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」では大圓寺に残された様々なお墓が紹介されると思いますが、参加される方は伊皿子時代に松本家の墓があったという事も頭に入れて頂きたいと思います。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
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