会員のクロサカです。
以前、情報求むとして記事にした華族の墓所も多くの方々の助けもあり、順調に見つかってきております。
今回は長年探してきて、最近発見出来た山内長人男爵と山内萬壽治男爵の両山内男爵の墓所発見までの経緯を少し述べたいと思います。
(山内長人男爵の墓)
まず、山内長人男爵ですが、幕臣出身の華族です。
本籍は神奈川県ですが、多くの史料を調べると新宿百人町(現在の新宿区大久保付近)に住んでいたようです。
この家は幕臣ながらも寛政譜には載っていませんが、『平成新修旧華族家系大成』によると長人の祖父の代で幕臣神尾家の陪臣となり、文政七年に「山内」姓を名乗り、幕臣となったようです。
父長敏は開拓使森本弘策を船長とする雷電丸の乗組員として北海道に渡っています。
長人は陸軍軍人として活躍し、陸軍中将まで上り詰めます。
後に多年の功により男爵となり、貴族院議員として公正会の主要メンバーで活躍しました。
さて、山内長人の墓所を探すため、かなりの史料を探しました。
新宿区内の寺院や都営霊園を隈なく探すも決定的な情報には辿り着けませんでした。
しかし、気になるお墓はありました。上に挙げた雑司ヶ谷霊園の墓碑です。
墓碑には、正面と裏に建立年月日、家紋のみしかヒントがありませんでした。
そこでダメ元で管理事務所に問い合わせたところ、見事ヒットしました。
判明して墓前に向かい、改めて参拝させて頂き、あまりの感動に墓前で腰が砕けてしまいました。
(山内萬壽治男爵の墓)
こちらは山内萬壽治男爵の墓です。
地熱発電の開発者としても知られ、海軍中将です。
彼は広島藩士山内甚(仁)右衛門の二男として生まれ、海軍兵学校を卒業し、同期には斎藤実子爵、坂本俊篤男爵がいます。
呉海軍工廠の立ち上げに携わり、後に工廠長にもなりますが、シーメンス事件に連座したことで自殺を図るも死にきれず。
大正8年に病死します。
ちなみに妻の婉子は攻玉社の創立者近藤真琴の娘で、真琴の長男基樹は男爵となり、近藤男爵家の祖となります。
さて、こちらの墓所を探すのも非常に苦労しました。
東京都公文書館に都営霊園の墓地管理証が所蔵されているのですが、萬壽治の次代志郎の名義で谷中霊園にお墓があることが分かり直行しました。
実際に訪ねてみると、確かに山内家の墓碑が一基だけありましたが、夭逝した子どもの墓でした。
その後も事あるごとにやみくもに探していましたが一向に見つかりませんでした。
そんな時に、ふと自宅にあった「青山共葬地明細図」という資料を確認し、記載されているすべての山内家を巡ってみようと思い立ちました。
そして青山霊園に向かい、一番最初に訪ねた場所には正面に「杉原家」と刻まれたお墓がありました。
そこで思い出したのが先代の山内伸明男爵が杉原家からの養子であったことでした。
墓域に入り、墓誌を確認すると「山内伸明」の名前があり、杉原家の墓碑に向かって左側に写真の三基のお墓が建てられていました。
この一番左の墓碑に「やま乃うち万寿治のは加」と刻まれていました。
この時もあまりにビックリして身体が震えていました。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ申込みフォーム
以前、情報求むとして記事にした華族の墓所も多くの方々の助けもあり、順調に見つかってきております。
今回は長年探してきて、最近発見出来た山内長人男爵と山内萬壽治男爵の両山内男爵の墓所発見までの経緯を少し述べたいと思います。
(山内長人男爵の墓)
まず、山内長人男爵ですが、幕臣出身の華族です。
本籍は神奈川県ですが、多くの史料を調べると新宿百人町(現在の新宿区大久保付近)に住んでいたようです。
この家は幕臣ながらも寛政譜には載っていませんが、『平成新修旧華族家系大成』によると長人の祖父の代で幕臣神尾家の陪臣となり、文政七年に「山内」姓を名乗り、幕臣となったようです。
父長敏は開拓使森本弘策を船長とする雷電丸の乗組員として北海道に渡っています。
長人は陸軍軍人として活躍し、陸軍中将まで上り詰めます。
後に多年の功により男爵となり、貴族院議員として公正会の主要メンバーで活躍しました。
さて、山内長人の墓所を探すため、かなりの史料を探しました。
新宿区内の寺院や都営霊園を隈なく探すも決定的な情報には辿り着けませんでした。
しかし、気になるお墓はありました。上に挙げた雑司ヶ谷霊園の墓碑です。
墓碑には、正面と裏に建立年月日、家紋のみしかヒントがありませんでした。
そこでダメ元で管理事務所に問い合わせたところ、見事ヒットしました。
判明して墓前に向かい、改めて参拝させて頂き、あまりの感動に墓前で腰が砕けてしまいました。
(山内萬壽治男爵の墓)
こちらは山内萬壽治男爵の墓です。
地熱発電の開発者としても知られ、海軍中将です。
彼は広島藩士山内甚(仁)右衛門の二男として生まれ、海軍兵学校を卒業し、同期には斎藤実子爵、坂本俊篤男爵がいます。
呉海軍工廠の立ち上げに携わり、後に工廠長にもなりますが、シーメンス事件に連座したことで自殺を図るも死にきれず。
大正8年に病死します。
ちなみに妻の婉子は攻玉社の創立者近藤真琴の娘で、真琴の長男基樹は男爵となり、近藤男爵家の祖となります。
さて、こちらの墓所を探すのも非常に苦労しました。
東京都公文書館に都営霊園の墓地管理証が所蔵されているのですが、萬壽治の次代志郎の名義で谷中霊園にお墓があることが分かり直行しました。
実際に訪ねてみると、確かに山内家の墓碑が一基だけありましたが、夭逝した子どもの墓でした。
その後も事あるごとにやみくもに探していましたが一向に見つかりませんでした。
そんな時に、ふと自宅にあった「青山共葬地明細図」という資料を確認し、記載されているすべての山内家を巡ってみようと思い立ちました。
そして青山霊園に向かい、一番最初に訪ねた場所には正面に「杉原家」と刻まれたお墓がありました。
そこで思い出したのが先代の山内伸明男爵が杉原家からの養子であったことでした。
墓域に入り、墓誌を確認すると「山内伸明」の名前があり、杉原家の墓碑に向かって左側に写真の三基のお墓が建てられていました。
この一番左の墓碑に「やま乃うち万寿治のは加」と刻まれていました。
この時もあまりにビックリして身体が震えていました。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
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