会員のカネコです。
昨年行った池上本門寺の巡墓会で田沼意次のブレーンの一人、池上太郎左衛門幸豊を紹介しました。また、一昨年には当ブログにて下記の記事を書き、幸豊に関する簡単な紹介をいたしました。
池上太郎左衛門幸豊-田沼意次のブレーンとなった川崎の名士-
池上太郎左衛門幸豊は川崎では郷土の偉人として知られていますが、日本史の中央の流れから見ると無名に近い存在かと思います。
巡墓会の解説・レジュメでは幸豊を郷土の偉人という枠を超え、日本史の中央の流れに位置づけることを心掛け、ある程度それは届いたのではないかと思っています。
さて、池上太郎左衛門幸豊及び池上家に関しては巡墓会以降も時折気に掛けて調べています。巡墓会以降の調査を2点程挙げてたいと思います。
巡墓会のレジュメ作成で参考文献に挙げた古江亮仁著『大師河原酒合戦』(多摩川新聞社 平成10年(1998))に幸豊の3代前幸広の弟が七左衛門幸繁の墓の写真が載せられており、これは明長寺にあることが記されています。幸繁は稲荷新田村の名主となり、楽寿亭と号し、子孫も代々名主となっています。
幸繁の兄幸広は先祖代々居住していた池上の地から、大師河原村に移住し名主となった人物であり、大酒呑みとして知られ、大蛇丸底深と称され、慶安2年(1649)に江戸の儒学者茨木春朔(六位酒官地黄坊樽次)と大師河原で酒呑み合戦をしています。この酒呑み合戦について書かれた『水鳥記』は嘉永5年(1852)に幕府奥儒者で池上家と姻戚関係にあった成嶋司直によって修訂されています。また、この合戦にちなんだ「水鳥の祭」が10月の第3日曜日に若宮八幡宮(神奈川県川崎市川崎区大師駅前2-13-16)にて現在も行われています。
弟の幸繁もこの酒呑み合戦に参戦し、池上七左衛門底安と称しています。
明長寺は川崎市大師本町にあり、有名な川崎大師平間寺の門前通りに面しています。
数年前に訪れ際は池上家の墓所には気づきませんでしたが、墓地の中ほどに池上家の墓所がありました。
幸繁の墓碑には[長松院仙峯樂壽居士 貞享五戊辰年三月六日]と刻まれています。
池上家は先祖池上宗仲が日蓮に帰依し、その死後、屋敷を寄進し、現在の池上本門寺のとなっていることもあり、本門寺の有力壇越であり、川崎市川崎区大師駅前2丁目の池上家墓地(池言坊)にある池上本家の墓も日蓮宗の戒名が刻まれています。
一方、明長寺は天台宗であり、同族間で宗派が異なる例は多々ありますが、本門寺と池上家の関係を考えると大変興味深いものがあります。
もう1点、以前から気になっていたことがあり、池上姓は長野の伊那地方に多く見られ、別件で高遠藩の史料を見た際に、藩士や町人に池上姓の人名が多く見られこともあり、この池上氏族は一体どのような系統か?本門寺の池上家との関係はあるのか?と疑問を持っていました。
そうした所、大田区史編さん室 編『史誌 22』の中の「池上氏のルーツを尋ねて」(新倉善之著)という記事を見つけ、我が意を得たりという内容に出会いました。
これは大田区大林寺の住職で、大田区史編纂主任専門委員などを務め、大田区に関する著述も多い新倉善之氏が長野で現地調査をした記事で、高遠町、伊那市、飯田市の池上姓の旧家・日蓮宗寺院を訪ね、過去帳や位牌、文化財を調査しています。
その中には宗仲を祖と伝える池上姓の家があったり、「宗」の字を通字とする家があったり、また、本門寺との関係性がある寺院があるなど、この地域と池上本門寺、池上宗仲の関係を示す証拠が多々挙げられていました。
調査の結論としては「一応の成果はあったが、もう一度精査の要あり」とのことでしたので、続編の記事はないか探しましたが、残念ながらありませんでした。
しかし、この記事との出会いは今までの疑問をある程度解消してくれるものであり、氏族研究をしているとたまにこのような素晴らしい過去の調査に出会えることがあります。
池上太郎左衛門幸豊に関しては本門寺巡墓会で一区切りつけたつもりですが、引き続きこの周辺に関しては調査を続けていきたいと思っています。
昨年行った池上本門寺の巡墓会で田沼意次のブレーンの一人、池上太郎左衛門幸豊を紹介しました。また、一昨年には当ブログにて下記の記事を書き、幸豊に関する簡単な紹介をいたしました。
池上太郎左衛門幸豊-田沼意次のブレーンとなった川崎の名士-
池上太郎左衛門幸豊は川崎では郷土の偉人として知られていますが、日本史の中央の流れから見ると無名に近い存在かと思います。
巡墓会の解説・レジュメでは幸豊を郷土の偉人という枠を超え、日本史の中央の流れに位置づけることを心掛け、ある程度それは届いたのではないかと思っています。
さて、池上太郎左衛門幸豊及び池上家に関しては巡墓会以降も時折気に掛けて調べています。巡墓会以降の調査を2点程挙げてたいと思います。
巡墓会のレジュメ作成で参考文献に挙げた古江亮仁著『大師河原酒合戦』(多摩川新聞社 平成10年(1998))に幸豊の3代前幸広の弟が七左衛門幸繁の墓の写真が載せられており、これは明長寺にあることが記されています。幸繁は稲荷新田村の名主となり、楽寿亭と号し、子孫も代々名主となっています。
幸繁の兄幸広は先祖代々居住していた池上の地から、大師河原村に移住し名主となった人物であり、大酒呑みとして知られ、大蛇丸底深と称され、慶安2年(1649)に江戸の儒学者茨木春朔(六位酒官地黄坊樽次)と大師河原で酒呑み合戦をしています。この酒呑み合戦について書かれた『水鳥記』は嘉永5年(1852)に幕府奥儒者で池上家と姻戚関係にあった成嶋司直によって修訂されています。また、この合戦にちなんだ「水鳥の祭」が10月の第3日曜日に若宮八幡宮(神奈川県川崎市川崎区大師駅前2-13-16)にて現在も行われています。
弟の幸繁もこの酒呑み合戦に参戦し、池上七左衛門底安と称しています。
明長寺は川崎市大師本町にあり、有名な川崎大師平間寺の門前通りに面しています。
数年前に訪れ際は池上家の墓所には気づきませんでしたが、墓地の中ほどに池上家の墓所がありました。
幸繁の墓碑には[長松院仙峯樂壽居士 貞享五戊辰年三月六日]と刻まれています。
池上家は先祖池上宗仲が日蓮に帰依し、その死後、屋敷を寄進し、現在の池上本門寺のとなっていることもあり、本門寺の有力壇越であり、川崎市川崎区大師駅前2丁目の池上家墓地(池言坊)にある池上本家の墓も日蓮宗の戒名が刻まれています。
一方、明長寺は天台宗であり、同族間で宗派が異なる例は多々ありますが、本門寺と池上家の関係を考えると大変興味深いものがあります。
もう1点、以前から気になっていたことがあり、池上姓は長野の伊那地方に多く見られ、別件で高遠藩の史料を見た際に、藩士や町人に池上姓の人名が多く見られこともあり、この池上氏族は一体どのような系統か?本門寺の池上家との関係はあるのか?と疑問を持っていました。
そうした所、大田区史編さん室 編『史誌 22』の中の「池上氏のルーツを尋ねて」(新倉善之著)という記事を見つけ、我が意を得たりという内容に出会いました。
これは大田区大林寺の住職で、大田区史編纂主任専門委員などを務め、大田区に関する著述も多い新倉善之氏が長野で現地調査をした記事で、高遠町、伊那市、飯田市の池上姓の旧家・日蓮宗寺院を訪ね、過去帳や位牌、文化財を調査しています。
その中には宗仲を祖と伝える池上姓の家があったり、「宗」の字を通字とする家があったり、また、本門寺との関係性がある寺院があるなど、この地域と池上本門寺、池上宗仲の関係を示す証拠が多々挙げられていました。
調査の結論としては「一応の成果はあったが、もう一度精査の要あり」とのことでしたので、続編の記事はないか探しましたが、残念ながらありませんでした。
しかし、この記事との出会いは今までの疑問をある程度解消してくれるものであり、氏族研究をしているとたまにこのような素晴らしい過去の調査に出会えることがあります。
池上太郎左衛門幸豊に関しては本門寺巡墓会で一区切りつけたつもりですが、引き続きこの周辺に関しては調査を続けていきたいと思っています。