会員のカトケンです。
金曜に休みをもらい、3連休3日目となった5/21(日)、ようやく念願の桑名帰りの収穫確認と将軍生母の実家追跡の再調査に出た。
まずは都内港区芝にある天徳寺。この愛宕近辺は小弟が13年前に上京した折、働いていた場所である。
愛着のある場所で、昼に散歩しても入ったことのない寺院であったが、まず入って六角堂にお参りし、葵の御紋の灯籠が目に入る。
小さな墓域には所狭しと墓碑が並ぶ。目的の江間啓之助政發(桑名藩士)の墓は無かったが、どうやら関東大震災で灰燼に帰したらしく、明治に没した者の墓が無くても致し方ない。
だが、1つ1つ見ていくと、大給と刻まれた墓(=写真)があった。側面に「松平求馬介」と刻む。ひょっとしてと思ってあとで調べてみると、14日の巡墓会で取り上げた矢部駿河守定謙(江戸南町奉行)の養子鶴松の実家の墓碑だった。
矢部は言わずと知れた天保改革の疑獄にあって桑名に流罪となり、その生涯を閉じた人物。
目的は違えど、桑名へ調査に行ったおかげで巡り合えた縁であろうと思う。
墓が見つからなかった江間政發なる人物は、徳川慶喜の回想録『昔夢会筆記』を作るにあたり、前将軍に鋭い質問を投げ掛けた人物である。松平定信の研究や長州問責使として現地で殺された中根一之丞について講演した実績でも知られる。
桑名では伝馬町十念寺でも萱町顕本寺でも江間という苗字の墓碑はあったが、政發の家かどうか確証は得られなかった。引き続き、調査を続けていこうと思う。政發の法名は「修述院寛誉些亭居士」と伝わる。
さて、虎ノ門で銀座線に乗り、赤坂見附で丸ノ内線に乗り換え、四谷三丁目で降りる。ここも慣れ親しんだ場所だがそれはさておき、愛住町に浄運寺という浄土宗のお寺がある。
ここに京都見廻役 岩田通徳の墓があることは知っていたが、今回の訪問の目的は、12代将軍家慶の生母の実家押田家の墓があるかどうか。
墓域の奥に岩田家の立派な墓群に感心し、奥まで来るのに通らなかったエリアに足を踏み入れると、「従五位下朝散大夫」の文字が目に飛び込んでくる。
おう、これはと確かめるとありましたありましたーー将軍家慶生母お楽の方の実兄、押田丹波守勝長墓(=写真左)。将軍の伯父の墓がこのように残っているのは実に感慨深いものがある。
しかも、この押田勝長の娘はおひさの方といって従兄弟家慶の側室となり、一橋初之丞慶昌を生んだ。この初之丞君は勝海舟が幼いころご学友となっているが、夭逝する。
ここには勝長の息近江守勝延など確認できたものは全6基で状態も良好だった。ただ、押田家の現代墓がないことから、子孫がいるかどうか分からなかった。この寺院の古い墓は倒れていたり、かなり磨耗が激しかったりして、押田家がかろうじて残っていたと言えるのかもしれない。
ともかく、一度中断していたこの調査でようやく成果が出たのは嬉しい。
金曜に休みをもらい、3連休3日目となった5/21(日)、ようやく念願の桑名帰りの収穫確認と将軍生母の実家追跡の再調査に出た。
まずは都内港区芝にある天徳寺。この愛宕近辺は小弟が13年前に上京した折、働いていた場所である。
愛着のある場所で、昼に散歩しても入ったことのない寺院であったが、まず入って六角堂にお参りし、葵の御紋の灯籠が目に入る。
小さな墓域には所狭しと墓碑が並ぶ。目的の江間啓之助政發(桑名藩士)の墓は無かったが、どうやら関東大震災で灰燼に帰したらしく、明治に没した者の墓が無くても致し方ない。
だが、1つ1つ見ていくと、大給と刻まれた墓(=写真)があった。側面に「松平求馬介」と刻む。ひょっとしてと思ってあとで調べてみると、14日の巡墓会で取り上げた矢部駿河守定謙(江戸南町奉行)の養子鶴松の実家の墓碑だった。
矢部は言わずと知れた天保改革の疑獄にあって桑名に流罪となり、その生涯を閉じた人物。
目的は違えど、桑名へ調査に行ったおかげで巡り合えた縁であろうと思う。
墓が見つからなかった江間政發なる人物は、徳川慶喜の回想録『昔夢会筆記』を作るにあたり、前将軍に鋭い質問を投げ掛けた人物である。松平定信の研究や長州問責使として現地で殺された中根一之丞について講演した実績でも知られる。
桑名では伝馬町十念寺でも萱町顕本寺でも江間という苗字の墓碑はあったが、政發の家かどうか確証は得られなかった。引き続き、調査を続けていこうと思う。政發の法名は「修述院寛誉些亭居士」と伝わる。
さて、虎ノ門で銀座線に乗り、赤坂見附で丸ノ内線に乗り換え、四谷三丁目で降りる。ここも慣れ親しんだ場所だがそれはさておき、愛住町に浄運寺という浄土宗のお寺がある。
ここに京都見廻役 岩田通徳の墓があることは知っていたが、今回の訪問の目的は、12代将軍家慶の生母の実家押田家の墓があるかどうか。
墓域の奥に岩田家の立派な墓群に感心し、奥まで来るのに通らなかったエリアに足を踏み入れると、「従五位下朝散大夫」の文字が目に飛び込んでくる。
おう、これはと確かめるとありましたありましたーー将軍家慶生母お楽の方の実兄、押田丹波守勝長墓(=写真左)。将軍の伯父の墓がこのように残っているのは実に感慨深いものがある。
しかも、この押田勝長の娘はおひさの方といって従兄弟家慶の側室となり、一橋初之丞慶昌を生んだ。この初之丞君は勝海舟が幼いころご学友となっているが、夭逝する。
ここには勝長の息近江守勝延など確認できたものは全6基で状態も良好だった。ただ、押田家の現代墓がないことから、子孫がいるかどうか分からなかった。この寺院の古い墓は倒れていたり、かなり磨耗が激しかったりして、押田家がかろうじて残っていたと言えるのかもしれない。
ともかく、一度中断していたこの調査でようやく成果が出たのは嬉しい。