会員のカネコです。
京急川崎駅の下りホームを降り、左側に目をやると、寺院墓地が広がっています。
これは曹洞宗瑞龍山宗三寺の墓地です。
私は日々この風景を見ながら出勤しています。
この墓地の京急寄りの壁際に間宮豊前守信盛の墓碑があります。
宗三寺は創建年不詳ですが、鎌倉期に創建された禅宗勝福寺が前身と言われ、佐々木四郎左衛門高綱の菩提寺となったものの、その後、衰退し、戦国期になり小田原北条氏の家臣であった間宮豊前守信盛が開基となって中興しています。
『寛政譜』によるとこの信盛は江戸期に複数の旗本家を輩出した間宮家の祖であり、宇多源氏佐々木庶流を称しています。
『寛政譜』の冒頭には次のように書かれています。
「間宮 先祖は萬石、眞野、船木等を称し、新左衛門信冬伊豆國田方郡間宮村に住せしより称号とす。」
系譜には上記信冬の後「寛永系図に、信冬より豊前守某にいたるまで、其間中絶せりといふ。」とあり、その後「某 豊前守 今の呈譜に信盛につくる。北條早雲及び氏綱につかふ。某年死す。法名宗三」とあり、その子「某 豊前守 今の呈譜に信元に作る。」その子「康俊 豊前守」と続いています。
康俊は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、伊豆山中城で戦死。その孫直元が徳川家康に仕え、旗本になっています。康俊の子信高、元重も旗本となっており、また、娘お久(普照院)は家康の側室となり、松姫を産んでいますが、松姫は早世しています。
宗三寺の信盛の墓碑は正面に[人皇五十九代宇多天皇第八皇子一品式部卿敦實親王十六代後胤 當寺開基雲谷宗三居士 佐々木間宮豊前守入道源康信]と刻まれており、信盛ではなく、曾孫の康信の名が刻まれています。しかし、宗三は信盛の法名であり、寺の中興開基であるので、この墓碑が信盛のものであることは間違いないでしょう。
側面には天和3年(1683)に間宮金五郎尉盛正によって建立されたことが刻まれています。
この金五郎尉盛正の名が『寛政譜』には見られない名であり、信盛との繋がりは不明です。
側面と正面の刻銘を比べると、側面は天和の頃のものに思われますが、正面は後年彫り直したようにも見られ、改修が加えられたようにも見られます。
それはともかく、信盛が宗三寺の開基として大切にされていたことは間違いなく、江戸期に数多くの旗本家を生みだした間宮一族の祖の墓としての風格を持った墓碑であると言えます。
さて、間宮と言えば、前回の記事で名前が挙がった北方探検家間宮林蔵が最も著名な人物となります。
初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓
林蔵は常陸国筑波郡上平柳村の農家の生まれ、その才覚で出世し、最後は幕臣に取り立てられた人物です。
林蔵の先祖について、洞富雄著『間宮林蔵』(吉川弘文館 人物叢書)には次のように書かれています。
「庄兵衛(林蔵の父)の祖先は、間宮隼人という武士で、寛永年中(一説には、嘉吉年間あるいは慶長年間ともいう)に、この村に移り住んで百姓になったと伝えられる。」とあります。
この間宮隼人について前田右勝編著『神奈河戦国史稿』には康俊の子として、掲載されている系図にも康俊の子として記載されています。この出典として『磯子の史話』『茨城県大百科辞典』が挙げられていますが、さらにこれら書籍の出典元を確認する必要があります。
少なくとも『寛政譜』には康俊の子に隼人という名は見られません。
間宮隼人が果たして康俊の子であるかは、様々な資料を比較検討せねばなりませんませんが、このような名のある武士の子孫が帰農するという話は日本全国に見られるものであり、これらの話を眉唾と一蹴することは簡単です。しかし、その家にとっては代々大切に伝えられている話であり、何故その苗字になったのか?その家紋を使用しているのか?ということは様々な角度からの検討が必要であると思います。
先日黒坂さんが書いた信濃国筑摩郡竹淵村に帰農した酒井家などもその好例です。
年頭のあいさつと謎の墓
間宮林蔵の家が康俊の子孫であると断定はできませんが、かつて小田原北条氏の重臣であった間宮氏の一族の一人が上平柳村に辿りつき帰農し、一族の中で著名であった信盛や康俊の系統に結び付けた可能性はあるのではないかと思います。
これに関してはつくばみらい市上平柳にある間宮林蔵記念館や林蔵の菩提寺である専称寺へ行き、追跡調査をしたと考えています。
京急川崎駅の下りホームを降り、左側に目をやると、寺院墓地が広がっています。
これは曹洞宗瑞龍山宗三寺の墓地です。
私は日々この風景を見ながら出勤しています。
この墓地の京急寄りの壁際に間宮豊前守信盛の墓碑があります。
宗三寺は創建年不詳ですが、鎌倉期に創建された禅宗勝福寺が前身と言われ、佐々木四郎左衛門高綱の菩提寺となったものの、その後、衰退し、戦国期になり小田原北条氏の家臣であった間宮豊前守信盛が開基となって中興しています。
『寛政譜』によるとこの信盛は江戸期に複数の旗本家を輩出した間宮家の祖であり、宇多源氏佐々木庶流を称しています。
『寛政譜』の冒頭には次のように書かれています。
「間宮 先祖は萬石、眞野、船木等を称し、新左衛門信冬伊豆國田方郡間宮村に住せしより称号とす。」
系譜には上記信冬の後「寛永系図に、信冬より豊前守某にいたるまで、其間中絶せりといふ。」とあり、その後「某 豊前守 今の呈譜に信盛につくる。北條早雲及び氏綱につかふ。某年死す。法名宗三」とあり、その子「某 豊前守 今の呈譜に信元に作る。」その子「康俊 豊前守」と続いています。
康俊は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、伊豆山中城で戦死。その孫直元が徳川家康に仕え、旗本になっています。康俊の子信高、元重も旗本となっており、また、娘お久(普照院)は家康の側室となり、松姫を産んでいますが、松姫は早世しています。
宗三寺の信盛の墓碑は正面に[人皇五十九代宇多天皇第八皇子一品式部卿敦實親王十六代後胤 當寺開基雲谷宗三居士 佐々木間宮豊前守入道源康信]と刻まれており、信盛ではなく、曾孫の康信の名が刻まれています。しかし、宗三は信盛の法名であり、寺の中興開基であるので、この墓碑が信盛のものであることは間違いないでしょう。
側面には天和3年(1683)に間宮金五郎尉盛正によって建立されたことが刻まれています。
この金五郎尉盛正の名が『寛政譜』には見られない名であり、信盛との繋がりは不明です。
側面と正面の刻銘を比べると、側面は天和の頃のものに思われますが、正面は後年彫り直したようにも見られ、改修が加えられたようにも見られます。
それはともかく、信盛が宗三寺の開基として大切にされていたことは間違いなく、江戸期に数多くの旗本家を生みだした間宮一族の祖の墓としての風格を持った墓碑であると言えます。
さて、間宮と言えば、前回の記事で名前が挙がった北方探検家間宮林蔵が最も著名な人物となります。
初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓
林蔵は常陸国筑波郡上平柳村の農家の生まれ、その才覚で出世し、最後は幕臣に取り立てられた人物です。
林蔵の先祖について、洞富雄著『間宮林蔵』(吉川弘文館 人物叢書)には次のように書かれています。
「庄兵衛(林蔵の父)の祖先は、間宮隼人という武士で、寛永年中(一説には、嘉吉年間あるいは慶長年間ともいう)に、この村に移り住んで百姓になったと伝えられる。」とあります。
この間宮隼人について前田右勝編著『神奈河戦国史稿』には康俊の子として、掲載されている系図にも康俊の子として記載されています。この出典として『磯子の史話』『茨城県大百科辞典』が挙げられていますが、さらにこれら書籍の出典元を確認する必要があります。
少なくとも『寛政譜』には康俊の子に隼人という名は見られません。
間宮隼人が果たして康俊の子であるかは、様々な資料を比較検討せねばなりませんませんが、このような名のある武士の子孫が帰農するという話は日本全国に見られるものであり、これらの話を眉唾と一蹴することは簡単です。しかし、その家にとっては代々大切に伝えられている話であり、何故その苗字になったのか?その家紋を使用しているのか?ということは様々な角度からの検討が必要であると思います。
先日黒坂さんが書いた信濃国筑摩郡竹淵村に帰農した酒井家などもその好例です。
年頭のあいさつと謎の墓
間宮林蔵の家が康俊の子孫であると断定はできませんが、かつて小田原北条氏の重臣であった間宮氏の一族の一人が上平柳村に辿りつき帰農し、一族の中で著名であった信盛や康俊の系統に結び付けた可能性はあるのではないかと思います。
これに関してはつくばみらい市上平柳にある間宮林蔵記念館や林蔵の菩提寺である専称寺へ行き、追跡調査をしたと考えています。