会員のカトケンです。
咸臨丸で太平洋を渡り、箱館戦争にも従軍した小杉雅之進の御子孫、小杉伸一さんが今月11日に逝去された。
小杉さんを通して、小弟は主に開陽丸子孫の会の方々と交流させていただいている。
行事の時は必ず声をかけてくださり、函館や浦賀などに御一緒させていただき、東軍慰霊祭ではわがふるさと静岡市にも来てくださった。
会の行事となると、行動計画や交通機関の利用は緻密に計算し尽くされ、御年配の方が参加されても配慮が行き届いていた。
また、恰幅がよく声が通るから、皆迷子になりにくい。絶好の案内人だった。
その姿にノウハウを学ぼうといつも必死な小弟であったが、まだまだ学ばせていただきたかったことは数多く、大変心残りである。
雅之進の話で印象的だったのが、日清戦争終結時の下関談判で、交渉会場となっている小高い場所にある春帆楼において談判しているところ、見下ろすと関門海峡をたくさんの船が航行していた。ただ、これは船を往復させてたくさんの船が航行しているように見せていただけだったのだが、これを指揮できるのは雅之進をおいて他にいなかったという話。
実はこれは、談判を有利に運ぶため、日本の国力を示す格好となったのだが、この逸話を小弟はまだ実証する材料を持っていない。それでも、もしそれが事実なら、幕臣が明治を生きていても国に尽くそうとしていたことがよく分かる好きな話である。
また、南北海道を回ったときは小杉さんの告知によって、木古内で大勢の人たちが出迎えてくださったり、他の機会に連絡を取るべく電話をしたところ「いま塩飽(香川県丸亀市本島)で打合せ中だ」と驚かされたりもした。
オランダ大使館の方に講演を依頼したり、しっかりメールのやり取りをしていたりしたのも印象に残っている。
歴史を通しての交流は、幅広い地域や時に海外の方々とも、遠距離を厭わず行なわれた。これを一介のサラリーマンという立場で続けられていたことは、驚嘆に値する。まだまだ背中を追いかけさせていただきたかった。
心より御冥福をお祈りします。合掌
一昨年の4月末の咸臨丸フェスティバルのとき、久里浜や浦賀を散策していて撮影したスナップ。右端が小杉さん。
咸臨丸で太平洋を渡り、箱館戦争にも従軍した小杉雅之進の御子孫、小杉伸一さんが今月11日に逝去された。
小杉さんを通して、小弟は主に開陽丸子孫の会の方々と交流させていただいている。
行事の時は必ず声をかけてくださり、函館や浦賀などに御一緒させていただき、東軍慰霊祭ではわがふるさと静岡市にも来てくださった。
会の行事となると、行動計画や交通機関の利用は緻密に計算し尽くされ、御年配の方が参加されても配慮が行き届いていた。
また、恰幅がよく声が通るから、皆迷子になりにくい。絶好の案内人だった。
その姿にノウハウを学ぼうといつも必死な小弟であったが、まだまだ学ばせていただきたかったことは数多く、大変心残りである。
雅之進の話で印象的だったのが、日清戦争終結時の下関談判で、交渉会場となっている小高い場所にある春帆楼において談判しているところ、見下ろすと関門海峡をたくさんの船が航行していた。ただ、これは船を往復させてたくさんの船が航行しているように見せていただけだったのだが、これを指揮できるのは雅之進をおいて他にいなかったという話。
実はこれは、談判を有利に運ぶため、日本の国力を示す格好となったのだが、この逸話を小弟はまだ実証する材料を持っていない。それでも、もしそれが事実なら、幕臣が明治を生きていても国に尽くそうとしていたことがよく分かる好きな話である。
また、南北海道を回ったときは小杉さんの告知によって、木古内で大勢の人たちが出迎えてくださったり、他の機会に連絡を取るべく電話をしたところ「いま塩飽(香川県丸亀市本島)で打合せ中だ」と驚かされたりもした。
オランダ大使館の方に講演を依頼したり、しっかりメールのやり取りをしていたりしたのも印象に残っている。
歴史を通しての交流は、幅広い地域や時に海外の方々とも、遠距離を厭わず行なわれた。これを一介のサラリーマンという立場で続けられていたことは、驚嘆に値する。まだまだ背中を追いかけさせていただきたかった。
心より御冥福をお祈りします。合掌
一昨年の4月末の咸臨丸フェスティバルのとき、久里浜や浦賀を散策していて撮影したスナップ。右端が小杉さん。