会員のカトケンです。
つい2週間前になるが、休みの日に山手線に乗っていて、日ごろ幕臣の墓リストを作成している関係から、沿線の寺院で記憶に残っているところは何処かと考えて、恵比寿の松泉寺を思い出した。
山岡鉄舟の実家 小野家の菩提寺で、長崎奉行を勤めた徳永伊予守昌新家のそれでもある。
JR恵比寿駅西口を出て左に折れ、坂になっている道をひたすら昇る。突き当たりを右へ、大きめの通りを渡って2つ目の角を右に入ると左手にある。向かいは公園になっている。
手前の墓域は隣の近代的な造りの泉明寺のそれであって、松泉寺のそれは寺院の入口を入って奥の左手にある。
墓域の一番奥手前に徳永家(藤原姓)の墓があった(=写真)。
3基あり、奥が慶応2年(1866)に没した人物のもの、中央が昌新の五代前昌寛が建てた徳永本家寿昌(ながまさ)及び分家初代昌成の供養墓、手前が累世之墓となっている。
奥の墓は伊予守(予州刺史)となっていて、昌新も伊予守だが長崎奉行を命ぜられるのが慶応2年だから、おそらくその父昌賢の墓だろう。法名、隆徳院殿賢空松翁大居士。文久2年(1862)まで書院番頭を務めていた。(=写真)
徳永家の後方を右に回って少し行くと幕臣の墓のガイドブック『江戸の旗本たちー墓碑銘をたずねてー』(河原芳嗣著、アグネ技術センター刊)にも載っている北町奉行 小田切土佐守直年一族の墓がある。墓誌や現代墓もあって、子孫がたどれそうである。
小田切家の向かい側に背を向けて建っている墓に文字が刻まれていたので、よく読むと蜷川邦之助親敬という幕臣の墓であった(500石、養父錬之助)。
こちらは意図せず知ったものであり、収穫だった。正面に回ってみると、静岡縣士蜷川敬之墓と刻む。
幕府麾下で小姓組、明治政府でも工部省にて電信事務に携わったことが分かる。よく調べてみると、この蜷川邦之助は実は滝川播磨守具挙の兄弟(弟であろう)である。滝川は、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の開戦時に出てくる有名な幕臣。さすがにこのつながりには驚かされた。
ひと通り墓域をめぐって小野家の墓はないものと諦めかけたとき、本堂前の無縁墓にふと目をやると、中央の背の低い墓の右面に俗名「小野朝右衛門橘高福」(=写真)と刻まれ、これがまさしく山岡鉄舟の実父の墓であった。
正面に「徳照院殿雄道賢達大居士」、その上方左右にそれぞれ蔦と丸に橘の家紋、右面には俗名の右に没年月日「嘉永五壬子年閏二月二十七日」(1852・4・16)が刻まれている。
高福は「たかとみ」と読むのが『寛政重修諸家譜』や『定本山岡鉄舟』(牛山栄治著、新人物往来社刊)であるのに対し、『山岡鉄舟』(大森曹玄著、春秋社刊)は「たかよし」とルビが振られているが、どちらだろうか。偶然にも徳永家に昌福と書いて「まさよし」と読ませる人物がいる。
なお、鉄舟実弟 芝彦一郎忠福が「福」の一字を受け継いでいる。
通称の朝右衛門も「あさえもん」というよりも人名としては「ともえもん」だろうと思うが、牛山栄治は音読み「ちょうえもん」とする。どうだろうか。
ちなみに小野家初代高光は麻右衛門で、これだと「あさえもん」しかあり得ないだろう。
この朝右衛門の称は2代高雲以降、隔代ごと受け継がれた呼び名で、高福の父も朝右衛門だから、ここで二代連続朝右衛門。さらに高福は銕(てつ)太郎とも称しているから、姓は山岡にこそなれここも二代連続鉄太郎となっている。
ところで小野高福は飛騨郡代在任中に没し、岐阜県高山市宗猷(そうゆう)寺町にある宗猷寺に妻磯と並んで墓が建てられている。小弟はまだ足を運んでいないが、鉄舟実父の墓といえば、こちらが一般的だろう。
江戸時代の菩提寺もダメ元で訪ねてみるものである。夕方の、ものの30分位だったが、充実した掃苔となった。
松泉寺は龍徳山、臨済宗妙心寺派。渋谷区恵比寿南1-28-1
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探墓巡礼顕彰会では11月27日(日)に【第14回巡墓会-麟祥院と春日局の足跡-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
巡墓会参加フォーム
つい2週間前になるが、休みの日に山手線に乗っていて、日ごろ幕臣の墓リストを作成している関係から、沿線の寺院で記憶に残っているところは何処かと考えて、恵比寿の松泉寺を思い出した。
山岡鉄舟の実家 小野家の菩提寺で、長崎奉行を勤めた徳永伊予守昌新家のそれでもある。
JR恵比寿駅西口を出て左に折れ、坂になっている道をひたすら昇る。突き当たりを右へ、大きめの通りを渡って2つ目の角を右に入ると左手にある。向かいは公園になっている。
手前の墓域は隣の近代的な造りの泉明寺のそれであって、松泉寺のそれは寺院の入口を入って奥の左手にある。
墓域の一番奥手前に徳永家(藤原姓)の墓があった(=写真)。
3基あり、奥が慶応2年(1866)に没した人物のもの、中央が昌新の五代前昌寛が建てた徳永本家寿昌(ながまさ)及び分家初代昌成の供養墓、手前が累世之墓となっている。
奥の墓は伊予守(予州刺史)となっていて、昌新も伊予守だが長崎奉行を命ぜられるのが慶応2年だから、おそらくその父昌賢の墓だろう。法名、隆徳院殿賢空松翁大居士。文久2年(1862)まで書院番頭を務めていた。(=写真)
徳永家の後方を右に回って少し行くと幕臣の墓のガイドブック『江戸の旗本たちー墓碑銘をたずねてー』(河原芳嗣著、アグネ技術センター刊)にも載っている北町奉行 小田切土佐守直年一族の墓がある。墓誌や現代墓もあって、子孫がたどれそうである。
小田切家の向かい側に背を向けて建っている墓に文字が刻まれていたので、よく読むと蜷川邦之助親敬という幕臣の墓であった(500石、養父錬之助)。
こちらは意図せず知ったものであり、収穫だった。正面に回ってみると、静岡縣士蜷川敬之墓と刻む。
幕府麾下で小姓組、明治政府でも工部省にて電信事務に携わったことが分かる。よく調べてみると、この蜷川邦之助は実は滝川播磨守具挙の兄弟(弟であろう)である。滝川は、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の開戦時に出てくる有名な幕臣。さすがにこのつながりには驚かされた。
ひと通り墓域をめぐって小野家の墓はないものと諦めかけたとき、本堂前の無縁墓にふと目をやると、中央の背の低い墓の右面に俗名「小野朝右衛門橘高福」(=写真)と刻まれ、これがまさしく山岡鉄舟の実父の墓であった。
正面に「徳照院殿雄道賢達大居士」、その上方左右にそれぞれ蔦と丸に橘の家紋、右面には俗名の右に没年月日「嘉永五壬子年閏二月二十七日」(1852・4・16)が刻まれている。
高福は「たかとみ」と読むのが『寛政重修諸家譜』や『定本山岡鉄舟』(牛山栄治著、新人物往来社刊)であるのに対し、『山岡鉄舟』(大森曹玄著、春秋社刊)は「たかよし」とルビが振られているが、どちらだろうか。偶然にも徳永家に昌福と書いて「まさよし」と読ませる人物がいる。
なお、鉄舟実弟 芝彦一郎忠福が「福」の一字を受け継いでいる。
通称の朝右衛門も「あさえもん」というよりも人名としては「ともえもん」だろうと思うが、牛山栄治は音読み「ちょうえもん」とする。どうだろうか。
ちなみに小野家初代高光は麻右衛門で、これだと「あさえもん」しかあり得ないだろう。
この朝右衛門の称は2代高雲以降、隔代ごと受け継がれた呼び名で、高福の父も朝右衛門だから、ここで二代連続朝右衛門。さらに高福は銕(てつ)太郎とも称しているから、姓は山岡にこそなれここも二代連続鉄太郎となっている。
ところで小野高福は飛騨郡代在任中に没し、岐阜県高山市宗猷(そうゆう)寺町にある宗猷寺に妻磯と並んで墓が建てられている。小弟はまだ足を運んでいないが、鉄舟実父の墓といえば、こちらが一般的だろう。
江戸時代の菩提寺もダメ元で訪ねてみるものである。夕方の、ものの30分位だったが、充実した掃苔となった。
松泉寺は龍徳山、臨済宗妙心寺派。渋谷区恵比寿南1-28-1
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探墓巡礼顕彰会では11月27日(日)に【第14回巡墓会-麟祥院と春日局の足跡-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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