カトケンです。
今回の5月の巡墓会にて、池上本門寺を取り上げたが、直前になって掃苔仲間からの指摘で分かった人物の墓がある。
一番最初に説明した中野石翁の左側2つ隣りに「奥津氏」と刻まれたもので、提供された情報では家斉の側室「お蝶の方」とのこと。法名「速成院」で没年は嘉永5年6月(1852)と刻まれている。
ものの本によれば、このお蝶の方は、奥津氏娘とも、曽根重辰娘ともされ、私は当日まで墓碑を「奥野氏」と誤読していたから、謎のまま説明もしないでいた。
ところが、当日説明を終えて改めて見てみると、「奥津氏」となっており、その後、幕臣たちの履歴から「奥(興)津」を拾ってみたところ、
寛政譜では曽根弥三郎重辰(しげとき)といい、戦国時代に駿河国興津の城主から派生した家であった。
重辰の長女が「本城に仕う」とあるから、これがお蝶の方と考えられ、幕末は断絶しているようだが、菩提寺は深川法禅寺とある。現在の神田寺のことかーー
訪ねてみたいが、なかなか時間がとれない。平日は2時間かけて職場に通ってるし、土日は洗濯せないかん、健康維持も欠かせない。
仕事も経理は日々責任が伴うから休むわけにはいかん。夜は人との付き合いもある。
そんなこんなで本来、や、本業とも云ふべき掃苔を怠っている。
いつか訪ねることを楽しみに、今は目の前のことに専念しようと思う。ーおわりー
写真は池上本門寺 石翁の1基おいて左隣「お蝶の方」墓碑(正面及び裏面)
今回の5月の巡墓会にて、池上本門寺を取り上げたが、直前になって掃苔仲間からの指摘で分かった人物の墓がある。
一番最初に説明した中野石翁の左側2つ隣りに「奥津氏」と刻まれたもので、提供された情報では家斉の側室「お蝶の方」とのこと。法名「速成院」で没年は嘉永5年6月(1852)と刻まれている。
ものの本によれば、このお蝶の方は、奥津氏娘とも、曽根重辰娘ともされ、私は当日まで墓碑を「奥野氏」と誤読していたから、謎のまま説明もしないでいた。
ところが、当日説明を終えて改めて見てみると、「奥津氏」となっており、その後、幕臣たちの履歴から「奥(興)津」を拾ってみたところ、
寛政譜では曽根弥三郎重辰(しげとき)といい、戦国時代に駿河国興津の城主から派生した家であった。
重辰の長女が「本城に仕う」とあるから、これがお蝶の方と考えられ、幕末は断絶しているようだが、菩提寺は深川法禅寺とある。現在の神田寺のことかーー
訪ねてみたいが、なかなか時間がとれない。平日は2時間かけて職場に通ってるし、土日は洗濯せないかん、健康維持も欠かせない。
仕事も経理は日々責任が伴うから休むわけにはいかん。夜は人との付き合いもある。
そんなこんなで本来、や、本業とも云ふべき掃苔を怠っている。
いつか訪ねることを楽しみに、今は目の前のことに専念しようと思う。ーおわりー
写真は池上本門寺 石翁の1基おいて左隣「お蝶の方」墓碑(正面及び裏面)