会員のクロサカです。
今回は自分の地元にある著名人の墓とある人物との繋がりについて書いていきたいと思います。
下の写真は、墓碑銘からも分かる通り、亡くなってしまったことも記憶に新しい5代目三遊亭円楽師匠のお墓になります。このお墓が建立されているのは、東京都足立区伊興にある「易行院」というお寺です。墓地の最奥にこのお墓が建立されています。
易行院は円楽師匠の実家でもあり、父もまた住職を務めていました。
5代目三遊亭円楽の本名は「吉河寛海」です。名前からも見てもあまりピンと来ないと思いますが、ある戦国武将と深いつながりがあります。その人物が毛利家家臣の吉川経家という人物です。
この人物は、羽柴秀吉による中国攻めで行った「鳥取城の渇え殺し」の際に鳥取城主でした。そのため降伏の際、本国への帰還を許されていましたが、頑強に自害を請い、信長による切腹許可を得て、見事な切腹を行った“義士”とも呼ぶべき人物になります。
では、三遊亭円楽と吉川経家との関係はどういうことなのでしょうか?
実は経家の3男家好が後に、鳥取藩池田家の家臣として取り立てられています。『藩翰譜』によれば、円楽の曽祖父が安政7年に切腹したという記述があります。
この安政7年は桜田門外の変が行った年でもあり、鳥取藩主池田慶徳も水戸藩主徳川斉昭と親子という関係もあるので、関連性もありますが、詳細は不明です。
その息子寛雅は、当時7歳でしたが、父の切腹に立会い、「侍というものは、かくも悲惨なものか、もう厭だ」と考えたと云われています。その後、武士を廃業し、増上寺に入り、僧侶となりました。号は「才蓮社辯譽上人寛雅老和尚」となっております。寛雅は苗字を代々の「吉川」から「吉河」に改め、その子が円楽の父である「雄譽寛快和尚」です。
易行院の墓地には、円楽師匠のお墓だけではなく、吉河家の墓所も建立されていますが、円楽の墓所とは異なり、墓地に入って正面奥に建立され、墓誌には、吉川家・吉河家歴代当主の戒名と没年月日が記されています。一番右は、初代吉川家好となります。しかし、この墓誌にも疑問があり、『藩翰譜』に記録が残る安政7年ではなく、「安政二年十一月四日」となっており、墓誌の方が間違って刻んだものと思われますが、今後の課題としたいと思います。
この易行院の周辺には、関東大震災によって、浅草から複数の寺院が移転してきているため、多くの史跡があります。今後も「伊興の寺町」に残る多くの著名人のお墓について、書かせて頂きたいと思います。
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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-申込みフォーム
今回は自分の地元にある著名人の墓とある人物との繋がりについて書いていきたいと思います。
下の写真は、墓碑銘からも分かる通り、亡くなってしまったことも記憶に新しい5代目三遊亭円楽師匠のお墓になります。このお墓が建立されているのは、東京都足立区伊興にある「易行院」というお寺です。墓地の最奥にこのお墓が建立されています。
易行院は円楽師匠の実家でもあり、父もまた住職を務めていました。
5代目三遊亭円楽の本名は「吉河寛海」です。名前からも見てもあまりピンと来ないと思いますが、ある戦国武将と深いつながりがあります。その人物が毛利家家臣の吉川経家という人物です。
この人物は、羽柴秀吉による中国攻めで行った「鳥取城の渇え殺し」の際に鳥取城主でした。そのため降伏の際、本国への帰還を許されていましたが、頑強に自害を請い、信長による切腹許可を得て、見事な切腹を行った“義士”とも呼ぶべき人物になります。
では、三遊亭円楽と吉川経家との関係はどういうことなのでしょうか?
実は経家の3男家好が後に、鳥取藩池田家の家臣として取り立てられています。『藩翰譜』によれば、円楽の曽祖父が安政7年に切腹したという記述があります。
この安政7年は桜田門外の変が行った年でもあり、鳥取藩主池田慶徳も水戸藩主徳川斉昭と親子という関係もあるので、関連性もありますが、詳細は不明です。
その息子寛雅は、当時7歳でしたが、父の切腹に立会い、「侍というものは、かくも悲惨なものか、もう厭だ」と考えたと云われています。その後、武士を廃業し、増上寺に入り、僧侶となりました。号は「才蓮社辯譽上人寛雅老和尚」となっております。寛雅は苗字を代々の「吉川」から「吉河」に改め、その子が円楽の父である「雄譽寛快和尚」です。
易行院の墓地には、円楽師匠のお墓だけではなく、吉河家の墓所も建立されていますが、円楽の墓所とは異なり、墓地に入って正面奥に建立され、墓誌には、吉川家・吉河家歴代当主の戒名と没年月日が記されています。一番右は、初代吉川家好となります。しかし、この墓誌にも疑問があり、『藩翰譜』に記録が残る安政7年ではなく、「安政二年十一月四日」となっており、墓誌の方が間違って刻んだものと思われますが、今後の課題としたいと思います。
この易行院の周辺には、関東大震災によって、浅草から複数の寺院が移転してきているため、多くの史跡があります。今後も「伊興の寺町」に残る多くの著名人のお墓について、書かせて頂きたいと思います。
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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
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