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富津と二本松藩

会員のカネコです。
前回の投稿でも少し触れましたが、8月12日(水)お盆休みの初日に千葉県富津市へ行きました。

富津は幕末に外国船がたびたび来航するようになると、海上防衛の必要に迫られた幕府により、重要な拠点とされ、砲台が築かれ、富津陣屋には警備のために会津藩、白河藩、柳川藩などの藩士が出張してきました。
二本松藩も幕府より安政5年(1858)から慶応3年(1867)の約10年間、富津砲台の警備を命じられました。
会津藩士に関しては富津で亡くなった藩士達の墓についての情報は多く見られ、当会でもお世話になっている、大佗坊さんのHP「会津いん東京」にも詳しく書かれています。
しかし、富津で亡くなった二本松藩士に関しての情報は殆ど無く、私も色々と調べていましたが、先頃、『郡山市史 第3巻』に富津で亡くなった二本松藩士は主に大乗寺に葬られたとの記載を見つけ、さらに文久元年に死亡し、長秀寺に葬られた佐々木紋太の過去帳の写真も掲載されていました。
墓碑の現存に関する記載はありませんでしたが、二本松藩士の墓が現存している可能性が高い事を確信しましたので、現地を調査することにしました。

富津市富津36にある大乗寺は『郡山市史 第3巻』に二本松藩士が主として葬られた場所とされていた寺院です。

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まず、お寺の方に尋ねてみると、お盆の忙しい中、奥様に対応して頂きました。お話しによると、富津警備をしていた各藩の藩士の墓は無縁集石墓に集められており、以前も二本松藩士の墓を探しに来た方がいて、墓を見つけたという話しを聞いたとのことでしたが、詳しい場所は分からないとの事で、取り敢えず、無縁集石墓に案内してもらいました。
そこには何百基もの無縁墓があり、気が遠くなる作業でしたが、二本松の文字が刻まれている墓を丹念に探しました。柳川藩士の墓はすぐに見つける事が出来ましたが、二本松藩士の墓はなかなか見つからず、諦めかけていた所、柳川藩士の墓をもう一度よく見てみると、柳川藩士の墓に挟まれて[奥州二本松 橋本慶助墓]と刻まれた墓碑を見つけました。

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遠く、二本松から離れ、風土も異なる地で、病に倒れ命を落とした藩士達の事を想い手を合わせました。

もう一ヶ所、富津市富津169-1にある長秀寺の方では残念ながら二本松藩士の墓は確認できませんでしたが、会津藩士・白河藩士の墓を確認する事が出来ました。

その後、二本松藩士達が10年間滞在した富津陣屋の跡へ行きました。住宅地に囲まれた一角にあり、「小河原多宮自刃の地」「白井宣左衛門自刃之地」「富津陣屋跡」の3つの石碑が建立されていました。

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この日は他に飯野藩主保科家の菩提寺浄信寺、旗本小笠原家と会津藩士の墓がある正珊禅寺、田沼意尊が維新後に遠江相良から移封された小久保藩の陣屋跡、さらに佐貫に移動し、佐貫藩主阿部家の墓所がある勝隆寺跡、安楽寺、妙勝寺、三宝寺などを巡りしました。

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真夏の猛暑日の調査となりましたが、朝から夕方まで大変充実した調査となりました。
途中訪れた富津岬と富津元洲堡塁砲台跡から見た東京湾が見事でした。

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