会員のカネコです。
7月15日(日)に荒川区・北区内の寺院で調査をしてきました。
まず、町屋駅前の泊船軒にある武田斐三郎の墓へ行って来ました。
斐三郎は五稜郭を設計・建設した人物として知られています。
墓地に入るとすぐ右側に武田家の墓が2基あり、[武田成章家之墓]と刻まれているのが斐三郎の墓です。側面を見るとこの墓碑が昭和6年に建立されたことが分かりました。
武田家は甲斐武田氏の流れを汲むと言われていますが、墓碑に刻まれた家紋は武田菱では無く、武田菱に似た四つ目紋でした。
この後、田端へ移動し、正岡子規の墓があることで知られる大龍寺に行きました。
今回の目的は渋沢栄一の娘婿にあたる大川平三郎の墓を調査することでした。
正岡子規の墓の裏側の広い墓域は大川家の墓地です。
平三郎の母光子は渋沢栄一の妻千代の姉にあたり、平三郎は栄一の義理の甥にもあたります。
墓域には光子の墓もありました。
平三郎の墓は正面に[天龍院殿康徳櫻塘大居士墓]と刻んであり、側面・裏面の3面には撰文が刻まれていました。墓型も含め、この様式は谷中霊園の渋沢家の墓に似ていました。
平三郎夫人で栄一の4女照子の墓は正面に[天悠院慶室妙照大姉墓]と刻み、こちらも3面に撰文が刻まれていました。
ちなみに競馬評論家の大川慶次郎は平三郎の孫にあたります。
大龍寺の墓地には大川家に繋がる家の墓が数カ所に分散していました。
最後に大龍寺近くの大久寺へ行きました。
ここには小田原藩大久保家の初期の墓と、大久保忠隣の次男忠総が養子に入った伊勢亀山藩石川家の墓があります。
随分前に行ったことがあって、再度調査をしようと思ったのですが、石川家の墓地へ着いたとたん愕然としました。
東日本大震災の被害により、江戸時代の宝篋印塔の大半が倒壊していました。
震災から1年半近く経ちますが、都内にまだまだその傷跡が残っている事を目の当たりにして、改めてその恐ろしさを感じました。
長い時間がかかるかも知れませんが、これらの傷付いた貴重な文化遺産が修復されることを望みます。
7月15日(日)に荒川区・北区内の寺院で調査をしてきました。
まず、町屋駅前の泊船軒にある武田斐三郎の墓へ行って来ました。
斐三郎は五稜郭を設計・建設した人物として知られています。
墓地に入るとすぐ右側に武田家の墓が2基あり、[武田成章家之墓]と刻まれているのが斐三郎の墓です。側面を見るとこの墓碑が昭和6年に建立されたことが分かりました。
武田家は甲斐武田氏の流れを汲むと言われていますが、墓碑に刻まれた家紋は武田菱では無く、武田菱に似た四つ目紋でした。
この後、田端へ移動し、正岡子規の墓があることで知られる大龍寺に行きました。
今回の目的は渋沢栄一の娘婿にあたる大川平三郎の墓を調査することでした。
正岡子規の墓の裏側の広い墓域は大川家の墓地です。
平三郎の母光子は渋沢栄一の妻千代の姉にあたり、平三郎は栄一の義理の甥にもあたります。
墓域には光子の墓もありました。
平三郎の墓は正面に[天龍院殿康徳櫻塘大居士墓]と刻んであり、側面・裏面の3面には撰文が刻まれていました。墓型も含め、この様式は谷中霊園の渋沢家の墓に似ていました。
平三郎夫人で栄一の4女照子の墓は正面に[天悠院慶室妙照大姉墓]と刻み、こちらも3面に撰文が刻まれていました。
ちなみに競馬評論家の大川慶次郎は平三郎の孫にあたります。
大龍寺の墓地には大川家に繋がる家の墓が数カ所に分散していました。
最後に大龍寺近くの大久寺へ行きました。
ここには小田原藩大久保家の初期の墓と、大久保忠隣の次男忠総が養子に入った伊勢亀山藩石川家の墓があります。
随分前に行ったことがあって、再度調査をしようと思ったのですが、石川家の墓地へ着いたとたん愕然としました。
東日本大震災の被害により、江戸時代の宝篋印塔の大半が倒壊していました。
震災から1年半近く経ちますが、都内にまだまだその傷跡が残っている事を目の当たりにして、改めてその恐ろしさを感じました。
長い時間がかかるかも知れませんが、これらの傷付いた貴重な文化遺産が修復されることを望みます。