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二本松歴史館企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」を見る

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会員のカネコです。

カトケンさんが京都へ行っている3月12日(日)に、私は両親の故郷福島県二本松市へ行き、二本松歴史館で開催されている企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」を見てきました。



二本松歴史館は昨年4月にオープンしたにほんまつ城報館内にあり、昨年の開館以降、定期的に企画展が開催されています。

朝河貫一博士は日本とヨーロッパの封建制度比較研究に大きな業績を残し、日本人初のイェール大学正教授となった人物で、二本松市出身の代表的著名人となっています。

展示は主にパネルが多かったのですが、朝河貫一博士の生涯をコンパクトにまとめており、初心者の人でも朝河博士の業績が分かりやすく展示されています。
また、2021年に福島中央テレビで放送された「霞の国 ヒストリア ~二本松の偉人 朝河貫一~」も上映されており、これも併せて見ると、より朝河博士の人物像を理解することができます。
ゆかりの地マップも配布されており、見学後にそのまま二本松市内を巡るのも良いと思います。

朝河博士については歴史学者というより、平和主義者としての面で語られることが多いかと思います。
朝河博士は日露戦争後に日本の将来について警告を発した『日本の禍機』を執筆し、昭和16年(1941)太平洋戦争開戦直前にルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書の草案を作成するなど、戦争回避への積極的な取り組みをしています。
『日本の禍機』は日露戦争の勝利に酔い知れ、軍備拡大や大陸進出を進める政府や世論に警鐘を鳴らしました。しかし、ここに書かれた危惧はその後、太平洋戦争として現実のものになり、図らずも予言書となってしまいました。
ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書については、朝河博士の草案を基に、親書が作成されましたが、この親書が届いたのは真珠湾に向けて攻撃機が飛び立った直後であり、朝河博士の願い空しく日米開戦に至りました。
戦時中、アメリカ在住の日本人・日系人の多くが強制収容されるなど、行動の制限を受けましたが、朝河博士にはこれまでの業績と思想への敬意がはらわれ、行動と学問の自由が保証されました。

このように、平和主義者としての朝河博士については、広くしられるようになってきましたが、これに対し歴史学者としての朝河博士の業績は埋もれているのではないかと思います。
朝河博士の初期の代表作『大化改新』では大化の改新を日本の封建制度のはじまりとし、中国から何を学び、何を学ばなかったかを分析しています。
後期の代表作『入来文書』は、薩摩入来院家に鎌倉期から江戸期にかけての古文書群を調査したもので、この調査を基にした日本とヨーロッパの封建制度比較研究はこれまで例がなかったもので、欧米で高い評価を受けました。

朝河博士は古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の分野で大きな業績を残した訳ですが、現在の古代史・中世史の専門書で、朝河博士の名を見ることは決して多くはないということを常々感じていました。
その理由として、私は矢吹晋著『朝河貫一とその時代』(花伝社)の一文に注目しています。

矢吹先生は戦後、永原慶二教授・石井進教授といった中世史研究の大家が入来調査を行い、報告書を作成しましたが、その中で全く朝河博士について触れていなかったことを指摘しています。さらに永原教授が報告書において、入来に奴隷制があったに違いない、しかもここに奴隷制を発見できるならば、これは例外ではなく、日本全体の奴隷制度を論証する史料になっている前提に立っていると指摘しています。
対して朝河博士は日本に奴隷はいなかったと『入来文書』に基づいて実証しており、朝河博士の説と永原教授の説は相容れないとしています。
矢吹先生はこれを「つまり永原教授のような中世史像を描く左翼公式主義者にとって、朝河学説はたいへん具合の悪い、不都合な学説であったと思われます。永原教授は敢えて入来まで調査に行き、敢えて朝河学説を無視したものと思われます。永原教授の日本中世史像は報告書の基調がずっとそのまま続いているようです。教授は晩年『二〇世紀日本の歴史学』という本を書きましたが、朝河は出てこない。」として、永原教授は自説の主張に都合が悪い朝河説を黙殺したのではないかとしています。

さらに続けて、「要するに、永原教授は、教授の歴史学と朝河史学は相いれないと認識していたようです。私はここで永原学説が朝河史学と異なることを問題にしているのではありません。見解の相違は当然ありうることです。その場合、研究者ならば朝河学説を批判して自説の正しさを主張するのがスジでありましょう。単に黙殺する。黙殺し続ける態度。これは研究者のとるべき態度ではなく、政治的セクトにありがちな政治行動です。学問の世界に政治を持ち込む安易な政治主義が学問の腐敗を生むと認識して、私はこれを批判しています。」
つまり、本来学説を批判することで、自説を主張するべきなのに、永原教授は政治的スタンスによって、朝河説を黙殺したとして、矢吹先生はこれは強く批判しています。

もちろんこの問題は、永原教授側から見るべきものもありますが、戦後の歴史学の流れにおいて、中世史の大家永原教授から朝河史学が黙殺されたという事実は、朝河史学が埋もれてしまった一つの要因であったと考えて良いのではないかと思います。

矢吹先生はさらに朝河博士が黒板勝美教授と論争したり、南北正閏問題に悩む三上参次教授を慰めたりしたことを指摘しています。また、「島津忠久の生い立ち」の三ヶ所で検閲を受け削除された部分があり、前後の文脈から皇国史観が朝河史学を許さなかった一例と判断できるとしています。
つまり、朝河史学は皇国史観からも許されなかったとしています。
朝河史学は戦前の皇国史観から認められず、その反動である戦後の唯物史観からも黙殺されたということになります。
しかしこれは裏を返せば、朝河史学というものは、その時代ごとの潮流に流されることがない、普遍的なものであったのではないかと思います。

矢吹先生の指摘は、歴史を研究する者の姿勢を問うものであり、自説を主張するにあたり、都合の良い取捨選択は厳に慎むべきであると改めて感じた次第です。

さて、朝河博士については、ほかにもさまざまな切り口があり、朝河博士を輩出した二本松藩士朝河家についても、天狗党の乱や戊辰戦争で戦死した人物がいるなど、朝河博士の人格形成の背景になる部分にも興味深いものがあります。
またその辺のことは別の機会に触れられればと思います。

企画展で配布されているゆかりの地マップにも載っていますが、朝河貫一博士生誕の地は二本松市根崎にあり、案内板が設置されています。



朝河家の墓所はかつて真行寺(二本松市竹田1丁目192)にありましたが、現在は金色墓地(二本松市金色400番地3)に移されています。朝河博士はアメリカで死去したため、アメリカニューヘイヴン市グロウヴ・ストリート墓地に墓がありますが、故郷二本松の朝河家墓所内にも建立されており、ミリアム夫人の墓には「美里安之墓」と刻まれています。



二本松歴史館企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」は3月26日(日)まで開催されています。

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