会員のカトケンです。
米国のロシアがウクライナを攻撃するという予告から、俄かに信じ難いと思っていたところが、遂に現実となってしまった。
小弟が生きてきた時代は、湾岸戦争にしろ、コソボにしろ、国連がどのように処理するか、安保理が結束して事態を対処しようとしてきた。
ところが今回は国連常任理事国の1つが戦争を始めた。
ヤルタ体制が機能しなくなったと断ぜざるを得ない。しかも、途中から常任理事国に差し替わった国は棄権し2国が抜ける事態は、最早不安全保障理事会である。
ここまでよく持ったものである。国連という誤訳を信奉し続けた我が国(正しい訳は「連合国群」)は「対岸の火事ではない」だとか何とか言いながら、こういうときどのように対処するか決まった指針がない。ドクトリンに欠ける。レジームまで程遠い。
アフガン攻撃やイラク攻撃に少なからず関与していたにもかかわらずである。
一体隣の国が戦争を始めたというのに、こちらにも攻めてこないのかとか、背中から圧力をかけないのかとかどうしてそのような発想がないのだろうか。
国際的にも国内的にもボケ切っているとしか言いようがない。
やはりこれは時系列でものを考える、近い歴史からヒントを得る、そのような歴史教育をしていない、あるいはそのようなことを議論する習慣がない国民の馬脚を露したと言っても過言ではあるまい。
ところで、我が国の先の大戦のときの回顧録を読むと当事者ならではの臨場感が伝わってきて興味深い。
欧州にいて日独伊三国で同盟を結ぼうとしても本国の意向と差が出ていたり、東條英機が真珠湾攻撃の前に日露戦争を模範として終戦の仕方を検討していたり、様々なことが戦後になって語られている。
朝日文庫の『語りつぐ昭和史』シリーズは当事者たちが当時を語っていて生々しい。自分の生まれた頃にまだ戦争当事者が生きていてそのようなことを語っているのである。
改めて、歴史の当事者はもとよりその遺族や子孫に話を聴くことがいかに大切か、また遺品に触れたり、それにまつわる話を聴いたりしても良いだろう。
追いかける人物の墓を訪ね、子孫を訪ねてその家に伝わる歴史に接し、各材料を集める。文書や文献に当たり、それらを照合して文章を組み立てていく。
それが歴史研究の醍醐味なのではないか。目に見えないものを視覚化していき、時には筆力でそれらを表現する。
だから墓碑を訪ねるのは助走であって、まだ歴史研究にたどり着いていないのだ。
我々は掃苔家ではない。墓を訪ねるのは趣味ではなく、そこで戒名や没年月日、家族関係、時には生年月日など歴史を立体化するための取材なのである。
私たちは歴史研究家を標榜する以上、その本質は史料、文献、聞き取り、墓石や石碑に刻まれた文字をヒントに歴史像を一面的でなく、複眼的に描くことに尽きるのではないか。
あと3年で昭和100年になる。今こそ昭和とは何か。どのような時代であったか、先の大戦はなぜ起こったのか。なぜ既存政党をすべて解体し、統合して大政翼賛会を創ることになったのか。あるいはその最初の理念はなんであったか。
どうやら3年後には杉並区荻外荘の公開が始まるそうだから、いま一度近衛文麿、近衛新体制を1つの題材として、我々日本人は戦争というものを考える必要があるのではないか。
我が国が近衛公に期待したものは何であったか。どのような理念に基づいて国家像を描いていたのか。それが何故立ち行かなくなったか。
未来をより快適に過ごし、子々孫々に暮らしやすい国を提供すべく、今こそ歴史にそのヒントを求めるべきではないか。
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米国のロシアがウクライナを攻撃するという予告から、俄かに信じ難いと思っていたところが、遂に現実となってしまった。
小弟が生きてきた時代は、湾岸戦争にしろ、コソボにしろ、国連がどのように処理するか、安保理が結束して事態を対処しようとしてきた。
ところが今回は国連常任理事国の1つが戦争を始めた。
ヤルタ体制が機能しなくなったと断ぜざるを得ない。しかも、途中から常任理事国に差し替わった国は棄権し2国が抜ける事態は、最早不安全保障理事会である。
ここまでよく持ったものである。国連という誤訳を信奉し続けた我が国(正しい訳は「連合国群」)は「対岸の火事ではない」だとか何とか言いながら、こういうときどのように対処するか決まった指針がない。ドクトリンに欠ける。レジームまで程遠い。
アフガン攻撃やイラク攻撃に少なからず関与していたにもかかわらずである。
一体隣の国が戦争を始めたというのに、こちらにも攻めてこないのかとか、背中から圧力をかけないのかとかどうしてそのような発想がないのだろうか。
国際的にも国内的にもボケ切っているとしか言いようがない。
やはりこれは時系列でものを考える、近い歴史からヒントを得る、そのような歴史教育をしていない、あるいはそのようなことを議論する習慣がない国民の馬脚を露したと言っても過言ではあるまい。
ところで、我が国の先の大戦のときの回顧録を読むと当事者ならではの臨場感が伝わってきて興味深い。
欧州にいて日独伊三国で同盟を結ぼうとしても本国の意向と差が出ていたり、東條英機が真珠湾攻撃の前に日露戦争を模範として終戦の仕方を検討していたり、様々なことが戦後になって語られている。
朝日文庫の『語りつぐ昭和史』シリーズは当事者たちが当時を語っていて生々しい。自分の生まれた頃にまだ戦争当事者が生きていてそのようなことを語っているのである。
改めて、歴史の当事者はもとよりその遺族や子孫に話を聴くことがいかに大切か、また遺品に触れたり、それにまつわる話を聴いたりしても良いだろう。
追いかける人物の墓を訪ね、子孫を訪ねてその家に伝わる歴史に接し、各材料を集める。文書や文献に当たり、それらを照合して文章を組み立てていく。
それが歴史研究の醍醐味なのではないか。目に見えないものを視覚化していき、時には筆力でそれらを表現する。
だから墓碑を訪ねるのは助走であって、まだ歴史研究にたどり着いていないのだ。
我々は掃苔家ではない。墓を訪ねるのは趣味ではなく、そこで戒名や没年月日、家族関係、時には生年月日など歴史を立体化するための取材なのである。
私たちは歴史研究家を標榜する以上、その本質は史料、文献、聞き取り、墓石や石碑に刻まれた文字をヒントに歴史像を一面的でなく、複眼的に描くことに尽きるのではないか。
あと3年で昭和100年になる。今こそ昭和とは何か。どのような時代であったか、先の大戦はなぜ起こったのか。なぜ既存政党をすべて解体し、統合して大政翼賛会を創ることになったのか。あるいはその最初の理念はなんであったか。
どうやら3年後には杉並区荻外荘の公開が始まるそうだから、いま一度近衛文麿、近衛新体制を1つの題材として、我々日本人は戦争というものを考える必要があるのではないか。
我が国が近衛公に期待したものは何であったか。どのような理念に基づいて国家像を描いていたのか。それが何故立ち行かなくなったか。
未来をより快適に過ごし、子々孫々に暮らしやすい国を提供すべく、今こそ歴史にそのヒントを求めるべきではないか。
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