会員のカトケンです。
『探墓巡礼』刊行から既に1年。本を作ったことをきっかけに様々な方からお声掛けいただき、いろいろなところでお話させていただきました(青山巡墓、京都、土佐史談会関東支部例会)。
その準備のため、今年はとにかく青山霊園をよく巡りました。
その中から将来『探墓巡礼』を作るとしたら候補になりそうな墓を紹介します。
○小笠原賢蔵(立山1種ロ4号1側=写真)
慶応4年(1868 )8月、品川脱出時の大江丸を率い、宮古湾海戦の高雄船将として降伏。
幕末時は小笠原島へ渡り、慶応3年(1867)に小野友五郎の軍艦買いつけの渡米に同行。そのときの同行者尺振八(のち共立学舎設立)の墓のすぐ裏側にあり(=写真)、父小林省三と兄弥三郎らの墓もある。
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その後、明治政府の海軍操練所に務め、のち郵便蒸汽船会社の船長となる。
墓碑裏面に[小笠原賢蔵君東京人也。明治十八年(1885)三月十一日歿。年四十有四]と刻む。
○本山漸(1種ロ2号17側=写真)
品川脱出時の美嘉保乗組員で銚子沖で破損し箱館には行けず。菊間藩を経て海軍創設に携わり、海軍大学校教頭や海軍兵学校長を務め、天寿を全うした。晩年は庶民夜学校を無償で行い東京府知事に賞をもらう。
正面[本山家累代之墓]、裏面に[大正九年(1920)三月四日歿行年七十九]と刻む。
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適塾出身。昭和4年まで生きた岩瀬忠震の六女吉子の夫。雑司ヶ谷の岩瀬家奕世之墓を建てた人物の墓にようやくたどり着くことができた。息佗吉、孫櫻一も墓碑に刻まれている。
○江間政發(1種ロ2号18側=写真)
桑名出身の歴史家。桑名や現地で得た情報により港区天徳寺を探したが見つからずじまいだった。コメント欄にヒントをいただいたおかげでたどり着け、感謝申し上げたい。墓誌に[修述院寛譽些亭居士 大正五年(1916)八月二十四日 政発 六十五才]と刻む。
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○村松 一(立山1種ロ4号5側=写真)
今の東洋英和女学院の創設者の1人。養父は村松遠江守武義で、紀州藩家老から幕臣となった将軍家茂の小姓。実父はその同僚諏訪頼功。わが高祖父加藤忠恕とともに働いていた方の墓にようやくたどり着けた(諏訪は未見)。
左面に[大正四年六月九日永眠/行年五十八歳]と刻む。
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○望月光蔵(富岡忠幸。1種ロ16号5側=写真)
神奈川奉行所に務めていた人物で、戊辰の戦いで元新選組永倉新八、その友芳賀宜道、米沢出身雲井龍雄とともに会津を救おうと転戦したが、米沢の降伏により断念。「夢乃うわ言」と題する手記を残す。正面[富岡忠幸/配宮原芳子之墓]、左面に[忠 明治二十三年(1890)十二月二日卒/芳 同三十三年(1900)一月三十一日卒]と刻む。
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○渡瀬寅次郎(1種ロ7号16側=写真)
幕臣。父源四郎。札幌農学校を出て伊豆に蜜柑園を創り柑橘振興に功労あり。息彦太郎らの名を墓誌に刻む。継母の墓碑あり。加藤弘之・市川兼恭に連なる一族にして小坂善太郎外相、小坂憲次文科相の先祖。
寅次郎は[大正十五年(1926)十一月八日歿]と墓誌に刻む。
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まだまだほんの一握りと思いますが、来年もできる限り足を運んで少しずつ見つけていきたいと思う。
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『探墓巡礼』刊行から既に1年。本を作ったことをきっかけに様々な方からお声掛けいただき、いろいろなところでお話させていただきました(青山巡墓、京都、土佐史談会関東支部例会)。
その準備のため、今年はとにかく青山霊園をよく巡りました。
その中から将来『探墓巡礼』を作るとしたら候補になりそうな墓を紹介します。
○小笠原賢蔵(立山1種ロ4号1側=写真)
慶応4年(1868 )8月、品川脱出時の大江丸を率い、宮古湾海戦の高雄船将として降伏。
幕末時は小笠原島へ渡り、慶応3年(1867)に小野友五郎の軍艦買いつけの渡米に同行。そのときの同行者尺振八(のち共立学舎設立)の墓のすぐ裏側にあり(=写真)、父小林省三と兄弥三郎らの墓もある。


その後、明治政府の海軍操練所に務め、のち郵便蒸汽船会社の船長となる。
墓碑裏面に[小笠原賢蔵君東京人也。明治十八年(1885)三月十一日歿。年四十有四]と刻む。
○本山漸(1種ロ2号17側=写真)
品川脱出時の美嘉保乗組員で銚子沖で破損し箱館には行けず。菊間藩を経て海軍創設に携わり、海軍大学校教頭や海軍兵学校長を務め、天寿を全うした。晩年は庶民夜学校を無償で行い東京府知事に賞をもらう。
正面[本山家累代之墓]、裏面に[大正九年(1920)三月四日歿行年七十九]と刻む。

適塾出身。昭和4年まで生きた岩瀬忠震の六女吉子の夫。雑司ヶ谷の岩瀬家奕世之墓を建てた人物の墓にようやくたどり着くことができた。息佗吉、孫櫻一も墓碑に刻まれている。
○江間政發(1種ロ2号18側=写真)
桑名出身の歴史家。桑名や現地で得た情報により港区天徳寺を探したが見つからずじまいだった。コメント欄にヒントをいただいたおかげでたどり着け、感謝申し上げたい。墓誌に[修述院寛譽些亭居士 大正五年(1916)八月二十四日 政発 六十五才]と刻む。

○村松 一(立山1種ロ4号5側=写真)
今の東洋英和女学院の創設者の1人。養父は村松遠江守武義で、紀州藩家老から幕臣となった将軍家茂の小姓。実父はその同僚諏訪頼功。わが高祖父加藤忠恕とともに働いていた方の墓にようやくたどり着けた(諏訪は未見)。
左面に[大正四年六月九日永眠/行年五十八歳]と刻む。

○望月光蔵(富岡忠幸。1種ロ16号5側=写真)
神奈川奉行所に務めていた人物で、戊辰の戦いで元新選組永倉新八、その友芳賀宜道、米沢出身雲井龍雄とともに会津を救おうと転戦したが、米沢の降伏により断念。「夢乃うわ言」と題する手記を残す。正面[富岡忠幸/配宮原芳子之墓]、左面に[忠 明治二十三年(1890)十二月二日卒/芳 同三十三年(1900)一月三十一日卒]と刻む。

○渡瀬寅次郎(1種ロ7号16側=写真)
幕臣。父源四郎。札幌農学校を出て伊豆に蜜柑園を創り柑橘振興に功労あり。息彦太郎らの名を墓誌に刻む。継母の墓碑あり。加藤弘之・市川兼恭に連なる一族にして小坂善太郎外相、小坂憲次文科相の先祖。
寅次郎は[大正十五年(1926)十一月八日歿]と墓誌に刻む。

まだまだほんの一握りと思いますが、来年もできる限り足を運んで少しずつ見つけていきたいと思う。
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