会員のカネコです。
昨日となりましたが、今上天皇御譲位に伴う新元号「令和」が発表されました。
これまでの漢籍からの出典ではなく、国書『万葉集』からの出典という大きな転換が話題となっていますが、この元号に込められた意味通りの素晴らしい時代になることを祈念しております。
さて、次期天皇皇太子徳仁親王は父今上天皇・母美智子皇后の意向によって、それまでの皇室の慣例をやめ、両親の許で育てられました。
そのような訳で、専任の養育係は置かれませんでしたが、それに準じる役割を果たしたのが東宮侍従であった濱尾實でした。
濱尾實は徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生までの間、親王の側にあり、親王は濱尾實のことを「オーちゃん」と呼び親しんでいました。
濱尾實さんというと私は子供の頃に見た夕方のワイドショーやゴールデンタイムの皇室SPなどで、皇室の方々のエピソードを語る人という印象が強く、穏やかで品のある語り口調をはっきりと記憶してしています。
晩年には自身の体験を様々な著作物に残しており、皇室ご一家の素顔を知ることができる貴重な情報源ではないかと思います。
濱尾家は祖父濱尾新の代に子爵となり、2代四郎は男爵加藤照麿の四男で濱尾家に養子に入り、3代は四郎の長男誠で太平洋戦争で戦死したため、その弟實が4代として子爵を継承しましたが、その間もなく華族制度が廃止となっています。
宿南保著『浜尾新 明治期郷土出身文教の偉人群』によると、濱尾家の先祖は豊岡藩京極家の家臣で、2代藩主京極高住に仕えた濱尾嘉左衛門を初代としています。嘉左衛門は160石、馬廻りを務めていました。
その後、京極家当主の早世が続き、3万3000石から1万5000石に減封されると、家臣の禄高も3分の1程度に減らされています。
濱尾家の歴代は「1.嘉左衛門-2.嘉平治(平次)-3.嘉左衛門(政兵衛)-4.右平(岩五郎・政兵衛)-5.嘉平治(熊次郎)」と続き、5代嘉平治の子が新となります。歴代江戸詰めが続いた家で、新の父嘉平治も妻と共に豊岡藩江戸屋敷に居住していました。
新は嘉永2年4月20日(1849・5・12)に生まれ、明治2年(1869)藩費遊学制度により慶應義塾に入学、明治5年(1872)文部省に出仕し、大学南校の中監事となった後、明治6年(1873)~明治7年(1874)にアメリカへ留学し、帰国後開成学校校長心得となっています
明治10年(1877)官立東京大学が設立されると、法理文三学部綜理補として法理文三学部綜理の加藤弘之を補佐しています。後に婿養子となる四郎は弘之の孫にあたります。
明治23年(1890)文部省専門学務局長、貴族院議員、明治26年(1893)帝国大学第3代総長などを歴任して明治30年(1897)第2次松方内閣の文部大臣を務めています。
明治38年(1905)東京帝国大学第8代総長として再任し、明治40年(1907)日露戦争の功により男爵に叙爵、明治44年(1911)枢密顧問官となっています。
大正3年(1914)66歳の時に皇太子裕仁親王(昭和天皇)の東宮大夫となり、裕仁親王の行啓に供奉すること21回に及び、また御学問所の運営に尽力しています。
『浜尾新 明治期郷土出身文教の偉人群』によると、その時の新の気概を山川健次郎が次のように語っています。
「小さなことであるが、浜尾子爵の逸事として新聞等にも出ないから話しておくが、御承知の通り浜尾子爵の宅は小石川の金富町で、東宮御所と云ふのは高輪であるので彼是二里もあるから、小石川から高輪へ行くのは一時間もかかる。然るに子爵は何時でも東宮殿下の御授業が始まる前に行かれるが、御授業は八時か、九時に始まる。毎日窮屈な人力車で往復されるのは老体に大義であらうし、殊に冬などは身体の為に良くないから、自動車に御乗りになったら宜からうと私は屡々御助言申し上げた。貴下が今御病気になられては大変なことになるからして、成るだけ楽に御奉公ので出来るやうに為すったら宜からう、と言ったもののなかなか聴かれない。若しも人でも轢くやうなことがあっては、どの立場でも済まんが殊に今の立場としては恐縮に堪へないから乗らない。それならば宮内省辺りに御頼みになって極く熟練した運転手に運転させ、さうして馬車の速さで、是以上の速さにはせぬと云ふことにでも為すったならば、人を轢くと云ふ虞もないぢゃありませぬかと言ったが、なかなか承知せられなかった。是は私ばかりではない。久保田男爵なども屡々浜尾子爵に忠告されたさうである。どうもああ云う謹厳な人だから、若しものことがあっては大変と云ふので、なかなか乗られなかった(『故浜尾子爵追悼録』)。」
とあり、新が裕仁親王の教育にあたり全身全霊で打ち込んでいたことを窺い知ることができます。
また、新は旧知の杉浦重剛を東宮御学問所御用掛に推薦し、倫理の御進講役を務めさせています。
杉浦重剛については以前当ブログに記事を書いていますので、こちらをご覧ください。
「国師」と呼ばれた若き日の昭和天皇の師杉浦重剛の墓
大正10年(1921)73歳の時に東宮大夫を辞し、子爵に陞爵。大正13年(1924)枢密院議長に就任しています。
大正14年(1925)9月24日邸内を散歩している際に、邸内の一角にある落ち葉などを焼く穴に転落し、残り火によって顔や手足に火傷を負い、衣服にも火が付き、自力で穴から出るも煙の出ている衣服をまといながら家に帰る所を夫人が見つけ大騒ぎとなり、東大塩田外科に入院したものの、全身三分の一以上の大火傷で、翌25日に死去しています。葬儀は東京帝国大学中央大講堂において神道形式で行われました。
新の死後、孫娘操の婿として養子となった四郎が継承しましたが、四郎は検事・弁護士などを務める傍ら探偵小説かとしても活躍しましたが、昭和10年(1935)40歳の若さで死去しています。
四郎の実弟はコメディアンの古川ロッパであり、その養父古川武太郎の父古川宣誉は幕臣で、戊辰戦争においては撤兵隊に属して江原素六を救うなど奮戦をしています。
四郎の三男で實の弟の文郎は母と實と共にカトリックに改宗し、後にローマ法王庁枢機卿となっています。
濱尾家の墓所は染井霊園一種イ4号1側にあります。
正面[從一位勲一等子爵濱尾新墓/室作子]と刻まれた新の墓と、その左横に[濱尾家之墓]と刻まれた四郎以降の墓があります。
また、近くに男爵久保田譲の墓がありますが、久保田家も濱尾家と同じく豊岡藩士の家で、譲は新とは盟友関係にあり、新と同じく文部大臣を務めています。
豊岡藩は1万5千石の小藩ですが、濱尾新と久保田譲という文部大臣・勲功華族を輩出しており、このことは特筆すべきことだと思います。
濱尾新は昭和天皇、そして濱尾實は次期天皇徳仁親王を養育し、それぞれに大きな影響を与えました。皇室が現在も続いているのはこのような皇室を陰で支えてきた人のたゆまぬ努力があったからこそでだと思います。
来月には「令和」の御代が始まりますが、新天皇陛下にはこれまで皇室を支えてきたさまざまな人の想いを受け止め、国民と共に新たな時代を歩んで行かれることを願い、「令和」の御代が穏やかで豊かな時代になることを願うものであります。
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昨日となりましたが、今上天皇御譲位に伴う新元号「令和」が発表されました。
これまでの漢籍からの出典ではなく、国書『万葉集』からの出典という大きな転換が話題となっていますが、この元号に込められた意味通りの素晴らしい時代になることを祈念しております。
さて、次期天皇皇太子徳仁親王は父今上天皇・母美智子皇后の意向によって、それまでの皇室の慣例をやめ、両親の許で育てられました。
そのような訳で、専任の養育係は置かれませんでしたが、それに準じる役割を果たしたのが東宮侍従であった濱尾實でした。
濱尾實は徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生までの間、親王の側にあり、親王は濱尾實のことを「オーちゃん」と呼び親しんでいました。
濱尾實さんというと私は子供の頃に見た夕方のワイドショーやゴールデンタイムの皇室SPなどで、皇室の方々のエピソードを語る人という印象が強く、穏やかで品のある語り口調をはっきりと記憶してしています。
晩年には自身の体験を様々な著作物に残しており、皇室ご一家の素顔を知ることができる貴重な情報源ではないかと思います。
濱尾家は祖父濱尾新の代に子爵となり、2代四郎は男爵加藤照麿の四男で濱尾家に養子に入り、3代は四郎の長男誠で太平洋戦争で戦死したため、その弟實が4代として子爵を継承しましたが、その間もなく華族制度が廃止となっています。
宿南保著『浜尾新 明治期郷土出身文教の偉人群』によると、濱尾家の先祖は豊岡藩京極家の家臣で、2代藩主京極高住に仕えた濱尾嘉左衛門を初代としています。嘉左衛門は160石、馬廻りを務めていました。
その後、京極家当主の早世が続き、3万3000石から1万5000石に減封されると、家臣の禄高も3分の1程度に減らされています。
濱尾家の歴代は「1.嘉左衛門-2.嘉平治(平次)-3.嘉左衛門(政兵衛)-4.右平(岩五郎・政兵衛)-5.嘉平治(熊次郎)」と続き、5代嘉平治の子が新となります。歴代江戸詰めが続いた家で、新の父嘉平治も妻と共に豊岡藩江戸屋敷に居住していました。
新は嘉永2年4月20日(1849・5・12)に生まれ、明治2年(1869)藩費遊学制度により慶應義塾に入学、明治5年(1872)文部省に出仕し、大学南校の中監事となった後、明治6年(1873)~明治7年(1874)にアメリカへ留学し、帰国後開成学校校長心得となっています
明治10年(1877)官立東京大学が設立されると、法理文三学部綜理補として法理文三学部綜理の加藤弘之を補佐しています。後に婿養子となる四郎は弘之の孫にあたります。
明治23年(1890)文部省専門学務局長、貴族院議員、明治26年(1893)帝国大学第3代総長などを歴任して明治30年(1897)第2次松方内閣の文部大臣を務めています。
明治38年(1905)東京帝国大学第8代総長として再任し、明治40年(1907)日露戦争の功により男爵に叙爵、明治44年(1911)枢密顧問官となっています。
大正3年(1914)66歳の時に皇太子裕仁親王(昭和天皇)の東宮大夫となり、裕仁親王の行啓に供奉すること21回に及び、また御学問所の運営に尽力しています。
『浜尾新 明治期郷土出身文教の偉人群』によると、その時の新の気概を山川健次郎が次のように語っています。
「小さなことであるが、浜尾子爵の逸事として新聞等にも出ないから話しておくが、御承知の通り浜尾子爵の宅は小石川の金富町で、東宮御所と云ふのは高輪であるので彼是二里もあるから、小石川から高輪へ行くのは一時間もかかる。然るに子爵は何時でも東宮殿下の御授業が始まる前に行かれるが、御授業は八時か、九時に始まる。毎日窮屈な人力車で往復されるのは老体に大義であらうし、殊に冬などは身体の為に良くないから、自動車に御乗りになったら宜からうと私は屡々御助言申し上げた。貴下が今御病気になられては大変なことになるからして、成るだけ楽に御奉公ので出来るやうに為すったら宜からう、と言ったもののなかなか聴かれない。若しも人でも轢くやうなことがあっては、どの立場でも済まんが殊に今の立場としては恐縮に堪へないから乗らない。それならば宮内省辺りに御頼みになって極く熟練した運転手に運転させ、さうして馬車の速さで、是以上の速さにはせぬと云ふことにでも為すったならば、人を轢くと云ふ虞もないぢゃありませぬかと言ったが、なかなか承知せられなかった。是は私ばかりではない。久保田男爵なども屡々浜尾子爵に忠告されたさうである。どうもああ云う謹厳な人だから、若しものことがあっては大変と云ふので、なかなか乗られなかった(『故浜尾子爵追悼録』)。」
とあり、新が裕仁親王の教育にあたり全身全霊で打ち込んでいたことを窺い知ることができます。
また、新は旧知の杉浦重剛を東宮御学問所御用掛に推薦し、倫理の御進講役を務めさせています。
杉浦重剛については以前当ブログに記事を書いていますので、こちらをご覧ください。
「国師」と呼ばれた若き日の昭和天皇の師杉浦重剛の墓
大正10年(1921)73歳の時に東宮大夫を辞し、子爵に陞爵。大正13年(1924)枢密院議長に就任しています。
大正14年(1925)9月24日邸内を散歩している際に、邸内の一角にある落ち葉などを焼く穴に転落し、残り火によって顔や手足に火傷を負い、衣服にも火が付き、自力で穴から出るも煙の出ている衣服をまといながら家に帰る所を夫人が見つけ大騒ぎとなり、東大塩田外科に入院したものの、全身三分の一以上の大火傷で、翌25日に死去しています。葬儀は東京帝国大学中央大講堂において神道形式で行われました。
新の死後、孫娘操の婿として養子となった四郎が継承しましたが、四郎は検事・弁護士などを務める傍ら探偵小説かとしても活躍しましたが、昭和10年(1935)40歳の若さで死去しています。
四郎の実弟はコメディアンの古川ロッパであり、その養父古川武太郎の父古川宣誉は幕臣で、戊辰戦争においては撤兵隊に属して江原素六を救うなど奮戦をしています。
四郎の三男で實の弟の文郎は母と實と共にカトリックに改宗し、後にローマ法王庁枢機卿となっています。
濱尾家の墓所は染井霊園一種イ4号1側にあります。
正面[從一位勲一等子爵濱尾新墓/室作子]と刻まれた新の墓と、その左横に[濱尾家之墓]と刻まれた四郎以降の墓があります。
また、近くに男爵久保田譲の墓がありますが、久保田家も濱尾家と同じく豊岡藩士の家で、譲は新とは盟友関係にあり、新と同じく文部大臣を務めています。
豊岡藩は1万5千石の小藩ですが、濱尾新と久保田譲という文部大臣・勲功華族を輩出しており、このことは特筆すべきことだと思います。
濱尾新は昭和天皇、そして濱尾實は次期天皇徳仁親王を養育し、それぞれに大きな影響を与えました。皇室が現在も続いているのはこのような皇室を陰で支えてきた人のたゆまぬ努力があったからこそでだと思います。
来月には「令和」の御代が始まりますが、新天皇陛下にはこれまで皇室を支えてきたさまざまな人の想いを受け止め、国民と共に新たな時代を歩んで行かれることを願い、「令和」の御代が穏やかで豊かな時代になることを願うものであります。
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