会員のカネコです。
今年の大河ドラマ『いだてん』ではビートたけしさん演じる五代目古今亭志ん生師匠が明治と昭和の橋渡しをするような役割を果たし、とても重要なポジションを担っています。
それにしても昨年の鶴瓶さん演じる岩倉具視同様、役者が素のキャラクターで登場するというのは流行りなのでしょうか?
それはさておき、志ん生師匠はドラマでも描かれている通り、若い頃は素行が悪く、放蕩生活をしていたのですが、出自は旗本家であり、自伝でもそのことを語っています。
平成26年(2014)に志ん生師匠の実家美濃部家の家系について調べたのですが、結局、完全なる解明に至らずそのままになっていました。
折角の機会なので、その時に調べたメモ、収集した資料、撮影した墓碑を整理し、再度検討してみたいと思います。
志ん生師匠のお墓は様々な形で紹介されていますが、文京区小日向にある浄土宗還国寺で、ここが美濃部家の菩提寺となっています。
本堂横の平地の墓地に[美濃部家之墓]と刻まれた角型墓があり、墓誌には志ん生師匠、その子志ん朝師匠の戒名が刻まれています。
さらに高台の墓地には美濃部家の本家と考えられる[美濃部家之墓]と刻まれた角型墓と古い小型の五輪塔があります。
ただ、墓碑からは家系が分からず、墓碑調査後に文献からその家系を辿ることにしました。
志ん生師匠は自伝『びんぼう自慢』で自らの家系を語っています。
「あたしんとこは、おやじの代まではさむらいだったもんだから、昔の戸籍にゃァ、士族なんて書いたものです。
さむらいたってヘッポコじゃァなくって、徳川の直参で八百石ばかり取っていた。もっともね、美濃部家の本家てえのは三千石の知行を取っていたというから、こりゃァ旗本の中でも大看板です。下手な大名なんぞ、ブルブルッとくるくらいのもんですよ。
美濃部重行てえのがあたしの祖父さんで、このひとは槍の指南をしていて、小石川の水道橋…いまの水道橋のあるあたりの、小高いところの、とほうもなく大きな屋敷に住んでいた。
あたしのガキのころ、よくおやじから、「この辺がそうだったんだよ。ズーッと向こうのほうまでなァ…なんてことを、きかされたものであります。
美濃部の菩提寺てえのが、そこらか遠くない江戸橋の近くにあって還国寺てえ寺で、本家の墓なんてえのは、すばらしく立派です。「あっちのが二千石の家の墓だ。ほおら、うちのほうがデッかいだろう」なんて、おやじが説明してくれるのをきいて、子供心に、なるほどウチの先祖は三千石だったんだなァと、大変鼻が高かったことを覚えております。本家が三千石で、あたしんとこが八百石ということは、つまり、祖父さんの代が、その前の代あたりに分家したんでしょうなァ、要するに“分け美濃部”てえところです。
(中略)その連れ合いの、祖母さんてえ人も、だいぶ長生きしてたから、あたしも知っているが、いい女でしたねえ、なんでも田安家の親戚関係だったそうで、きれで上品で、物腰やわらかくって、裏長屋に置いておくなんざ、もったいないほどの婆さんでしたよ。
おやじの名前てえと盛行で、お袋のほうがてう(ちょう)というんですが、このおやじてえ人が大変の道楽ものでして、八百石の若様だから、何一つ不自由なんぞないはずなのに、どういうもんだかヶにジッとしていない。表ェ出て、着物や大小なんぞどっかへあずけて、頭髪ィなおして町人の風をして、そいでもって吉原へ行ったり、寄席へ出入りして遊んでばかりいる。」
と、あります。
しかし、同書巻末の小島貞二編集の年譜には次のように書かれています。
「6月5日、神田亀住町(現・千代田区外神田5丁目)において、美濃部盛行・てうの四男として出生」と、志ん生本人は語っているが、戸籍によると、父は美濃部戍行(弘化2年8月18日生まれ)、母は志う(安政元年8月18日生まれ)で、その五男として6月28日生まれる。」
とあり、志ん生師匠の記憶には誤認があったようです。
また、これも志ん生師匠の自伝ですが『なめくじ艦隊』の巻末の年表には祖父の出自について次のように書かれています。
「明治36年12月30日 養祖父釖四郎没。
(実祖父平四郎は嘉永4年10月27日没。養祖父釖四郎の父内藤甚左衛門は徳川家斉の代より幕府に仕え、大番、先手鉄砲頭、布衣寄合などを歴任したのち隠居、剃髪して如童と号したが、美濃部平四郎とは兄弟、もしくは義兄弟の関係であったと推定される)」
これによると、祖父釖四郎は父戍行の養父であり、実祖父は平四郎という人物で、釖四郎の父は内藤甚左衛門といい、釖四郎は内藤家から美濃部家へ養子に入ったことになります。
志ん生師匠の出自については『志ん生のいる風景』(矢野誠一著・文春文庫)でも触れられており、結城昌治が「週刊朝日」に連載した『志ん生一代』での考証を紹介していますが、結局そこでもはっきりとしたことは分かっていません。
ここからは志ん生師匠サイドからの情報を基に、旗本の家系調査で必須の『寛政重修諸家譜』と『寛政譜以降 旗本家百科事典』と照らし合わせ、遡っていきます。
まず、「釖四郎重行」「平四郎」「戍行」に該当する人物を『寛政重修諸家譜』『寛政譜以降 旗本家百科事典』で探しましたが出てきません。
『寛政重修諸家譜』第17巻には本姓菅原氏の項に美濃部氏15家が記載されています。その中で、還国寺を菩提寺とした家が以下となります。
本家 500石 美濃部茂盛家
分家 200俵 美濃部茂勝家(茂盛二男)
分家 200俵 美濃部忠茂家(茂勝二男)
禄高が志ん生師匠が語っていた3000石、2000石、800石とは全然違うのです。おそらく、志ん生師匠の父あたりが盛っていたのでしょう。
そこで、内藤甚左衛門に注目してみると、『寛政重修諸家譜』美濃部忠茂家の最後に宝暦期~寛政期の当主宗兵衛茂賈の養子に「内藤甚五兵衛忠安が三男」として「銕之丞茂高」が出てきます。
この内藤甚五兵衛忠安の家は『寛政重修諸家譜』第13巻藤原氏秀郷流内藤氏の中に内藤忠貫を祖とする家として記載があります。
しかし、「銕之丞茂高」=「釖四郎重行」とするには時代が合いません。
「釖四郎重行」の父甚左衛門は甚左衛門忠安の子甚之助忠榮の子忠房に該当するものと思われます。
ここで、また美濃部家に戻ると、美濃部忠茂家の幕末期の情報を『寛政譜以降 旗本家百科事典』でみてみると、「今回以降の記事なし」として記載がありません。同書で時折みられる、特定できなかったパターンです。
もう一度『寛政譜以降 旗本家百科事典』の全美濃部家を確認すろと、[不明]欄に「美濃部初四郎」という人物が出てきます。「釖四郎」と似ています。よく見てみると、「当分茗荷谷御先手頭内藤甚左衛門方同居」と記載されています。これはもう「釖四郎」と同一人物で間違いありません。
だた、この[不明]欄の人物は『寛政重修諸家譜』の家との紐付けができない人物であるため、結局、「釖四郎」なり「平四郎」が「美濃部茂盛家」「美濃部茂勝家」「美濃部忠茂家」なのかよく分かりません。少なくとも分家ということであれば、「美濃部茂勝家」「美濃部忠茂家」になると思いますが、おそらくは「内藤甚五兵衛忠安が三男銕之丞茂高」が養子に入った「美濃部忠茂家」の家か、志ん生師匠が話している通り、祖父かその前に分家した家であったのではないかと思われます。
近親者で養子に入ったりすることはよくありますので、2世代ほど経って内藤家から再び養子を迎えたということなのかと思います。
あと気になった点としては美濃部氏族の諱は「茂」の字を通字としていますが、志ん生師匠の祖父・父は「行」の時を使っています。これは当時の将軍は「家茂」であったためこれを憚り「茂」の字を避けたものと思われます。
不明確な部分としては「釖四郎」と「平四郎」の関係、水道橋の屋敷、還国寺の高台にある墓は「美濃部茂盛家」なのか「美濃部茂勝家」なのか?といったことが残りました。現時点での私の考証はここで限界となりましたが、ここから先は、やはり志ん生師匠の研究者の方に追及して頂きたいものです。
志ん生師匠に限らずですが、幕末の旗本や、明治以降の幕臣の子孫と称する人物の家系を辿ると、必ず『寛政重修諸家譜』以降の空白地帯で行き詰まります。『寛政譜以降 旗本家百科事典』で埋められる場合もありますが、それでも不完全です。
ともかく、『寛政重修諸家譜』以降の家系を調べるってぇのはてーへんなことです。
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今年の大河ドラマ『いだてん』ではビートたけしさん演じる五代目古今亭志ん生師匠が明治と昭和の橋渡しをするような役割を果たし、とても重要なポジションを担っています。
それにしても昨年の鶴瓶さん演じる岩倉具視同様、役者が素のキャラクターで登場するというのは流行りなのでしょうか?
それはさておき、志ん生師匠はドラマでも描かれている通り、若い頃は素行が悪く、放蕩生活をしていたのですが、出自は旗本家であり、自伝でもそのことを語っています。
平成26年(2014)に志ん生師匠の実家美濃部家の家系について調べたのですが、結局、完全なる解明に至らずそのままになっていました。
折角の機会なので、その時に調べたメモ、収集した資料、撮影した墓碑を整理し、再度検討してみたいと思います。
志ん生師匠のお墓は様々な形で紹介されていますが、文京区小日向にある浄土宗還国寺で、ここが美濃部家の菩提寺となっています。
本堂横の平地の墓地に[美濃部家之墓]と刻まれた角型墓があり、墓誌には志ん生師匠、その子志ん朝師匠の戒名が刻まれています。
さらに高台の墓地には美濃部家の本家と考えられる[美濃部家之墓]と刻まれた角型墓と古い小型の五輪塔があります。
ただ、墓碑からは家系が分からず、墓碑調査後に文献からその家系を辿ることにしました。
志ん生師匠は自伝『びんぼう自慢』で自らの家系を語っています。
「あたしんとこは、おやじの代まではさむらいだったもんだから、昔の戸籍にゃァ、士族なんて書いたものです。
さむらいたってヘッポコじゃァなくって、徳川の直参で八百石ばかり取っていた。もっともね、美濃部家の本家てえのは三千石の知行を取っていたというから、こりゃァ旗本の中でも大看板です。下手な大名なんぞ、ブルブルッとくるくらいのもんですよ。
美濃部重行てえのがあたしの祖父さんで、このひとは槍の指南をしていて、小石川の水道橋…いまの水道橋のあるあたりの、小高いところの、とほうもなく大きな屋敷に住んでいた。
あたしのガキのころ、よくおやじから、「この辺がそうだったんだよ。ズーッと向こうのほうまでなァ…なんてことを、きかされたものであります。
美濃部の菩提寺てえのが、そこらか遠くない江戸橋の近くにあって還国寺てえ寺で、本家の墓なんてえのは、すばらしく立派です。「あっちのが二千石の家の墓だ。ほおら、うちのほうがデッかいだろう」なんて、おやじが説明してくれるのをきいて、子供心に、なるほどウチの先祖は三千石だったんだなァと、大変鼻が高かったことを覚えております。本家が三千石で、あたしんとこが八百石ということは、つまり、祖父さんの代が、その前の代あたりに分家したんでしょうなァ、要するに“分け美濃部”てえところです。
(中略)その連れ合いの、祖母さんてえ人も、だいぶ長生きしてたから、あたしも知っているが、いい女でしたねえ、なんでも田安家の親戚関係だったそうで、きれで上品で、物腰やわらかくって、裏長屋に置いておくなんざ、もったいないほどの婆さんでしたよ。
おやじの名前てえと盛行で、お袋のほうがてう(ちょう)というんですが、このおやじてえ人が大変の道楽ものでして、八百石の若様だから、何一つ不自由なんぞないはずなのに、どういうもんだかヶにジッとしていない。表ェ出て、着物や大小なんぞどっかへあずけて、頭髪ィなおして町人の風をして、そいでもって吉原へ行ったり、寄席へ出入りして遊んでばかりいる。」
と、あります。
しかし、同書巻末の小島貞二編集の年譜には次のように書かれています。
「6月5日、神田亀住町(現・千代田区外神田5丁目)において、美濃部盛行・てうの四男として出生」と、志ん生本人は語っているが、戸籍によると、父は美濃部戍行(弘化2年8月18日生まれ)、母は志う(安政元年8月18日生まれ)で、その五男として6月28日生まれる。」
とあり、志ん生師匠の記憶には誤認があったようです。
また、これも志ん生師匠の自伝ですが『なめくじ艦隊』の巻末の年表には祖父の出自について次のように書かれています。
「明治36年12月30日 養祖父釖四郎没。
(実祖父平四郎は嘉永4年10月27日没。養祖父釖四郎の父内藤甚左衛門は徳川家斉の代より幕府に仕え、大番、先手鉄砲頭、布衣寄合などを歴任したのち隠居、剃髪して如童と号したが、美濃部平四郎とは兄弟、もしくは義兄弟の関係であったと推定される)」
これによると、祖父釖四郎は父戍行の養父であり、実祖父は平四郎という人物で、釖四郎の父は内藤甚左衛門といい、釖四郎は内藤家から美濃部家へ養子に入ったことになります。
志ん生師匠の出自については『志ん生のいる風景』(矢野誠一著・文春文庫)でも触れられており、結城昌治が「週刊朝日」に連載した『志ん生一代』での考証を紹介していますが、結局そこでもはっきりとしたことは分かっていません。
ここからは志ん生師匠サイドからの情報を基に、旗本の家系調査で必須の『寛政重修諸家譜』と『寛政譜以降 旗本家百科事典』と照らし合わせ、遡っていきます。
まず、「釖四郎重行」「平四郎」「戍行」に該当する人物を『寛政重修諸家譜』『寛政譜以降 旗本家百科事典』で探しましたが出てきません。
『寛政重修諸家譜』第17巻には本姓菅原氏の項に美濃部氏15家が記載されています。その中で、還国寺を菩提寺とした家が以下となります。
本家 500石 美濃部茂盛家
分家 200俵 美濃部茂勝家(茂盛二男)
分家 200俵 美濃部忠茂家(茂勝二男)
禄高が志ん生師匠が語っていた3000石、2000石、800石とは全然違うのです。おそらく、志ん生師匠の父あたりが盛っていたのでしょう。
そこで、内藤甚左衛門に注目してみると、『寛政重修諸家譜』美濃部忠茂家の最後に宝暦期~寛政期の当主宗兵衛茂賈の養子に「内藤甚五兵衛忠安が三男」として「銕之丞茂高」が出てきます。
この内藤甚五兵衛忠安の家は『寛政重修諸家譜』第13巻藤原氏秀郷流内藤氏の中に内藤忠貫を祖とする家として記載があります。
しかし、「銕之丞茂高」=「釖四郎重行」とするには時代が合いません。
「釖四郎重行」の父甚左衛門は甚左衛門忠安の子甚之助忠榮の子忠房に該当するものと思われます。
ここで、また美濃部家に戻ると、美濃部忠茂家の幕末期の情報を『寛政譜以降 旗本家百科事典』でみてみると、「今回以降の記事なし」として記載がありません。同書で時折みられる、特定できなかったパターンです。
もう一度『寛政譜以降 旗本家百科事典』の全美濃部家を確認すろと、[不明]欄に「美濃部初四郎」という人物が出てきます。「釖四郎」と似ています。よく見てみると、「当分茗荷谷御先手頭内藤甚左衛門方同居」と記載されています。これはもう「釖四郎」と同一人物で間違いありません。
だた、この[不明]欄の人物は『寛政重修諸家譜』の家との紐付けができない人物であるため、結局、「釖四郎」なり「平四郎」が「美濃部茂盛家」「美濃部茂勝家」「美濃部忠茂家」なのかよく分かりません。少なくとも分家ということであれば、「美濃部茂勝家」「美濃部忠茂家」になると思いますが、おそらくは「内藤甚五兵衛忠安が三男銕之丞茂高」が養子に入った「美濃部忠茂家」の家か、志ん生師匠が話している通り、祖父かその前に分家した家であったのではないかと思われます。
近親者で養子に入ったりすることはよくありますので、2世代ほど経って内藤家から再び養子を迎えたということなのかと思います。
あと気になった点としては美濃部氏族の諱は「茂」の字を通字としていますが、志ん生師匠の祖父・父は「行」の時を使っています。これは当時の将軍は「家茂」であったためこれを憚り「茂」の字を避けたものと思われます。
不明確な部分としては「釖四郎」と「平四郎」の関係、水道橋の屋敷、還国寺の高台にある墓は「美濃部茂盛家」なのか「美濃部茂勝家」なのか?といったことが残りました。現時点での私の考証はここで限界となりましたが、ここから先は、やはり志ん生師匠の研究者の方に追及して頂きたいものです。
志ん生師匠に限らずですが、幕末の旗本や、明治以降の幕臣の子孫と称する人物の家系を辿ると、必ず『寛政重修諸家譜』以降の空白地帯で行き詰まります。『寛政譜以降 旗本家百科事典』で埋められる場合もありますが、それでも不完全です。
ともかく、『寛政重修諸家譜』以降の家系を調べるってぇのはてーへんなことです。
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