会員のカトケンです。
毎年11月はじめの時期は、東京都文化財ウィークで日頃非公開のものが見られる。だが、今住んでいるところへ越してきて数年、忙しくてじっくり見たためしがなかった。
しっかり計画を立てて
11/3に多摩地域の3ヶ所を一気に回った。
○1つ目は国立市谷保の本田家
土方歳三の親戚で書家や医者が出た家である。
国立駅からバスに乗って向かう。この日は一橋大学のある通りに出店がたくさん出ていた。谷保天満宮の次のバス停を降りて、いつもは閉じられてある薬医門をくぐるとボランティアの方が親切に案内してくれた。(=写真)
本田家は寛永年間にこの谷保に将軍の馬乗り役を果たすために越してきた。名主として代官が寄る応接間につながる玄関と住まいとの玄関(土間)が別になった造りで、土方歳三が手習いをした3畳間もあって、普段石ばかり見ているので建物の造りや残っているものにより年代が判るというのは発見であった。
また、今は枯れてしまった大木(隣にそれを受け継いだ新しい木が6-7mの高さまで伸びている。)が当時川を隔てた石田村(日野市石田)から見えたというのは、土方家と本田家の距離がいかに近いかを感じさせるのに十分であった。
そこからバスに乗って聖蹟桜ヶ丘へ。乗り換えて
○2つ目の旧多摩聖蹟記念館に向かった。田中光顕が明治天皇を顕彰するために建てた洋館である(=写真)。ここでは水戸浪士らの書簡が展示され、明治の元勲たちの彫像のパネル(向かえの六賢堂に納められていて実見はできないが)もあって、面白かった。
この聖蹟桜ヶ丘の地(多摩市連光寺)は元々近藤勇たちの後援者富澤政恕家の土地であり、日野の佐藤家と同様、明治天皇行幸の休憩地でもある。その富澤家は今、パルテノン多摩に移されていて、いつでも見学ができるからありがたい。
そこから今度はバスで京王永山駅に向かい、橋本まで行き、JRに乗り換えて1つ目の相原で降りる。ここは近藤勇の養父周斎のふるさと町田市小山で、勇はその実家の島崎を一時名乗っていた。
ここに
○3つ目の天然理心流の門人青木家が公開されている。普段は病院を営んでおり、中には入れない。茅葺きの美しい家がまだ関東に残っているかと思うと感慨深いものがある(=写真)。
最後にそこから至近距離の青木勘太郎らが建てた「近藤先生碑(=三助、勇の養祖父)」(=写真)のある清水寺に寄って再び相原駅へ戻り、この日の行程を終えた。
大学生の時分、高知から静岡に戻って国鉄マンだった父に切符をつくってもらい東海道線に乗って茅ヶ崎で相模線に乗り、八王子の1つ手前片倉で京王線に乗り換えて高幡不動で行われる歳三忌に参加した。ちょうど土方の銅像ができる前の年だった。
その時、釣先生のご挨拶がちょうど唐津の箱館新選組隊士の墓がたくさん見つかったばかりで、高揚感溢れるお話ぶりであったことを今でも鮮明に覚えている。当時、若輩の小弟にはとてもお声かけなどできるはずもなかった。
この散策でそんなことを思い出し、まだまだ新選組の背景を知るには志半ばであると思い直した。課題は多いーー
毎年11月はじめの時期は、東京都文化財ウィークで日頃非公開のものが見られる。だが、今住んでいるところへ越してきて数年、忙しくてじっくり見たためしがなかった。
しっかり計画を立てて
11/3に多摩地域の3ヶ所を一気に回った。
○1つ目は国立市谷保の本田家
土方歳三の親戚で書家や医者が出た家である。
国立駅からバスに乗って向かう。この日は一橋大学のある通りに出店がたくさん出ていた。谷保天満宮の次のバス停を降りて、いつもは閉じられてある薬医門をくぐるとボランティアの方が親切に案内してくれた。(=写真)
本田家は寛永年間にこの谷保に将軍の馬乗り役を果たすために越してきた。名主として代官が寄る応接間につながる玄関と住まいとの玄関(土間)が別になった造りで、土方歳三が手習いをした3畳間もあって、普段石ばかり見ているので建物の造りや残っているものにより年代が判るというのは発見であった。
また、今は枯れてしまった大木(隣にそれを受け継いだ新しい木が6-7mの高さまで伸びている。)が当時川を隔てた石田村(日野市石田)から見えたというのは、土方家と本田家の距離がいかに近いかを感じさせるのに十分であった。
そこからバスに乗って聖蹟桜ヶ丘へ。乗り換えて
○2つ目の旧多摩聖蹟記念館に向かった。田中光顕が明治天皇を顕彰するために建てた洋館である(=写真)。ここでは水戸浪士らの書簡が展示され、明治の元勲たちの彫像のパネル(向かえの六賢堂に納められていて実見はできないが)もあって、面白かった。
この聖蹟桜ヶ丘の地(多摩市連光寺)は元々近藤勇たちの後援者富澤政恕家の土地であり、日野の佐藤家と同様、明治天皇行幸の休憩地でもある。その富澤家は今、パルテノン多摩に移されていて、いつでも見学ができるからありがたい。
そこから今度はバスで京王永山駅に向かい、橋本まで行き、JRに乗り換えて1つ目の相原で降りる。ここは近藤勇の養父周斎のふるさと町田市小山で、勇はその実家の島崎を一時名乗っていた。
ここに
○3つ目の天然理心流の門人青木家が公開されている。普段は病院を営んでおり、中には入れない。茅葺きの美しい家がまだ関東に残っているかと思うと感慨深いものがある(=写真)。
最後にそこから至近距離の青木勘太郎らが建てた「近藤先生碑(=三助、勇の養祖父)」(=写真)のある清水寺に寄って再び相原駅へ戻り、この日の行程を終えた。
大学生の時分、高知から静岡に戻って国鉄マンだった父に切符をつくってもらい東海道線に乗って茅ヶ崎で相模線に乗り、八王子の1つ手前片倉で京王線に乗り換えて高幡不動で行われる歳三忌に参加した。ちょうど土方の銅像ができる前の年だった。
その時、釣先生のご挨拶がちょうど唐津の箱館新選組隊士の墓がたくさん見つかったばかりで、高揚感溢れるお話ぶりであったことを今でも鮮明に覚えている。当時、若輩の小弟にはとてもお声かけなどできるはずもなかった。
この散策でそんなことを思い出し、まだまだ新選組の背景を知るには志半ばであると思い直した。課題は多いーー