会員のカトケンです。
丸2日、香川を廻る。高松駅を降りて、一同集合し、早速小弟のお願いしていたリクエストに答えられる人が集まる。
墓を見て、活字を起こして訓読、更には訳す人。
坂出、多度津からも集まってくださり、一大キャラバン隊が讃岐を走る。
まずは去年行った柏原学而墓。徳川慶喜の侍医で高松生まれ、静岡に没す。
この墓碑の裏面がくずし字になっている。とても読めず、今回案内してくださった方が活字にしているのでと書いてあることを教えてくださる。
学而の父をはじめ2人の兄や養子先のことなど目から鱗の巡回となった。
続いて柴野栗山記念館。老中松平定信が昌平黌を中心に文教政策に力を入れようとしていたときに徳島藩儒から抜擢された初代昌平坂学問所事務局長。その居宅跡が幼稚園になっている。
夏休みで園児が来ていない芝生に茸がずいぶん大きくなっていた。栗山の師後藤芝山の書をはじめ、養子柴野碧海や頼春水、菅茶山の書が展示されている。
立原翠軒の書は意外だったが、よく考えてみれば水戸支藩高松領なのだからちっともおかしくない。
戦禍を免れた穏やかな表情の木造を見て栗山の人柄を思う。背後には雅号の由来となった八栗山がそびえ立つ。
この近辺はかつて島だった屋島であり、源平戦ゆかりの史跡も目白押し。那須与一ゆかりの扇の的や駒立岩はもとより平家総門跡には初代高松藩主松平頼重(水戸光國実兄)が造った標木もあった。
源義経の臣下佐藤継信の子孫とされる林 董(佐藤泰然末子)が香川県知事時代にいくつか源平ゆかりの石碑を建てていることも新鮮だった。
佐藤次信墓と刻まれた墓碑にはしっかりと源氏車の家紋が彫られていた。山形県人が建てた石碑は米沢の宮島大八が書いている。この辺も旧幕方の史跡となりうる場所であろう。
いずれも琴電志度線 八栗駅とJR高徳線 古高松南駅から最寄の場所であり、栗山先生もこれだけ身近に史跡があったことから、さぞ歴史の勉強には事欠かなかったであろう。
様々な場所を廻っていただき、2日目に感慨深かったのが高松二代藩主松平頼常の菩提寺霊芝寺である。残念ながら墓は非公開とのことだったが、水戸光國の実子が眠る場所に来られたのはこれからの筆者の掃苔活動においても確実に大きな出来事となるであろう。
高松の地元の専門家の方とも水戸と高松の関係がもっと掘り下げられても良いという意見で一致した。
高松におけるテーマはこれからも様々な拡がりを見せることを期待しつつ、旅の中間報告としたい。
今回は敢えて写真を載せない。内容はともかく、ネットでいくらでもアップされているし、何よりもこれを読んだ方には直接足を運んでいただきたいからである。そこで何を感じるかは、御自身に委ねられている。
丸2日、香川を廻る。高松駅を降りて、一同集合し、早速小弟のお願いしていたリクエストに答えられる人が集まる。
墓を見て、活字を起こして訓読、更には訳す人。
坂出、多度津からも集まってくださり、一大キャラバン隊が讃岐を走る。
まずは去年行った柏原学而墓。徳川慶喜の侍医で高松生まれ、静岡に没す。
この墓碑の裏面がくずし字になっている。とても読めず、今回案内してくださった方が活字にしているのでと書いてあることを教えてくださる。
学而の父をはじめ2人の兄や養子先のことなど目から鱗の巡回となった。
続いて柴野栗山記念館。老中松平定信が昌平黌を中心に文教政策に力を入れようとしていたときに徳島藩儒から抜擢された初代昌平坂学問所事務局長。その居宅跡が幼稚園になっている。
夏休みで園児が来ていない芝生に茸がずいぶん大きくなっていた。栗山の師後藤芝山の書をはじめ、養子柴野碧海や頼春水、菅茶山の書が展示されている。
立原翠軒の書は意外だったが、よく考えてみれば水戸支藩高松領なのだからちっともおかしくない。
戦禍を免れた穏やかな表情の木造を見て栗山の人柄を思う。背後には雅号の由来となった八栗山がそびえ立つ。
この近辺はかつて島だった屋島であり、源平戦ゆかりの史跡も目白押し。那須与一ゆかりの扇の的や駒立岩はもとより平家総門跡には初代高松藩主松平頼重(水戸光國実兄)が造った標木もあった。
源義経の臣下佐藤継信の子孫とされる林 董(佐藤泰然末子)が香川県知事時代にいくつか源平ゆかりの石碑を建てていることも新鮮だった。
佐藤次信墓と刻まれた墓碑にはしっかりと源氏車の家紋が彫られていた。山形県人が建てた石碑は米沢の宮島大八が書いている。この辺も旧幕方の史跡となりうる場所であろう。
いずれも琴電志度線 八栗駅とJR高徳線 古高松南駅から最寄の場所であり、栗山先生もこれだけ身近に史跡があったことから、さぞ歴史の勉強には事欠かなかったであろう。
様々な場所を廻っていただき、2日目に感慨深かったのが高松二代藩主松平頼常の菩提寺霊芝寺である。残念ながら墓は非公開とのことだったが、水戸光國の実子が眠る場所に来られたのはこれからの筆者の掃苔活動においても確実に大きな出来事となるであろう。
高松の地元の専門家の方とも水戸と高松の関係がもっと掘り下げられても良いという意見で一致した。
高松におけるテーマはこれからも様々な拡がりを見せることを期待しつつ、旅の中間報告としたい。
今回は敢えて写真を載せない。内容はともかく、ネットでいくらでもアップされているし、何よりもこれを読んだ方には直接足を運んでいただきたいからである。そこで何を感じるかは、御自身に委ねられている。