会員のカネコです。
本日は71年目の終戦の日となります。
終戦の日を迎えるとやはり昭和天皇の玉音放送のことが思い起こされます。
私は子供の頃に一般参賀で昭和天皇の最晩年のお姿を拝したことがあり、その時の印象はとても強いものがありました。
昭和天皇のご事跡を深く知るようになると、やはり戦中から戦後にかけて苦悩するお姿にとても胸が痛む思いをしました。
今回は終戦の日にちなみ、昭和天皇に縁のあった人物を取り上げたいと思います。
私は昨年開催した伝通院巡墓会で昭和天皇の若き日の師である杉浦重剛について解説をしました。
杉浦重剛をWikipediaで見てみると「明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家」と出てきます。
私は伝通院巡墓会のためにに杉浦重剛ついて調べる際に、まずこの「国粋主義的教育者」という部分を疑いました。
果たして本当にそうであろうか?。調べてみると杉浦重剛の思想の多様性が見えてきたのです。
杉浦重剛(安政2年3月3日(1855・4・19)~大正13年(1924)2月13日)は近江膳所藩の儒学者杉浦重文(蕉亭)・八重の二男として生まれ、幼名譲次郎といい、諱を重剛、後年、天台道士と号しました。
3歳の時、護送される頼三樹三郎を目撃しています。
6歳の時、藩校遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂・作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学洋学を学びました。”予の精神は之を坦堂先生に受け、学問は之を麹盧先生に受け、識見は之を月洲先生に受けた”と後に懐述するように、この三人より受けた教育的感化は重剛の一生を支える程強いものでありました。
膳所藩の藩主本多家は譜代大名でしたが、京より近いこともあり、尊王攘夷派の勢力が強く、重剛の師高橋正功は尊攘派(正義党)の代表人物でしたが、膳所城宿泊中止事件で投獄され、慶応元年10月21日(1865・12・8)処刑されています。戊辰戦争が勃発すると膳所藩はいち早く新政府側に従い、桑名藩領接収のために出兵しています。
明治3年(1870)15歳の時、藩より貢進生に選ばれ東京に下り大学南校入り、翌年、制度変更により、東京開成学校に学びました。在学中、猛勉強の結果、明治6年(1873)10月、明治天皇への御前講演に選ばれ理化学の実験を行います。この時、6名の学生が選ばれましたが、その中に仏法科の古市公威がいました。
明治9年(1876)第2回文部省派遣留学生に選抜されて渡欧し、化学を専攻。当初は農業を修めるつもりでサイレンシスター農学校に入りましたが、英国の農業は牧畜が中心で、穀物は麦で、勉強をしても帰国後役には立たないと気付き放棄しています。化学に転向し、マンチェスター・オーエンスカレッジに移り、ロスコー、ショーレマン両教授の指導下で研究に従事。更にロンドンのサウスケンジントン化学校、ロンドン大学等で学ぶうちに神経衰弱にかかり、さらに右肺も病に冒され、明治13年(1880)5月に帰国。伝通院近くの貞照庵に寄宿し、療養をしながら文部省より依頼された「有機化学沿革史」の翻訳などを行いました。
明治15年(1882)東大予備門長となり、また大学予備門など旧制高校進学のために英語でもって教授する予備校であった東京英語学校(後に日本中学に改称)創立の中心の一人となりました。
明治18年(1885) 東大予備門長を退き、読売新聞論説に従事。明治20年(1887)には小村寿太郎らと乾坤社を創設、井上馨外相の条約改正反対運動に参加しています。
明治21年(1888)政教社に加わり三宅雪嶺、志賀重昂らと雑誌『日本人』発刊に尽くし、国粋主義を唱道し、当時の社会に影響を波及させる。この『日本人』はやがて『日本及日本人』に発展して行きました。三宅雪嶺は、西欧を知り明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者で、雑誌もその方向に染まっていきました。重剛をはじめ、島田三郎、福本日南、池辺義象、南方熊楠、三田村鳶魚、徳田秋声、長谷川如是閑、鈴木虎雄、丸山幹治、鈴木券太郎等在野の名士達が執筆しました。
しかし、大正12年(1923)に三宅雪嶺が政教社を去ると神秘的国粋論が多くなり、昭和12年(1937)以降は戦争協力体制の色彩を強めていきました。太平洋戦争後は大物右翼児玉誉士夫の関連会社となった日本及日本人社より発行され、児玉の広告機関の役割も果たしましたが、児玉がロッキード事件で政財界での力を失った後、発行会社が日本及日本人社よりJ&Jコーポレーションに変わり、平成16年(2004)1月通巻1650号で休刊しています。
重剛は明治21年(1888)文部省参事官兼専門学務局次長となりましたが、明治23年(1890)退官。小石川区議員を経て、第1回衆議院選挙に故郷滋賀より出馬し当選。同郷の伊庭貞剛(後の住友総理事)もこの時当選しています。
大成会に所属しましたが、すぐに脱会し、翌年議員辞職。この間に新聞『日本』を後援、明治22年(1889)日本倶楽部に参加し大隈重信の不平等条約改正案に反対。明治25年(1892)から明治37年(1904)まで朝日新聞論説員を務めています。
その後は子弟の養成と共に東京文学院を設立し、以後も國學院学監や東亜同文書院院長などを歴任。
大正3年(1914)東宮御学問所御用掛となり、倫理を担当迪宮裕仁親王(昭和天皇)の御進講役を務めました。大正10年(1921)に退官。
大正9年(1920) 山縣有朋らが裕仁親王妃に内定していた良子女王及び実家久邇宮家に婚約辞退を迫った宮中某重大事件が起きると、重剛は久邇宮家と結んで、山縣有朋に対抗。頭山満が山縣を襲撃するという噂を流したり、山縣を糾弾する怪文書を撒いたりしました。この事件は翌年、裕仁親王の以降で婚約辞退は撤回され、大正13年(1924)1月26日裕仁親王と良子女王は御成婚しました。この御成婚を見届けると重剛は同年2月13日に70歳で没しました。
葬儀は日本中学校講堂で行われ、友人総代として法学者穂積陳重が弔辞を読んでいます。
昭和26年(1951)6月20日重剛に学んだ吉田茂はこの日本中学校創立50年記念祝賀に訪れ、講演を行い、重剛の霊に「天台学堂」と揮毫した額を献じています。
重剛の門下生は巌谷小波、江見水蔭、大町桂月、岩波茂雄、横山大観、佐佐木信綱、鏑木清方、高山樗牛、長谷川如是閑、朝永三十郎、荻野久作、丸山千里、小西得郎、入江啓四郎、吉村公三郎、小川琢治、吉田茂、河野一郎、河野謙三など枚挙に暇がありません。
この中でプロ野球解説者となった小西得郎は重剛との関係について次のように語っています。
得郎の父であるロシア文学者小西増太郎は重剛とかねてより親しく、野球に熱中し、勉学を疎かにしていた息子の勉学の面倒を重剛に依頼しました。重剛は『吉田寅次郎』を共著した世木鹿吉の許に得郎を書生として預けることにしました。
世木は頑固者で強面で知られていましたが、得郎が野球に熱中する姿をニコニコ笑って見ていたといいます。
得郎はそれが重剛の配慮であることに気づき、これ以降自ら勉学にも励むようになりました。
後年「十六歳で野球部の選手になり七十二歳の当年まで野球一筋に生きてこられたのも、一にかかって中学時代の恩師、杉浦重剛先生のおかげです。もし杉浦先生がいらっしゃらなかったら、どのような人生を歩んでいたか、思うだけでぞっとします」と回想しています。
このエピソードからは重剛が個人の個性を大切にして育てる、暖かい教育者としての側面を感じられることが出来ます。
重剛は長年吉田松陰を尊崇しており、大正4年(1915)国漢文学者世木鹿吉との共著『吉田寅次郎』を刊行しています。
重剛は松陰への想いを、この本の中の小稿「松陰四十年」の中で語っており、若き日に松陰の思想に触れてからの40年間を振り返っています。
松陰を思慕していた重剛は、明治23年(1890)2月11日に門下生を引き連れ、松陰神社の松陰墓所を参詣し、その後、毎年その日に門下生と共に参詣を続けました。その際、必ず近くの豪徳寺にある井伊直弼の墓も拝していたといいます。重剛は松陰を死に追いやった張本人の墓参をする理由についてこう述べています。
「松陰神社に詣でたる時、帰途必ずこれに接近せる豪徳寺なる井伊大老の墳を掃うを例とす。井伊大老は安政の大獄を起こしたる人物にして、吉田松陰はこの大獄に連なり、いわば井伊大老のために死刑に処せられたるに外ならずといえども、識力と胆力とは、両者相似たるところにあるのみならず、もし松陰をして海外周遊の志を果たせしめば、帰りて大いに井伊大老の説を賛するに至りしやもいまだ知るべからず。かくの如きは史をひもとく者の留意せざるべからざるところなり。ゆえに松陰神社に詣でしあと、井伊大老の墳を掃うなどは、表面の事実に拘泥して、軽々しく妄断を下すの不可なるを警むる効あるが如きなり」
重剛は松陰に心酔していましたが、一方で歴史を客観的に視る眼を持っており、上記の通り、感情的に井伊を悪者にするようなことは妄断であるとして、その戒めとして井伊の墓参を続けるのでした。
この『吉田寅次郎』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができます。
重剛には嘉永3年(1850)生まれの菊路という姉がいました。
菊路は18歳の時に京都守護のために上洛していた会津藩士小池帯刀の養子周吾に嫁ぎましたが、その直後に鳥羽伏見の戦いが起こり、周吾とともに江戸に逃れた後、さらに会津へ赴きました。菊路は他の藩士子女とともに城に立て籠もりましたが、夫周吾・舅帯刀が共に戦死、戦後残された家族とともに下北半島の厳寒地斗南へ移住しました。
若かった事もあり、同じく会津藩士であった辰野宗城の許へ再嫁し、さらに北海道札幌に移住し、一女をもうけましたが、故あり辰野と離別。
東京の杉浦家へ戻りましたが、晩年が病気がちで明治34年(1901)8月23日52歳で没しました。
重剛は姉の波瀾万丈の生涯を「女兄氏傳」に綴っています。
近親者が会津へ嫁ぎ、敵味方に分かれてしまった悲劇を体験していたからこそ、重剛は勝者・敗者へ対し公平な視点を持ったのではないかと思います。
重剛のことを調べる過程において、重剛が我が会の偉大な先輩であることも分かりました。
重剛はかねがね門下生に「探墓行」の大事を説いていたのです。
「『論語』に「終りを慎み遠きを追えば民の徳厚きに帰す」とある。古賢を尚び、遺烈を追うのはわが国古来の美風である。」として、毎年、塾生をして探墓を行わせ、先賢烈士の多くの人の顧みざるものを選び、あるいは草堆裏に探らせ、あるいは所在の明らかざるものを探させました。
泉岳寺赤穂四十七士の墓参や前述の吉田松陰・井伊直弼の墓参など、重剛はよく門下生を連れ名墓の巡礼・顕彰を行っています。
重剛の妻楠猪の兄千頭清臣は土佐藩の出身で、栃木県・宮城県・新潟県・鹿児島県の各知事を歴任し、貴族院勅選議員に任じられた人物で、大正3年(1914)には刊行された『坂本龍馬』の著者としても知られています(実際は田岡正枝がそのほとんどを書いたと言われています)。
この『坂本龍馬』は博文堂「偉人傳叢書」シリーズの第2弾として刊行されており、重剛はこの「偉人傳叢書」シリーズの監修を務めています。
重剛は決して「国粋主義的教育者」というような狭い人物ではなく、むしろ若き日に西欧を訪れ、学び理解した上で、日本の良さ、あるべき姿を見出した人物です。戊辰戦争における勝者・敗者へ公平な視線など、重剛には歴史を様々な側面から視る視線を持っていました。
このような見識を持った人物であったからこそ、裕仁親王の師として抜擢されたのだろうと思いますし、後年の昭和天皇の公平無私のお姿を見るにつけ、その根底には若き日に杉浦重剛をはじめとする教育者の教えというものがあったと思います。
調査に使用した重剛の伝記の多くは戦前に書かれたものが多く、戦後は国粋主義者のイメージからあまり顧みられなかったように感じられます。今こそ重剛の思想の多面性をもう一度再評価する必要があるのではないかと思います。
最後に伝通院の杉浦家の墓所について紹介します。
杉浦家の墓所内には3基の墓が建立されています。
1.正面:杉浦重剛之墓
裏面:大正十三年二月十二日歿
2.正面:楠陰杉浦先生之墓(重剛兄)
裏面:明治廿一年十一月廿四日歿
3.正面:杉浦家代々之墓
裏面:大正十五年十一月二十四日建之
墓碑には刻まれていませんが、重剛の法名は[温徳院殿剛誉清簾天台道士]
父重文(蕉亭)の墓は大津市別保墓地にあり、こちらにも重剛の墓碑が建立されていますが、まだ未確認です。
[参考文献]
『日本近現代人名辞典』吉川弘文館
『杉浦重剛全集 全6巻』杉浦重剛全集刊行会
『回想杉浦重剛』杉浦重剛先生顕彰会
猪狩史山『杉浦重剛』新潮社
大町桂月『杉浦重剛先生』
杉浦重剛『吉田寅次郎』博文堂
藤本尚則『国師杉浦重剛先生』敬愛会
渡辺一雄『明治の教育者杉浦重剛』毎日新聞社
本日は71年目の終戦の日となります。
終戦の日を迎えるとやはり昭和天皇の玉音放送のことが思い起こされます。
私は子供の頃に一般参賀で昭和天皇の最晩年のお姿を拝したことがあり、その時の印象はとても強いものがありました。
昭和天皇のご事跡を深く知るようになると、やはり戦中から戦後にかけて苦悩するお姿にとても胸が痛む思いをしました。
今回は終戦の日にちなみ、昭和天皇に縁のあった人物を取り上げたいと思います。
私は昨年開催した伝通院巡墓会で昭和天皇の若き日の師である杉浦重剛について解説をしました。
杉浦重剛をWikipediaで見てみると「明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家」と出てきます。
私は伝通院巡墓会のためにに杉浦重剛ついて調べる際に、まずこの「国粋主義的教育者」という部分を疑いました。
果たして本当にそうであろうか?。調べてみると杉浦重剛の思想の多様性が見えてきたのです。
杉浦重剛(安政2年3月3日(1855・4・19)~大正13年(1924)2月13日)は近江膳所藩の儒学者杉浦重文(蕉亭)・八重の二男として生まれ、幼名譲次郎といい、諱を重剛、後年、天台道士と号しました。
3歳の時、護送される頼三樹三郎を目撃しています。
6歳の時、藩校遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂・作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学洋学を学びました。”予の精神は之を坦堂先生に受け、学問は之を麹盧先生に受け、識見は之を月洲先生に受けた”と後に懐述するように、この三人より受けた教育的感化は重剛の一生を支える程強いものでありました。
膳所藩の藩主本多家は譜代大名でしたが、京より近いこともあり、尊王攘夷派の勢力が強く、重剛の師高橋正功は尊攘派(正義党)の代表人物でしたが、膳所城宿泊中止事件で投獄され、慶応元年10月21日(1865・12・8)処刑されています。戊辰戦争が勃発すると膳所藩はいち早く新政府側に従い、桑名藩領接収のために出兵しています。
明治3年(1870)15歳の時、藩より貢進生に選ばれ東京に下り大学南校入り、翌年、制度変更により、東京開成学校に学びました。在学中、猛勉強の結果、明治6年(1873)10月、明治天皇への御前講演に選ばれ理化学の実験を行います。この時、6名の学生が選ばれましたが、その中に仏法科の古市公威がいました。
明治9年(1876)第2回文部省派遣留学生に選抜されて渡欧し、化学を専攻。当初は農業を修めるつもりでサイレンシスター農学校に入りましたが、英国の農業は牧畜が中心で、穀物は麦で、勉強をしても帰国後役には立たないと気付き放棄しています。化学に転向し、マンチェスター・オーエンスカレッジに移り、ロスコー、ショーレマン両教授の指導下で研究に従事。更にロンドンのサウスケンジントン化学校、ロンドン大学等で学ぶうちに神経衰弱にかかり、さらに右肺も病に冒され、明治13年(1880)5月に帰国。伝通院近くの貞照庵に寄宿し、療養をしながら文部省より依頼された「有機化学沿革史」の翻訳などを行いました。
明治15年(1882)東大予備門長となり、また大学予備門など旧制高校進学のために英語でもって教授する予備校であった東京英語学校(後に日本中学に改称)創立の中心の一人となりました。
明治18年(1885) 東大予備門長を退き、読売新聞論説に従事。明治20年(1887)には小村寿太郎らと乾坤社を創設、井上馨外相の条約改正反対運動に参加しています。
明治21年(1888)政教社に加わり三宅雪嶺、志賀重昂らと雑誌『日本人』発刊に尽くし、国粋主義を唱道し、当時の社会に影響を波及させる。この『日本人』はやがて『日本及日本人』に発展して行きました。三宅雪嶺は、西欧を知り明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者で、雑誌もその方向に染まっていきました。重剛をはじめ、島田三郎、福本日南、池辺義象、南方熊楠、三田村鳶魚、徳田秋声、長谷川如是閑、鈴木虎雄、丸山幹治、鈴木券太郎等在野の名士達が執筆しました。
しかし、大正12年(1923)に三宅雪嶺が政教社を去ると神秘的国粋論が多くなり、昭和12年(1937)以降は戦争協力体制の色彩を強めていきました。太平洋戦争後は大物右翼児玉誉士夫の関連会社となった日本及日本人社より発行され、児玉の広告機関の役割も果たしましたが、児玉がロッキード事件で政財界での力を失った後、発行会社が日本及日本人社よりJ&Jコーポレーションに変わり、平成16年(2004)1月通巻1650号で休刊しています。
重剛は明治21年(1888)文部省参事官兼専門学務局次長となりましたが、明治23年(1890)退官。小石川区議員を経て、第1回衆議院選挙に故郷滋賀より出馬し当選。同郷の伊庭貞剛(後の住友総理事)もこの時当選しています。
大成会に所属しましたが、すぐに脱会し、翌年議員辞職。この間に新聞『日本』を後援、明治22年(1889)日本倶楽部に参加し大隈重信の不平等条約改正案に反対。明治25年(1892)から明治37年(1904)まで朝日新聞論説員を務めています。
その後は子弟の養成と共に東京文学院を設立し、以後も國學院学監や東亜同文書院院長などを歴任。
大正3年(1914)東宮御学問所御用掛となり、倫理を担当迪宮裕仁親王(昭和天皇)の御進講役を務めました。大正10年(1921)に退官。
大正9年(1920) 山縣有朋らが裕仁親王妃に内定していた良子女王及び実家久邇宮家に婚約辞退を迫った宮中某重大事件が起きると、重剛は久邇宮家と結んで、山縣有朋に対抗。頭山満が山縣を襲撃するという噂を流したり、山縣を糾弾する怪文書を撒いたりしました。この事件は翌年、裕仁親王の以降で婚約辞退は撤回され、大正13年(1924)1月26日裕仁親王と良子女王は御成婚しました。この御成婚を見届けると重剛は同年2月13日に70歳で没しました。
葬儀は日本中学校講堂で行われ、友人総代として法学者穂積陳重が弔辞を読んでいます。
昭和26年(1951)6月20日重剛に学んだ吉田茂はこの日本中学校創立50年記念祝賀に訪れ、講演を行い、重剛の霊に「天台学堂」と揮毫した額を献じています。
重剛の門下生は巌谷小波、江見水蔭、大町桂月、岩波茂雄、横山大観、佐佐木信綱、鏑木清方、高山樗牛、長谷川如是閑、朝永三十郎、荻野久作、丸山千里、小西得郎、入江啓四郎、吉村公三郎、小川琢治、吉田茂、河野一郎、河野謙三など枚挙に暇がありません。
この中でプロ野球解説者となった小西得郎は重剛との関係について次のように語っています。
得郎の父であるロシア文学者小西増太郎は重剛とかねてより親しく、野球に熱中し、勉学を疎かにしていた息子の勉学の面倒を重剛に依頼しました。重剛は『吉田寅次郎』を共著した世木鹿吉の許に得郎を書生として預けることにしました。
世木は頑固者で強面で知られていましたが、得郎が野球に熱中する姿をニコニコ笑って見ていたといいます。
得郎はそれが重剛の配慮であることに気づき、これ以降自ら勉学にも励むようになりました。
後年「十六歳で野球部の選手になり七十二歳の当年まで野球一筋に生きてこられたのも、一にかかって中学時代の恩師、杉浦重剛先生のおかげです。もし杉浦先生がいらっしゃらなかったら、どのような人生を歩んでいたか、思うだけでぞっとします」と回想しています。
このエピソードからは重剛が個人の個性を大切にして育てる、暖かい教育者としての側面を感じられることが出来ます。
重剛は長年吉田松陰を尊崇しており、大正4年(1915)国漢文学者世木鹿吉との共著『吉田寅次郎』を刊行しています。
重剛は松陰への想いを、この本の中の小稿「松陰四十年」の中で語っており、若き日に松陰の思想に触れてからの40年間を振り返っています。
松陰を思慕していた重剛は、明治23年(1890)2月11日に門下生を引き連れ、松陰神社の松陰墓所を参詣し、その後、毎年その日に門下生と共に参詣を続けました。その際、必ず近くの豪徳寺にある井伊直弼の墓も拝していたといいます。重剛は松陰を死に追いやった張本人の墓参をする理由についてこう述べています。
「松陰神社に詣でたる時、帰途必ずこれに接近せる豪徳寺なる井伊大老の墳を掃うを例とす。井伊大老は安政の大獄を起こしたる人物にして、吉田松陰はこの大獄に連なり、いわば井伊大老のために死刑に処せられたるに外ならずといえども、識力と胆力とは、両者相似たるところにあるのみならず、もし松陰をして海外周遊の志を果たせしめば、帰りて大いに井伊大老の説を賛するに至りしやもいまだ知るべからず。かくの如きは史をひもとく者の留意せざるべからざるところなり。ゆえに松陰神社に詣でしあと、井伊大老の墳を掃うなどは、表面の事実に拘泥して、軽々しく妄断を下すの不可なるを警むる効あるが如きなり」
重剛は松陰に心酔していましたが、一方で歴史を客観的に視る眼を持っており、上記の通り、感情的に井伊を悪者にするようなことは妄断であるとして、その戒めとして井伊の墓参を続けるのでした。
この『吉田寅次郎』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができます。
重剛には嘉永3年(1850)生まれの菊路という姉がいました。
菊路は18歳の時に京都守護のために上洛していた会津藩士小池帯刀の養子周吾に嫁ぎましたが、その直後に鳥羽伏見の戦いが起こり、周吾とともに江戸に逃れた後、さらに会津へ赴きました。菊路は他の藩士子女とともに城に立て籠もりましたが、夫周吾・舅帯刀が共に戦死、戦後残された家族とともに下北半島の厳寒地斗南へ移住しました。
若かった事もあり、同じく会津藩士であった辰野宗城の許へ再嫁し、さらに北海道札幌に移住し、一女をもうけましたが、故あり辰野と離別。
東京の杉浦家へ戻りましたが、晩年が病気がちで明治34年(1901)8月23日52歳で没しました。
重剛は姉の波瀾万丈の生涯を「女兄氏傳」に綴っています。
近親者が会津へ嫁ぎ、敵味方に分かれてしまった悲劇を体験していたからこそ、重剛は勝者・敗者へ対し公平な視点を持ったのではないかと思います。
重剛のことを調べる過程において、重剛が我が会の偉大な先輩であることも分かりました。
重剛はかねがね門下生に「探墓行」の大事を説いていたのです。
「『論語』に「終りを慎み遠きを追えば民の徳厚きに帰す」とある。古賢を尚び、遺烈を追うのはわが国古来の美風である。」として、毎年、塾生をして探墓を行わせ、先賢烈士の多くの人の顧みざるものを選び、あるいは草堆裏に探らせ、あるいは所在の明らかざるものを探させました。
泉岳寺赤穂四十七士の墓参や前述の吉田松陰・井伊直弼の墓参など、重剛はよく門下生を連れ名墓の巡礼・顕彰を行っています。
重剛の妻楠猪の兄千頭清臣は土佐藩の出身で、栃木県・宮城県・新潟県・鹿児島県の各知事を歴任し、貴族院勅選議員に任じられた人物で、大正3年(1914)には刊行された『坂本龍馬』の著者としても知られています(実際は田岡正枝がそのほとんどを書いたと言われています)。
この『坂本龍馬』は博文堂「偉人傳叢書」シリーズの第2弾として刊行されており、重剛はこの「偉人傳叢書」シリーズの監修を務めています。
重剛は決して「国粋主義的教育者」というような狭い人物ではなく、むしろ若き日に西欧を訪れ、学び理解した上で、日本の良さ、あるべき姿を見出した人物です。戊辰戦争における勝者・敗者へ公平な視線など、重剛には歴史を様々な側面から視る視線を持っていました。
このような見識を持った人物であったからこそ、裕仁親王の師として抜擢されたのだろうと思いますし、後年の昭和天皇の公平無私のお姿を見るにつけ、その根底には若き日に杉浦重剛をはじめとする教育者の教えというものがあったと思います。
調査に使用した重剛の伝記の多くは戦前に書かれたものが多く、戦後は国粋主義者のイメージからあまり顧みられなかったように感じられます。今こそ重剛の思想の多面性をもう一度再評価する必要があるのではないかと思います。
最後に伝通院の杉浦家の墓所について紹介します。
杉浦家の墓所内には3基の墓が建立されています。
1.正面:杉浦重剛之墓
裏面:大正十三年二月十二日歿
2.正面:楠陰杉浦先生之墓(重剛兄)
裏面:明治廿一年十一月廿四日歿
3.正面:杉浦家代々之墓
裏面:大正十五年十一月二十四日建之
墓碑には刻まれていませんが、重剛の法名は[温徳院殿剛誉清簾天台道士]
父重文(蕉亭)の墓は大津市別保墓地にあり、こちらにも重剛の墓碑が建立されていますが、まだ未確認です。
[参考文献]
『日本近現代人名辞典』吉川弘文館
『杉浦重剛全集 全6巻』杉浦重剛全集刊行会
『回想杉浦重剛』杉浦重剛先生顕彰会
猪狩史山『杉浦重剛』新潮社
大町桂月『杉浦重剛先生』
杉浦重剛『吉田寅次郎』博文堂
藤本尚則『国師杉浦重剛先生』敬愛会
渡辺一雄『明治の教育者杉浦重剛』毎日新聞社