会員のカトケンです。
一昨年に引き続き、土佐からの帰途、丸亀市を訪れました。さすが京極氏の城下だけあって、去年の大河ドラマ主役「江与」(江)の姉の嫁ぎ先とわかる系図の書いたハガキが駅の観光案内所に置いてありました。
前回偶然にも醤油屋の地下で爆弾を製造し、一朝事ある場合に備えていた村岡宗四郎母子の屋敷跡を見つけた関係から、今度は墓を訪ねてみたくなり、丸亀よりひと駅松山寄りの讃岐塩屋で下車しました。
JR讃岐塩屋駅から丸亀寄りに徒歩10分、めざす正宗寺がありました。通り沿いには法然上人ゆかりの井戸の碑とともに陸軍大将南次郎が書いた史跡案内の石碑がありますが(=写真)、これは寺の裏側で、入口は西向き、本堂は南向きになります。
本堂の南側に墓域があり、本堂側から入って真ん中西側奥に村岡宗四郎母子の墓がありました。(=写真)
入口には丸亀市文化財保護指定を受けた際に建てたであろう白い木製看板が文字も薄れて健気に建っています。
宗四郎の左側に母の墓、右側には遺族と思われる墓がありました。
宗四郎墓は正面に「村岡宗四郎墓」とあり右面に「慶応三年一月二十九日(1867.3.5)」と没年月日が刻まれています。弘化3年(1846)生まれ。享年22。
母箏子の墓碑には正面に「貞靖孺人」とだけ刻まれ、他の面には何も文字が刻まれていませんでした。母の没年月日は明治三年七月廿五日(1870.8.21)。
○正宗寺 浄土真宗本願寺派 慧日山
(香川県丸亀市前塩屋)
その後、丸亀へ足を運び前回時間が少なかったため諦めた法音寺の土肥大作の墓碑銘を筆写。これが炎天下の上、黒っぽい石に刻まれた文字が見にくく、閉口しました。
一考を案じて水をかけてみたところ、見事に文字が浮かび上がってきました。六百字近くあった墓碑銘は、変態文字が多く読むのに苦労しましたが、やはり列車の発車時刻という制約を受けながら、なんとか全文を書きとることができました。
新治県(今の茨城県の一部)参事在任中、謎の死を遂げた大作だけに撰者の無念さが伝わる文面です。羽倉簡堂門下、はじめ東京新宿光明寺に葬られたことなどがわかり、大作に少し近づけた気がしました。
ただし、一坂太郎『幕末歴史散歩 東京篇』(中公新書)では土肥の墓がかつてあったのは、四谷愛染院(塙保己一の墓がある寺)としています。
この日、関東では熱中症で倒れる方が続出したそうですが、土佐に続いて讃岐は炎天下であっても時々吹く風が心地良く、夕方にかけてだんだん日差しも弱まってきて2時間ほど外にいたにもかかわらず、事なきを得たのは幸いでした。
法音寺については一昨年の拙文をご参照願います。
実家の静岡へ向かうのに通る瀬戸大橋は、私が学生時代に行き来していたころと違い、瀬戸内海をじっくり眺められるようゆっくりと走るようになっていました。
一昨年に引き続き、土佐からの帰途、丸亀市を訪れました。さすが京極氏の城下だけあって、去年の大河ドラマ主役「江与」(江)の姉の嫁ぎ先とわかる系図の書いたハガキが駅の観光案内所に置いてありました。
前回偶然にも醤油屋の地下で爆弾を製造し、一朝事ある場合に備えていた村岡宗四郎母子の屋敷跡を見つけた関係から、今度は墓を訪ねてみたくなり、丸亀よりひと駅松山寄りの讃岐塩屋で下車しました。
JR讃岐塩屋駅から丸亀寄りに徒歩10分、めざす正宗寺がありました。通り沿いには法然上人ゆかりの井戸の碑とともに陸軍大将南次郎が書いた史跡案内の石碑がありますが(=写真)、これは寺の裏側で、入口は西向き、本堂は南向きになります。
本堂の南側に墓域があり、本堂側から入って真ん中西側奥に村岡宗四郎母子の墓がありました。(=写真)
入口には丸亀市文化財保護指定を受けた際に建てたであろう白い木製看板が文字も薄れて健気に建っています。
宗四郎の左側に母の墓、右側には遺族と思われる墓がありました。
宗四郎墓は正面に「村岡宗四郎墓」とあり右面に「慶応三年一月二十九日(1867.3.5)」と没年月日が刻まれています。弘化3年(1846)生まれ。享年22。
母箏子の墓碑には正面に「貞靖孺人」とだけ刻まれ、他の面には何も文字が刻まれていませんでした。母の没年月日は明治三年七月廿五日(1870.8.21)。
○正宗寺 浄土真宗本願寺派 慧日山
(香川県丸亀市前塩屋)
その後、丸亀へ足を運び前回時間が少なかったため諦めた法音寺の土肥大作の墓碑銘を筆写。これが炎天下の上、黒っぽい石に刻まれた文字が見にくく、閉口しました。
一考を案じて水をかけてみたところ、見事に文字が浮かび上がってきました。六百字近くあった墓碑銘は、変態文字が多く読むのに苦労しましたが、やはり列車の発車時刻という制約を受けながら、なんとか全文を書きとることができました。
新治県(今の茨城県の一部)参事在任中、謎の死を遂げた大作だけに撰者の無念さが伝わる文面です。羽倉簡堂門下、はじめ東京新宿光明寺に葬られたことなどがわかり、大作に少し近づけた気がしました。
ただし、一坂太郎『幕末歴史散歩 東京篇』(中公新書)では土肥の墓がかつてあったのは、四谷愛染院(塙保己一の墓がある寺)としています。
この日、関東では熱中症で倒れる方が続出したそうですが、土佐に続いて讃岐は炎天下であっても時々吹く風が心地良く、夕方にかけてだんだん日差しも弱まってきて2時間ほど外にいたにもかかわらず、事なきを得たのは幸いでした。
法音寺については一昨年の拙文をご参照願います。
実家の静岡へ向かうのに通る瀬戸大橋は、私が学生時代に行き来していたころと違い、瀬戸内海をじっくり眺められるようゆっくりと走るようになっていました。