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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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流星忌の宣伝に京都へ。山南忌で説明①

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会員のカトケンです。

3/11前日京都入り。二条駅で降りて三条会商店街を行き、通り沿いの妙泉寺へ。

ここには長崎海軍伝習生筆頭 永持亨次郎の墓がある(=写真)。



矢田堀景蔵、勝麟太郎と同じ艦長要員で当時、勘定格徒目付。

永持は、のちに安藤対馬守信正が送った遣欧使節(いわゆる竹内使節)組頭 柴田日向守剛中の実弟である。柴田は永持の養子五郎次を家来の名目で欧州へ随行させた。

これがのちの永持明徳で、沼津兵学校で仏語を教え陸軍砲兵中佐となる。養父たる亨次郎は長崎修行後、長崎奉行支配吟味役から組頭としてかの地に残った。

しかし安政4年(1857)小石川柳町に兄弟で並んで住んでいることが同年尾張屋清七版『江戸切絵図』で確認できる。

場所は、以前このブログで紹介した小川笙船(幕末は良以)の住まいのあった場所と堀織部正利熙の菩提寺源覚寺の間。西側で兄の名を貞太郎と記す。

永持は外国奉行支配組頭を経て、元治元年(1864)5月京都警衛を命ぜられ、禁門の変2日後目付介となったが、この年10月1日没した。(1864・10・31)

墓碑正面には
「元治元甲子年/至心院殿廣譽正穀明義居士/十月朔日」
左面には
「俗名/永持亨次郎平穀明」とあった。

今回、『探墓巡礼~箱館戦争関係人物を歩く~谷中編』準備のため、掲載人物の履歴を調べると長崎海軍伝習生が複数いることから、京都にある伝習生の墓を訪ねたかった。

永持が慶応4年(1868)まで生きていたらどのような行動をとっていたか。静岡に移住したか、それとも箱館まで行っただろうか。

ともあれ、この寺は入口の看板によると、浄土宗 法性山 専求院と号し、百万遍知恩寺の末寺で、織田信長の家臣の妻 涌岳妙泉善女が開基という(天正10年=1582)。天明8年(1788)正月の大火で類焼、文化13年(1816)再建。

隣の公園で母親と子供たちがたくさん遊んでいた。そこに面する大宮通を南下。四条大宮の1本北側錦小路辺りにあったという見廻組与頭 佐々木只三郎の寓居跡付近を散策。

ブックファーストで毎年買う「京都手帖」を入手。流星忌のチラシが届く旧前川邸に向かった。

翌日の山南忌でチラシが全員にいくよう配布物の中に1つ1つ入れる。ハンドメイド作家のシシヤ宮本さんや天然理心流門下の若人たちと約300部を用意。

その前に壬生寺へ行き主催者の会場準備を手伝った。天然理心流門人たちの稽古を聞きながらの作業は爽快だった。

夕方、宿に向かい大出さんや釣先生らと会食。釣先生はいつものように『新選組再掘記』以来の立ち回り先、河原町六角東入る「くいしんぼ」に寄ってから帰還。昔話に花が咲いたーーつづく

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