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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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新年明けましておめでとうございます

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会員のクロサカです。
会員の新年の挨拶では最後になってしまいましたが、本年もよろしくお願いいたします。

さて、昨年は会員の中では一番大きな変化のあった一年でした。
一昨年の11月に前職を退職し、しばらく学芸員の再就職を探していましたが、このコロナ禍でなかなか思うように行かず、日々が去っていきました。
しかし、昨年11月に現職場の募集を見つけ、藁をもすがる気持ちで応募してみたところ、正社員として採用して頂くことが出来ました。
現在は学芸員には拘らず、一般のサラリーマンですが、歴史調査に深く関わる仕事に就いております。
まだ馴れていないのもありますが、帰宅するとご飯を食べてお風呂に入るとすぐに寝てしまい、あまり歴史研究の時間が出来ていませんが、慣れてくれば余裕も出てくると思っています。

研究の方は、引き続き活動している彰義隊の調査が多かった一年でした。
その過程で幕臣の多くの墓を発見したり、彰義隊隊士や華族のお墓も数家調査いたしました。
ただやはり昨今の情勢から再調査しにいくと、お墓が移転していたり、撤去されていることも多かったと思います。

上の写真は、昨年の調査で発見した幕臣の中根香亭のお墓です。
中根は伊庭八郎の親友として知られ、長州征討や鳥羽伏見の戦いにも参加しました。
戊辰戦争では多賀上総に従い、美賀保丸に乗り込みましたが、銚子沖で座礁し、命からがら助かりました。
維新後は沼津兵学校の教官となり、軍人として活躍しますが、晩年は文筆活動をしていました。
諸書を見ると、静岡の興津で亡くなり、遺言により遺骨は海に撒かれたとされていますが、昨年購入した本に、菩提寺の下谷泰宗寺(現在は東京都豊島区駒込7丁目1−1)に分骨した旨が書かれておりました。
泰宗寺は現在巣鴨に移転していますが、墓地を探すも中根家のお墓が見つかりません。
そのついでに隣の染井霊園(東京都豊島区駒込5丁目5−1)を確認しようとしたところ、管理事務所近くに「中根氏」と刻まれた墓石を発見しました。
近づき、側面を確認すると、劣化していますが、「中根香亭」と読める部分があり、中根のお墓がひょんなことから見つかった瞬間でした。

今年もたくさんの発見があることを祈りながら話を締めたいと思います。

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横浜黒船研究会の中島三郎助講演にオンライン参加

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会員のカトケンです。

去る9日、横浜黒船研究会の講演者たる中島三郎助の曾孫恒英さんからのお誘いでオンライン講演会に初参加。

内田恒次郎の来孫高廣さんのご支援を得てどうにか滑り込んだ。画面と声がつながるとすぐ「カトケンさん!」と中島さんがお声がけくださり、すんなり溶け込めることができた。

パソコン画面に参加者の顔と名前とともにパワーポイントが写し出され、その資料に沿って話が進められた。

内容は、中島三郎助の生涯を通観するものであったが、恒英さんが現役を退かれてご先祖を意識してから様々な会に参加したときのお話を写真を交えて語ってくださった。

このブログにも度々書いているが、平成25年に静岡市にて東軍慰霊祭を催したとき、突然電話で祭文奉読をお願いして以来の仲で、その仲介の労を取ってくださったのが小杉雅之進のご子孫伸一さんであった。

恒英さんは、三郎助はペリーが来たときもたまたま当番だっただけと謙遜され、ざっくばらんな語り口。

長年、外資系コンピュータ企業の海外駐在員として外国人を使って仕事をされ、色々人材育成を試されたというお話も伺ったことがある。

三郎助は榎本武揚とは長崎海軍伝習所以来の仲で、その後オランダ留学中に三郎助に宛てて書いた手紙が紹介された。

一方で、三郎助は吉田松陰や木戸孝允のような西国の志士といわれる人たちと意外なつながりがあったことや中島・榎本・木戸の生涯を比較した年表で時系列に出来事を語ってくださり、幕末に起きた戦争や事件が絡んでとても判りやすかった。

箱館戦争で榎本軍に投じ、最期に降伏を拒否して幕府に殉じた悲哀のようなものが語られたのは特に印象的だった。

質疑応答では活発な議論がなされ、江川坦庵と中島三郎助が出会わなかったかなどの質問が出た。

来たる1月23日(日)浦賀にて昨年小規模でしか催されなかった中島三郎助生誕200年祭に恒英さんも参加されるそうで、オミクロンでどうなるか心配されていたがーー大丈夫そうなら小弟も参加したいと思っていた矢先、残念ながらまん延防止措置が出ることになってしまい、途方に暮れている…(写真=中島登筆戦友絵姿に描かれた中島三郎助父子。平成26年の総司忌にて中島登のご子孫がレプリカを自由に撮影させてくれたときのもの)

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今年の徳川家臣団大会は…

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会員のカトケンです。

帰宅してポストを開けると待つてました、待つてました「徳川みらい学会」からの手紙が届いてゐた。

今年は何と念願の、4月16日土曜日の開催。何々、テーマは「家康公が俯瞰した地球儀」だとな。

講演は「家康公の欧州外交」と「家康公の海洋戦略と『日本国王』」の2本立てだとか。

そして、夕方はお楽しみ慶喜公ゆかりの浮月楼にて交流会。

今年こそ、仕事を終はらせて金曜の晩に帰省し、翌日の参加と行きたいところ。

唯1つの懸念は、毎年此の時期に小弟の所属する静岡の詩吟の会「自達吟詠会」の総会がある事だ。

此の日は大体4月中旬の土曜と決まつてをり、如しや重なるとなると昼間詩吟の総会に行つて、夕方徳川家臣団大会に駆け付けるパターンか…

是亦、予断を許さない状況が年度を超えても続きそうな気配で、既に蔓延防止措置の延期で京都の山南忌を諦めて仕舞つたところに、はてどうしたものやら?





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吉成名誉主幹1周忌をしっぽりと

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会員のカトケンです。

先月20日、カネコ会員と雑司ヶ谷霊園に昨年薨られた『歴史研究』吉成名誉主幹の墓参を敢行した。

何も打ち合わせていないのにカネコ会員は花を、小弟は線香を用意し、事務所集合だったにもかかわらず、川本幸民のすぐ横辺りで偶然一緒になり、挨拶もそこそこに主幹の墓を訪ねた(=写真)。



墓参りを済ませると、自然と巡墓会のはじまりに話が及んだ。吉成主幹は我々が墓案内をし、雑誌連載をする道筋を付けてくださった方であることに改めて感謝の言葉が口をついて出た。

はじめのころは、今はなき五反田東亜ホテルの喫茶コーナー[サーラ・ルチカ]に集まり、釣先生を筆頭に次回巡墓会の構想を練った。リスト出しや下見など、綿密にやったことが思い出される。

少し霊園内をウロウロしてから、下調べしておいた立ち飲み屋が開店するころを見計らって献杯。

コロナ禍が続いて会うこと自体2,3年ぶりであったから、積もる話もあり、まずはお互いの近況やら追跡対象やらをざっくばらんに語らった。

今後の計画とまでは行かないが、去年のコロナ明けにやり残したことや巡墓会開催に当たってのコロナ対策などに話が及んだ。

なかなかお互いの状況が落ち着くまで動くことがままならないと確認できたので、また意見交換する機会を持ちながら少しずつ進めていくことを約して別れた。

さて、今月16日静岡には帰ったものの、徳川家臣団大会には出席できずじまい。翌日の『静岡新聞』には講演の様子が取り上げられたが、どのような方々がお見えになったかまでは分からなかった。

先週の第300回幕末史研究会で榎本隆充さんからご子息隆一郎さんを挨拶に遣ったとお聞きしたのが精一杯。

年度末の激務に追われ、気づいたときには申込期限がとっくに過ぎていたのだった。

それでも、高校受験に合格した甥っ子のお祝いができ、母と姉家族と団欒の時を過ごせた。

滞在した3日ともあいにくの天気で掃苔どころではなかったが、かつて工業高校があった通りに藤の花が満開であることを母が見つけて、散歩がてら足を運んでみると、何とも心が安らいだ(=写真)。自然の美しさは何者にも代えがたいーー


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追悼 小美濃清明さん

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会員のカトケンです。

作家宮地佐一郎に師事し、『坂本龍馬と刀剣』『坂本龍馬・青春時代』『坂本龍馬と竹島開拓』(=写真)などの著書がある小美濃清明さんが今月5日、逝去された。



先月23日に主宰する幕末史研究会で自ら「土佐藩15代藩主・山内容堂の実像」を講演されたばかりだった。

ご病気からの回復と会の記念すべき300回開催を祝うべく一も二もなく駆け付けた。ご講演では張りのあるお声が健在、残りの人生を山内容堂の研究に捧げたいと宣言された矢先だっただけに悔やまれてならない。

懇親会で少しお話しすることができたが、それが言葉を交わした最後になろうとは露ほどにも思わなかった。

思えば、平成17年土佐史談会関東支部の立ち上げに際し事務局を務められ、その後理事として支部活動を軌道に乗せた大功労者である。

しかしながら、その後諸事情により小美濃さんは1会員に戻ったため、理事を未だに続けている小弟とは疎遠になってしまったが、幕末史研究会に時々顔を出すこともあって交流が全く途絶えるということはなかった。参加時にはあたたかく迎えてくださったことに感謝したい。

よく高知へ通っては高知市民図書館などで新たな資料の発掘に努めていた。土佐藩士が戊辰戦争に従軍した際の手記を翻刻した『宮地団四郎日記』はその賜で、未公開の資料を世に問うたことは貴重な業績である。

また、ライフワークの坂本龍馬を没後150年を期に『坂本龍馬大鑑』にまとめられたことは、宮地佐一郎の後継者として『坂本龍馬全集』の平成版をまとめたと言っても過言ではなかろう。

心残りなのは、土佐藩士秋山久作についてもっと資料のありかなどを聞いておけば良かったことである。この秋山久作(青山霊園の大久保利通墓の近くに眠る)は刀剣家であり、元々刀剣家でもある小美濃さんとは相通じるものがあったのではなかろうか。

秋山は、明治10年に高知県内の政治勢力につきその人物たちを軸に報告を行った人で、佐佐木高行日記『保古飛呂比』に記述がある。小弟が卒論を書くときに貴重な証言として重宝したものだ。平尾道雄が『立志社と民権運動』でその評を「秋山久作人物月旦」と呼んでいるのが気に入って、拙論にもその表現を借りたが、もう少し秋山のプロフィールを知るべく小美濃さんの知見にあやりたかった。

傑作なのは、『坂本龍馬と刀剣』に高知の郷土史家谷是さんのご母堂から「それは坂本龍馬の友だちじゃ」という証言を引き出したことである。戦前に刊行された藤本尚則『青年坂本龍馬の偉業』を糸口に知られざる人物との交流を探り当てたことは、先の講演でも自身で「私は調べ魔ですから」とおっしゃっていたことを彷彿とさせる。

谷是さん編集の『高知県の不思議事典』で高知県外からたった2人、小美濃さんと小弟が執筆したことは今となっては貴重な、良き思い出である。

それにしても、幕末史研究会で忘年会に切り替わる12月を除き、毎月様々な分野の歴史家(学者から在野史家まで)を講演させた豊富な人脈とそれを引き受けさせた説得力には驚嘆する。ご病気での断絶はあったにせよ、300回は偉業と言うしかない。

そのようにして数々の歴史愛好家を喜ばせてくれた小美濃さんに改めて敬意を表したい。どうぞ、安らかにお休みください。心よりお悔やみ申し上げます。合掌

流星忌補遺ー甲賀源吾墓ほか

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会員のカトケンです。

出たばかりの『歴史研究』第700号(2022年5月号)に寄稿となった拙稿の【掃苔行脚】「壬午事変殉難の会津の士 水島義招魂碑」の写真撮影のため、一日谷中霊園に行った帰途、箱館戦争参戦者らが多く眠る文京区へ足を伸ばした。

まずは光源寺にある甲賀源吾の墓(=写真)。宮古湾海戦に散った開陽艦長で、天保10年(1839)江戸駒込は遠江国掛川藩下屋敷の生まれ。



長崎海軍伝習所に艦長要員矢田堀景蔵の付き人として行ったが、掛川藩から学んでいた兄郡之丞との関係は見逃せないだろう。

正面[甲賀家塋]、墓誌に当たる[入塋表]には[彰德院勇譽義住秀虎居士 甲賀源吾 明治二年三月廿五日(1869・5・6)/宮古灣戦死 年三十一]と刻む。家紋は山桜。

またその右には矢田堀景蔵や柴誠一(『探墓巡礼ー谷中編』★35)らの尽力により甲賀家再興が認められ跡目養子となった宜政の実家掛川藩士二見家の墓が並ぶ。

宜政は源吾の実兄二見五郎左衛門氏治(掛川藩近習役)の三男(つまり甥)、大蔵省に入り造幣局技師となって、明治32年(1899)工学博士を授与された。

[二見家先祖代々墓]には側面に氏治の長男昇の没年月日や戒名、昇亡き後を継いだ次男鏡三郎やその息子貴知郎(宜政の幼名と同じ)らの俗名や没年月日を刻む。家紋は北条鱗。
(浄土宗、天昌山、松翁院。本駒込 2−38−22)

お次は清林寺の山口挙直(=写真)、通称錫次郎。柴田宵曲の『幕末の武家』に「明治以前の支那貿易」で上海渡航を証言している幕臣。



確か『探墓巡礼ー谷中編』★33で墓を紹介した松平慎斎が主宰していた麹渓書院の門下だと記憶する。

おそらく長崎海軍伝習所で航海修行したと思われるが、こう書いているのは藤井哲博『長崎海軍伝習所』(中公新書)の伝習生の中に名前が出てこないからである。

墓碑には[長崎に赴き蘭人《葛天零喜》氏に就き航海術を修め]とあり、大植四郎は『明治過去帳』でこの蘭人を[カテレキ氏]と書いているが、これは航海術のオランダ人教官カッティンディーケのことではないか。(葛の下の部分は正確には匂)。

そうすると、カッティンディーケが長崎へ来て教鞭を執り始めたのが安政4年(1857)9月だから、第三期幕府伝習生の入所時期に重なるが、どうだろう。

山口は海軍修行の後、海軍操練所(築地だろう)で教鞭をとりつつ勤務、文久年間に軍艦奉行配下の箱館方調役に転じた。そこから帆船健順丸で上海へ渡り、北海産物の密貿易に携わった。会津人参、蝦夷煎海鼠(いりこ)、干鮑などを扱い高く売れたと云う。

この時、山口は「たしか元治甲子の事と思います」と云っているから元治元年(1864)となり、「私の齢ですか、廿六の時でした」と云うから、これらの言に信を置くならば、天保10年(1839)の生まれになる。

また、山口の証言に「カッテンレーキの弟子であった」とズバリ《葛天零喜》が出て来るから、この証言を知ってか、直接聞いたかして墓碑銘を綴った人物はこの漢字を当てたと考えられる。

異人の名前をカタカナを使わず、漢字で表す時の苦心が察せられる。

それはそうと、箱館戦争に身を投じず明治政府に仕えた山口は、その後電信局技師となって、工務局で電信建築や製材科長を務めた。今で言えばNTT(昭和で言うと電電公社)の勤務ということになろうか。

墓碑正面には[老蘭院山口擧直居士]と刻まれている(=写真)。甲賀源吾のように諱[秀虎]が戒名に盛り込まれたものは見たことがあったが、フルネームが戒名に入っているのを見たのは初めてである。右面に[老 明治四十三年(1910)八月四日 擧直]と没年月日を刻む。家紋不明。

その墓碑の撰文は旧交のあった森澄庸という人物が書いている。
(浄土宗、東梅山、花陽院。向丘2−35−3)

執筆に没頭する中で、原稿とは全く関係ない様々な幕臣たちの墓を巡るのは良い気分転換になった。

『探墓巡礼』の続編を作るとしたら取り上げたい幕臣たちであるが、最後まで判明しなかったのは[挙直]の訓読みである。これは今後の課題としたい。
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戦争と回顧録

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会員のカトケンです。

米国のロシアがウクライナを攻撃するという予告から、俄かに信じ難いと思っていたところが、遂に現実となってしまった。

小弟が生きてきた時代は、湾岸戦争にしろ、コソボにしろ、国連がどのように処理するか、安保理が結束して事態を対処しようとしてきた。

ところが今回は国連常任理事国の1つが戦争を始めた。

ヤルタ体制が機能しなくなったと断ぜざるを得ない。しかも、途中から常任理事国に差し替わった国は棄権し2国が抜ける事態は、最早不安全保障理事会である。

ここまでよく持ったものである。国連という誤訳を信奉し続けた我が国(正しい訳は「連合国群」)は「対岸の火事ではない」だとか何とか言いながら、こういうときどのように対処するか決まった指針がない。ドクトリンに欠ける。レジームまで程遠い。

アフガン攻撃やイラク攻撃に少なからず関与していたにもかかわらずである。

一体隣の国が戦争を始めたというのに、こちらにも攻めてこないのかとか、背中から圧力をかけないのかとかどうしてそのような発想がないのだろうか。

国際的にも国内的にもボケ切っているとしか言いようがない。

やはりこれは時系列でものを考える、近い歴史からヒントを得る、そのような歴史教育をしていない、あるいはそのようなことを議論する習慣がない国民の馬脚を露したと言っても過言ではあるまい。

ところで、我が国の先の大戦のときの回顧録を読むと当事者ならではの臨場感が伝わってきて興味深い。

欧州にいて日独伊三国で同盟を結ぼうとしても本国の意向と差が出ていたり、東條英機が真珠湾攻撃の前に日露戦争を模範として終戦の仕方を検討していたり、様々なことが戦後になって語られている。

朝日文庫の『語りつぐ昭和史』シリーズは当事者たちが当時を語っていて生々しい。自分の生まれた頃にまだ戦争当事者が生きていてそのようなことを語っているのである。

改めて、歴史の当事者はもとよりその遺族や子孫に話を聴くことがいかに大切か、また遺品に触れたり、それにまつわる話を聴いたりしても良いだろう。

追いかける人物の墓を訪ね、子孫を訪ねてその家に伝わる歴史に接し、各材料を集める。文書や文献に当たり、それらを照合して文章を組み立てていく。

それが歴史研究の醍醐味なのではないか。目に見えないものを視覚化していき、時には筆力でそれらを表現する。

だから墓碑を訪ねるのは助走であって、まだ歴史研究にたどり着いていないのだ。

我々は掃苔家ではない。墓を訪ねるのは趣味ではなく、そこで戒名や没年月日、家族関係、時には生年月日など歴史を立体化するための取材なのである。

私たちは歴史研究家を標榜する以上、その本質は史料、文献、聞き取り、墓石や石碑に刻まれた文字をヒントに歴史像を一面的でなく、複眼的に描くことに尽きるのではないか。

あと3年で昭和100年になる。今こそ昭和とは何か。どのような時代であったか、先の大戦はなぜ起こったのか。なぜ既存政党をすべて解体し、統合して大政翼賛会を創ることになったのか。あるいはその最初の理念はなんであったか。

どうやら3年後には杉並区荻外荘の公開が始まるそうだから、いま一度近衛文麿、近衛新体制を1つの題材として、我々日本人は戦争というものを考える必要があるのではないか。



我が国が近衛公に期待したものは何であったか。どのような理念に基づいて国家像を描いていたのか。それが何故立ち行かなくなったか。

未来をより快適に過ごし、子々孫々に暮らしやすい国を提供すべく、今こそ歴史にそのヒントを求めるべきではないか。
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小美濃清明さんを偲ぶ会

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会員のカトケンです。

去る7月30日、5月に逝去した小美濃清明さんを偲ぶ会がアルカディア市ヶ谷であった。







小美濃さんが長年運営して来られた幕末史研究会の幹事の方々の肝煎で行われた。

司会は咸臨丸で渡米した浜口興右衛門のご子孫小林賢吾さん。花見正樹さんの献杯に、大出俊幸さんの弔辞が披露され、いずれも小美濃さんの暖かい人柄を偲ぶのに十分であった。

300回に及ぶ例会で学者や在野史家、学生や歴史上の人物のご子孫など、様々な方に依頼して講演を行い、歴史愛好家を楽しませ、喜ばせてくれた小美濃さん。

そんな小美濃さんに感謝の意を込めて小弟は安達漢城の[追悼の詞]を吟じた。

挨拶された方々からは、4月のご講演でこれから山内容堂を研究しますとの決意表明がなされたばかりだったのにと惜しまれる声が相次いだ。

元国連職員で現在は僧侶である米川佳伸さんからは小美濃さんが米国で刀剣の紹介を行い大反響を得たことなどが話され、初めて聞く話やグローバルな活躍には驚くばかりだった。

妹さんのご挨拶では、いつも机に向かって勉強していた小美濃さんの青少年期が語られ、宿題を代わりにやってくれたり、母親を中国に連れて行くときに妹さんと同行したのだが、小美濃さんが現地の人に次々に声をかけられたのはなぜかと問うと、ある地域の王子様と僕を勘違いしているのだよと話していたりと微笑ましい思い出が披露された。

また、幕末史研究会に積極的に参加していた若手の軍司知歩さんからは龍馬のことをいろいろ教えてくれたり、老若男女等しく接してくれたりした小美濃さんへの感謝が述べられた。

さらに京都から見えた作家結喜しはやさんからは、小美濃さんが京都駅から帰り間際に電話してきて「これから東京に帰るんだけど、こんなこと調べに来てたんだよ」といつも会わずじまいだったとの逸話が語られた。幕末史研究会で三度も幕末京都の発表をさせてもらい、嬉しかったとも話された。

言い忘れたが、冒頭で榎本隆充さんから小美濃さんに榎本武揚没後百年のプロデュースをしてもらったら、見事大成功だったとその才能をいかんなく発揮されたことが紹介されたのだが、何よりの賛辞ではなかろうか。

木村摂津守のご子孫宗像信子さんからは、小美濃さんと御主人が義兄弟の盃を交わしたほど仲良くさせてもらい、電話で一時間も話すほどだったとのこと。

何だかお別れの会なのに和やかで終始笑いに包まれたものとなった。小美濃さんのご人格の賜物と思う。

あとは残されたものたちでどのように志を継ぐか。背負うものは大きい。

第16回巡墓会「谷中霊園巡墓会~渋沢栄一とその周辺~」開催のお知らせ

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会員のカネコです。
探墓巡礼顕彰会では2009年より巡墓会を開催していましたが、近年は新型コロナウイルスの拡大などにより開催が困難な状況が続きました。
昨今のコロナ対策緩和の情勢を鑑みて、巡墓会の再開が可能と判断できましたので、今秋、久々に開催することとなりました。
巡墓会としては2018年秋に開催された「流星忌」以来、当会単独では2017年秋に開催された第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会」以来となります。

第16回目の巡墓会となる今回は、谷中霊園にて昨年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一と関連人物の墓所をご案内します。ドラマに登場した徳川慶喜・伊達宗城・杉浦譲・福地源一郎など、渋沢栄一と関わりがった人物を中心に15名ほどの人物を選定して案内いたします。

今回はコロナ対策として参加者人数の制限を行いますので、少人数の参加者募集となります。
専用申し込みフォームからの受付のみとなりますので、ご容赦ください。
以下、開催要項と当日の注意点をよくご覧いただき、内容にご了承いただけましたら下記の専用フォームからお申込みください。
受付は10月22日(土)20:00から開始となり、定員に達し次第終了となります。

専用申し込みフォーム(10月22日(土)20:00より受付開始)

「谷中霊園巡墓会~渋沢栄一とその周辺」~参加申し込みフォーム

申し込みは1回につき1名様のみとなります。

【開催要項】
・開催日:令和4年(2022)11月12日(土) ※渋沢栄一命日(11月11日)の翌日
・集合場所:谷中霊園内五重塔跡公園(JR日暮里駅下車徒歩5分程度)




※谷中霊園内五重塔跡公園(隣に駐在所があります)

・案内:加藤健太郎、金子千滋(探墓巡礼顕彰会幹事)
・参加費:2,000円
・受付時間:12:30~13:00
・開催時間:13:00~16:00(途中休憩有り)
・懇親会(希望者):16:30~ JR日暮里駅前予定(コロナの状況により中止の可能性あり)

【当日の注意点】
・コロナ対策として、マスクの着用をお願いいたします。
・当日朝に検温を行い、37.5℃以上の熱があった場合は参加を見合わせてください。
・巡墓中は人と人の間隔を空け、密になるのを避けながらの移動をお願いいたします。
・墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
・墓地内は一部、足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
・ゴミ等はお持ち帰り下さい。
・体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
・傾いた墓碑や石灯籠には近寄らないで下さい。
・大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
・急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。

明日開催!第16回巡墓会「谷中霊園巡墓会~渋沢栄一とその周辺~」

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会員のカネコです。
先日ご案内しました第16回巡墓会「谷中霊園巡墓会~渋沢栄一とその周辺~」が明日に迫りました。
新型コロナ第8波懸念の報道が多く聞かれるようになりましたので、十分にお気をつけてお越しください。
注意点にも挙げていますが、当日朝に検温を行い、37.5℃以上の熱があった場合は参加を見合わせていただくことと、開催時のマスク着用の2点につきまして、改めてお願いを申し上げます。アルコール消毒はこちらで用意しますので、受付時や休憩時にお使いください。

今日、11月11日は明日のテーマである渋沢栄一の命日にあたります。
明日は渋沢栄一とゆかりの人物・同時代を生きた人物の業績に思いを馳せる一日にしたいと思います。

専用申し込みフォームは本日23:30で締切となります。

「谷中霊園巡墓会~渋沢栄一とその周辺」~参加申し込みフォーム

申し込みは1回につき1名様のみとなります。

以下、改めて開催要項を掲載しますので、ご参加される方は再度ご確認の上、お越しください。

【開催要項】
・開催日:令和4年(2022)11月12日(土) ※渋沢栄一命日(11月11日)の翌日
・集合場所:谷中霊園内五重塔跡公園(JR日暮里駅下車徒歩5分程度)




※谷中霊園内五重塔跡公園(隣に駐在所があります)

・案内:加藤健太郎、金子千滋(探墓巡礼顕彰会幹事)
・参加費:2,000円
・受付時間:12:30~13:00
・開催時間:13:00~16:00(途中休憩有り)
・懇親会(希望者):16:30~ JR日暮里駅前予定(コロナの状況により中止の可能性あり)

【当日の注意点】
・コロナ対策として、マスクの着用をお願いいたします。
・当日朝に検温を行い、37.5℃以上の熱があった場合は参加を見合わせてください。
・巡墓中は人と人の間隔を空け、密になるのを避けながらの移動をお願いいたします。
・墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
・墓地内は一部、足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
・ゴミ等はお持ち帰り下さい。
・体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
・傾いた墓碑や石灯籠には近寄らないで下さい。
・大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
・急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。

第16回巡墓会「谷中霊園巡墓会~渋沢栄一とその周辺~」無事終了しました

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会員の会員のカネコです。
本日11月12日(土)第16回巡墓会「谷中霊園巡墓会~渋沢栄一とその周辺~」を開催しました。
正に「青天」のもと、谷中霊園に眠る渋沢栄一とゆかりの人物、計15名ご案内しました。
参加者15名(講師含む)の方にお集まり頂き、無事終了することが出来ました。
榎本武揚ご子孫榎本隆一郎様、出版舎風狂童子の杉﨑忠博様、幕末史研究会松本千鶴子様にもお越し頂き、開会式でご紹介いたしました。
参加者の皆さまに厚く御礼申し上げます。

「谷中霊園巡墓会~渋沢栄一とその周辺~」にて解説した人物は以下の通りです。

杉浦譲 パリに二度渡った初代駅逓正、郵便制度導入の功労者(カトケン)
伊達宗城「幕末四賢侯」の一人。渋沢栄一の宇和島人脈の基礎をつくる(カネコ)
渋沢栄一 大河ドラマ「青天を衝け」主人公。徳川慶喜の側近、日本資本主義の父(カネコ)
岸田吟香 明治ジャーナリストの先駆、液体目薬の考案者、「大魚は小池に遊ばず」(カトケン)
徳川慶喜 新国家の青写真を検討していた最後の将軍(カトケン)
高松凌雲 栄一とともにパリへ。箱館病院院長・日本赤十字精神の父(カネコ)
中島歌子 歌人。小説『恋歌』の主人公、水戸烈士未亡人、田辺龍子・樋口一葉の師(カトケン)
三枝守富 大隈綾子の実兄、小栗忠順の従兄弟(カトケン)
平野富二 「これ文明に必要の事業たり。豈に廃絶せしめて可ならんや」、石川島播磨重工(IHI)及び築地活版印刷所の創設(カトケン)
川村勇 幕臣川村恵十郎子息、米国留学しながら夭逝した青年(カトケン)
福地源一郎 文久遣欧使節団、近代ジャーナリストの草分け(カネコ)
益田克徳 栄一の盟友益田孝の弟、海軍伝修生、東京海上保険創立者、近代数寄者の祖(カネコ)
織田完之 印旛沼開削工事に挑んだ農政家。栄一の妾大内くにを後妻に迎える(カネコ)
阪谷朗盧 農兵募集で訪れた栄一と交流し、四男芳郎は栄一の婿に(カネコ)
梅浦精一 栄一の実業家仲間。栄一題額の顕彰碑がある(カネコ)

渋沢栄一の盟友杉浦譲にはじまり、谷中霊園内で唯一栄一書の石碑がある梅浦精一まで、約3時間20分の巡墓会となりました。
昨日11月11日は渋沢栄一の命日でもあり、墓前には親族・関連企業による供花が並んでいました。



今回に企画にあたり、谷中霊園で渋沢栄一にゆかりのある人物をリスト化した所、その数62名にのぼりました。
この中から15名を選び、栄一との関係などを交え、ドラマのシーンも振り返りながら解説いたしました。
時間の関係で詳しく解説できなかったことも多々ありますが、参加者の皆さまには配布資料を後日ご覧いただければと思います。

当会にとっては2018年秋に開催された「流星忌」以来、単独では2017年秋に開催された第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会」以来の巡墓会となりました。
今回の大きな課題として、コロナ禍においてどのような形で行うかという問題がありました。少人数の枠にしたことと、アルコール消毒・マスク着用にご協力していただくことで、今回無事に開催することができました。
ご理解・ご協力に改めて感謝申し上げます。

歴史愛好家・研究家・掃苔家の方などさまざまな方たちの交流の場にもなり、改めて巡墓会開催の意義を感じることもできました。
今後、コロナ等社会の情勢をみながらとなりますが、企画を立てることができればと思っております。

引き続き当会へのご支援・ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

新年のご挨拶-谷中霊園巡墓会余滴-

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新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年は2018年秋に開催された「流星忌」以来、当会単独では2017年秋に開催された第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会」以来、久々となる第16回巡墓会「谷中霊園巡墓会~渋沢栄一とその周辺~」を開催しました。
新型コロナウイルスの流行後、初めての開催となり、不安もありましたが、対策を講じた上で開催に踏み切りました。
天候にもめぐまれ、総勢15名での巡墓会を無事に終えることができ、当会の活動再始動の年となりました。改めて御礼申し上げます。

巡墓会のレジュメを作成するにあたり、渋沢栄一とその周辺人物に関する資料などを読み直しましたが、改めて栄一の人脈や活動の広さを感じました。
渋沢栄一については様々な先学たちが研究しており、関連書籍も数多く出ていますので、研究され尽くしている感がありますが、まだまだ隙間の部分で抜けている所があるのではないかとも思いました。

そのようなこともあり、巡墓会が終わった後も、渋沢栄一関連の書籍を仕事の合間を縫って拾い読みしていました。
その中から2冊ほど紹介します。



1.穂積重遠『新訳論語』(昭和56年・講談社)

穂積重遠は渋沢栄一の長女歌子と穂積陳重の長男です。重遠は父陳重と同じく法学者ですが、祖父栄一の影響で子供の頃から『論語』に親しんでいました。
太平洋戦争で穂積家は罹災し、祖父栄一から貰った『ポケット論語』(矢野恒太編)をはじめ数多くの蔵書が焼失しました。重遠は罹災後第1回の外出の際に『論語』を含む『経典餘師』と『論語解義』の2冊を購入し、戦後に迎えた息子の妻に穂積家の家風とばかりにこの2冊を使って『論語』をポツポツと教えました。
重遠はちょうどこの頃に読んだ『読書について』の一文に共鳴し、生まれて半年余の初孫を見て、この子が大きくなった時に『論語』読ませてあげられるかなと思い、自身がおじいさんから授かった家庭的論語を、この孫や未来の孫たちのために書いておこうと思い立ちました。
このような経緯で作成されたため、書き下し・現代語訳の他に、所々補足として、重遠の実生活や時事問題を絡ませたり、雑談を交ぜながら面白く語る部分があったりと、とても親しみが持てる1冊となっています。

巻末の解説は栄一が孫たちの『論語』講義のために招いた宇野哲人の子精一が書いており、この中で父哲人から聞いた栄一のエピソードが書かれています。

「渋沢は、その「ポケット論語」は常に持っていて、何か問題があったり、心に決しかねるようなことがあると、取出して手当り次第にページを開いて参考にしたという。この話は私の父が渋沢と知合って以後、多分大正の中期頃のことだと思うが、ある時、たまたま渋沢の自動車に同乗したことがあって、その時も渋沢は『論語』を開きながら何か考えごとをした後に、「私はいつもこうするのです。始終持ち歩いていますから、本が傷むと矢野君から貰うのですが、もうこれで何冊目になります」と話したことを、私は父から聞いている。」

いかに栄一が『論語』を指針に生きてきたかがよく分かるエピソードです。
栄一に興味がある方であれば、この本の「はじめに」と「解説」を読むだけでも面白いと思います。

2.野々村孝男著『首里城を救った男 阪谷良之進・柳田菊造の軌跡』(平成11年・ニライ社)

文部省文部技官阪谷良之進と文部省建築技師柳田菊造の二人を軸に、昭和3年(1928)から昭和8年(1933)にかけて行われた沖縄首里城正殿の昭和の大修理を貴重な資料を交えて紹介しています。
阪谷良之進は栄一の二女琴子の夫阪谷芳郎の甥で、芳郎の兄次雄の長男となります。
父次雄は良之進が3歳の時に死去したため、良之進は叔父の芳郎のもとで養育されました。
東京美術学校図案科を卒業後、内務省、その後文部省に入り、重要建築物調査研究を専門として、国宝建造物保護にその生涯を捧げました。

この本の中で、著者の野々村孝男氏が阪谷良之進と柳田菊造の資料を探すため遺族を探しをしたというくだりに感銘を受けました。
良之進については数多くの実績に対して、その人物について紹介されている文献が少なく、ほとんど謎の人物の状態であったといいます。遺族探しもうまくいかず、行き詰まっていた所で、思わぬヒントを2冊本から得ました。
この2冊とは森まゆみ著『鷗外の坂』と森銑三著『人物研究雑感』で、『鷗外の坂』の「鷗外は偶然ある人物に親近感を抱くと、その人物についての書を集め、子孫の現在をたしかめ、墓を探す。一直線に資料や結論に到達してはかすりもしない種々雑多なことども…」という一文と、『人物研究雑感』の「古人の研究も、文献的研究のみを以て勿論能事了れとすべきではない。それ以外にも、墓碑を尋ね…」という一文から、お墓から遺族を探し出せることに気付き、谷中霊園の良之進の墓を探し出し、遺族を見つけることができました。
遺族宅には良之進の撮影した写真など、数々の未公開資料が見つかり、知られざる良之進の足跡が明らかになりました。
一方、柳田菊造についても遺族探しを行いますが、今度は墓からの操作が困難であったため、柳田が修復した寺院の資料を探しまわり、長野県の寺の蔵から柳田の履歴書がみつかり、柳田の本家の住所が分かり、そこから分家していた柳田の遺族が見つかり、後日柳田の墓参にも行っています。

お墓から子孫を探し資料を探し出す、あるいは資料から子孫を探し墓参するという行為は人物研究をする上では切り離せない作業であることを再確認しました。
現在は個人情報保護の観点から、墓から子孫を探すことが難しくなっていますが、「資料を探す」「墓を調査する」「子孫へ取材する」という3つの作業が密接に絡みあうことで、人物をより深く知ることができることは間違いありません。

これは私自身も含めてですが、お墓のことを調べている人が陥りやすいことは、お墓を探すことが目的になってしまうことです。
見つけるという達成感を繰り返すうちに、いつの間にか一つでも多くの墓を見つけるということが目的となり、そのお墓に眠っている人物のことは下手をすると名前くらいしか知らないということに陥ることです。
誰々のお墓がどこにある、ということをたくさん知っていても、その人物については良く知らないということでは一体何のためにおを探しているのか分かりません。
やはり、何のためにお墓を探すのかという本来の目的は常に確認していかねばならないと『首里城を救った男 阪谷良之進・柳田菊造の軌跡』を読んで自らの戒めにしました。

なお、阪谷良之進の墓は昨年の谷中霊園巡墓会で案内しました、阪谷朗盧の墓域内にある、正面[阪谷家累代墓]と刻まれた五輪塔となります。



私は40代中ばとなり、仕事の方で成果を挙げなければならないため、なかなかプライベートの歴史研究に時間を割く事ができませんが、引き続きライフワークである二本松を中心とした福島の郷土史、自身の先祖調査、渋沢栄一とその周辺のことなど、いくつか自身に課しているテーマがありますので、これらを地道に掘り下げて行きたいと思っております。

当会の巡墓会につきましては未定となっておりますが、今年も何らかの形で企画できればと思っております。企画が決まり次第お知らせいたします。

本年が皆様にとって良い一年になることを祈念いたします。
引き続き、当会メンバーへのご支援ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。
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謹賀新年

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会員のカトケンです。

あけましておめでとうございます。皆様、お正月はどのようにお過ごしでしたでしょうか? 本年もよろしくお願いいたします。

昨年4年ぶりに巡墓会を催行できたが、参加者の方から、令和元年に高知城歴史博物館が催した「大名墓をめぐる世界、そのすべて」の行事を小弟のブログ記事で知って参加することができたと聞かされた。館長自らが案内され、とても満足の行くものだったとのことで、小弟が掲載した記事が役立ったようで何よりであった。

巡墓会自体は「渋沢栄一とその周辺」と題して幕府方のことが中心であったが、石川島播磨重工業を創った平野富二の碑のところで、坂本龍馬と接点があったことを龍馬好きの参加者がいるのを意識して話したこともあって、土佐関係の視点を今後も持ち続けたいと思う。

巡墓会では徳川慶喜、杉浦譲、川村恵十郎の息子の碑、小栗忠順のいとこ大隈綾子の実家など幕府方の人物の解説をはじめ、渋沢と同時代人として岸田吟香を紹介した。岸田は目薬開発や日本初の従軍記者など様々な肩書を持つが、その功績を讃えた隅田川神社の記念碑が紹介の出発点になっている。

日本で初めて英字新聞を発行した漂流者ジョセフ・ヒコの手伝いをしたことなど、ちょっと忘れ去られている人物だろう。葬儀に渋沢が参加しているから、どこかで接点があったようだが、まだ材料を見つけられていない。

このように巡墓会をやらなければ調べなかったであろう人物に挑むのも催す側の醍醐味である。

今年も引き続きコロナの状況を見ながら、巡墓会をやるかやらないか判断していかなければならないが、ともあれ長く開催せずお待たせした参加者もいたので、まずは約束を果たせたことに安堵している。

今年は徳川家康が大河ドラマの主役であり、地元静岡市でも様々なイベントが行われるだろうが、ひとまず同市の久能山東照宮博物館で昨年12/26〜今年3/21の「徳川家康公展」が催されていることをお知らせしておきたい。

ただし、アクセスが不便で、日本平側から行くにはロープウェイを、久能山下から登るには1,159段の階段という難関が待ち受ける。近隣なら自家用車で途中まで行けようが、遠方からの方はたっぷり時間を取って行き方をよく確認してから訪れることをおすすめしたい。



写真=福岡市長で玄洋社理事長だった進藤一馬書
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静岡市立歴史博物館の開館と「どうする家康」大河ドラマ館

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会員のカトケンです。

先月、静岡市葵区にオープンした静岡市立歴史博物館を訪ねた(=写真)。



1階に出土した戦国時代の道がむき出しで展示され、側まで降りることができる。

それを見ながらスロープを上がっていった2階は常設展示1で、家康の大御所時代の駿府を「首都」と位置づけ、外交や貿易を軸にスペインやイギリスからの贈り物などが展示されていた。

家康の生涯を追う展示では、駿河国を誰が統治したか時代ごと又戦ごと変遷がたどることができる。その側には紅糸縅腹巻と伊予札黒糸縅胴丸具足の復元されたものが四方から見られるよう展示されている。

また家康の信仰や家族に焦点が当てられたコーナーもあり、家康の子がどの局から生まれたかパネル展示があって分かりやすい。どの時にどの局との関係が描かれるのか、今後の大河を見るときのポイントになりそうだ。

家康の印には名前以外に「忠恕」が書かれて、まごころと思いやりを常に忘れないよう自らを戒めていたことが推察できる。

展示の終わりに様々な家康像が並べられ、神になる前後などの解説が施され、初見のものもあり驚いた。家光が描かせたラフな格好の家康が印象的であった。

さらに、以前このブログで文化財資料館のときのプレ展示として触れた今川歴代の展示が更に充実していた。

映像で歴代今川当主の領地変遷が分かるものは、今川好きや静岡県民必見である。

3階の半分は企画展「徳川家康と駿府」で文化財資料館に展示されていたホンモノ類が惜しげもなく展示されていた。

同じ階のもう半分は常設展示2になっていて、静岡の街の歴史が分かるもので、町人の暮らしや浅間神社の祭り、城下町地図、江戸開城から幕臣の静岡移住、茶の生産から輸出などいろんな階層や様々な時代をカバーするものだった。

最後にある昭和30年代の静岡市中心街のジオラマは興味深かった。駿府公園内の三角の建物は昭和50年生まれの小弟には分からず、あとで親に聞いてみると「駿府会館」といって成人式を催したところだそうだ。実家がある位置までカバーされていないか見てみたが、もう少しのところで途切れていて、母は「うちは郊外ってことね」と話していた。

3階へ向かって階段を登ったところが展望になっていて(=写真)、駿府城公園の巽櫓が正面に見えて眺望が楽しめる。ちょうど晴れていて幸いであった。



1階の奥には建穂寺や鉄舟寺の宝物と戦前のパノラマ地図が大きく飾られている部屋と講演会ができそうなスペースがあったが、パネル展示のコーナー(2月12日まで十返舎一九の展示が行われていた)は奥まったところにあり、2階の展示に進む流れから途切れているのはもったいない気がした。これはグッズコーナーも同じで、入口から入場する方向とは逆のカフェの方に行かないと見られない。

ともあれ、入場前の図書コーナーには閲覧できる机が置かれていて文化財資料館の時よりも便利になっているし、展示解説以外にも屋外に出た史跡めぐりが何コースもあって、静より動を意識した新しい形の博物館になっていると感じた。

1月12日付静岡新聞17面に館長、学芸課長による対談(聞き手が民放アナウンサー)が載っており、その中で館長が「目玉となる所蔵品が少なく、市民が作っていく博物館にしたい」との言があり、展示物を置いて待っているのではなく、様々な催しを通じて外へ働きかけていく仕掛けの一環ではないかと感じた。

博物館や催しを通じて、歴史を味わいに静岡市に足を運んでくれる人が一人でも多くなればと願う。

なお、博物館から1キロほど離れた静岡浅間神社の境内に文化財資料館のあった建物を今は大河ドラマ館にして来訪者を出迎えている(=写真)。



かつて2階に上がるスロープには元号が古い順に書き連ねてあり、学習スペースらしさが残っていたが、多くの人が行き交う場所となり、1階奥には映像コーナーがあって賑わっていた。
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函館の平沼久美子さんご逝去

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去る2月19日(日)函館にお住いで、当会も大変お世話になった平沼久美子さんがご逝去されました。

平成21年(2009)当会発足時のころから釣洋一先生のお店春廼舎や新選組関係のイベントでお会いすることが多く、平成22年(2010)に開催した当会主催の護国寺・雑司ヶ谷霊園巡墓会にもご参加いだきました。
いつも明るくお声かけいただいたことが今でも思い出されます。

平沼さんは埼玉県のご出身でしたが、平成24年(2012)5月に函館へ移住しました。土方歳三・榎本武揚や函館の歴史に魅了され、移住したとのことでした。その熱い想いに心打たれたものです。

函館や江差での熱心な歴史活動については時折耳にしていましたが、長年にわたり地域の活性化にご尽力されてきたことに敬意を表します。

平成24年(2012)の函館移住後も、翌年6月に行われた市ヶ谷での釣先生傘寿を祝う会へもお越しになっていたり、親しくお声かけいただいたことをよく覚えています。

平成30年(2018)流星忌開催の折には、函館での広報にご尽力いただきました。この時、運営幹事メンバーで宣伝や『探墓巡礼』の販促用に名刺を作成したのですが、平沼さんも是非函館で宣伝をしたとのことで、名刺を作りたいとご連絡があり、お送りしたことが大変印象に残っています。
その後も、函館での『探墓巡礼』の販促に大変ご尽力いただきました。

昨年6月、私が函館の碧血碑碑前慰霊祭に参加した折に久々にお目にかかることができ、お互い再会を喜び合いました。
勝手ながら函館営業部長とお呼びしていたのですが、この時に御礼を伝えられたことが、今となってはせめてもの救いであったように思います。

あんなにお元気だった平沼さんの突然のご逝去は、いまだに信じられません。
これからまだまだご活躍の場面があったかと思うと、残念な気持ちを拭い去ることができません。

平沼さんの土方歳三・榎本武揚や函館への熱い想いはいつもまでも私たちの心の中で生き続けることでしょう。
平沼さんのあの日の笑顔は忘れられません。
改めて当会活動へご尽力いただきましたこと、御礼申し上げます。

あまりにも突然のご逝去で、ご家族・関係者の皆さまには深い悲しみの中におられることとお察しいたします。
謹んでお悔やみ申しあげますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。

令和5年2月21日

探墓巡礼顕彰会幹事 加藤・金子・黒坂
(代表金子筆)

追悼 北斗の星になった平沼久美子さん

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会員のカトケンです。

今月19日に友人の平沼久美子さんが急逝した。歴史家釣洋一先生の店、春廼舎で知り合ってから交流は10年以上になる。

しばらくして新選組土方歳三が好きで函館に移住したと聞いて驚いたものだった。

確か平成26年6月だったと記憶するが、函館の碧血祭があったとき、同行した小杉さん(雅之進子孫)、中島さん(三郎助子孫)が土方愛さんや柳川熊吉のご子孫とともに北海道新聞の対談企画に参加している間、平沼さんに函館を案内してもらった。

高龍寺に渋田利右衛門一族の墓があると看板で知って、ずいぶん墓域を巡って探してくれたり、弁天台場跡や新選組最後の地の碑など知らないところにも連れて行ってくれたりしたことが思い出される。

その後、小杉さんの運転で江差など南北海道をめぐり、ずいぶん楽しい時間を過ごしたことが大変懐かしい。

その頃は函館に移住してまだ1,2年だったと思うが、もう専属タクシー運転手がいて驚かされたものだ。

いつも元気をもらっていて、小弟はラインで彼女をからかってばかりだったが、そんなやり取りをしてもお構いなく接してくれ、気を許せる人だった。

金子幹事の投稿にもあったとおり、我々が『探墓巡礼ー谷中編』を出版したとき、本当に力になってくれ、方々に売り込んだり、函館に来る観光客向けに職場に置いてくれたりしたことは大変励みになったし、感謝この上なかった。

ただの歴史好きにとどまらず、具体的に行動してくれる人だった。

そのことはかつてこのブログにも投稿したように、ポプラ社の漫画で榎本武揚が取り上げられたとき、筆者の方を榎本武揚のご子孫に紹介されたことでも明らかだ。そういうつなぎ役でもあった。

漫画版 幕末・維新人物伝 榎本武揚、本日刊行!

江差のお母さんと彼女が慕っていた方からも、江差のイベントに必ず顔を出してくれたし、昨年末東京であった北海道江差町紹介のイベントにもかけてくれたとその行動ぶりが偲ばれる。歴史のみならず、地域おこしにも参画されていただけに惜しまれてならない。

行動力が抜群で、日ごろ誰にも明るく接してくれていただけに、もしかしたらどこかで無理がたたっていたのかもしれない。

一度だけ恋愛のことで、自分の気持ちを告げずにその人と離れ離れになるのだと聞いたことがある。そのような内面を抱え、普段の明るい性格とまた違った一面を持っていたことは彼女の奥深さを垣間見た気がした。

ともあれ、件の小杉さんをよく慕っていて、これも一度だけ小杉さんが亡くなられたことを酷く寂しがっていたことがあったので、一緒に旅したときにフィルムカメラで撮った写真を送ってあげたことがあった。そうした一面もあったと皆さんにぜひ覚えておいて欲しい。

享年44才。きっと彼女は「北斗の星」になって、我々を照らし続けてくれると信じ哀悼の誠を捧げたい。

久美ちゃん、本当にありがとう!良き友を得て、俺は嬉しかったよ。

人参畑塾の名伯楽 高場乱の銅像が建つ

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会員のカトケンです。

今月3月31日、福岡県福岡市博多区千代4-7崇福寺に頭山満や進藤喜平太ら玄洋社の面々を育てた高場乱の銅像が建つ。

昨年10月の機関誌「玄洋」の記事の中で崇福寺墓地が整備され、高場を顕彰し銅像が3月に建てられるとの談話が披瀝されていた。31日は高場の命日に当たる。

歴史ものといえば、偉人の師匠に光が当てられることがかつては多かったが、今は余り取り上げられない。

支那風に言えば、一日千里を走る馬を育てた名伯楽と崇められるものだ。

長岡藩家老河井継之助や二松学舎を創った三島中洲を育てた備中松山藩儒者山田方谷、西南役の熊本鎮台司令長官谷干城や亀山社中池内蔵太を育んだ安井息軒、大野右仲の父肯堂や吉田松陰の義弟楫取素彦を育てた塩谷宕陰、屋敷に塾の場所を提供した勘定奉行小栗上野介や亀山社中近藤長次郎を育てた安積艮斎など…枚挙に遑なし。

ともあれ、博多では人参畑のばばさん、ニンジンと言ってもそれは薬草人参(いはゆる朝鮮人参)なのだが、通りかかるとお年寄りが「ここは元気もんがそろうとったとばい」と話しかけてくる(機関誌「玄洋」第109号より)。

高場乱の墓の背面に刻まれた勝海舟書の碑も建てられたというし、ささやかながらも異色ある経学の道場 高志塾(=同誌より)を偲んで訪ねてみるのはいかがだらうか。

昨日今日と暖かくて穏やかな日が続いているが、そのころにはも少し春めいていることを祈りつつーー

いつだったか、博多に行ったとき頭山満生誕の大きな楠がある筒井家の跡で写真を撮っていたら、「え、フィルムですか?」と声をかけられ、「もう少し前だったら玄洋社の話をしてくれる人がいたのだが」と話してくれた方がいたことを思い出す。

しばらく足を運んでいないが、今日は明日の山南忌に備え京都へ現地入り。聚楽第(松林寺に残る分銅堀跡)や平安京跡を満喫したーー(=写真)





最後の写真は丸太町通からの夕日。

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二本松歴史館企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」を見る

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会員のカネコです。

カトケンさんが京都へ行っている3月12日(日)に、私は両親の故郷福島県二本松市へ行き、二本松歴史館で開催されている企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」を見てきました。



二本松歴史館は昨年4月にオープンしたにほんまつ城報館内にあり、昨年の開館以降、定期的に企画展が開催されています。

朝河貫一博士は日本とヨーロッパの封建制度比較研究に大きな業績を残し、日本人初のイェール大学正教授となった人物で、二本松市出身の代表的著名人となっています。

展示は主にパネルが多かったのですが、朝河貫一博士の生涯をコンパクトにまとめており、初心者の人でも朝河博士の業績が分かりやすく展示されています。
また、2021年に福島中央テレビで放送された「霞の国 ヒストリア ~二本松の偉人 朝河貫一~」も上映されており、これも併せて見ると、より朝河博士の人物像を理解することができます。
ゆかりの地マップも配布されており、見学後にそのまま二本松市内を巡るのも良いと思います。

朝河博士については歴史学者というより、平和主義者としての面で語られることが多いかと思います。
朝河博士は日露戦争後に日本の将来について警告を発した『日本の禍機』を執筆し、昭和16年(1941)太平洋戦争開戦直前にルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書の草案を作成するなど、戦争回避への積極的な取り組みをしています。
『日本の禍機』は日露戦争の勝利に酔い知れ、軍備拡大や大陸進出を進める政府や世論に警鐘を鳴らしました。しかし、ここに書かれた危惧はその後、太平洋戦争として現実のものになり、図らずも予言書となってしまいました。
ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書については、朝河博士の草案を基に、親書が作成されましたが、この親書が届いたのは真珠湾に向けて攻撃機が飛び立った直後であり、朝河博士の願い空しく日米開戦に至りました。
戦時中、アメリカ在住の日本人・日系人の多くが強制収容されるなど、行動の制限を受けましたが、朝河博士にはこれまでの業績と思想への敬意がはらわれ、行動と学問の自由が保証されました。

このように、平和主義者としての朝河博士については、広くしられるようになってきましたが、これに対し歴史学者としての朝河博士の業績は埋もれているのではないかと思います。
朝河博士の初期の代表作『大化改新』では大化の改新を日本の封建制度のはじまりとし、中国から何を学び、何を学ばなかったかを分析しています。
後期の代表作『入来文書』は、薩摩入来院家に鎌倉期から江戸期にかけての古文書群を調査したもので、この調査を基にした日本とヨーロッパの封建制度比較研究はこれまで例がなかったもので、欧米で高い評価を受けました。

朝河博士は古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の分野で大きな業績を残した訳ですが、現在の古代史・中世史の専門書で、朝河博士の名を見ることは決して多くはないということを常々感じていました。
その理由として、私は矢吹晋著『朝河貫一とその時代』(花伝社)の一文に注目しています。

矢吹先生は戦後、永原慶二教授・石井進教授といった中世史研究の大家が入来調査を行い、報告書を作成しましたが、その中で全く朝河博士について触れていなかったことを指摘しています。さらに永原教授が報告書において、入来に奴隷制があったに違いない、しかもここに奴隷制を発見できるならば、これは例外ではなく、日本全体の奴隷制度を論証する史料になっている前提に立っていると指摘しています。
対して朝河博士は日本に奴隷はいなかったと『入来文書』に基づいて実証しており、朝河博士の説と永原教授の説は相容れないとしています。
矢吹先生はこれを「つまり永原教授のような中世史像を描く左翼公式主義者にとって、朝河学説はたいへん具合の悪い、不都合な学説であったと思われます。永原教授は敢えて入来まで調査に行き、敢えて朝河学説を無視したものと思われます。永原教授の日本中世史像は報告書の基調がずっとそのまま続いているようです。教授は晩年『二〇世紀日本の歴史学』という本を書きましたが、朝河は出てこない。」として、永原教授は自説の主張に都合が悪い朝河説を黙殺したのではないかとしています。

さらに続けて、「要するに、永原教授は、教授の歴史学と朝河史学は相いれないと認識していたようです。私はここで永原学説が朝河史学と異なることを問題にしているのではありません。見解の相違は当然ありうることです。その場合、研究者ならば朝河学説を批判して自説の正しさを主張するのがスジでありましょう。単に黙殺する。黙殺し続ける態度。これは研究者のとるべき態度ではなく、政治的セクトにありがちな政治行動です。学問の世界に政治を持ち込む安易な政治主義が学問の腐敗を生むと認識して、私はこれを批判しています。」
つまり、本来学説を批判することで、自説を主張するべきなのに、永原教授は政治的スタンスによって、朝河説を黙殺したとして、矢吹先生はこれは強く批判しています。

もちろんこの問題は、永原教授側から見るべきものもありますが、戦後の歴史学の流れにおいて、中世史の大家永原教授から朝河史学が黙殺されたという事実は、朝河史学が埋もれてしまった一つの要因であったと考えて良いのではないかと思います。

矢吹先生はさらに朝河博士が黒板勝美教授と論争したり、南北正閏問題に悩む三上参次教授を慰めたりしたことを指摘しています。また、「島津忠久の生い立ち」の三ヶ所で検閲を受け削除された部分があり、前後の文脈から皇国史観が朝河史学を許さなかった一例と判断できるとしています。
つまり、朝河史学は皇国史観からも許されなかったとしています。
朝河史学は戦前の皇国史観から認められず、その反動である戦後の唯物史観からも黙殺されたということになります。
しかしこれは裏を返せば、朝河史学というものは、その時代ごとの潮流に流されることがない、普遍的なものであったのではないかと思います。

矢吹先生の指摘は、歴史を研究する者の姿勢を問うものであり、自説を主張するにあたり、都合の良い取捨選択は厳に慎むべきであると改めて感じた次第です。

さて、朝河博士については、ほかにもさまざまな切り口があり、朝河博士を輩出した二本松藩士朝河家についても、天狗党の乱や戊辰戦争で戦死した人物がいるなど、朝河博士の人格形成の背景になる部分にも興味深いものがあります。
またその辺のことは別の機会に触れられればと思います。

企画展で配布されているゆかりの地マップにも載っていますが、朝河貫一博士生誕の地は二本松市根崎にあり、案内板が設置されています。



朝河家の墓所はかつて真行寺(二本松市竹田1丁目192)にありましたが、現在は金色墓地(二本松市金色400番地3)に移されています。朝河博士はアメリカで死去したため、アメリカニューヘイヴン市グロウヴ・ストリート墓地に墓がありますが、故郷二本松の朝河家墓所内にも建立されており、ミリアム夫人の墓には「美里安之墓」と刻まれています。



二本松歴史館企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」は3月26日(日)まで開催されています。

第17回山南忌参加

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会員のカトケンです。

3月の京都はいつも雪に降られたり、天候がどんよりとして肌寒いのだが、今年は羽織るものがいらないくらい暖かった。

山南忌への参加は4年ぶりであった。阪急四条大宮駅から山南敬助の墓がある光縁寺に向かって歩いていると、釣洋一先生がいて声をかけた。山南忌でも少ししゃべられたが、相変わらずお声に張りがあり、安心したものだった。

旧前川邸まで行く途中にも知り合いがいて挨拶を交わし、旧前川邸に着いたら着いたでしばらく逢えなかった方々と旧交を温めた。

いつもより山南忌の開始時間が早いとあってスタッフが慌ただして動いており、こちらは少し時間があったので近辺を散策した。

山南忌は相変わらずの盛況で、ご講演の霊山歴史館木村武仁学芸課長、葵太夫「黒髪」の舞、北辰一刀流、天然理心流撥雲館と試衛館の演武、何と言っても高鳥館主の跳び上がる柔術は釣先生のお気に入り注文の品である。名物影山さんの司会も健在。

お楽しみ抽選会も大変盛況で、景品のご提供者や主催者側の心意気がひしひしと伝わるひと時であった。

閉会の後、試衛館の剣士たちとパイプ椅子を階段を伝って分業で下ろすのが恒例で、勝手連の汗かきを爽やかに流すことができた。

懇親会は四条大宮のアークホテルが無くなってしまい、烏丸四条のからすまホテルで催された。阪急で一駅だったが、千葉と青森からの常連さんとたまたま駅で一緒になり、ホテルでの開会待ちまで楽しく歓談ができた。

懇親会は、永倉新八の手記「浪士文久報国記事」(『新選組戦場日記』としてPHP刊)を発見した多田敏捷氏が亡くなられたため献杯の開始となった。この手記が見つかったのは、確か平成8年だったと記憶するが、当時学生で高知にいて、最寄りの書店で秋田書店の『歴史の旅』で永倉新八特集が組まれたことを見つけて即買いし、ときめいたものだった。

学生時代、『歴史読本』の読者コーナーで新選組のデータブックづくりの企画に参画し、『新選組隊士列伝』や『新選組覚え書』の紹介文を書いたことなどを思い出す。高校のときだいたい静岡の古書店や神田神保町で大出本(モロさん命名。新人物往来社の新選組シリーズ。のち社長となる大出俊幸がプロデュースした本)をひととおり集めていたが、卒業のころになって帯屋町の井上書店で『新選組再掘記』と『聞き書き新選組』が手ごろな価格で手に入り嬉しかった記憶が蘇る。

今では大した実績も上げてないのに、大出本の筆者の方々たちと同じテーブルを懇親会で囲んでいるとは、何とも不思議な気分であった。

まずは献杯をした新徳寺の山田和尚にご挨拶させていただき、体調が優れないと嘆き節であったが、こちらも張りのあるお声と心地よい関西弁が健在であった。

旧前川邸の門で挨拶しか交わせなかった名古屋の成木さんから、小弟が『歴史研究』第704号に書いた「幕府瓦解の証言者村山鎮の墓」を読み、多田元吉とともに静岡でお茶の品評審査員をしていたと資料情報を提供してくれた。一橋時代からの慶喜に仕え、談話も残している村山に、成木さんはもっとスポットが当たっても良いのではと述べていた。

ご自身は高幡不動の殉節両雄之碑の碑文を参加者に提供されていて、静岡の東軍慰霊祭のとき永峰弥吉(宮崎、佐賀県令、『探墓巡礼ー谷中編』★2根津勢吉の実弟。妹婿川村録四郎)の臨済寺の墓碑銘を配ってくれたことが思い出される。

沼津の明治史料館で樋口雄彦先生のご講演に駆けつけたとき、車で沼津駅まで送ってくださるなど相変わらずお世話になりっ放しであるが、何年ぶりかーー確か山南会で『探墓巡礼ー谷中編』の宣伝講演をさせていただいたとき来てくださって以来であろう、お話できて嬉しかった。

そうこうしているうちに恒例となった吟詠披露では、山南敬助を弔いて伊東甲子太郎が読んだ和歌を皮切りに、平沼さん追悼のため、安達漢城の「追悼の詩」を吟じた。土方歳三が好きで函館まで移住した熱烈な思いを持った方のことを皆さんに記憶しておいて欲しかったからだ。

席へ戻るとスタッフの1人涼子ちゃんが来てくれて、彼女の好きな天誅組や池内蔵太の話で盛り上がった。そこにかつて東京龍馬会の『龍馬タイムス』を編集されていた明利さんが駆けつけてくれ、宮崎出身だと知って、池内蔵太の師匠安井息軒に話が及び、思わぬつながりに驚いたことだった。

安井息軒も出身地宮崎県那珂郡飫肥村(今の日南市)では安井息軒顕彰会が一生懸命アピールしていることを前日にブログに書くため調べたばかりだったので、二重に驚いたことだった。

飫肥といえば安井か小村寿太郎だが、宮崎出身の人に遭うと必ず聞いてこの二人への関心を確かめるのが恒例になっている。おそらく学問が盛んか教育熱心な土地柄だったのだろう。

ともあれ、龍馬好きから新選組の方へ来てしまった明利さんとも何年ぶりかで話ができ嬉しかった。おそらく、流星忌の打ち上げ以来だろう。

漫画家のかれんさんとはいつも同じテーブルで隣に座るので久々にお話ができ、以前旗本の証言録を読んだか聞かれたことなどを思い出して旧交を温めることができた。

日野のお蕎麦屋さん「血梅」を営む、郷土史家谷春雄さんのご子息キョウジさんがビールを注ぎに来てくださったことも何よりだった。

日曜のうちに東京に帰らねばならず、一時間ちょっとであったが、このために一年がんばって仕事してきた甲斐があったといふもの。本当に素晴らしい時間をくれる、山南忌を催し携わってくださる方々に心より感謝したい。

おっと、忘れてはいけない!この建物を撮るために京都へ足を運んだのだった。『探墓巡礼ー谷中編』★15吉井台子の夫茂則(海援隊士吉井源馬養子)の設計した中京郵便局(=写真)。









少し落ち着いたら、京都で見てきたものをまた披露していきたい。
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牧野富太郎ガイドブックのご案内

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会員のカトケンです。

今更ですが、朝ドラ「らんまん」ご覧になってますか?

土佐国高岡郡佐川村出身の植物学者牧野富太郎をモデルとしたドラマが始まってすでにひと月。

佐川は高知市の西側に位置し、江戸時代土佐藩の筆頭家老深尾氏の城下町であり、同県西端の幡多郡宿毛とともに教育が盛んで多数の人物を輩出した町でもある(宮内大臣田中光顕や小樽運河を造った広井勇など)。

ドラマに天狗こと坂本龍馬が出てくるのはご愛嬌としても、まさかジョン万次郎が出てくるとは驚きであった。天狗といえば、土佐では駿足である那須信吾(天誅組総裁の1人、浜田辰弥こと田中光顕の叔父)なんだが、まあそれは良いとして。。。

小弟が土佐へ行く度にお世話になっている谷是さんが集英社から『らんまんの笑顔「人間・牧野富太郎」伝』を出版。



実録牧野富太郎を知りたい方は、ぜひ谷さんの語り下ろしと土佐史談会関東支部の理事だった谷村鯛夢さんの書留によるこの本を紐解いていただければと思う。

谷さんは、例の広末涼子のファミリーヒストリーのときに帯屋町商店街で商売をしていたその祖父のことを話された方で、長年高知新聞社の営業畑で広告や文化事業を手がけられた。

平成に入ってから昭和初期の総理浜口雄幸の生家復元、洋画家の先駆者国沢新九郎の碑、坂本龍馬が出入りていた河田小龍の画塾跡碑の建立などに携わり、土佐を訪ねてくる歴史愛好家が喜んでくれるようおもてなしを用意した人である。

また、現役最後の仕事として読んで楽しい、調べて拡がる『新版・高知県人名事典』(高知新聞社、平成11年刊)をまとめられた大功労者であることも付け加えておきたい。

なぜなら、この『高知県人名事典』で牧野富太郎といえば、牧野が偉くなってからも「牧野の富が、富が!」と遠慮なく呼んで、牧野もそれを良しとした《鴻の坂の伊之さん》こと中村伊之助という植物に造詣が深い人物を紹介しているからだ。

この人は奇人と云われながら、牧野とともに山に入っては植物を調査し、研究を重ねたまさに心の友、心の師匠なのであり、東京まで行かずともそのような人物がいたことを教えてくれる。

もう一人の著者谷村さんは俳句をやりながら、長年婦人公論の編集に携われ、出版プロデューサーとして今回の企画でも本領を発揮。早速今回の本を谷さんとともに発行前に教えてくださったのだが、すっかり紹介が遅れてしまい、全国読者諸氏に「遅いよ〜」と言われても仕方がないのだが、言い訳はしない。

遅くてもやらないよりはマシである。

その谷村さんのインタビューもぜひ参照されたい。

朝ドラで話題! 『らんまんの笑顔「人間・牧野冨太郎」伝』「日本植物学の父」は、土佐の優しきいごっそう

谷村さんといえば、ドラマに出てきたジョン万次郎の漂流記『漂巽紀畧』(河田小龍筆、講談社学術文庫)をジョンマンの第一人者北代淳二さんの監修・解題のもと訳され、ずいぶん読まれていると喜ばれていたことを思い出す。

これもかつてこのブログで紹介したが、その後北代さんは海文堂が出した『日本の海のレジェンドたち』という本に「ジョン万次郎」をコンパクトにまとめられた。こうも身近に第一人者がいると、小弟なんぞただただ肩をすくめるばかりである。

なお、ドラマでは今後東大から牧野を追い出す教授矢田部良吉(『探墓巡礼ー谷中編』で小弟がその父「★5 矢田部卿(旁は即が正しい)雲」を執筆)も出てくるようだから、今から楽しみにしている。
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