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Channel: 探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-
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謹賀新年 令和三年

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会員のカトケンです。あけましておめでたうございます。

昨年は大変な1年になつた。せめて気持ちは前向きに行きたかつたが、職場で日々プレッシャーを感じながら、抱えてゐた仕事の年末の〆切まで心休まる遑が無かつた。

幸ひ通勤中の読書が唯一心が開放される時間となり、『ある市井の徒ー新コ半代記』(長谷川伸自伝)に夢中になつて乗り越えることができた。

幼くして母と生き別れ、一度だけ母らしき人が人力車からパッとお菓子を投げそれを拾つたこと、兄と2人で生き別れた母に会ひに行つたが果たせず人力車に乗せられ泣きながら帰つてきた件の途中には、明治17年生まれの作家が幼いころの横浜の鉄道事情が分かる描写があつて興味をそそられる。

その母とはその後どうなつたかは読んでのお楽しみとして、日ごろ様々な回想録を読んでゐるが、記憶が一部しかなくても、その断片的な手がかりから過去の出来事を組み立てていく自叙伝に読了後、自然再読してゐる自分がゐた。

さすが『相楽総三とその同志』にをいて何百人の草莽の同志たちのみならず、幕府方や鎮撫側諸藩の人たちをも調べ上げた作家である。

これぞと思ふ作家がゐたら、また自伝をめくつてみたいものだ。

さて、年末年始は早めに故郷へ帰り、先考の墓参りやら大掃除やら家の仕事に追われる。こんな状況だから、いろんな人にも会へないが物を届けてくださる親戚や近所の方がをり、寂しい中にも喜びや楽しみがあつた。

大晦日恒例の菩提寺の読経と新年のお祈りでは父の代から交流のある方々と二言三言、現在の消息やら母の状況やらをやりとりするだけでもホッとしたことだつた。

いつもなら篝火を焚いて檀家の皆さんと除夜の鐘を聞きながら火の番をする。昨年は中学の同級生と30年ぶりの再開を果たしたが、今年はそれもなく寂しく散会した。

また、元旦には浅間神社で高校の同級生と落ち合つて周辺の史跡や神社仏閣を回るのが恒例だつたがそれも叶はず。今回相方が帰省を自粛し昨年は予定が合はなかつたため、これで3年会はず仕舞ひとなるなら如何にも口惜しいことだ。

気を取り直して、自転車に乗つて方々を回るうち、2つの出来事が印象に残つたーー1つ目は以前このブログで紹介した葵区大岩の中村正直寓居跡に昨年9月に新しい石碑が建てられてゐたこと(=写真)。しかも、昨年末、12月27日付静岡新聞に記事があると知つて束ねた新聞から慌てて取り出す破目になつた(=写真)。





『西国立志編』執筆から150年記念の建立と分かり、富春院の山門前に「尚志」の碑があることを高校の日本史の先生から教えていただいたことを思ひ出した。

2つ目は葵区大鋸町の西福寺を訪れ、幕臣今堀千五百蔵(ちおらい、頑翁)・登代太郎父子の墓を詣で(=写真)、すでに無くなつたと勘違ひしてゐた登代太郎の実弟速水三郎の墓(=写真)にも再会できたこと。





今堀登代太郎は講武所の剣術教授方出役で伊庭八郎の友人である。養子に行つた三郎も双子の実兄沢次郎とともに剣術に秀でてゐるが、同山に沢の墓は無い。それでも速水家の墓誌には江戸時代からの戒名が刻まれてをり、三郎の諱正直が戒名に入つてゐる。

ここは駿遠に移住した徳川家臣団の泰斗前田匡一郎先生と新選組のみならず鬼平や町奉行など幕臣にも造詣が深い釣洋一先生と小弟の3人で平成21年に静岡市内を回つたとき教はつた場所である。

その時前田先生から教へられた大鋸町の遊郭跡にあつたお宮さんには残念ながらたどり着けなかつた。しかし、生まれた街の史跡を自転車で回ることなど子供のときには経験しなかつたが、これほど快適なものだと今まで感じたことはなかつた。

そろそろ甥つ子姪つ子が実家に来るころと家路に就き、戻つてしばらくぶりに甥つ子に会つたら背は伸びてゐるし、声変わりもしてゐる。果ては今まで使つたのを聞いたことがない敬語で話しかけてくることに、何ヶ月か会はないうちにすつかり大人になつたと感じ、驚くばかりだつた。

久しぶりに母や姉一家と夕食を囲み、いつもならトランプに興じるところ、今回は新しいボードゲームを皆でワイワイ楽しんでゐたら、帰る時間があつといふ間に来てしまつた。

今回は寂しい正月になるだらうと思つてゐたが、かうして振り返つてみると、いつもどおりとは行かなくとも心温まる時間を過ごすことができ、充実したものとなつたーー

新年開始早々、新型コロナウィルスの蔓延による緊急事態宣言が出て掃苔活動もままなりませんが、少しずつ知つてゐる情報を発信して行きますので、本年もよろしくお願ひいたします。
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新年のご挨拶と最近の動向

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明けましておめでとうございます。
会員のクロサカです。
プライベートにおいては昨年から続く新型コロナウイルスの影響を受けていろいろと動きにくい世の中になってしまいました。
そのような中ですが、昨年中にも多くの発見や成果に恵まれました。
今回はその中から2点ご紹介します。

まず兵庫県明石の浜の光明寺にある津田柳雪のお墓です。

津田は上野戦争で彰義隊とともに戦った松石隊隊長で、松石隊は明「石」藩主「松」平家の一字を取り、逆さまにした隊名で津田は明石藩大目付でした。
息子とともに上野戦争に参加するも敗走。息子ほか参加者の多くが戦死し、面影橋近くの南蔵院に
戦死者の墓が残っています。
柳雪は維新後明石に戻り、上野戦争に関することを語ることもなく、ひっそりと亡くなりました。
現在は一族の墓が数基残っているだけですが、その中に柳雪の墓もあります。

続いて、谷中霊園にある会計官僚安藤就高のお墓です。

安藤は大垣藩領の安八郡に生まれ、大垣藩士となっています。
維新後は大垣藩大参事だった小原鉄心に推挙され、会計官僚として新政府に出仕しました。
さて、何故この人物を取り上げたかというと、東京都による無縁札が立てられているお墓だからです。
しかもこのお墓には墓誌などがなく、埋葬者が分からないお墓でしたが、なぜ判明したかというと、無縁札に埋葬者が書かれていたからでした。
無縁札が無ければ、誰の墓かも分からないお墓だったものの、こういうかたちで判明するというのはなかなか複雑な心境です。
地元安八町では平成22年に安藤就高を主役にした企画展も行っており、子孫が絶えていたとしても自治体の方で保存していくことはできないのか、と考えさせられるお墓です。

今回は以上になります。
このような情勢ですが、華族や彰義隊、幕臣に関する調査・研究を自分なりに進めていきたいと思います。

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日にち遅れのバレンタイン

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会員のカトケンです。

母や姉からチョコレートが届かなくなつて数年、今年はゼロだつたと諦めてゐた翌日、開陽丸の御子孫関係者から手紙が届いた。

開けてみたら「賛否両論」なるチョコレートだつた。「しょうゆペカンナッツショコラ」と書かれてをり、有名な和食店オーナーの監修。味が濃いのにナッツとの相性が絶妙で好きな味。美味しく頂いた。

開陽丸子孫の会の集ひはコロナで開かれないが、他の会員の方とも情報交換や美術鑑賞を通じて交流を続けてゐる。

土曜はその美術鑑賞で国立博物館へ。特別展「日本のたてもの」で我が国の建物の歴史と展示会場である表慶館の近代建築を同時に味はへた。

平成館に行く途中に薩摩藩の町田久成(トーハク前身の東京帝室博物館初代館長。叔母が家老小松帯刀夫人)の胸像あり。御一緒した開陽丸の御子孫が御先祖様とのつながりを教えてくださつた。オランダから貴重なものを持ち帰つて来たのだとか。

平成館から本館に抜けて「木挽町狩野派の記録と学習」の展示を堪能。長篠や長久手合戦図屛風下絵が展示され、武将たちの名前や旗が記されてゐて、つい見入つてしまつた。階段を降りると、「なんだ。ここが半沢直樹の東京中央銀行の階段ぢやないか」と、テッキリ横浜のホテルニューグランドだとばかり思つてゐたのが、小弟の西洋館観も堕ちたものだと結構ショックを受けたのだつた。

気を取り直して表慶館脇にて観梅を楽しんだ。良い香りがして、旧池田屋敷門から梅がちらりと見え(=写真)、この場所はしばし都会の喧噪とは無縁な気がした。



そこから黒田記念館へ。2階へ上がると高村光雲作の黒田清輝像が迎へてくれ、マンドリンを持つ女や風景画、油絵やその下絵がバランスよく展示され、パレットやイーゼルもあつた。

見たいと思つたときには建物改修となつてしまひ、ずつと入つてみたかつた同館にやうやく入ることが叶つた。こちらも絵画とともに建物も満喫。表慶館の重厚さとは違つた趣あり。

そこから取つて返して昼食へ。上野駅の入谷口にホテルに併設されたレストランがあるのを思ひ出して下調べして置いたのだ。

とても賑やかで若人がたくさん、チキンが名物らしく各々食べられるだけのチキンの大きさを頼んだのだが、切るのに悪戦苦闘。思はず顔を見合はせて苦笑してしまつたーー時折流れるドリカムの曲に「あれ、誕生日かな?」と思つて何もされてゐないのを不思議に感じてゐたのだが、どうやら自分から見えないところでケーキが運ばれてゐたのだらう、次は曲が流れないときに花火付きケーキが登場。3度目は曲が流れ、ケーキがすぐ近くの3人組のところへ運ばれた。

今時の人達はこのやうに楽しんでゐるのだなと上野駅を挟んで静寂と喧噪を同時に味はふ日となつた。

この日お目にかゝつた方からは綿のマスクを頂いた。洗つて使へるもので、柄も小弟の以前の服装から好きさうな色を考へてくださつたとのこと。本当に有難いことである。

『探墓巡礼ー谷中編』★31で取り上げた人物の御子孫の従者として、毎年開陽丸子孫の会総会に顔を出し続けてゐる甲斐があるといふもの。

御子孫の方々ともまづは人同士のお付き合ひが欠かせない。そんなこんなで棚ボタならぬ日にち遅れのバレンタインを楽しく過ごしてゐたのだつたーー

それはさておき、弊会カネコ会員のツィッターにもあつたとほり、先々週日曜に始まつた大河ドラマの主役、我々がものした『探墓巡礼ー谷中編』★20の人物は、巷間出回る人物辞典より詳しく知りたい方にはもつてこいの見開き2ページ分。

新選組近藤勇との接点やドラマでは省略されてゐる幼名にも触れられ、恰好のガイドブックとなつてゐる。

ツィッターで応援してくださる方がをり、とても励みになつてゐて、これも大変有難いことだつた。

初回から武田耕雲斎や藤田東湖が出てきて、安政の大地震や天狗党の乱がどのやうに触れられるか、ドラマの今後の展開がまた楽しみであり、先週は『探墓巡礼ー谷中編』★2で取り上げた人物の従兄弟、勘定奉行川路聖謨も登場、いよいよ目が離せなくなつてきた(写真=隅田公園にある藤田東湖「文天祥正気の歌に和す」の詩を刻んだ碑)。



追記 前回投稿した《謹賀新年 令和三年》の8段落目第1文の「追われる」は旧仮名遣ひでは「追はれる」が正しい。一寸訂正して置きます。
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ファミリーヒストリーに知り合ひが立て続けに出演

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会員のカトケンです。

2月に放送された広末涼子と高見沢俊彦の先祖を取り上げたNHK番組「ファミリーヒストリー」放映後、友人たちとラインで楽しくやり取りをした。

広末涼子のときは、放映日に高知の谷 是さんから出演すると電話があり、ちやうど在宅勤務だつたゝめすべて視聴できた。

今は非常事態宣言中のため、勤務する日と在宅のときがあり、出勤のときは大概放映時間に間に合はない。

谷さん本人は「1時間くらいインタビューを受けましたが、放映されるのはほんの少しだと思ひます」とおつしゃつてゐた。どうしてどうして、広末家の話や帯屋町の様子など当時の町の様子が細かく語られてゐた。

番組で郷土史家として紹介されてゐたこの谷さんとは、小弟のブログでいつも高知で厚かましくもそのお宅に泊まらせてもらふと書いてゐるTさんのことである。

写つてゐた場所はその谷さんのお宅で、小弟は図々しくも寝泊まり自由、自転車付きでこゝを拠点に毎度土佐を駆け巡らせてもらつてゐる。感謝この上ないこと言ふまでもない。

放映の翌日、土佐史談会関東支部のメンバーとラインでしばし話が尽きなかつた。

出演した「広末のおんちゃん(伯父)は帯屋町の重鎮ながやけど気さくな方」だとか、「鍋島関東支部長の『高知経済人列伝』に広末の祖父静一が載りゆうで。戦後すぐ焼け跡から金物を掘り出し、むしろの上に並べて売り出したと書いてある」だとか。

この鍋島支部長の本には、谷さんが高知新聞最後の仕事として取り組んだ『新版 高知県人名事典』も引用され、以前関東支部で発表されたとき「同事典が大変役に立つた」と編集した谷さんを目の前にして語られたことが思ひ出される。なかなかお目にかゝれない瞬間であつたーー

THE ALFEE高見沢俊彦のときは、出勤日で帰宅してテレビをつけたら、高鳥館主(天然理心流試衛館)がインタビューを受けてゐた。なぜ天然理心流なのか再放送のときにやうやく分かつたのだが、放送中に館主と組み合つてゐたAさんから写つたと連絡が、これも10年くらい前に釣洋一先生の喜寿のお祝ひで知り合つた仲間と作つたグループラインに入つてきて驚いた。

高鳥館主は釣先生がゝつて経営されてゐた「幕末酒場・新選組屯所 春廼舎」に小弟がいつも入り浸つてゐたとき、鮭飯を炊いてもらつて一人では食べ切れないからと、良い頃合いで近所のお住まひからよく訪ねて来られ、色んなお話を聞かせて頂いた。

確か父を連れて春廼舎に来たときも、石河奉行様(旗本御子孫)とお弟子さんの小木曽女史とゝもに同席してくださつた。

拝島大師奉納額完成のときは件のAさんとゝもに名前を刻んで頂いたし、とりわけ受け継いでゐる天然理心流の系統のことを度々学ばせて頂いたものである。

だから再放送を見て高見沢家母方の祖父坂本家が出てきたとき、なるほど松崎和多五郎が受け継いだ天然理心流のことなら高鳥館主に聞くのがいちばんと、NHKの取材力に感心した。当時、松崎の弟子である井上才市のお弟子さんが御存命で、高鳥さんたちが訪ねていつたことがあると聞いたものだ。

また、平成26年5月に昭島に住んでゐる職場の友だちに車を出してもらつて、八王子市戸吹の桂福寺を訪ねていつた。天然理心流2代三助の門人、八王子市千人同心松崎正作・和多五郎父子の碑があることはもちろん、復元された天然理心流初代近藤内蔵助長裕と2代三助の墓(=写真)を見ることができた。



墓域に三助の実家をはじめ、坂本家が多かつたことを覚えている。歴代の通称からして三助の家と高見沢家の先祖の家は違ふ坂本のやうだ。

偶然とはいへ、その2本のファミリーヒストリーのおかげで思はず楽しいやり取りができ、改めて偉大な先人たちについて耳学問をさせてもらつてゐるありがたさをかみしめてゐる。(芸能人の敬称は略しました。)
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今年は渋沢一色の徳川家臣団大会

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会員のカトケンです。

来たる4月16日(金)徳川家臣団大会2021が催される。今年は大河に合はせてだらうか、それとも静岡に足跡を残してゐるからだらうか。渋沢栄一一色である。







以前このブログで渋沢の静岡での足跡を匂はせて置いてそのまゝにしてしまつてゐた。

静岡駅前の徳川慶喜邸があつたところとして知られる浮月楼と静岡市葵区常磐町の教覚寺である(=写真)。







この中で「日本で最初の株式会社」と書いてゐるのはいかゞなものか。兵庫商社だらうと突つ込みを入れたくなるが、この教覚寺には実は小弟の同級生が眠る。

中国に出張に行つてゐたとき、不幸にも事故に遭つてしまひ、僅か30才であつた。

しかし、それがきつかけで毎年同級生と何らかのかたちで集ふことになり(昨年はコロナで断念)、いつだつたか寺の向かひのお店に集まつたとき、同級生のお父さんが隣りの寺から我々の集まりに顔を出したことがあつた。

所属する東嘉会といふ新門辰五郎ゆかりの木遣の会で、常光寺の辰五郎が建てた新門一門先祖代々の墓に詣でたついでに寄つたとのことであつた。

つまり、渋沢ゆかりの教覚寺の向かひに新門辰五郎ゆかりの常光寺があるわけである。

しかも、この東嘉会さんには平成25年9月に静岡市で東軍慰霊祭を行つたとき、懇親会のオープニングで江戸から伝わる新門辰五郎ゆかりのその木遣を披露して頂いたことが思ひ出深い。

この常磐町はかつて寺がたくさんあつたが、火事で焼けてしまひ、その多くは葵区沓谷へ移つてしまつた。その中には菩提樹院といふ由比正雪の墓がある寺も含まれてゐる。

今の常磐町に残る寺院を回るなら、教覚寺、常光寺、あとはやゝ静岡駅の方に戻つたところにある宝台院(徳川慶喜謹慎の地。二代将軍秀忠の生母お愛の方の墓あり)をまとめて見ることをお勧めする。
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読売カルチャー主催「谷中探墓」のご案内

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会員のクロサカです。
さて、2012年6月12日(土)に横浜よみうりカルチャー主催で「谷中墓地 幕末探墓」の講師させていただくことになりました。
今回のイベントは当会として行うものではなく、クロサカ個人として講師をいたします。
テーマは今話題の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一を中心に德川慶喜や阿部正弘といった大河ドラマに登場した人物を巡ります。
当日は探墓巡礼顕彰会で執筆した『探墓巡礼 谷中編』を副本にいたしますので、是非購入の上、ご参加ください。
内容などの詳細については、下記のURLからご確認ください。
申し込みもこちらから出来るようになっております。

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[横浜]谷中墓地 幕末探墓

「谷中墓地 幕末探墓~“青天を衝け“ ゆかりの墓巡り~」近年、「谷根千」の一つとして多くの人びとに注目されている東京の下町「谷中」。「谷中」...

 

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全国歴史研究会吉成勇主幹ご逝去

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去る3月19日(金)全国歴史研究会吉成勇主幹がご逝去されました。享年81歳でした。

当会は平成21年(2009)3月、吉成主幹の『歴史研究』誌上の呼びかけに応じ、新選組・火盗改研究の第一人者である釣洋一先生・カトケン・カワチ・カネコ・クロサカが集まり発足しました。
吉成主幹は当会の「生みの親」ともいうべき存在でした。

発足当時は全国歴史研究会墓碑研究部会・探墓巡礼顕彰会という二つの会の幹事を兼任する形式で運営が始まりました。
平成21年(2009)11月に初めての企画である「青山霊園巡墓会~龍馬ゆかりの墓碑を訪ねて~」を開催し、当初の巡墓会は『歴史研究』誌上で参加者を募り、吉成主幹にも毎回お越し頂いておりました。
また、五反田東興ホテル内のカフェで定例会を行い、吉成主幹にはさまざまなご指導を賜りました。ひと回りもふた回りも年齢の離れた我々にいつも暖かく接して頂きました。

平成24年(2012)8月、全国歴史研究会の組織変更により墓碑研究部会が廃止となり、探墓巡礼顕彰会に活動を一本した後、吉成主幹は当会の運営から離れましたが、発足当時から現在に至るまで、『歴史研究』誌上では「掃苔行脚」のリレー連載を掲載させて頂いております。
墓碑研究部会廃止後も折に触れてご助言・激励を頂いておりましたが、この度、突然の訃報に接し、メンバー一同深い悲しみに襲われています。
巡墓会にお越し頂いていた頃の元気なお姿が思い起こされます。

吉成主幹は昭和34年(1959)の『歴史研究』創刊以来、60有余年にもわたり、全国の在野研究者・歴史愛好家のために尽力されてきました。その偉大なる功績に改めて敬意を表します。

ご家族・関係者の皆さまのお悲しみ、ご落胆はいかばかりかと拝察いたします。謹んでお悔やみ申しあげますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。

令和3年4月21日

探墓巡礼顕彰会(旧全国歴史研究会墓碑研究部会)幹事 加藤・金子・黒坂

青山霊園今橋権助墓

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会員のカトケンです。

土佐勤王党で幕末に仲間を斬つた罪で揚屋入り、維新を迎へ晴れて娑婆に出た今橋権助といふ人物の墓が特定できたご報告。

青山霊園2種イ10号70側北向きに高田家之墓があり、その敷地内に茶色い[今橋家之墓]がある(=写真)。



側面に[巌 明治二十二年(1889)一月十八日没]と刻まれてゐる。巌は権助の明治以降の名前。まさかと思つたが、『高知県人名事典 新版』には[明治32年(1899)1月18日没]と書かれてゐて、没した年は違へど月日は同じだから間違ひなからうけれども、10年違ひなのが気になつて何とも煮え切らない思ひをしてゐた。

それがこの程部屋の片づけをしてゐたら、今橋の死亡記事を引用してゐる『須崎市史』のコピーが出てきて、没年の[明治二十二年]が正しいことが分かつた。

卒論を書くときにーーテーマは古勤王党から国民派へと言つて、土佐勤王党の生き残りの明治を追ひかけたものーー大概大学図書館の郷土コーナーに高知県内の市町村史が所蔵されてゐたのだが、『須崎市史』と『野市町史』(野市町は現在香南市)だけ所蔵が無くて、しかもこの2冊が古勤王党を取り上げるには重要だつたため、仕方がなく高知県立図書館(現在は市民図書館と一緒になり場所も移りオーテピアとなつてゐる)まで自転車に乗つて借りに行つたのだつた。

その時、テッキリ『須崎市史』はコピーしてゐないものとばかり思つてゐたので、意外だつた。しかもこの記述が今回確定する決め手となつたから尚更有難かつた。

そこには簡単な家系図が記され、息子と孫の名前が明記されてをり、単なる同姓同名でないことが分かつて没年月日の一致を見た。しかも、東京で亡くなつたことまで書かれてゐる。

東京で亡くなつたからといつて、当てずつぽうで墓探しをして青山霊園だとか谷中霊園だとか、さうさう当たるものぢやない。一地方のどちらかといふと郷土人物に位置づけられる者の墓に青山で出くはすとは何たる偶然かそれとも必然か。

ともあれ、この今橋権助こと巌といふ人物の功績は、明治10年(1877)に板垣退助ら立志社と対立する古勤王党も西南戦争に呼応して挙兵しようと企てるのだが、それを高知県西部に位置する高岡郡で完全に阻止して見せたことだ。

これには中央政府の佐佐木高行司法大輔の激励が一役買つてゐたし、派遣された土佐出身の陸軍軍人北村重頼が立志社の調達した武器を一気に取り上げたことの側面支援にもなつてゐる。

高知県は今にも挙兵せんとする危険な状態で、大阪に来た政府要人の暗殺まで企てゝゐたのだから、実現してゐたら相当歴史がひつくり返つてゐたことだらう。

それだけたつた10年足らずの明治政府に物申す、或いは転覆してやるといふ批判が大きかつたわけで、そこで捕まつた立志社幹部や同志は数年の獄中生活を送つて、再び娑婆に出た後に議員や閣僚を務めた者もゐる。

土佐の人物だけでなく、陸奥宗光もゐたことを考えるとこのとき大物たちが受けた大打撃がより一層分かるし、反対に阻止した側の貢献度がいかに重要か推して知るべしといふものだ。

これを私はよく警察が事件を未然に阻止したときに例へる。つまり、事件になつてゐたら損失は計り知れないけれど、事件を阻止した側は余り評価されない、寧ろ不当に評価されないでゐると思つてしまふ。

いかに何も起こさせない、未然に防ぐことにより事件や戦争に巻き込まれなくて済んだわけだから、阻止した側はもつと評価されて良いのではないか。お巡りさんの役割は報はれないなと感じてしまふ。

皆さんはどう思はれるだらうか。

佐佐木高行が明治6年末(1873)に板垣退助らが政府を辞めて一斉に土佐に帰つたとき暴発が起きないか常に気を配り、時には古勤王党を阻止陣営にあの手この手で味方に引き入れようとする、いはゞそれが奏功して見事高知県が焦土と化すのを免れたわけである。

かういふ歴史の陰になつてゐる部分を取り上げれば少し違つた見方ができるのではないか。実はこの辺を卒論以降の論文第2段にしようとして、既に20年以上の月日が経つてしまつた、何とも情けないお話。
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漫画版 幕末・維新人物伝 榎本武揚、本日刊行!

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会員のカトケンです。

拙共著『探墓巡礼ー谷中編』(出版舎風狂童子)刊行時に函館で様々なところに宣伝してくれた平沼さんから、この程ご友人の漫画家が書かれた『コミック版日本の歴史78 幕末・維新人物伝 榎本武揚』が本日刊行されたと連絡があった。



幕末・維新人物伝 榎本武揚

作画の瀧玲子さんは、平沼さんのご紹介で榎本家にうかがって現当主隆充さんから武揚に関することを聞いてきたのだとか。

刊行したポプラ社のホームページで立ち読みすると、日ごろ隆充さんが口癖のようにおっしゃっている兄が鍋太郎、弟が釜次郎(武揚)が早速出てきて、伊能忠敬の弟子であった父円兵衛が兄弟に命名した由来が描かれている。

箱館戦争だけでは榎本像を理解できないし、箱館戦争以前の榎本の生い立ちから様々な場所での修養時代まで知ることができる。江川塾でジョン万次郎に英語を習ったり、学友に大鳥圭介がいたり。また、箱館奉行堀利熙に従った蝦夷行も触れられている。

さらに目次を見ると明治政府出仕後も触れられているようである。

榎本の伝記は元来極端に少ないから、少年時代、取っ掛かりに赤木駿介『榎本武揚ー物語と史跡を訪ねて』(成美堂出版)を読んだとき、明治の榎本が描かれておらず物足りなさを感じたことだった。

明治時代がどのように描かれているか楽しみである。

最近では、北海道大学大学院で榎本の研究をされている武藤三代平さんが明治政府に出仕した榎本について論文を書かれていることをインターネットで知った。

釣洋一先生の営まれていた春廼舎があったころ、榎本隆充さんがまだ大学生だった武藤さんを連れて来られて何度かお話ししたことが思い起こされる。

榎本が昌平黌、長崎海軍伝習所、さらに留学生となりオランダに学んだことは知られていても、明治政府でどのような地位に置かれていたか研究自体が少ないから、伝記化・論文化はとても貴重なものと思う。

ドラマ化にしても、日テレの年末時代劇スペシャル『五稜郭』で主役榎本を里見浩太朗が、安部公房『榎本武揚』を劇場で永島敏行が演じたり、NHKで江守徹扮する黒田清隆が主役のドラマ(ジェームス三木脚本)でささきいさおが榎本を演じていたことが記憶に残るくらいだ。

このNHKドラマは小弟が大学の時で、同級生の涌井さんがビデオに録画し、ゼミの指導教官だった福地惇先生にお渡ししたら、日ごろゼミで明治政府高官の書簡などを輪読をしていたため、当時の高官たちの雰囲気がよく描かれているとの感想がもたらされたことが懐かしく思い出される。中でも、なべおさみ扮する伊藤博文がそっくりだったと先生から披露された時には皆で大笑いしたことだった。

話が逸れてしまったが、この今回榎本が描かれたコミック版日本の歴史シリーズは子供向けに製作しているものの、他の原作者にうかがったところでは、いくらか反応があり、100頁あって大人でも十分読み応えがあるのではないかとのことだった。

ご興味ある方は、老若男女を問わずぜひご一読ください!!

最後に昨夏榎本が晩年を過ごした向島を訪ね歩いた時に撮った鐘ヶ淵榎本武揚像(=写真)を掲げておこう。



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歴史研究吉成勇主幹のお別れ会

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会員のカトケンです。

4月21日の当ブログの投稿にもあったように、弊会メンバーがリレー連載をしている『歴史研究』を長年にわたり編集して来られた吉成勇主幹が3月にご逝去され、お別れ会が6月5日(日)東京都千代田区神保町、日本教育会館に入る喜山倶楽部で行われた。



参加者は着いた者から献花して故人を見送り、席は一定の距離が取られ配置されていた。『歴史研究』編集委員の加来耕三先生は新人作家として売り込んだときに話を聞いてくれた一人が吉成主幹だったというお話、古代史がご専門の松尾光先生は運動として歴史を研究すると結論を迫られるが吉成さんがいつもおっしゃっていたのはどのような結論でもまとめることや発表し続けることが大事だというお話など、参加者代表から印象的なお言葉が発せられた。

吉成主幹のお兄様である征一様、奥様である昭代様からご遺族としてのご挨拶も述べられた。主幹の下の弟さんには勝の名前が入っていて、3人とも戦時中らしい名前が付けられたと、お兄様のお話だった。

吉成主幹は神奈川県厚木市出身で早稲田大学政経学部を卒業され、人物往来社に就職。紆余曲折を経て昭和34年創刊の『歴史研究』の編集に携わり、歴史研究会の全国大会を各地で開催、在野で研究する多くの歴史愛好家を輩出し続けた。

お別れ会後の食事会では、当時の同僚の方から吉成主幹は雑誌記者として、外へ取材に行くというよりも机でコツコツメモを作って様々な企画を考えるタイプだったなどのお話が飛び出した。歴史研究会の事務所が元々新人物往来社のあった有楽町旧都庁近くの新東京ビル、神田神保町のお菓子屋の上、そしてこの5月までの五反田との変遷とともにそれぞれの場所での逸話が披露され、吉成主幹がこれだけ長く歴史研究の発行を続けて来られた秘訣を垣間見たようで興味深かった。

また、編集部にクレームが入ると喜んで菓子折りを持ってその人のところに行き、親しくなって原稿を書いてもらうことにしてきたという名編集者ぶりも披瀝されて、一堂笑いに包まれた。

さらに、吉成主幹亡き後の『歴史研究』の発行は、この6月から事務局を戎光祥出版に移し、井手窪剛先生が編集長を引き継がれるとのご挨拶があった。何よりも歴史を愛して止まなかった吉成主幹を支えた従前のメンバーとともに志を引き継ぐことが表明され、参加者としても意を強くした。

井手窪先生は、5月19日にこのブログに投稿したポプラ社の「コミック版日本の歴史」シリーズのいくつかの原作を手掛けられている方であり、加来耕三事務所のご出身、この2年あまりの間、吉成主幹の下で編集のノウハウを学び満を持しての登板となる。

思い起こせば、我々が最初に巡墓会を開催したとき、吉成主幹から今まで編集をして来て歴史上の人物の墓を取り上げて一度もクレームを言われたことがないと言葉を掛けていただいた。10年以上経った今はお墓の紹介にも色々難しい面が出て来ているが、この言葉によってどれだけ我々が背中を押され、励まされて来たことか計り知れない。

改めて巡墓会開催や掃苔行脚連載の道筋をつけてくださった吉成主幹に感謝申し上げるとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げたい。合掌

渋沢栄一と論語、すなわちサラリーマンの秘訣?

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会員のカトケンです。
大河ドラマ「青天を衝け」で高崎城・横浜外国人居留地襲撃を断念した栄一に妻千代が「孔子先生も『過っては改むるに憚ることなかれ』と言っています」と声をかけていた。

渋沢と論語は、その著書というより発言録である『論語と算盤』により広く知られているが、4月のEテレ「100分で名著」は渋沢の同書が取り上げられた。

論語の知っているフレーズがいくつか出てきて面白かった。

すなわち、
もしやむを得ず、政治から軍隊と食料と信頼のうち1つ無くさなければならないとしたらどれを残すかと弟子に問われ、最後に残るのが信頼だと孔子は言う。これは他の一節「民は信無くば立たず」に通じている。政治をやるには国民の信頼が欠かせないという意味だ。

渋沢は政治の世界は諦め、実業界へ転じるが、岩崎弥太郎との比較や利益一辺倒ではなく世の中に役立つ商売が常に念頭にあり、資本主義という言葉を使わなかったという。

『論語と算盤』で最後は対極にあるものを受け入れていくのが渋沢の解釈だという守屋淳先生の解説だった。水戸藩の政争で対立する敵同士をやっつけ過ぎて人材がいなくなってしまった話も出てきた。

数年前に職場の研修に講師で見え、中国の古典を分かりやすく説いてくださり、受けた講義の中でいちばん面白かったことが思い起こされる。

ところで、小弟が日頃親しんでいる論語のテキストは、山本七平『論語の読み方』(祥伝社黄金文庫)である。この本の一節に渋沢栄一の父が農民の身分だが論語に親しみ、論語で息子を諭そうとするごく一般的日本人として登場する。

渋沢と聞いて小弟が思い浮かべるのはこの件りである。渋沢自身の歴史的事象はカネコ会員に任せるとして、この『論語の読み方』に出てくる論語と日本人論が面白くて読み始めたのだが、今考えてみると仕事で部下を持ち始めた頃、父親よろしく部下との接し方のヒントになるのではないかとよく読んでいた。

弟子の性格や資質によって教え方が変幻自在に変わる孔子ーーそんな理想の上司には程遠いが、あの頃よく話した話題をきっかけに、今では部下を持つあの頃の部下たちにこちらから相談することもしばしば。これは自分なりの[下学して上達す]なのかもしれない。

そういえば初めて役付として転勤する直前、釣先生ご夫妻や天然理心流剣士の方々に送別会(さほど遠く離れるわけではなかったが)を自分のたっての頼みで東京都北区飛鳥山で催してもらった。

ちょうど桜の季節で人がいっぱいだったが、帰りに晩香廬、青淵文庫、渋沢史料館を皆で見学した。これが目的の誘導の宴だったのだが、歴史愛好家が集う春廼舎メンバーにもとより反対の人はいなかった。

その時の入館券を見ると[10(平成22年).3.27]とある(=写真。渋沢史料館のパンフレットとここ2年ほどで集めた無料の渋沢資料など)。まさに光陰矢の如しである。


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読売カルチャー横浜主催「谷中墓地 幕末探墓」を開催しました

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会員のクロサカです。
以前当ブログでもご案内しましたが、6月12日(土)に谷中霊園にて、クロサカと同好の下山氏が講師として、読売カルチャー横浜主催「谷中墓地 幕末探墓」という野外講座を実施しました。
時節柄、感染対策の注意喚起をしっかりとした上で、19名の参加がありました。
JR日暮里駅北改札口に13時に出発し、谷中霊園内をめぐり、最終的には羽二重団子前にある善性寺門前で解散しました。

当日ご案内した人物については以下の通りです。
堀池鴎舟(伊勢亀山藩家老。藩論を勤王にまとめる)下山



富田信貫(加賀藩士。大久保利通暗殺事件に関与)下山
近藤幸殖(伊勢亀山藩家老。通称織部。藩論を勤王にまとめる)下山
松平喜徳(会津藩主・松川藩主。松平容保の養子)黒坂
宮内盛信(幕臣。通称禮輔。撒兵隊として福田八郎右衛門とともに行動)黒坂



吉川素水(幕臣。もと宮内弥重郎。江戸を脱走し、美加保丸に乗組。後に銚子で沈没するも生還)黒坂
徳川慶喜(江戸幕府15代将軍)黒坂
松平斉民(津山藩主。田安亀之助(後の徳川家達)の後見人)黒坂
渋沢栄一(幕臣。大河ドラマ「青天を衝け」の主役)黒坂
阿部正弘(老中首座。日米和親条約を結ぶ)黒坂

この他に白戸隆盛(幕臣・歩兵頭)、新井忠雄(御陵衛士)、田沼意斉(最後の小久保藩主)、室田義文(貴族院議員。伊藤博文暗殺時の付き人)、相馬大作(相馬大作事件の首謀者)、高橋お伝(毒婦)、川上音次郎(銅像の土台のみ、オッペケぺー節の創始者)を一言だけ解説しました。

当日は午前中こそ曇りでしのぎやすかったものの、午後は炎天下の中の移動となりました。
そんななか誰一人離脱者が出なかったのは、良かったと思います。
今後このような企画が決まった際には、またこちらで告知いたします。

介良のえらいて逝く

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会員のカトケンです。

小弟が例会のお手伝いしている土佐史談会関東支部の支部長鍋島高明(たかはる)さんが7月18日胃癌で亡くなられた。85才だった。

平成28年ころから6年ばかりにわたって支部長を務められ、親しみやすいお人柄と独特のしゃがれ声で理事や会員に慕われた。

本を出すたびにお送りくださり、ライフワークである『介良のえらいて』(五台山書房)は増補すること2度。

自身の出身地である介良の偉人たちを取り上げ、こんな偉い人がおったかえ?この人は介良の人やったかね!と狭い地域からよくこれだけの人材が出たものだと読むたびに感心させられた。例えば橋詰延寿や澤本楠弥など。

今でこそ高知市東部に属する介良(けら)はかつて土佐国長岡郡に属し、武市半平太姉の嫁ぎ先で、その息子小笠原和平(保馬)の墓がある。小弟なんぞ、墓を訪ねて自転車で行ったものだが、どうもその時背中に重いものを背負って帰ってきてしまったようで、霊感の強い人に「血だらけの鎧被った人が上におったで」と後で言われて背筋が寒くなったことを今でも覚えている。

それもそのはず、小笠原の墓へ行くには源希義(頼朝弟)の墓を通らざるを得ず、平家に撃たれた浮かばれない霊が滅多に訪れない珍客に付いてきた(この場合、憑いてきたと書くべきか)としてもおかしくないからだ。

そんな思い出のある介良ご出身の鍋島さん。早稲田政経を卒業し、日本経済新聞社へ。昭和58年には編集委員となられた。かつて気になって日経新聞の連載「21世紀の経済人」を書いたのは鍋島さんではないかと尋ねたことがあった。

その記事に土佐出身、鈴木商店の番頭金子直吉が取り上げられていたから、『大番頭 金子直吉』(=写真。高知新聞社)の著書がある鍋島さんが執筆されたのではと思ったが「あの頃(20世紀末)、そんな特集がようあったきねぇ」と一蹴されたことを思い出す。



ジョン万次郎研究者の北代淳二さんの後を受けて3代目の支部長を務められ、平成17年から今まで15年間例会(講演会)を絶やさず続けて来られたのは、この支部長の功績によるところが大きい(昨年はコロナで開催できなかったため15年)。

それというのも、鍋島時代は今まで安泰だった例会の会場を追われる一大事件が起きた。いつも無償で会場を貸してくださるところの責任者が急に方針を変えたからだ。否、休みの日にわざわざ会場を開けに出てきてもらうようなことを無理にお願いしてきた経緯もあって、我々はその理由に対しもっともとの結論を出さざるを得なかった。

だが、そこからが鍋島さんの腕の見せどころで、支部長代行の谷村さんを伴って別の会場で例会が開けるよう道筋をつけてくださった。

支部長という立場にありながら、そのような地道な仕事を実現してくださる縁の下の力持ちだった。

そのおかげでちょうど例会での発表を割り当てられていた小弟も憂いなく務めることができたのが、一昨年の青山に眠る近代土佐人群像の時。

しかも、その際鍋島さんの書かれた『土佐史談』(昭和史特集、第254号)の論稿から、濱口雄幸総理の東京駅遭難時に山地土佐太郎が偶然目撃していた逸話を披露することができ、一遍に2度御恩をこうむった、ありがたい親分だった。

代表的な著書は先に挙げたもののほか、このブログでも紹介した『高知経済人列伝』や『日本相場師列伝』など多数。ホームページ「鈴木商店記念館」の編集委員の一人として金子直吉の功績を分かりやすく説いていた。

この金子は、福沢桃介が『財界人物我観』で土佐国が財界に送り込んだ偉人二人として岩崎弥太郎とともに挙げたもう一人の人物で、鈴木商店で采配を振るった大番頭。鍋島さんの著書によると、なんと渋沢栄一から大日本製糖社長を打診されたが断っている。その理由がまたあっさりしていて面白い。詳しくは著書をご覧されたし。

鈴木商店記念館

また先々月、武蔵野市立図書館へ行って伝記のコーナーを見ていたら鍋島さん著『岩崎弥太郎 海坊主と恐れられた男』(河出書房新社)が目に止まった。「なんや、この人岩崎弥太郎書いちょったがや。こんな身近に専門家がおったとは知らんかったっちゃあ。」と2度驚かされたことだったーー

まだまだお話したいことがあった鍋島さん、心よりご冥福をお祈りいたします。

平成28年「6/17,18土佐、讃岐掃苔」のブログ記事参照(舞台挨拶されている写真に写っているのが鍋島さん)

6/17,18 土佐、讃岐掃苔~土佐史談会創立100年記念行事の出席を兼ねて~

歴史に携わる原点に回帰〜一通の手紙から〜

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会員のカトケンです。

中学の時の担任の先生から故西尾秋風の出していた冊子が届いた(=写真)。



京都への修学旅行で伏見の寺田屋へ行った際、担任の先生だけがお目にかかれ、我々は時間がズレてご尊顔を拝すことができなかった。写真が同封され、西尾先生はこんなお顔だったのかと初めて知った。

大正生まれだから平成元年当時既に60才代だろう。釣洋一先生から、『新選組再掘記』に初めて刊本に名前が記され喜ばれていたとよく聞いたものである。もっとも、再掘記には本名の十四男氏とあったからピンと来ない。

京都への修学旅行がきっかけで歴史へのめり込んで行った小弟からすると、この平成単年ころの「龍馬暗殺」といえば西尾秋風の名前が雑誌に出る度に新しい内容が書かれていないかチェックしたものだった。

歴史の入口として、龍馬暗殺は誰もが心躍ると言っては人の命が奪われているが故に不謹慎には違いないが、謎解きと黒幕探しが相俟って、さしずめ幕末ミステリーとでも言おうか。

信長誅殺と並んで、誰しも興味をそそられたことだろう。そんな時代であったし、幕末か戦国かと問われれば、小弟は幕末の方だった。

担任の先生が我々の見学先である伏見の寺田屋に現われたのは、班別行動の我々がサボってないかチェックするためであり、見学料や昼に何を食べたかなど金銭の使い道まで事細かに報告書を作らされたことが今でも思い出される。

班別行動は少人数で課題を決めて、それに関わる場所を巡るというもので、「新選組と坂本龍馬」という水と油のテーマを一気に回ってしまおうと、今考えてみると半ば強引な試みであった。

寺田屋から壬生寺、霊山墓地と霊山歴史館に初めて行くにはかなり贅沢なコースだったかもしれない。この霊山歴史館の展示にあった歴史年表から、自分で歴史を調べる楽しみに目覚めたのだった。

だから、このことがなければ大学で歴史を専攻することもなかったし、歴史本を出したり、歴史上の人物の墓を案内したりすることは決してなかったであろう思い出の品になるわけだが、どうしたわけか、当時先生がもらったその冊子をその後のレポートでも活用せず、撮った写真や既存の資料でクラスでの発表も行い、ついぞその冊子を読んだことがなかった。

今こうして手にしてみると、西尾秋風は京都でバス会社を経営して成功した土佐人・川本直水と交流があったことが分かるし、新選組研究の万代修氏から『鳥取藩丁卯筆記』という史料の提供を受けていて、なかなか貴重なものだと思う。

ご存知の方も多かろうが、川本直水が『坂本龍馬』を白川書院から出版した後、渡辺篤の遺書が出てきて、再版のときに追加されている。川本は円山公園の坂本・中岡像を復活させた功労者であり、著書を坂本個人に限らず土佐の歴史的背景とともに論じているところに価値があるし、とりわけ、坂本最後の後援者とも言うべき酢屋嘉兵衛の紹介が経営者らしい視点で記されていて面白い。

『鳥取藩丁卯筆記』は新選組研究の視点から、御陵衛士に詳しい市居浩一が油小路の変に関して『高台寺党の人びと』に引用された史料として知られている。新選組に撃たれた藤堂平助、毛内有之助、服部三郎兵衛の遺体の様子が生々しく記されていて衝撃を受けた。

この辺りは京都維新の会で龍馬と新選組の両方、というより幕末京都の歴史について情報交換が行われていたことが垣間見える。夜な夜な釣先生から春廼舎でお聞きしていた話がようやく結びついてきた。

件の中学の担任とはご定年の時皆でお祝いをして、その席で本を出すことになったと報告させてもらい、自分が歴史に出合ったの時の目撃者が先生である旨お話しした。

先生を囲む会なのに自分の話ばかりして誠に身勝手極まりない教え子であるが、確かその時か次にお目にかかった時に、あの時の資料を送ると先生に言われて、ようやく実現したのが今回の仕儀である。

先生を囲んで集まった仲間は、中学の時分先生のもとで合唱の指導を受けた教え子たち。卒業生で合唱団を作ってその後もずっと活動を続けており、先生のご定年のお祝いはしたけれど、まだ皆で歌ってなかったねと歌う企画が進められていた矢先、コロナ禍の状態になってしまい、実現できないままでいる。

明日緊急事態が解除されて、いつになるか分からないが、ぜひ皆で声を出せる機会が来ることを楽しみに、しばらく空けてしまったブログ記事にようやく手を付けたこの頃である。

※故人の名前は敬称を略しました。

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今回の青天を衝けの論語

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会員のカトケンです。

選挙開票のため、いつもより放映時間を前倒しした大河ドラマ「青天を衝け」に久しぶりに論語が出てきた。

「子曰く、富と貴きとは、これ人の欲するところなり。その道をもつてこれを得ざれば、処らざるなり」と。

「金と地位とは、世間の人が誰でも欲しがるものだ。自分は不正な手段にうったえてもこれを得ようとは思わない」という意味になる。

三野村利左衛門が「踏み込んではいけないところに踏み込んだのでは?」と意味深なことを言っていた。

続けて「貧しきと賤しきとは、これ人の悪むところなり。その道をもつてこれを得ざれば去らざるなり」

その意味するところは「貧乏と無名、これも世人のきらいなものだ。自分は才能があるのに、めぐり合わせで貧乏と無名の境遇にいたとしても恥ではないから、無理にそこから逃れ出ようとはしない。そういう外面的、物質的な生活条件よりは、大切なのは内面的、精神的な生活である」

訳がズシンと心に響く。孔子は続けて「君子、仁を去りて悪にか名を成さん。君子は食を終ふる間も仁に違ふことなし。造次にも必ずここに於いてし、顚沛にも必ずここに於いてす」と。

「いちばん大切なのは仁であって、立派な人はこの仁という徳、そういう境地を去ってどこに名を求めるところがあろう。君子は食事の間も心を忘れず修養する。慌ただしいときも、狼狽えるようなときも必ずそうすべきだ。それほどに思いをこらしているのだから、金と地位なんてこれに比べると大した問題ではない」と言うのである。

これは『論語』里仁編の一節。総選挙の開票日に当たったのは偶然だろうが、この国が市場経済を始めた時期の物語をきっかけに作者の訴えたいことが観ている者に伝わってきた気がした。

また、孔子は「貧しくして怨むこと無きは難く、富みて驕ること無きは易し」(憲問篇)とも言っている。誰しも貧乏はイヤだが、誰しも富を手にすれば心にスキが生じる。すなわち仁を忘れる。富を否定はしないが、それを得る各自の規範こそが問われているということなのだろう。

我が日本人は二度の開国を機会に経済ばかりを優先して、そこから逃れられずにいるのではないか。また、経済の元々の意味である「経世済民」の本分を忘れてはいるのではなかろうか。

たった一節の引用でも個人の振る舞いから国家の有り様まで様々な思いがめぐらされた。論語を通じて、また論語に親しんだ親子の物語を通して、人の生き方、目指すべき人間の資質を感じた。

今回、少し養育院が出てきたが、渋沢が明治とそれ以降の世で目指そうとしたものが何か、残りわずかとなった今後の展開が楽しみである。

なお、テキストは山本七平『論語の読み方』(祥伝社黄金文庫)のほか、今回は貝塚茂樹『論語』(講談社現代新書)も用いて(=写真)適宜改めた。後者はある程度編ごとにまとめられていて、且つ索引があって名言が探しやすい。


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師の謦咳に接すとは

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会員のカトケンです。

緊急事態宣言の解除を受けて、著書の紹介を受けた大学時代の指導教官福地惇先生にお目にかかりにお住まいのある街に足を運んだ。

『欺瞞の歴史を斬る!』(沢口企画=写真)を出版されたとのお手紙をいただき、すぐに購入。その感想を述べようとご自宅に連絡を入れたちょうどその頃、緊急事態宣言が再び出てしまい、ご著書の購入方法をわずかに年賀状のやり取りをしている同級生たちに伝えるくらいしかできなかった。



自らのことを「超右翼」と呼び、大手出版社からの刊行はならなかったことを嘆いて居られた。

もう20年以上前になるが、小弟らの大学卒業と同時に大学を退官され、当時の文部省教科書調査官に転じ、1年も経たないうちに江沢民国家主席の来日時に会員制雑誌で侵略戦争を肯定する発言をした廉で更迭されてしまった。しかも、任官前の対談を槍玉に挙げられたからたまらない。

閑職に追いやられ、教科書調査官になってやりたかったことを何1つさせてもらえないまま、数年後退官し大正大に転じた。

さぞ無念であったろうと思う。だが、我々の学生当時ゼミの打上げで先生が本来歴史の教授ではなく官僚になりたかったが、ちょうど当時の厚生省次官が汚職で捕まっていて、もし官僚になっていたらあんなことになっていたかもしれない!と軽口をたたいてよく我々を笑わせくれたものだった。

また、小弟なぞは先生の授業に物足りないと悪態をついていたが、先生は誰一人落ちこぼれることがないよう生徒のレベルに合わせて授業を開かれていた。ゼミの欠席者が出ると授業が難しかったのだろうかなどとよく心配されていたことは、思い出しただけでも心温まるものがある。

またこんなこともあった。先生の日ごろの愛国者ぶり、「尊王攘夷」とも言うべき主張からするとおよそ見当もつかないことだが、ゼミに参加していた中国人留学生が発表を終えた時、その努力と苦労を先生が褒め讃えたことである。

我々日本人ですら江戸時代を生きてきた明治人の漢字仮名交じり文の読解に、日ごろどれだけ悪戦苦闘させられたことか身に沁みていたから、まして外国人が同じことをやらなくてはならないなど、その労苦たるや計り知れないものがあった。先生はそれに報いるべく皆に拍手を求め、我々も自然とその留学生を喝采したのだった。

そのように生徒の気持ちを汲んでくれ、さり気なく導いてくださる師なのである。

在学中、台湾からの留学生とも少し立ち話をしたことがあるが、彼らは英語も日本語もでき、英語すらままならない我々など足元にも及ばなかったことを今更ながら思い出すとはなはだ赤面の至り。

そういう大真面目な先生である。もちろんご著書の中身は、大東亜戦争は米英が日支衝突を企てたことを論証するものになっている。その主張と人間性のギャップには接したことがない者は到底、理解し得ないものであろう。

幸いにして教科書調査官を追われた時以来、先生がマスコミを賑わすことはないが、世間で言うところと実像とはこれほど差があるのかと日頃歴史を追究していて身をもって感じるし、ご当人もよく今まで殺されずに済んでるよなぁとまた冗談めかしておっしゃるのを、それはやはり人と接する時の良識を持っているかどうかという理由があるからだと私は思う。

改めて師の謦咳に接すとは如何なることか、いつまでもお元気で生涯現役のつもりで研究にいそしんでいただきたく心から願う。その背中から、我々弟子たちも時々ひょっこり顔を覗かせては、楽しく歓談する機会を作りたいと思う。コロナがこのままおさまることを願いつつ...
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品川ライムライト

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会員のカトケンです。

先日、刀剣研究家権東品先生のリニューアルされたお店オモニで一寸したお祝ひがあつた。

よく釣先生の店春廼舎に持ち込んで飲んでゐた赤ワインを持つて駆け付けた。新選組研究家汐海珠里さんと御嬢様こまめさん、S山さん、クロサカ会員が集まつた(=写真)。



久しぶりの韓国焼肉に舌鼓を打ちながら、権さんから或る年の山南忌の翌日に自転車で京都を巡つた時の思ひ出話が飛び出した。

寺町通りの三嶋亭本店でランチをした時に小弟が「権さん、こゝの勘定で昨日の講演料が残らないですよ」と言つたといふのだ。

さう言へば店に入る前に「ホントに良いの?」と同行の金城さん、育江ちやんと顔を見合はせ、思はず躁いだ記憶が蘇つた。

何と言つても、肉を毎度目の前で焼いてくれる程のお店だから、その値段は推して知るべしといふもの。

権さんとは外にも様々な話ができしばし時を忘れたーー全斗煥大統領の国葬が何故行はれないのか、日韓不可逆的合意の裏話、その筋の或る有名な方(と云つてもヤクザではない)の秘書と仲が良かつたり、知る人ぞ知るその業界ではカリスマだつた方の事務所があつた場所、果ては金大中事件の舞台裏までーー

ちやうど数か月前に在韓日本大使館に勤めてゐた方の回顧録を読んでゐたゝめ、色々な話がつながり興味深かつた。

矢張り人と逢ふてこそ、得られる物があるし、執筆のタネが集められるといふものだ。

また、歴史上の人物が来た店で今でも営業しているところはそんなに値段が高くないといふ話は印象的だつた。何故なら、東京のさる街でお酒を飲む時、ホステスにこれ飲んで良いですかと言はれたらそのお酒は幾らだなどとは訊いては無粋だし、第一そんな席で値段の話をしたら一気に酔ひが冷めて仕舞ふ。

だが、その歴史上の人物が使つた店は、そんなことはしないよ、さう考えたら決して高くないとのことだつた。

それなら自分たちでも行けさうだと一度訪ねてみやうかといふ気になつた。僕は記念にその歴史上の人物の写真を持つてその店に行つたよと権さんの言。

お酒の嗜み方や社交場での振舞ひをさり気なく伝授してくださる。

色んな場面で社会的ルールがあるものだと実感させられた。しかもそのやうな場面で一瞬の判断が求められるといふのが、今回権さんと二人で話した結論とでも言はうか。

「これはまるで権道場、権教室だね」と汐海さんの才能を見出す権さんに、弟子に志を継がせる往年の斬られ役福本清三の映画「太秦ライムライト」を重ねて、今回のタイトルを思ひ付いたのだつた。

来年はどのやうな活動が展開できるか、緊急事態宣言が解除されてゐるといふ前提ではあるが、様々な人と逢ふて大いに刺激を受けたい。
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大阪のおっちゃんのおかげで見つけた箱館戦士はシーボルトの従兄弟?

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会員のカトケンです。いつの歳三忌だったか忘れたが、毎度主催者である大出さんのお導きで皆さんの前で挨拶させてもらっており、挨拶の後参加者で声をかけてくださった方がいた。

それが縁で山南忌の時に大阪まで行くと車で史跡巡りをしてくださったり、うまいものを食いに連れて行ってくれたりするようになった。

時々東京に出張があると連絡をくださり、時間が合えばお目にかかることもしばしば。

その方とこの前電話で話していて「ほらあれ、あの人よ。シーボルトの娘を妊ませた…」とその時は分からなかったが、後からラインで「石井宗謙」と教えてくださった。何でも司馬遼太郎の『花神』や『胡蝶の夢』を読んで岡山の縁の地まで行ったそうな。

実は後になって、その人物の次男が箱館戦争に従軍していたことが分かった。一聯隊差図役石井楳太郎とぞいう。

『探墓巡礼ー谷中編』で書けなかった箱館戦争通史を組み立てるため、あるいは宣伝のための講演で材料として使った一聯隊石川証平の手記「説夢録」(幕末維新史料叢書『逸事史補・守護職小史』新人物往来社刊所収)のたまたまクリアファイルのいちばん上になっていたページから「シーボルト」なる文字が目に飛び込んできたのである。不思議な発見であった。

「説夢録」では楳太郎の父宗謙(原文では「宗賢」)がシーボルトの娘を娶り、楳太郎をシーボルトの息子アレキサンドルの従兄弟としている。しかし、楳太郎は宗謙とシーボルトの娘楠本イネとの間の子ではなく、そもそも楠本イネとアレキサンドルが姉弟だから、義理の甥になる。

ところが、この石井楳太郎、不幸にも斥候になって現地案内人を連れ稲倉石の関門(北海道檜山郡厚沢部町)に差し掛かった折、ピストルを落としてしまったことが仇となって榎本軍であることがバレ、松前藩に処刑された人物であった。

それでも、処刑される間際まで現地案内人の助命を嘆願していたほどの人格者であったのだ。このような人物がいたこと自体、事実は小説より奇なりの観を抱く。

手記をコツコツ読むとこのような発見があって楽しい。丸毛利恒の「北洲新話」(一名「函館戦記」『旧幕府』所収)はこのことを明治元年11月12日(1868・12・25)としている。

そして、件の大阪のおんちゃん。時々遠出をしては史跡巡りをした写真を送ってくださるのだが、この度は奥様のご実家香川県に行って美味しい食事とお酒を堪能されているのだなと思ったら、さらにそこから土佐まで足を伸ばし(もちろん車であるが)安芸郡芸西村へ行き、おりょうと君枝の像や安岡金馬顕彰碑の写真を送ってくるは、室戸岬の中岡慎太郎像の写真も来るは、果ては安芸郡東洋町(先端が逆三角形のかたちになっている室戸岬を越えて東の徳島県側に位置する)にある江藤新平遭厄地の看板がさびれている写真まで送ってきた!

しかも、免許取り立てのお嬢さんにこのとんでもない距離を運転させたというから高知県キャラクター黒潮君のイエローカードスタンプを送った。

「今のお気持ちは?」と黒潮君インタビュースタンプに対する答えは「悪い親ですなぁ
趣味に付き合わせるなんて」…お後がよろしいようで(=写真は佐賀県佐賀市にある江藤新平墓)。



来年もどうか1つ長い目で、よろしくお願いします!
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新年のご挨拶

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会員のカネコです。

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年も新型コロナウイルスの世界的大流行が続きました。東京都では長期間にわたり緊急事態宣言が発せられましたが、秋以降、ワクチン接種の効果もあり感染者数がようやく減少してきました。
そのような中で、当会も一昨年に引き続き、活動を見合わせる状況が続きました。

本年も新型コロナウイルスの影響がどのように出てくるのか不透明でありますが、活動再開に向けての準備を進めております。
そう遠くないうちに活動について何らかのお知らせをしたいと思います。

私個人の活動としては昨年の年頭の時点ではライフワークである二本松を中心とした福島県中通りの研究をしようと思っていた所、2月より放送開始されたNHK大河ドラマ「青天を衝け」が大変良い内容だと思い、Twitterにて毎週渋沢栄一関係の情報発信を行うことに専念しました。
歴史愛好者のみならず、出演俳優さんのファンの方たちにもご覧いただき、渋沢栄一や徳川慶喜など周辺人物への関心が高まったことは喜ばしことでした。
各地で行われた渋沢関係の展示・イベントも見ることができ、渋沢三昧の一年でした。
今年の個人の活動としてはまた何かテーマを絞って動いて行こうと思っています。昨年あまりできなかった福島方面のことも力を入れたいと思っています。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」では平成30年(2018)に刊行した『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』に掲載した人物も複数登場し、改めてこの本の刊行意義が高まったと思います。
この本も何らかの形で今後再活用できればと考えております。

昨年は当会発足時にお世話になった全国歴史研究会吉成勇主幹のご逝去がありました。
当会の「生みの親」ともいうべき存在の吉成主幹の不在はとても悲しくもありますが、吉成主幹の想いを受け継ぎ、会の発展や『歴史研究』誌上のリレー連載を継続していく所存であります。

メンバー各自も昨年から今年にかけて環境が変わり、多忙な日が続いておりますが、各自のテーマを追いつつ研鑽を積んでおります。折々にその成果をお見せできればと思っております。

本年が皆様にとって良い1年になることを祈念いたします。
また、今年こそはコロナが収束し、行動への制限がない日常が取り戻せることを願っております。
引き続き、当会メンバーへのご支援ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。
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謹賀新年

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会員のカトケンです。

新年あけましておめでとうございます。

昨年は緊急事態宣言が解除されるまでなかなか外出ができなかったが、静岡に戻った時に松平恒雄駐英大使の息女秩父宮勢津子妃ゆかりの秩父宮記念公園を母と訪れた(御殿場市東田中1507-7)。

紅葉の前であったが、様々な植物や樹木に囲まれた素敵な場所を堪能。春ならしだれ桜が楽しめそうだ。

記念館には会津松平家の葵紋が付いた品々や期間限定で土佐出身(高岡郡佐川町)の日本画家広瀬東畝の絵が展示されていた。

茅葺屋根の母屋(=写真)には英国風のリビングとともに囲炉裏もあり、和洋が共存していた。



勢津子妃が会津松平家から皇室に嫁ぐことにより、昭和3年(1928)に朝敵の汚名が雪がれたことに思いを馳せたーー

その帰途、癩病(いわゆるハンセン病)患者の看護に一生を捧げた井深八重の墓をようやく訪ねることができた(=写真)。会津藩士で大陸浪人となった井深彦三郎の娘である。



神山平石共同墓地(御殿場市神山平2丁目)にある神山復生病院の墓域にあった。御殿場高原時之栖にほど近い場所である。

昨年の大河ドラマで旧幕側の人々が明治の代に随分貢献したことに光が当たり、またこのような場所を訪れることにより、陰になっている敗者の部分を通じて、わが国の歴史を見直すきっかけになってくれればと願うばかりである。

その今後の道のりは決して平坦ではないだろうが、微力ながらそのお手伝いができればと考えている。
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